第67話

 僅かな哨戒部隊を残し野営するアドラトルテ国軍の兵士たちは、激戦の疲れからか勝利の余韻に浸る様子も見せず、天幕や焚き火の傍で食事すら取らず倒れ込むように睡眠を貪っていた。

 中には食事の途中で力尽きたのだろう、温め直した料理を前にして寝息を立てている者も少なく無い。

 そうした光景が所々で見られる野営地は、パチパチと言う焚き火にくべられた木の爆ぜる音が時折周囲に響く程度で、何処か静かな静寂に包まれていた。


 「それでエレナ殿の容態は?」


 指揮官たちが集まる天幕に呼ばれたアニエスがボルスの問いに伏し目がちに首を横に振る。


 「そうか……」


 アニエスが示した行為にラグスを始め部隊長たちは言葉を失い、沈黙が場を支配する天幕の中でボルスはそれだけを短く呟いた。

 エレナが倒れたこの事実を市民たちはおろか、兵士たちにすら公表する事は出来ない。それ程にエレナ・ロゼと言う少女の存在は今やアドラトルテの人々の希望となっているのだ。

 それだけに今後の士気の影響を考えても、エレナ不在の現状は絶対に伏せて置かねばならない。

 だがそれをこの場で確認する事が如何してもボルスには出来ない。

 何の縁もゆかりもないアドラトルテの人々の為に、彼女が尽くしてくれた献身や挺身をより身近に知るだけに、その受けた大きな恩義に泥を塗る様な、それが酷く下劣な行いの様に思えどうしても口に出す事が憚られた。

 それはボルスの個人的な思いではなく、この場にいるラグスや他の部隊長たちも同様の思いなのだろう、本来確認しておかねばならない重要な事案であるにも関わらず、誰一人としてその事で発言しようとする者はいなかった。


 「兵士たちや住民たちの疲労を鑑みても、少なくとも夜明けまではこの場で休息を取らねばなるまい。夜が明け次第、部隊の再編成を済ませルーエンへと移動を開始する事としよう」


 ラグスの言葉に一同が頷く。

 既にこの海岸線に留まり救援を待つという選択肢は考慮からは外されていた。

 多くの犠牲を出したこの海岸線の周辺には多くの遺体と魔物の死骸が散乱している。それら死者を土に還し弔う事は現状では難しい。それだけの時間も人員も割くことが出来ないからだ。

 結果そうした惨状は更なる魔物を呼び寄せる温床となる。ましてアドラトルテに数多の魔物が集まっている現状では、そう時を経ずに新たな魔物の群が形成されるであろう事は想像に難しくない。

 万を越える魔物の襲撃を撃退した今だからこそ、陸路を辿りルーエンに向かう最後の機会を得られたと言える。

 この人数ではルーエンに辿り着くまでに数日は掛かるだろうが、後背からの脅威が無い今の状況ならば、道中襲われるであろう魔物の襲撃を考慮にいれても生き延びられる可能性はこの場に留まるより遥かに高いと思われた。


 アニエスにして見れば、エレナの付き添いとしてこうした場に顔を出していただけに過ぎず、エレナが不在の今、自分が此処にいる必要性を感じられずにはいたのだが、エレナの代理として自分が求められていると言うならば、エレナの為にもその役割を担う事になんら違和感を感じる事は無かった。


 ラグスやボルスを中心にして今後の方針について話し合われる中、アニエスは一切口を挟む事はせず黙々と交わされる会話を聞いていた。

 意見を求められれば、あくまで自分個人の見解として語るアニエスの言葉には決して目新しいモノは感じさせはしなかったが、何処かエレナならそう言うのではないか、と言う彼女の発言を意図的に模倣しているようなアニエスの言葉は彼女を通しそこにエレナの存在を感じさせ、何処か皆に安心感にも似た効果を与えていた。


 そうした話し合いを終えるとアニエスは自分の身を休める事もなく、別の天幕へと向かう。

 目当ての天幕の前まで来ると、丁度中から出て来た恰幅の良い中年の男性と遭遇する。

 その男性はアドラトルテ国軍の軍医ではなく、エレナの為に急遽呼ばれたアドラトルテでも高名な医師の一人であった。


 「これはアニエスさん」


 中年の医師は自分の前に立つアニエスに軽く頭を下げる。


 「残念ながら状況に変化はありません。エレナさんの状態を考えてもこれは我々医者の領分では無いのかも知れません」


 申し訳無さそうに呟く中年の医者の顔には苦悶の表情が伺える。

 アドラトルテに住む者にとって今や恩人であり、希望の象徴でもあるエレナの名を知らぬ者などいない。そのエレナの窮地に彼女に救われた一人の人間としても、人命を救う職業である医者としても何も力になれぬと言う無力感がその表情に現れていた。


