第60話
エレナたちの背後を馬車の一団が通り過ぎて行く。
馬車の中には女、子供、そして老人たちが乗っている。その馬車の脇を慣れぬ剣を握り走る住民の男たち。それは先発する住民たちの一団の姿。
二十万人近い住民たちの撤退が終わるまでこの状況を死守する。此処からが本当の死闘の始まりであった。
「ぐぁぁ……」
鈍い嫌な音と共にアンダーマンの腕に頭部を握り潰された兵士の身体が吊られる様に力無く宙を泳ぐ。
アンダーマンの裂けた赤い口が大きく開き、腕に捕らえた兵士の死骸の喉元へと伸びると、ぐちゃぐちゃと言う汚い租借音を響かせアンダーマンは兵士の死骸を喰らう。
周囲の状況などまるで意に介さないこの異様な化け物の姿に、兵士たちは知らず後ずさると、兵士たちが下がり空いた空間を魔物たちが詰めて埋めて行く。
刹那、兵士を喰らっていたアンダーマンの首が刎ね飛ぶ。
陽光に照らされ、放たれたアニエスの鋼線たちがアンダーマンの四肢を瞬時に切断していた。
冷たい輝きを放つ緑の瞳が兵士たちを一瞥するが、エレナの様に周囲を鼓舞する様に兵士たちに声を掛けたりなどはしない。
氷の女王はただ冷徹に淡々と眼前に立ち塞がる魔物を制圧し蹂躙する。
その冷たくもそれ故に美しいアニエスの姿に兵士たちは下がりかけた足をまた一歩前にと踏み出す。
一進一退。
長くても数時間、それ以上の状況の維持は難しいであろう張り詰めた緊張の中、兵士たちは己の全てを懸け戦い続ける。
「エレナさん、一度下がって」
シェルンは魔物の血でどす黒く染まるエクルートナを軽く払い、振り返らずエレナへと声を掛ける。
エレナの額には珠の様な汗が滲み、呼吸もかなり乱れて来ていた。体力に劣るエレナにはこうした持久戦は決定的に向いていない。
体力の限界にまではまだ至ってはいない。だがこのまま戦い続ければ直ぐにその限界点に達してしまうことはエレナ本人が一番理解していた。
エレナは己の身体の歯痒さに思わず唇を噛み締める。
「済まない、シェルン……」
エレナは素直に身を翻し兵士たちによって築かれた防衛線の内側へと身を滑り込ませた。
心配そうにエレナを見つめる兵士たちに笑顔を返し、エレナは肩膝をつき身を休める。目を閉じ独特の呼吸法で乱れた呼吸を整えて行く。
エレナの耳には背後で走り抜けて行く馬車の音と多くの人々の足音が響いていた。
そろそろ住民たちの先頭集団が魔物の群れを抜ける頃合であった。そうなれば騎馬部隊は住民たちの護衛の為追従して海岸線へと向かい出す。
騎馬部隊の援護を受けられぬこれからが寧ろ歩兵部隊の本当の戦いだというのに、無様な自分の姿にエレナは忸怩たる思いに駆られる。
「エレナ様、宜しければこれを」
不意に掛けられた声にエレナは閉じていた目を開く。
其処には水の入った皮袋をエレナへと差し出す若い少年兵の姿があった。
緊張した面持ちで自分を見つめる少年兵にエレナは微笑み掛けるとその手から皮袋を受け取り、そのまま口元へと運ぶ。
自分が差し出した水を飲むエレナの姿に少年兵は嬉しそうに、そして恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を見せた。
「有難う、貴方お名前は?」
「はいっ!! リルト……リルト・リーアムです!!」
シェルンよりも年下であろうリルトの初々しい姿に、エレナは焦る気持ちを抑え込む。
そう……仲間を、共に戦う同胞たちを信じ、今は身体を休めなければならない。この先も戦い続ける為に……。
エレナは皮袋をリルトへと返すとまた瞳を閉じ、更なる戦いに備えるのであった。
周囲の空気が震え何かがシェルンへと飛来する。咄嗟にシェルンはソレをエクルートナで弾き飛ばす。
だが無数に飛来するソレは隣で戦っていた兵士たちに突き刺さると、悲鳴を上げ兵士たちが地面へと崩れ落ちて行く。
シェルンの視線の先、アンダーマンの巨体の隙間から姿を見せる魔物。
全身を埋め尽くす鋭利な棘状の突起。全長一メートル七十センチ程だろうか。痩せ細った人型のソレは枯れ木を思わせる。頭部の部分も突起に覆われ本来人が持つ造形は其処には無い。
だが伸ばされた両の手のひらには埋め込まれた様な眼球がぎょろりと周囲を見回し、その胸部の裂けた大きな口からはダラダラと透明な液体を涎の様に垂れ流していた。
魔物の名は射抜き喰らう者(グリーカー)。
南部全域に生息するグリーカーはアンダーマンと同じく下級位危険種の一種である。
多くの魔物たちと同様に種で群れを成さず単独で行動する性質を持つグリーカーではあったが、他の種とは違う厄介な特性を持っていた。
それは他の種、特に南部域最大の個体数が確認されているアンダーマンに寄生する様に行動すると言う、ある意味人間に近い捕食形態を取るのだ。
グリーカーの捕食方法は自身の棘状の突起を対象者に放つと言う、単純な捕食方法のみではあったが、その正確な射撃性能と射程の長さ。加えて連射が効くと言うその特性は陸路を移動する上で命綱となる馬を射殺される危険性が高く、同じ下級位危険種であるアンダーマンより遥かに厄介で危険な魔物であった。
そしてアンダーマンを言わば盾代わりに使うグリーカーは、アンダーマンと対となった時の危険度を中級位危険種に相当すると協会が警告を出すほどに危険度が跳ね上がる、実に厄介な種の魔物である。
シェルンの前方には、アンダーマンに隠れる様にグリーカーの手のひらの目玉がぎょろぎょろと蠢いている。それは恐らく数体ではきかない。
少なくともシェルンの周囲だけでも数十体近くのグリーカーが潜んでいるのが確認出来た。
「アニエス!!」
シェルンは叫び、そして地を蹴る様に駆け出した。
グリーカーの存在に気づいた歩兵たちが盾をかざしシェルンに続く。
今グリーカーと言う魔物はもっとも早急に殲滅しなければならない存在であった。
シェルンはアンダーマンの囲いをすり抜ける様にグリーカーへと迫り、その身を躍らせた。
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