第70話

 エレナが目覚めてから一週間が過ぎ、今だその身はルーエンの地にあった。

 長時間昏睡状態にあった為、大事を取ったと言う側面もあったのだが、第一の理由は全てが終わるまで見届けたいとのエレナの強い意向を酌んでの事なのは言うまでも無い。

 連日順調に市民たちが乗る軍船がルーエンの港に到着する中、そんなエレナの下に面会を求める者たちが殺到する事となる。

 事態を聞きつけニールバルナからルーエンへと遣って来ていたアドラトルテの執政官を始め、ルーエンに滞在する南部の豪族たち、そして各都市の補佐官たちと体調を理由にそうした面会を制限していたにも関わらず、エレナが泊まる宿には引っ切り無しに各都市の要人たちが訪れ、エレナは連日その対応に追われる羽目になる。

 そうした状況に至るには相応の理由があった。

 二十万人を越えるアドラトルテの難民たちをルーエンだけで保護するには余りにその数が膨大過ぎる為、一度ルーエンで受け入れた後、他の同盟都市へと分散していった結果、エレナの名とその勇姿は瞬く間に南部全域へと広がる事となる。

 アドラトルテの人々を救った英雄エレナ・ロゼの名は、新たな英雄譚として南部の人々の中でいつしか福音の風、と言う渾名と共に語られるまでに至る。

 女性、それも美しい容姿をした少女の英雄譚は、神話からそのまま抜け出した様なある種の神秘性を秘めていた事もあり、その逸話と共にエレナの存在は偶像化され南部の人々の熱狂的な支持を受ける。

 日を追うごとに高まりを見せるそうした熱狂的なエレナへの人々の支持を、当初は一過性のものと高を括っていていた各都市の上層部も、エレナの存在が最早アドラトルテ一都市に留まらず、ファーレンガルト連邦全体に影響力を持つと判断せねばならぬ状況に至り、静観を決め込んでいた各都市はエレナの下に特使や慰問の使者を次々と送り込む。

 そしてそれが今のこの現状へと繋がっていた。



 「エレナ殿、聞けば貴方はオーランド王国所属の傭兵であられるとか、ですがどうでしょう、これを機に我がファーレンガルト連邦に永住しては頂けませんか」


 「はぁ……」


 エレナは寝台から上体だけを起こし、連邦議員であると言う男の話を聞いている。その姿も普段着と言うよりは部屋着に近いもので、正式な面会の席である事を考えればエレナの今の姿や姿勢は些か礼儀に失する行為といえた。

 だが議員の男もそんなエレナの姿に特に不満を抱いている様子は見えない。と言うのもこれには概ねエレナ側にそうせざる得ない相応の理由があったのだ。

 明日、アドラトルテ国軍とロザリア帝国の兵士を乗せた最後の船団が帰港を予定していた。それに伴いルーエンを始め各同盟都市ではこの奇跡の撤退戦の成功を祝い多くの催しが開催されていたのだ。

 だがエレナは主賓として招かれていたそうした全ての催しを体調不良を理由に辞退していた。無論この一週間でエレナの体調は完全に回復している。

 だがそうした手前、こういった面会の席で余り元気な姿を見せる訳にもいかないのだ。


 「エレナ殿には連邦の名誉市民権と連邦議会の議席を一つご用意させて頂いています。今だアドラトルテには万を越える魔物共が犇き、このルーエンを始め同盟都市に大いなる脅威を与えています。今一度エレナ殿の力をこのファーレンガルト連邦にお貸し頂けないでしょうか」


