第69話
「君は確かシェルン君と言ったね、エレナの事で君が気に病む事は無いんだよ。きっと彼女は誰に頼る事も無く自分で無茶を重ねて、その結果がこんな形になってしまった……そういう事なのだろう?」
レイリオは自分を睨むシェルンに子供を諭す様な声音で語る。
「それに僕も君には何一つ期待などしていなかったしね」
レイリオの口調は洗練されていて感情を乱す事もなく語られる言葉は、耳心地よく響くものであったが、その内容は痛烈なまでのシェルンへの皮肉であった。
お互い様ではあったのだろうが、レイリオは元々初めて会った時からエレナに子犬の様につき纏う、このシェルンと言う少年の事が気に入らなかった。
それはシェルンと言う少年の本質を見定めてというよりは、はやりレイリオの若さ故の感情……意中の少女を巡る同性への恋の鞘当としての側面が色濃く現れている。
レイリオは裕福な商人の息子であり、それに加えその貴族然として整った容姿から少なからず女性たちとの浮名を馳せて来た貴公子であり、エレナと出会ってからはそうした他の女性たちに興味や魅力を感じる事は無くなっていたとはいえ、その行い故に同性の男たちが自分に向ける敵意や嫉妬には慣れている。
以前のレイリオならそうした男たちの敵意に対しても、軽く流したり、いなしたりとレイリオの年齢を考えればかなり大人の対応、少し嫌な言い方をするならば、他者に対して自身の余裕を誇示する様な何処か飄々とした対応をとって来た。
敵意を剥き出しに自分を睨むシェルンの瞳を真っ向から見据えるレイリオ。
だがそうした女性たちとの時とは違い、ことエレナの事となるとレイリオも一歩も引く気にはなれない。正直エレナの傍に他の男がいるだけで気分が悪い。
それでもエレナの手前、そうした不細工な嫉妬心を隠し表面上は体裁を取り繕ってきたレイリオであったが、エレナの窮状を前にして尚、自分への下らぬ対抗心からか牙を向ける子犬の様なシェルンの姿に自制心の箍が外れ掛ける。
「二人共場を弁えなさい。男の下らない見得の張り合いなら他所でやって頂戴。はっきり言って見苦しいわ」
シェルンとレイリオ。二人のやり取りを遠く眺めていたアニエスの言葉は決して声を荒げる様な口調ではない。だがアニエスにしては本当に珍しくその声には明確な苛立ちが含まれている。
アニエスもシェルン程ではないが、満足な休息も取らずエレナの代役を務めていたのだ。いや、ただエレナの傍についていたシェルンなどよりも遥かにアニエスの方が負っていた負担は大きかった筈だ。
表面上はいつもと変わらず冷静な佇まいを見せていたアニエスであったが、この時精神的にも肉体的にも限界を向かえていた事は間違いない。
だからこそ、普段の彼女ならば気づけたであろう見落としを犯すことになる。
「失礼しますね」
言葉すら失った様な重い沈黙の中、天幕の外から声が掛かり重い身体を揺すりながら中年の医師が姿を見せる。
「先生、定期診察は先程終えたのでは?」
「ああ……いえ、先程アニエスさんに渡し忘れてしまったものですから」
アニエスの言葉に中年の医師は申し訳無さそうに懐から小さな小瓶を取り出す。
「これは食事をとれないエレナさんの為に、営養価の高い薬草を煎じたものです。気休めかも知れませんがエレナさんに飲ませてあげて下さい」
差し出された小瓶を受け取るアニエス。
先程の診察の時にはまったくそんな素振りも話しすらしなかった中年の医師のこの唐突な行為に、アニエスは疑問を抱くべきであったかも知れない。
だがエレナを取り巻く全ての状況に思いを至らせるなどこの状況では……いやこれが平時であったとしてもそれは些か酷な話であり、中年の医師の話にさしたる疑問を持つ事無く流してしまったアニエスを責める事は誰にも出来ないだろう。
「出来るだけ早めに飲ませてあげて下さい」
中年の医師はそれだけアニエスに告げると、シェルンとレイリオに軽く頭を下げ天幕を出て行く。
天幕をでた中年の医師は本来向かうべき与えられた自身の天幕とは逆方向へと歩みを進める。
「危うく間に合わぬところであった……まったく無茶も過ぎように、だが……いや、それ故にか、興味が尽きぬ娘よな」
中年の医師は酷く干乾びた老人の様な声音でそう呟いていた。
レイリオは呆気に取られた様にアニエスの行為を呆然と眺めていた。シェルンもまたレイリオ同様、アニエスとそしてエレナの姿を見つめている。
中年の医師が天幕を出て直ぐ、アニエスは手にしていた小瓶の蓋を取ると迷う事無く中の液体を口に含むと、寝ているエレナの傍らに膝をつき前髪を掻き揚げる様に顔を寄せる。
