第66話

 この時点で魔物たちの損耗率は六割を越え、恐らく全体でもその総数は八千を下回っていた。これが人間たちの軍隊であるならば、既に戦闘の継続が不可能な程の打撃をアドラトルテ国軍は魔物の群れに与えていた事になる。

 だが魔物はあくまで一個の固体が集まり群を成す集団であり、その脅威を排除する為には全ての魔物を排除しなければならない。

 それが人間と魔物の大きな違いの一つであった。

 現状においても第三、第二の両師団。そして壊走する第一師団を加えれば今だ一万は超える人員を有するアドラトルテ国軍ではあったが、大勢を覆せる程の余剰戦力は無く、また休み無く戦い続けていた兵士たちの疲労は極限にまで達していた。

 第一師団が壊滅し左翼が崩れた今、この状況を打開する為の手段はもうアドラトルテ国軍には無かったのだ。



 エレナは自分を心配げに見つめるシェルンにぎこちない笑顔を向ける。もう表情を動かすのにも大変な労力を使うエレナのそれが精一杯であった。


 「シェルン……アニエス……有難う……」


 エレナが口にしたのは二人への感謝の言葉。

 二人をこの戦いに巻き込んだ事への謝罪や後悔の言葉は無い。いや、あってはならない。

 二人は己の意思で選び、今此処にいる。

 その二人に謝罪などそれが如何に傲慢で、二人の覚悟に泥を塗る愚かな行為なのかをエレナは良く知っていたからだ。

 だからこそ二人に対し抱き溢れる思いはただただ感謝の念。それだけだ。


 「姉さんにはカタリナがついていてくれる。だから僕はエレナさんの傍に、エレナさんに最後まで付き合うよ」


 「後世の人々が後の希望となるような最後を、この地に刻みつけましょう」


 シェルンがアニエスが、それぞれの思いを口にする。

 エレナはそんな二人の姿に亡き盟友たちの姿を重ねた。

 あの日、ノートワールに向かう船上で誓った友たちとの約束。

 命尽きるその時は共に……何処までも共に行くと。

 結果、アインスとして果たせなかったその誓いと約束を、時を経てエレナとして果たそうとしている。

 ならばせめてこの魂が、この心に宿る強き想いが大地に溶け天に還るまで、自分は一陣の風となりこの地を駆け抜けよう。それがエレナ・ロゼが存在したという確かな証となるのだから。

 荒い息も青ざめた顔色も変わらない。だがエレナの身体の震えが止まる。

 それは魂が、鋼の意志が肉体を凌駕した瞬間。

 だがそれは僅かな時間与えられた奇跡。恐らく瞬き程の一瞬の輝きに過ぎないだろう。

 エレナは己が魂すら燃やし尽くす様に大地を蹴り、駆ける。シェルンとアニエスもそんなエレナの傍らから離れる事無く共に走る。


 「貴様たちはそれでも誇り高きアドラトルテ国軍の兵士たちか!!」


 愛馬を失ったラグスは槍を捨て、その手に剣を握り魔物を切り伏せる。


 「今更何を絶望する。守るべき者たちを今だその背に背負いながら戦う意思すら放棄するつもりか。そんな無様な姿を晒して、勇敢にもその身を散らし先に逝った同胞たちに常世の地で何を語り、何を誇るつもりだ!!」