 熱弁を奮う議員の男。

 自分を抱きこむことで得られる恩恵やそれに伴う打算的な思惑はあるのであろうが、少なくともこの男が自分の国を思う心には偽りはないのであろうな、とエレナも思う。

 それにただの傭兵でしかないエレナに提示された今の条件は破格であり、何より異例であることは間違いない。

 このファーレンガルト連邦で連邦議員になるという事は即ち、この国の支配者層の一員になる事を意味している。

 往年に比べれば勢力も力も衰えたとはいえ、今だファーレンガルト連邦は南方の覇者たる大国であり、名立たる大陸の四大国の一角である。

 男としてそこに己の旗を掲げ、覇を唱える生き方は心が躍る。まして自分にしか為せぬ使命がそこに在るとするならば尚の事だ。それこそが英雄たる者の生き様であり務めだと。

 そう以前の自分なら感じていただろう。

 そうした生き方はアインス・ベルトナーが求め進んだ道であり、今の自分、エレナ・ロゼが望む生き方では無い。

 今エレナが守りたいと望むものは大陸や世界といったこの手に余る大きなものではない。それはもっと小さく身近でささやかな、目に届く人々の笑顔。

 アインスとして多くの命を守る為に取りこぼしていった小さき命や願いを今度は守りたい。故にそうした地位や名誉や名声は、今のエレナにとっては足枷にしかならない無用なものなのだ。


 「アドラトルテ奪還戦が行われるなら、自分は喜んで参加させて頂きます。しかしそれはやはり一個人、一人の傭兵としてでありたいと思っています。ですので今回の申し出は大変光栄なのですが辞退させて下さい」


 エレナの言葉に肩を落とす議員の男。


 「分かりました、これ以上の説得は無粋でしょう。ですがこれだけは覚えていて頂きたい。我々南部の者は受けた恩義を決して忘れません。エレナ殿に対し我らファーレンガルト連邦の門戸はいつでも開かれていると、それだけは忘れずにいて貰いたい」


 「有難う御座います」


 議員の男の言葉に素直に謝意を述べるエレナ。

 議員の男が部屋を後にするのと入れ違いにアニエスとシェルンが姿を見せる。


 「エレナ、宿を移るわよ支度をして頂戴」


 「えっ?」


 既に荷物を纏めたのだろう、大き目の皮袋を背に担ぐように持ち現れた二人の姿にエレナは呆気に取られてしまう。


 「窓の外を見て御覧なさい」


 アニエスに促され寝台から出て窓の外を覗き込んだエレナは我が目を疑う。

 窓の外、宿屋の周囲には人々の姿で埋め尽くされていた。宿屋の敷地のみならずその人の群れは並びの通りにまで及んでいる。


 「貴方の姿を一目見たいと言う人々が噂を聞きつけて集まって来てるのよ」


 アニエスの話では今だ戦時下にも関わらずルーエンの街はかつて無い人で溢れていると言う。それはアドラトルテからの難民を受け入れているのとはまた別の理由で。

 各同盟都市からエレナの姿を見る為だけにこのルーエンに人が集まりだしていると言うのだ。それはエレナ本人にしてみれば予想外の展開であり、見世物の様に扱われるのは甚だ本意とは言い難い事態である。

 また警備上の観点からも害意が無い民衆たちの集まりであっても、そこには多くの弊害が生まれる。その為、ルーエンの警備部隊から内々に宿の移動を要請されていたのだ。


 「早めにオーランドに戻った方がいいかも知れないわね」


 アニエスの言葉にシェルンも同意する様に頷く。


 「レイリオは?」


 「あの男なら毎夜、色々な集まりに参加しているみたいだよ、エレナさんとの関係も勝手に利用しているみたいだし、放っておけばいいんじゃないかな」


 シェルンの身も蓋もない言い様にエレナは苦笑する。


 「今回の一件でレイリオが功労者の一人なのは間違いないのだし、それにかなりの資金をつぎ込んだのだから、それを回収するのは商人の原理としてはおかしくはないさ。そう悪し様に嫌うのはレイリオに悪いよ」


 エレナにしてみればレイリオを庇うというよりは、彼が為した功績を純粋に賛辞していたに過ぎないのだが、自分がそれを口にする事でシェルンがレイリオに対していっそうの対抗心を燃やすことになるなどとはエレナの想像の外にある。

 黙り込むシェルンを見てアニエスは軽く溜息をつく。

 そうしたある意味純粋なところがエレナの美徳の一つなのは間違いないだろう。

 だが遂この前までは一人大陸を渡る傭兵として生きてきたにしては、エレナはそうした男女間の機微に余りにも無頓着であり疎すぎる。

 だからといって男に乱暴されたトラウマや男嫌いという様子でもない。

 恋愛経験がこれまで無かったとしても、まるで異性を意識しないエレナは何処かおかしい……いや世捨て人ではあるまいし、はっきりいって此処まで一環してぶれないその姿勢は異常だ。