そしてアニエスの唇とエレナの小さな唇が触れ合う様に重なる。
この場にレイリオとシェルン以外の他者が居たならば、美女と美しい少女が唇を合わせるその姿に、アニエスの意図とは裏腹にどうしても何処か怪しげな、官能的で倒錯的な感情を抱いてしまったとしても無理からぬ程、それは魅惑的な光景であった。
アニエスの口を通して流れる液体がエレナの喉を鳴らす。
小瓶の液体を口移しでエレナに飲ませると、アニエスは何事も無かったかの様に立ち上がる。
不意打ちの様なアニエスの行為。だが医療行為であるアニエスの行動を当然責められる筈も無くレイリオはアニエスからばつが悪そうに視線を逸らす。
この状況にあって、しかもエレナとは同性であるアニエスにエレナの唇を奪われたなどと感じてしまうのはあまりにも狭量に過ぎる、と頭では理解していてもやはり心中では穏やかではいられなかったのだ。
シェルンもアニエスと視線を合わせる事なく、またエレナの手を取り祈りを捧げている。
だがその表情がやや引き攣っているのはレイリオの見間違いではないだろう。
「とにかく、直ぐに船の手配をします。ここでは満足な治療も出来ないでしょう。早急にエレナをルーエンへと移します。お二人も同行するなら準備をして置いて下さい」
レイリオはそれだけ告げ天幕を出て行く。
レイリオは直ぐに自身の感情を切り替える。今はまずエレナを救わなくてはならない。その事だけに思考を集中させる。
レイリオの手回しなど必要としないほどあっさりとエレナの第一陣での乗船は決まった。
エレナの状態を知るラグスやボルスがそのレイリオの申し出を断る筈などなく、寧ろそれ以前の段階でエレナの乗船の優先順位は最上位に記されていたのだ。
ファルーテ王国の軍船へと移るため小船へと運ばれるエレナをラグスとボルスは見送りに現れ、アニエスたちとルーエンでの再会を約束する。
全ての市民をルーエンへと避難させるのには船団を何往復かさせねばならず、海が荒れず順調にいっても数日。最後まで残る事となるアドラトルテ国軍とロザリア帝国軍の完全な撤退が完了するのには一週間程度は掛かる見通しであった。
だが正直レイリオはそこまでエレナの身をルーエンに留めておくつもりは無かった。既にルーエンでは魔導船の手配を済ませている。ルーエンに着き次第直ぐにライズワースへとエレナを移すつもりであったのだ。
ライズワースでなら最高の医療設備と医師を用意出来る。正直ルーエンに留まる理由などレイリオには無かったのだ。
だが事態はレイリオの予定に反し一変する。
ルーエンに向かう船上でエレナの容態が急変したのだ。
「エレナさん!!」
「エレナ!!」
船室で横になっていたエレナが突然苦しみ出したのだ。
先程までとは違い喘ぐ様な荒い吐息と全身に珠の様な汗を掻き、胸を激しく上下させるエレナ。
エレナの手を取っているシェルンの手が汗で濡れる。
明らかにエレナの状態は悪くなっている。普通に考えれば誰の目にもそれは明らかなのだが……その場にいるシェルンもアニエスも、そしてレイリオも其処にエレナの存在を感じていた。
理屈ではなく感じるのだ。
深い闇の中誰かが自分を呼ぶ声がする。
その声に導かれる様にエレナは目を覚ます。
霞む視界に映るのは見知った女性の姿であった。
「アニエス……どうしたんだ?」
窓から差し込む日差しにエレナは僅かに目を細め、自分を見つめるアニエスに不思議そうに問い掛ける。
「まったく……やっとお目覚めかしら、眠り姫」
呆れた様な、ほっとした様な表情で自分を見つめるアニエスの姿に、状況が掴めず不思議そうな表情を浮かべるエレナ。
確か自分は……そう、最後に見たのは満天の星空……。
今だ意識が混濁しているエレナは今のこの状況が理解出来ずにいた。
取り合えず寝台から身体を起こそうとしてその違和感に気づく。
寝ている自分の右手をシェルンが、左手をレイリオが握ったまま椅子に腰掛け寝息を立てていた。
この異常な光景にエレナは我が目を疑う。
「なぁアニエス、この二人一体何をやってるんだ?」
「さぁ、なにかしらね」
困った様なエレナの声にアニエスは知らず微笑んでいた。
そんな何処からしくないアニエスの姿とこの状況にエレナは思わずまた天を仰いでしまった。そのエレナの瞳には宿屋の天井が映る。
それはルーエンに滞在してから二日目の朝の出来事であった。
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