第63話
夕暮れの海岸線を走る人々。
僅かでも兵士たちが身体を休められる様にと、街の男たちが兵士たちの代わりに松明の設置を行っていた。そうした作業以外にも女性や子供たちの手で兵士たちに水や食料を手渡して回っている。
そうした行為に没頭する事で不安や恐怖を和らげようと言う気持ちはあるのだろうが、それ以上に間違いなく今、兵士と街の人々は生きたい、生き抜こうと言う強い思いで一つとなっていた。
そうした強い結束の為か未だ一隻の船すら見えぬ水平線を前にしても、皆驚く程に冷静に秩序を乱さず行動していた。
そうした中エレナたちは恐らく最後となるであろう作戦会議の場に呼ばれていた。
その会議には師団長であるラグスとボルスの他にも主だった部隊長たちが集まっている。
「早ければそろそろ頃合ではあるのだかな」
ラグスは夕日に照らされ赤く染まる海辺を見やる。
ラグスの頃合とはルーエンからの援軍の船団の事だ。
確かに最短ならもうそろそろ到着していてもおかしくは無い、おかしくは無いのだが……正直その望みが薄いことは此処に全ての者が気づいていた。
アドラトルテが魔物の襲撃を受けた時、七都市同盟にもっとも影響力を持っている南部の豪族たちが手を回してもニールバルナ一国を……しかも魔導船を送るだけで四日も掛かったのだ。
この撤退戦が事前に知らされていたなら兎も角、いきなり現れた兵士から突然報告を受けても、ルーエンがそんなに機敏な対応を取れるとは誰も思ってはいなかった。
ルーエンの対応は恐らく現状の事態を七都市会議に報告しその決議を待とうとするだろう。
議会制の連邦国家であるファーレンガルド連邦において、その判断は決して間違っているとは言えない。
そうなれば議会で決議が出るのは早くても数日掛かる事が予想される。そしてその後に組織されるであろう連邦軍の編成に更に数日。
そうなれば救援がこの海岸線に現れるのは最短でも一週間は掛かる計算になる。
魔物の襲撃を後半日凌げればいい……そうした限界ぎりぎりの状況の中で、そうした予測は余りに馬鹿馬鹿し過ぎて、いっそ笑えてくる程のたちの悪い冗談めいた話ではあるが、旧ファーレンガルト連邦がそうであったように、議会制の連邦国家である七都市同盟もまた早急に物事に対処するのが不向きな政治体系を取っているのは間違いないのだ。
「我らは出来る事を行うなけだ、きっとベルナーク殿やアスボルト殿が生きておられればそう言った筈だ」
顔色を曇らせる周囲の者たちにボルスはそう諭す様に声を掛ける。
「確かにそうだな……此処まで来て弱音など吐いてはご老体に叱られるというものだ」
ラグスも何かを吹っ切った様に笑う。
「最早細かな作戦は無い。此方に向かって来ている魔物は約二万。この数は時間を経る事に増える事はあれ減る事はないだろう。幸い奴らの歩みが遅い為、接敵まではには今暫く猶予がある。各人各々の陣地へと戻り休息をとるように」
作戦会議とは言っても各師団の再編成や伝達手段の確認と言った基本的な事柄が話し合われただけで、具体的な作戦行動の立案などが語り合われる事は無かった。
何故ならば此処からは一方的な防衛戦を強いられる事になるからだ。三師団で情報を共有しつつも各師団で状況に対応していく。擦り合わせが行われたのはそうした事案ばかりであった。それだけ住民たちを守りながら戦う防衛戦において大規模な作戦行動を取る事は難しいのだ。
会議を終えたエレナはシェルンに呼ばれ海辺へとやって来る。
人の姿で溢れた海岸線はお世辞にも雰囲気があるとは言い難かったが、それでも冬の澄んだ空気と紅に染まる水平線はやはり何処か幻想的で美しかった。
シェルンと二人浜辺で腰を下ろすエレナ。
「ごめんエレナさん、少しでも体力を回復させないといけないこんな時に呼び出して」
「いいさ、横にならなくても体力は温存できるし、それに私もこうした風景は嫌いじゃないしね」
夕日がエレナの黒髪を赤く染める。
美しいが故に何処か儚く哀愁すら感じさせる、そうしたモノがエレナは好きだった。それはこうした景色であり、物であり、そして愛した女性もそうだ。
今思えば全て似た雰囲気を持っていたのだな、と今更ながらにエレナは気づく。
そんな事ですらアインスとして生きて来た時には思い至らなかった……いや違う、思い返す事すら無かったのだ。
