第58話
「エレナ殿にはなんと詫びれば良いか分からぬ……この不始末の責任は全てわしにある。本当に申し訳無かった」
行政府の建物から救い出され官舎の自室へと戻ったエレナは直ぐに駆けつけて来たベルナークの訪問を受けていた。ベルナークはエレナを見るなり床に膝をつき深く頭を垂れる。
五十を過ぎて尚、一線で名を馳せる老練な名将に突然頭を下げられエレナは慌てて席を立つ。
「止めて下さいルクス団長、今回の事は私の不注意……いえ、軽率な行動が招いた、いわば自業自得なんですから、ルクス団長には非などありませんよ」
その事は先程まで部屋に居たアニエスに散々叱られていた。そもそもベルナークに相談する事も無く勝手に行動した結果がこの様だと言うのに、その軽率さを責められるならまだしもこの様に頭を下げられては寧ろエレナとしては立つ瀬が無い。
「私はこの通り大丈夫なのですが、心配なのは共をしてくれた女性の事なんです」
エレナは膝を折ったまま動かぬベルナークを幾度となく説得し、ようやく席につかせると胸に痞えていた疑問をベルナークへと投げかける。
エレナの御付の女官であった彼女はあれから一度もエレナの前に姿を見せていない。見て取れた範囲では大きな怪我を負った様子は無かったのだが……。
「彼女は別室で休ませておるよ、ただ……少し体調が優れぬようでな、これ以上勤めを果たすのは難しそうなので此方の判断で任は解かせて貰った」
「そうですか……彼女が無事ならそれだけで十分です」
言い難そうなベルナークの表情を見ても恐らく彼女の精神的な傷は深いのだろう。
いきなり暴漢に襲われた上にあの様な惨状を見せられては無理もないとエレナは納得するが、同時に既に終わった事と自身の身に起きた出来事に対してなんら心が動かぬ自分の心の在り方に些か呆れもする。
女性らしい感情か……。
今まで一度として考えても来なかったそうした疑問が一瞬エレナの脳裏を過ぎるが、ゆっくりとそんな事を考えている暇は少なくとも今は無かった。
「シェルンと言ったか、あの少年が罪に問われる事もない故、心配には及ばぬぞ」
エレナの逡巡をシェルンへの想いからかと誤解したベルナークは些か唐突ではあったが話題を変える。
今回の不祥事が表に公表される事は無い以上、シェルンが罰せられる可能性などそもそも無かったのだ。無事全てが終わればラビルは撤退戦の折に魔物に襲われ命を落としたと、そう公表される事が既に決まっていた。
今回の事件では住民たちに及ぼす士気への影響を憂慮した軍部と、不祥事を起こしてしまった行政府との間で利害の一致を見せ、事件の揉み消しを行う事が両者合意の下で決定されていたのだ。
ベルナークにしてみればラビルやそれに関わった愚劣な輩など、この手で斬って捨ててやりたい衝動に駆られはしたが、現状真実を公表しても誰の得にもならない事は分かりきっていた。
なによりこの事が公になればエレナの献身的な行いが台無しになりかねない。それだけは絶対に避けねばならなかったのだ。
「想い人を汚されかけたあの少年の怒りは痛いほど分かりもするでな」
エレナはそう告げるベルナークの意図が分からず不思議そうに小首を傾げる。
シェルンの想い人とは誰の事であろうかと……少なくともエレナにはそれが自分の話であるとは思い至らない。
「よもやエレナ殿とあの少年とは恋仲では無かったのか?」
エレナの反応の鈍さにベルナークは少し驚いたような表情を浮かべる。
年の頃も近く連れ立って傭兵家業をしていると聞いていたベルナークは、二人の関係をそう勝手に解釈していた事もありエレナのこの反応には少々困惑していた。
「恋仲? 私とシェルンがですか? それは誤解ですよ」
あっさりとそう答えるエレナの言葉が、照れ隠しの様なモノでないことはその声音や表情を見ても間違いないようだ。
「シェルンとは血の繋がりは無いですけど私にとっては大切な弟です」
迷い無くそう告げるエレナにベルナークはシェルンに同情する。
エレナのシェルンへの感情が姉弟愛に基づくモノであったとしても、あの少年がこの少女に抱いている感情は間違い無く異性に対する愛情なのは傍からみれば明らかなのだ。
鈍感と呼ぶには残酷なエレナの言葉に、ベルナークはこの先に待ち受けているであろうシェルンの苦労を思い嘆息する。だが同時にシェルンを少し羨ましくも思う。
高嶺の花。誰もが見上げそして諦める天上の花。
だが手を伸ばさねば掴めぬかどうかなど分かりはしないではないか。
男として生まれ、愛した女を手に入れる為全てを懸ける。そうした生き方も悪くは無い。
ベルナークは自身の人生を振り返り、そうした無限の選択肢を、可能性を秘めた二人の若者が眩しく思えた。
「エレナ殿、明日の撤退戦の殿は我ら第一師団が承る。エレナ殿には第三師団と共に先陣をお願いする事となろう。故にこうして話せるのはこれが最後になるやも知れぬ。だからこれだけは伝えておきたい。例え結果がどうあろうと我らのエレナ殿への感謝は変わらぬと」
エレナはベルナークを見つめただ一度頷く。
謙遜の言葉も謝意の言葉も、その口から漏れることはない。
言葉など要らない。ただ自分の全てを懸けて剣を取り戦う。自分に出来る事はそれだけだと知っていたから。
アドラトルテの夜は深け、そして運命の朝を迎える。
災厄以降初となる万を越える人類と魔物の死闘が始まろうとしていた。
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