 ラグスの言葉に兵士たちが俯き掛けた顔を上げる。


 「その命尽きるまで足掻き続けろ、そしてその魂で感じろ、我らの風は今だ凪いでなどおらぬ」


 兵士たちの瞳が魔物の群れを切り裂く様に進む美しき少女の姿を映す。

 孤軍奮闘。

 限界など当に超えているであろう少女が儚くも、だが故にどこまでも雄々しく強く、全てを燃やし尽くす様に戦う姿を目の当たりにし、兵士たちの目に生気が、闘志が戻る。

 全てを懸けて戦い続けるエレナの姿にその小さな背中に、兵士たちは叱咤され、気力を取り戻していく。

 兵士たちは自分の弱さを、未熟さを恥じる様に雄叫びを上げ、その剣を掲げながら魔物へと切り掛かる。

 既に大局は決したかも知れない。だがそれが何だと言うのだ。

 全てを懸けた戦場で自分たちが為すべき事は、命尽きるまで戦い続ける事のみなのだ。

 迷いを捨てた兵士たちはエレナの背を追うように進む。

 結果、局地的ではあるが、エレナや兵士たちの気迫が中央部の魔物を押し返していく。



 「母ちゃん……俺行くわ……」


 海岸で戦局を見つめていた鍛冶屋の男が恐怖に引き攣りながら半泣きの顔を女房へと向ける。

 鍛冶屋の女房は一瞬驚いた様な表情を見せたが、やがて旦那の震える手を両手で強く握る。


 「ああ……行って来なあんた……それでこそあたしの旦那だよ、男を見せといで」


 女房は瞳に涙を溜め旦那を送り出す。

 そしてそうした光景は海岸のあちらこちらで波紋の様に広がり、一つの大きな波を作り出す。

 それは一つの奇跡。

 エレナや兵士たちが見せた生き様が、想いが、戦闘経験すらない男たちの心に強き想いを宿らせた。

 男として恋人を家族を子供たちを……大切な者たちを守りたい。

 恐怖や絶望すら打ち破るその想いが男たちを突き動かした。

 号令が掛かった訳でもない。強制された訳でもない。

 だがやがて一人、一人と男たちは戦場へと走り出す。そしてそれは直ぐに大きな波となって戦場へと到達する。

 その数およそ五万人。

 一人一人は無力に近い彼ら。だからこそ、その胸に宿る想いだけを信じ戦う彼らは勇敢だった。

 数は力となる。

 一人では到底魔物には敵わない。だが一人で敵わぬなら十人で。十人でも敵わぬなら二十人で。

 それら男たちの命懸けの、捨て身に近い戦いぶりは既に決した筈の勝敗すら覆し、崩れた左翼のみならず右翼を中央部すらも一気に押し返し、魔物たちを海岸線から引き離していく。


 喊声と雄叫びが周囲に包み、劇的な速度で魔物たちがその数を減らしていく。もっとも魔物たちが密集するエレナが戦う中央部でも、既に魔物の数より共に戦う兵士や男たちの姿の方が遥かに多かった。

 恐怖を圧し殺し、大切な何かを守る為、必死に戦い続ける男たちの姿に、エレナの胸に熱い何かが溢れる。

 エレナが彼らの姿に見たのは未来への希望。

 ノートワールの地で大切な盟友たちと、自身の身すら失いながら魔女を討ったあの日から今日まで、後悔など無いと思っていた。

 だがこの奇跡の様な光景を前に、エレナの胸を満たすのは報われた、と言う確かな想い。

 それはエレナの独り善がりで勝手な思い込みだったのかも知れない。だが今のエレナにはその想いだけで十分だった。

 エレナの泥と返り血で汚れた頬を涙の粒が流れて落ちる。

 エレナは歪む自らの視界に、流れる涙の存在に初めて気づく。

 遠ざかる魔物の姿。それを追い立てる兵士たち。

 エレナの歩みがゆっくりとゆっくりと緩慢になり、やがて止まる。


 戦場を駆ける風が凪ぐ。


 私はまだ……泣けたんだな……。


 立ち止まり天を仰ぐエレナの両腕が力無く下ろされると、握られていた双剣がその手から離れ大地へと落ちた。

 エレナの異変に気づいたシェルンが駆け寄るのと、糸の切れた人形の様にエレナが倒れ込むのはほぼ同時であった。

 光を失った黒い瞳。

 だが何処か満足そうに微笑むエレナの身体をシェルンが抱きしめる。


 「エレナさん!!」


 シェルンの必死の呼び掛けにもエレナは何の反応も示す事は無い。

 エレナを強く抱きしめたまま、その顔を覗き込んだシェルンの背筋が凍りつく。

 自分が腕に抱く愛しい人が、最愛の女性が一瞬、造形が美しいだけのただの人形の様に感じられ、シェルンの顔が恐怖で歪む。


 「ア……アニエス……エレナさんが……」


 誰かに救いを求める程動転するなどシェルンにとっては珍しい……滅多に見る事など出来ない光景であった。だが同時にそのシェルンの動揺が、エレナの身に起きた事態が深刻なまでに逼迫している事を物語っている。

 助けを求める様なシェルンの声にアニエスも二人の下へと駆け寄る。




 アドラトルテの男たちの予期せぬ参戦は戦いの趨勢を大きく変化させ、劇的な勝利をアドラトルテ国軍に齎した。

 追い立てられる様に魔物たちは、アドラトルテ方面へと散り散りに散っていく。

 都合八時間を越えた長き戦いが終わりを告げる。


 アドラトルテ国軍の死傷者。一万三千名。

 アドラトルテの住民の死傷者。三千二百名。


 討伐した魔物の総数は一万五千を越える。


 それはまさに死闘であった。

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