 この先エレナのそうした不用意な言動や態度が、彼女の歩みに自ら枷をつける事態に為りかねない。

 ライズワースに戻り少し落ち着いたら、エレナとは真剣にそうした話をしなければならないとアニエスは考えていた。



 

 アドラトルテの無人の海岸線をロザリア帝国の船団が離れていく。

 護衛の騎士を従え甲板に立つのはロザリア帝国の第二王子クレイヴ・バルタ・ローディス。


 「殿下にしては随分とあっさりと引き下がりましたな」


 クレイヴの背に控える壮年の男が含みのある口調で主へと問う。


 「私がロザリア帝国軍だけでアドラトルテへと進発するとでも?」


 「考えなかった……とは申されませんよな」


 「参った……先生には隠し事も出来ないとみえる」


 クレイヴは降参と言うように軽く両手を上げて見せる。


 「それも確かに考えなくは無かったが、だがそれでは余りに興が無い、面白みに欠けるというものだろう」


 「なるほど……今回の派兵に殿下がお乗りになったのは別の意図があったと?」


 仮にもロザリア帝国の王族であり、第二王位継承権を持つ自分にずけずけと質問を重ねてくる壮年の男をクレイヴは見る。

 壮年の男の名はヘクター・ハーヴェル。

 その名を知らぬ者はロザリア帝国にはいないだろう。

 ロザリア帝国で第一の英雄といえば、帝国の有史以来、不世出の天才と讃えられるアンリ・アメレールの名が挙がる。

 だがそのアンリを始め、アインスや宣託の騎士団の若き英傑たちが綺羅星の様に台頭する以前、ロザリア帝国において剣聖と謳われ最強の座に君臨し続けていた男がいた。

 それがアンリの剣の師でもあるこのヘクター・ハーヴェルである。


 「お爺様、殿下に対し些か無礼ではありませんか」


 クレイヴの傍に控える護衛の女騎士の一人がヘクターを諌める様に声を上げる。

 女騎士の長い美しい銀髪が強い海風に靡く。

 まだ若い二十台前半であろう、美しい女騎士の強い意志を宿した瞳がヘクターを見据える。


 「よいオリヴィエ。ヘクターは我が師でもあるからな」


 オリヴィエは鷹揚に告げるクレイヴの言葉に反応する様に、上げていた顔を床に伏せその場に跪く。


 「まったく我が孫娘ながらこの勝気な性格は我が娘譲りであろうな」


 かっかと笑うヘクターを見やる事無もないオリヴィエの姿は、公務につく忠実な騎士の模範の様な姿であった。


 「さて、話の続きで御座いますが、殿下の望みはアドラトルテ奪還を目的とする第二次遠征軍の結成……といったところですかな」


 カテリーナ討伐の為に四大国を中核として組織された第一次遠征軍。その規模は全軍で数百万にも及んだ。

 この規模の軍勢を揃えるのは今の四大国ではもはや不可能ではあったが、それでも尚、四大国の連合軍ともなれば、かなりの規模の軍勢になることは想像に難しくは無い。


 「その為の布石として態々こうして出張って来たのだ。ファーレンガルト連邦の連中には精々派手に踊って貰わねばな」


 「しかし、保守的な陛下や殿下の兄君は他国にこれ以上干渉する事は望まぬでしょうな」


 「この私がそう望んでいるのだ。この流れ、例え父上にも兄上にも邪魔などはさせんさ。この様な時代に生を受けたと言うのに、ただ魔物の影に怯え生きるなどつまらん。柵に囲まれてただ生きるのでは、それは家畜と変わらぬではないか。激しくその生を生きてこその人生。刹那に散らすその儚き輝きこそが尊く美しいのだ」


 平穏な時代に生まれていれば、最悪の暴君として悪名を残したかも知れないこの力に溢れた青年は、だがこの混沌とした時代であるならば、新なた希望の光になるやも知れぬとヘクターは感じていた。

 一度はアンリやアインスに未来を託し現役を退いたヘクターが、彼らの死という現実と絶望の中、最後に見つけたそれは最後の希望の光であった。

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