第61話

 シェルンの呼び掛けより前にアニエスは駆けていた。

 アニエスの周囲を鋼線が螺旋を描き渦巻く。

 アニエスが得意とするのは中距離戦闘のみでは無い。無数の鋼線を自身の数十センチ四方に展開させる事で機動力を生かした接近戦を可能にし、中距離から近距離、そして零距離戦闘すら可能としたアニエスの技術は最早神技と呼べる域にまで到達している。

 魔物の群れの中を華麗に駆け抜けるアニエス。アニエスが通り過ぎた後には累々と切り刻まれた魔物の残骸が大地に転がる。

 だがアニエの視界に映るシェルンの殲滅速度もアニエスに負けてはいない。

 手数を含めその実力は今だエレナやアニエスに比べ一段劣るとはいえ、比較対象が大陸屈指の使い手たちである事を考えれば、まだ若干十五歳のこの少年の才能と実力は同世代においてエレナ・ロゼという例外を除けば他の追随を許さないレベルにまで到達しているのは間違いない。

 的確な状況判断に基づいてグリーカーを狩っていくシェルンの姿にアニエスもシェルンが持つ無限の可能性、それを認めざる得ない。

 アニエスが抱く主観ではあるがシェルン・メルヴィスはエレナ・ロゼと呼ばれる少女とはまさに対極の存在である。

 エレナの振るう剣技は苛烈にして華麗。それは完成された一つの芸術であり、美術品として例えるならば稀代の名品である。

 対してシェルンの剣技はまだまだ荒削りではあるが、言うならば可能性の塊。このまま成長すればどれ程の名品に化けるかアニエスですら底が掴めぬ程の溢れる才能。

 今アニエスとシェルンが戦えば十戦してアニエスが十勝するだろう。だが数年後……いや数ヶ月後は分からない。アニエスにすらそう思わせる程の輝きをシェルンは放っていた。

 アニエスが知る限り大陸最高の剣士言えば憧憬の対象である宣託の騎士団。中でもやはり救世の騎士アインス・ベルトナーとその盟友であったアンリ・アメレールの名が双璧として揺らぐ事は無い。

 だがその両名がノートワールの地で命を散らした今、現在の大陸最強は只一人。

 オーランド王国傭兵ギルド。序列一位。ベルナディス・ベルリオーズ。

 最優にして最巧。アニエスが戦って勝てぬと感じた初めての男である。


 この子ならいづれは……。


 そんな言葉が脳裏を過ぎり、この緊迫した状況でそんな事を思い浮かべる自分に我ながら呆れる。


 幸いグリーカーの発見が早かった事と事前にその存在を予測していた為、兵士たちの間にも大きな混乱は起きてはいない。

 伝令を通じて伝えられた情報は速やかに全軍へと伝達され、防衛線の最前列の歩兵たちは身の丈程もある巨大な盾を掲げグリーカーの射線を完全に塞ぐ。

 その見事に連携の取れた対応の速さは、流石七都市同盟の中でも精鋭と謳われるアドラトルテ国軍の兵士たちと言えよう。


 「アニエス殿、狼煙が昇りましたぞ!!」


 グリーカー殲滅の為、アニエスとシェルンと共に魔物の群れ深くまで切り込んでいた中隊の部隊長が空を見上げ叫ぶ。

 其処には狼煙と呼ぶには余りにも大量の黒煙が空を染め上げていた。アドラトルテの上空を覆い尽くす黒煙。

 ベルナークたちはこの撤退戦に際し、侵入してくるであろう魔物の対しある置き土産を用意していた。

 大量の兵士と住民たちを動員して準備された仕掛けは極単純な物ではあった。

 魔導船の燃料にも使われる可燃性の高い鉱石を三門の外壁の外周に敷き詰め、大量の魔物を引き込んだのち、残りの油や乾燥させた木材と共に引火させ外周全域を魔物と共に炎で焼き尽くす。

 単純ではあったが南門付近から三門全域に引火させる事が可能であり、少ないリスクでかなりの効果が見込めた。加えてそれにはもう一つの意味合いがある。

 それは住民たちの最後尾が南門を発った合図としての狼煙。

 比較的早い段階で上がったこの狼煙は、撤退戦が順調に推移している事を物語ってはいたが安心出来るほどの余裕など当然持てる筈など無い。

 住民たちの最後尾が南門を出たという事は殿を務める第一師団もまたアドラトルテを出ている筈なのだ。ここからは三師団の歩兵たちが足並みを揃えて移動し行動しなければならない。

 移動速度が早すぎれば伸び切った防衛線に綻びが生じ、魔物の侵入を許す事で三師団が分断されかねない。だが移動速度が遅すぎれば蓄積されている兵士たちの疲労と、時間の経過により押し寄せて来る事が予測される他所からの魔物たちに寄って進路と退路を同時に塞がれる危険性もある。

 空に昇る狼煙を確認したアニエスとシェルン。そして中隊の兵士たちは周囲の魔物を牽制しつつ防衛線へと後退を始める。

 範囲殲滅を繰り返していたアニエスたちの周囲には比較的空間が確保されていた為、防衛線を構築している第三師団本隊との合流はさほど困難では無かった。

 魔物たちの大半を占めるのが鈍重で行動が単調なアンダーマンである事がこの撤退戦の唯一と言っていい希望であったのだ。

 既に海岸線に向けて前進を開始し始めている第三師団の本隊と合流したアニエスたちは、その先頭に立ち兵士たちを導く様に剣を振るう黒髪の少女の姿を見る。

 華麗に剣を振るうエレナの息は大きく乱れてはいなかったが、額に薄っすらと浮かぶ汗や時折吐く荒い息遣いからも、彼女がかなり無理をしている事は明白であった。

 だがこの重要な局面において、既に第三師団……いやアドラトルテ国軍全体の精神的支柱となっているエレナが前線を離れる事は士気に大きな影響を及ぼす。それが分かっているからこそ、エレナは常に兵士たちの先頭に立ち戦い続けているのだ。

 そんなエレナの姿にアニエスは憧れた英雄たちの姿を見る。

 アニエスは宣託の騎士団と共にノートワールに赴けなかった事を今でも悔やんでいた。焦がれた英雄たちの傍らで戦えなかった……共に死ねなかった事が後悔として今尚残っている。

 だが今アニエスはそれに替わる戦場にいる。綺羅星の如く輝きを放つ英傑たちは居ないかも知れない。しかし此処にはそれに遜色無い美しき英雄がいる。

 今度こそ置いて行かれる訳にはいかない。

 エレナがこのアドラトルテに残ると言う決断を下した時、アニエスは迷い無く己の死に場所をこの地に定めていた。

 一度死に損なった自分の最後の戦場として、恐らく後世にまで語られるであろうこの戦いに身を投じる事を選んだのだ。

 本当のアニエス・アヴリーヌは見た目や言動が示す様な計算高い冷徹な女性では無い。激しい激情を秘めたその心はエレナと……いやアインスと合わせ鏡の様に良く似ていた。

 アニエスはエレナの傍らへと走るシェルンを目で追い、自身もまた駆ける。

 今度こそ置いて行かれぬ様に。

 英雄の傍らで最後まで戦い続ける為に。

 英雄に憧れ目指したアニエスが本当の望んでいたのは自身が英雄になることでは無かった。

 英雄と呼べれる存在と共に戦う事。それが彼女の望みの全て。

 アニエス・アヴリーヌ。

 彼女もまたエレナ同様、何処までも純粋で真っ直ぐな女性であった。

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