それに気づき、エレナは何処か満足げな笑みを浮かべる。
エレナ・ロゼとして新たな人生を生き、一年に満たない僅かな時間では合ったが、様々な経験とそして良い出会いにも恵まれれた。アインス・ベルトナーとして生きてきた二十七年間で得られなかった自由も手にする事が出来た。
もう十分なのかも知れない。
最後の戦いを前にしてエレナは何処かでそう感じていた。
「エレナさんに知っておいて欲しい事があるんだ」
自分を見つめるシェルンの真剣な眼差しにエレナも表情を改める。シェルンの表情から真摯な何かが感じ取れたからだ。
「こんな状況で本当は言うべきでは無いのかも知れない……でもどうしても知っておいて欲しいんだ。僕がエレナさんを好きだと言う事を」
もしかしたら想いを伝える最後の機会になるかも知れない。そう思うとシェルンはエレナへの気持ちを隠して置く事が出来なかった。
明確に彼女への想いに気づかされたのは、行政府の一室で椅子に縛り付けられた彼女の姿を見せられた時だ。
許せなかった。
初めて我を忘れた。
記憶すら飛んでしまう程の激しい激情。それに身を任せた時シェルンは気づいた。
自分がエレナ・ロゼと言う美しい少女を目指し、憧れる以上に彼女の事を愛しているのだと……。世界中の誰よりも大切な人なのだと。
「有難うシェルン、私もシェルンが好きだよ」
シェルンの唐突な告白に少し驚いた様子を見せていたエレナであったが、やがて屈託の無い笑顔をシェルンへと向ける。
シェルンはそんなエレナの笑顔を少し寂しそうに見つめる。
「エレナさんの好きは……僕を異性として好いてくれている訳ではないんでしょ……僕はエレナさんの事を一人の女性として好きだよ」
「シェルン……」
シェルンの言葉を肯定する様に、エレナが僅かに見せる少し困った様な表情を見てシェルンは自分の考えが正しかった事を思い知らされる。
彼女が自分たち姉弟に感じている愛情は恐らく家族愛に近いモノなのだろう。その事には薄々気づいてはいたのだ。だがらこそ此処ではっきりさせたかったのだ。
「直ぐには無理かも知れない……でも必ず僕が貴方の心を射止めてみせる。だから今はせめて僕を異性として、一人の男として見て欲しいんだ。エレナさん、僕をあの男と同じ舞台に上がらせて下さい」
シェルンの真摯な瞳に映るのは願い。
エレナはそんなシェルンの瞳を真っ直ぐ受け止める。
「正直に言うと私は異性……いや男性を好きになった経験が一度も無いんだ……だからシェルンの気持ちには応えられないと……思う」
レイリオの時とは違いエレナははっきりと自分の思いをシェルンに告げた。
戦場を前にして悔いは残さない。
これは騎士に成った時に先輩たちから教わる教訓の一つだ。
戦場でいつ命を落とすか知れない、明日をも知れない身故に騎士たちはやりたい事、成したい事は極力後回しにはしない。
特に好いた異性がいるのなら当たって砕けろ、と言うのが騎士団の慣例にすらなっていた。
結ばれるにしろ、華々しく散るにしろ、未練だけは残すな、と先輩の騎士たちからそう教えられるのだ。
エレナはそうした真剣な想いに、気持ちに正直に在りたかった。嘘や誤魔化すような物言いをするのが嫌だったのだ。例えそれでシェルンの心を傷つける事になっても正直な思いを伝えてあげたかった。
「エレナさんならそう言うんじゃないかと思ってた。でもエレナさんがまだ初恋を知らないと言うなら、僕がその相手になってみせる。だから答えを焦らないで僕に時間を与えて欲しい」
二人の間に静寂が流れる。
エレナが次の言葉を発するまでのほんの僅かな沈黙。しかしシェルンにはその僅かに時間が永遠にすら感じられた。
「分かった……だけど私にも条件がある。必ずこの戦いを生き抜くと誓いなさい。死んで私の心に残るなんて真似、絶対に許さないからな」
「この剣に懸けて誓うよ。僕はエレナさんを残して絶対に死なない。そしてエレナさんも絶対に死なせない」
じゃあ約束だ、と差し伸べられたエレナの細い手をシェルンは迷い無く握る。
シェルンはその柔らかな感触を忘れまいと、離すまいとするかの様に、強く、そして優しく握り続ける。
二人の耳に魔物の襲来を告げる警笛が響くまで、シェルンはエレナの手を離す事は無かった。
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