第62話
燃え上がるアドラトルテの外壁を一瞥しベルナークは手綱を引いて馬首を返す。
守り切れなかった無念。人々に故郷を失わせた事への慙愧の念。多くの思いが老兵の中に渦巻く。
だがそうした後悔は生き延びた後に幾らでもすればいい。此処は戦場であり、今はその渦中にある。今はまだその時ではないのだ。
「我らは必ず帰ってくるぞ、アドラトルテに」
無人の野と化したアドラトルテの南門に背を向け、ベルナークは馬の腹を踵で蹴った。
住民たちの馬車を先行させそれを覆い隠す様に第一師団が撤退を開始する。
暫くすると魔物たちの動きに変化が生まれ始める。
殿を務める第一師団を追う様に動き始める魔物と、開放されている南門からアドラトルテの内部へと姿を消して行く魔物。魔物たちの中に二つの大きな流れが出来る。
此処まではベルナークの予測通りであった。
一概に魔物とは言っても固体によって僅かながら思考や嗜好は異なる。それが結果として自分たちを追う者とアドラトルテへと向かう者の二者に別れるだろとの読みがベルナークにはあったのだ。
半数とは言わない、せめて三分の一でいい。それだけの数の魔物がアドラトルテへと流れてくれればこの撤退戦の成功率は跳ね上がる。
期待するには余りに不確定過ぎる要素であった為、全体の作戦行動の説明でも触れなかったこの魔物たちの行動に、ベルナークは僅かな期待を込めてその成り行きを見つめていた。
だがそのベルナークの淡い希望は別の形で裏切られる事となる。
「ベルナーク団長。左翼方向からアイアン・リーパーの群れが急速に接近してきます。その数約五百!! 」
「第一、第二大隊で対応させよ、殲滅する必要は無い。住民たちが魔物の群れを完全に抜けるまで足止め出来ればよい」
ベルナークは伝令の報告に即座に指示を飛ばす。
アイアン・リーパーは魔物の中でも特に執念深い種の魔物だ。一度標的と定めたならば何処まででも追い掛けて来るだろう。
だがこの魔物の群れさえ抜けられれば、逆にアイアン・リーパーの機動力を逆手に取ることで孤立させ、最小限の犠牲のみで殲滅させる事も可能になる。今はまだ無理をする段階では無い。長年の経験からベルナークはそう判断した。
だが前進する第一師団の……ベルナークの下に新たな凶報が齎される。
「だ……団長!! 右翼よりアイアン・リーパーの群れが接近中です。その数六百!! 」
「第七、第八大隊を対応に当たらせよ、指示は先程と同様だ。時間さえ稼げればよい」
動揺を隠せない部下たちの手前冷静な姿を保ってはいたが、ベルナークも内心は穏やかでは無い。偶然にしては余りにもタイミングが良すぎるのではないか。
しかも時間差をつけて両翼を強襲するなどこれではまるで……。
既にアイアン・リーパーへの対応に四千の歩兵を投入している。これ以上は防衛線の維持にまで支障をきたしかねない。
だがもしこれが偶然では無かったとしたら、両翼に戦力を分散させ狙うのは……。
「ベ…ベルナーク様!!後方……いえ、我が本隊前面、ギガス・バルダ、三。ベイル・スナッチャー推定三百。此方に向かって来ます!!」
ベルナークの視界にも遥か後方、アドラトルテ方面からアンダーマンを踏み潰しながら接近してくる三体の巨人の姿を捉えていた。
「害虫風情が人間の真似事とは笑わせよるわ」
ベルナークは伝令を呼び次々に指示を与えていく。
「本隊直営の部隊のみで此処を支える。これより第一師団の各大隊の指揮権は第二師団のボルスの指揮下へと移行するものとする。その旨急ぎ各隊へと伝えよ」
悲痛な表情を浮かべ散って行く伝令の兵士たち。
第一師団の直営部隊は僅か五百騎足らず。その僅かな手勢のみでこの場に踏み止まる事が何を意味するかなど赤子でも分かる事だ。
だが本隊の部隊を後方の防衛に回せば防衛線の維持は不可能となる。その事で全体が瓦解する事は無いだろうが、少なくとも後方の数万の住民たちは命を落とす事になるだろう。
「足止め程度なら同数も要れば十分であろう。付き合わせるそなたらには悪いがの」
「いやいや、ご老体の我が侭にはもう慣れっこで御座いますればお気遣い無く」
「全くですな」
第一師団の直営部隊の面々とベルナークの付き合いは長い。共に数々の戦場を駆けてきたベルナークにとって彼らは言わば戦友たちであった。
軽口を叩き合う彼らの中に悲壮感は無い。ベルナークと共に戦乱の大陸を戦い続け、生き抜いた彼らは自らが望み、選び、今此処に立っている。その事に、その結果に後悔などあろう筈が無い。
「新たな時代の希望も見届けましたし、そろそろ後進に道を譲る頃合かも知れませんな」
「わしより若い癖に随分と爺臭い事をいいおる」
馬上で笑い合う男たち。その瞳に漲る闘志と決意。
「これより我等が先導致しましょう。冥土への道を、そしてその先に続くであろう長き道程を何処までも共に参りましょうぞ」
ベルナークの抜刀の合図と共に五百騎の騎馬が剣を掲げる。
離れ行く本隊を背に五百騎の騎馬が駆ける。
アドラトルテ撤退戦。
後に語られるこの戦いにおいてベルナークたち第一師団の直営部隊の奮戦は、一つの英雄譚として南部域に広く伝わり語り継がれる事となる。
実に一刻の間、三百体余りの中級位危険種を相手に戦い続け、最後の一騎が命を落とし部隊が壊滅するまで、足止めのみならずギガス・バルダ一体と二十体近くのベイル・スナッチャーを屠ったその戦果は凄まじく、その勇姿は後の人々に畏敬の念を抱かせた。
ベルナークたち直営部隊の壊滅と時を同じくして住民たちの最後尾は魔物の群れを抜ける。そして日が傾き始めた夕刻には二十万余りの住民たちとアドラトルテ国軍の兵士たちは目的の海岸へと到達する。
アドラトルテ住民の死傷者。三十五名。
アドラトルテ国軍の死傷者。四千三百名。
此処までで全軍の一割強を失い、そしてベルナーク・ルクスと言う老練な指揮官を失ったアドラトルテ国軍は満身創痍ではあったが、だがその士気は尚高い。
騎馬を駆り、住民たちや兵士たちの下を訪れ励まし続ける美しき少女の姿に人々は神の救いを信じ。兵士たちはその魂を奮い立たせる。
追走する魔物たちとの戦いを前に僅かな休息を取る兵士たち。
だが休む間も無く背水の陣となる最後の戦いが迫ろうとしていた。
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