 「定期的に様子を見に来ますので」


 中年の医者はそれだけ言うと天幕を後にする。

 アニエスはその医師の後姿を暫く見送ってから、潜る様に天幕の中へと自身の身を滑り込ませた。

 天幕の中には人影が二つ。

 身じろぎ一つする事無く眠る様に横たわる少女の姿と、その少女の手を両手で握り締め、俯き、瞳を閉じて神に祈りを捧げ続ける少年の姿。


 「シェルン、いい加減に少し休みなさい、貴方の身体が持たないわよ」


 あれから片時もエレナの傍を離れようとしないシェルンにアニエスは注意を促すが、そのアニエスの言葉にシェルンが反応を示す事は無い。

 自分の存在にまるで反応を示さない……いや恐らくエレナしかその視界に入っていないシェルンの態度に危うさを感じるアニエスではあったが、今シェルンに口で何を諭しても聞く耳を持たないであろう事が分かってもいた為、それ以上言葉を重ねる事はせず、黙って自分もエレナの隣へと腰を下ろす。

 まるで眠っている様なエレナの姿をアニエスは見つめる。

 脈拍も呼吸も心拍も正常。熱も無い。大きな外傷も内傷も無い。

 医者の診断では身体的な問題は見受けられないと言う。

 だがエレナの意識だけは以前目覚める事は無い。

 この状況が疲労による一時的なモノでない事はそうした知識の浅いアニエスにも分かる。

 以前と寸分違わぬ美しいエレナの姿がそこにある。だが違うのだ。今のエレナの姿にアニエスは何の魅力も感じない。そこに在るのは輝きを失った色褪せた美しさ。

 例えるのならエレナの姿を模した魂の篭らぬ人形が置かれている様なそんな違和感。

 シェルンが言うには以前にも一度エレナは似たような状況に陥った事があるらしい。だがその時はエレナは苦しんではいたが其処には確かにエレナの意思と魂が感じられたと言う。

 今のエレナにはそれが感じられない。

 それが如何に異常で深刻な問題なのかは最早語るまでも無い。このまま目を覚まさず食事すら取れぬ状況が続けば、衰弱する一方であるエレナの命は三日と持たないだろう。

 医者が言うようにエレナの状態の元凶が精神的な問題か、或いは呪術的な現象に起因しているのならそれは魔法士の領分である。

 だが魔法士と言う存在は一部高名な者たちを除けば、大半の者は酷く胡散臭い連中と言う認識が一般的であり、職業柄多少は魔法士の事を知るアニエスも概ねその認識は間違ってはいないと感じている。

 一概に魔法士と言ってもその実魔法士は大きく二通りに分けられる。

 付加魔法(エンチャンタ)を使い広く世に知られる技術者としての魔法士と、神秘学や世の理を探求する学者としての側面を持つ魔法士である。

 前者はより商業的な側面の強い言わば商人であり、後者は世捨て人、或いは求道者の様なアニエスから見れば一般的な常識からは逸脱した狂人たちだ。

 正直魔法士にある種の偏見を持つアニエスには、エレナの身をそんな信用に置けない魔法士などに委ねるなど想像すらつかないおぞましい行為にしか思えない。


 幼い子供の様にエレナから離れずただ祈り続けるシェルン。

 アニエスもまたそんなシェルンをそしてエレナを見守る事しか出来ないでいた。


 そして夜が明ける。


 朝の日差しを浴びて輝く水平線。その海上に無数の船影が長い影を作り出す。

 数百……いや千に及ぼうかと言うその軍船に、はためく旗に描かれるのは双頭の獅子。

 ラグスやボルス。いやエレナですら予期する事が出来なかったその船団はロザリア帝国の旗を掲げ海岸線へと姿を見せる。

 その船団の中、一隻の船の甲板で海岸に集まる人の群れを遠く眺める青年の姿がある。


 「約束通り、迎えに来たよエレナ」


 短い金髪を海風に靡かせ、レイリオ・ガラートはその群集の中、その先にいるであろう愛しい少女だけをただ想い、心の内でそう呟いた。

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