第57話

 アドラトルテに日没が迫っていた。

 だが街の男たちは松明を片手に外壁へと向かい、年寄りや女、子供は早々に街の南へと移動を始めていた。

 そうした人の群れが街中に溢れ、夕闇に閉ざされようとしているアドラトルテの街並みは住民たちの姿で埋め尽くされていた。

 明日の撤退戦に向けアドラトルテ全体が動き始めている中、軍務省の官舎に仮の宿を移していたエレナの下をラビルからの使者が訪れていた。


 「分かりました。これから伺わせて頂きますが、少しお時間を下さい」


 使者にそう告げ官舎の外で待つように伝えると、エレナは少し不審そうに首を捻る。

 今日行ったアドラトルテ放棄の公表やそれに伴う広場での演説をベルナークが行政府に対し事後報告と言う形を取った事で、ラビルが軍部の暴走だと激怒して荒れ狂っていると言う噂はエレナの耳にも届いていた。

 そんな中エレナの労を労う簡単な晩餐会を開くと言うラビルの招きは、何処かちぐはぐな不自然さを感じさせはしたが、アドラトルテ全住民の命運を懸けた撤退戦を明日に控えラビル側が折れた、と言う見方も出来る。

 直接的に軍部のやり方を認められない行政府側が苦肉の策としてエレナを間に入れることで、落とし所を求めたと言うところだろうか。

 エレナにして見ても両者がいがみ合っている状況と言うのは明日の大事に不安を残すことになる。自分が緩衝材となって表面上だけでも治められると言うのなら、ラビルからの申し出を断る理由は特に無い。

 まして晩餐会とは言っても、この官舎の隣、行政府の建物の一室で行われる簡素な食事会程度なら尚の事だ。

 だがエレナはこの時大きな見落としをしていた。

 ラビル・バナットと言う男がどういった性質の男であったか、初めて会ったその日に正確に見抜いていたエレナが、迫る大事を前にその事を失念していたのだ。

 他の多くの者たちがそうであった様に、ラビルと言う存在が余りに希薄であった故に。


 「エレナ様、御召替えの前でよう御座いましたね」


 御付きの女性の声に、壁に掛けていた双剣に伸ばしていたエレナの手が止まる。

 普段の姿であればまだ兎も角、今のドレス姿の自分が招かれた席に帯剣して赴くのは些か礼に失すると思い直す。


 「頃合を見てアニエスさんに迎えに来て貰える様に頼んでおいて下さい」


 御付きの女性にそう声を掛け部屋を後にするエレナ。

 アニエスに声を掛けて貰う様に頼んだのは、晩餐会の後、万が一引き止められて余興などに付き合わさせられては堪らないとい言う、極々私的な心情的な理由からだ。

 アニエスとは今は別行動を取ってはいたが、正式にエレナの護衛として配属されたシェルンを伴ってもうすぐ戻ってくる筈なのだ。

 こんな言い方は本人も不本意だろうが、アニエスの様に独特の威圧感を持つ人間が迎えに来たくれた方が、そうした場を切り上げ易い。


 軍務省の官舎を出て、使者の男と共に行政府の入口の広間に入ったエレナの後ろでちょっとした騒ぎが起こる。


 「護衛の方は此処でお待ちを」


 エレナの臨時の護衛として同行していた二人の兵士が入口で門兵に止められていた。


 「それはどういった了見で言っている」


 護衛の兵士の一人が怒気を滲ませ門兵を睨む。


 「行政府は警備隊の管轄である。故に此処より先は警備隊がエレナ殿の護衛を承る。軍属の者はこの場でお待ち頂くか、とっととお帰り願いたい」


 どうやら今回の一件での行政府側の軍への不満はかなり根深い様だ。煽り気味に挑発する門兵と護衛の兵士たちの間に俄かに一触即発の空気が流れ出す。


 「迎えは頼んでいますので私の事は心配せずとも大丈夫ですよ」


 エレナはやんわりと護衛の兵士たちに官舎に戻る様にと促す。

 別段敵地へと赴く訳では無い以上、此処は行政府側の顔を立てておいた方が良いだろうと言う判断からだ。


 「では此処でお帰りをお待ちします」


 護衛対象であるエレナからそう言われては感情のままに我を押し通す訳にもいかず、護衛の兵士たちは渋々と言った呈ではあったが大人しく引き下がる。 


 護衛の兵士たちを入口に残し、案内されるままに使者の男に続くエレナと御付きの女性。

 内勤の職員たちも街中に借り出されているのだろうかその姿は見えない。お陰で当直の警備隊員らしき男たちの姿が疎らに見えるだけで行政府の建物内はかなり閑散としていた。


 「随分と寂しい感じですね……」


 そうした雰囲気に呑まれた様に御付きの女性が少し怯えた声でエレナを見る。


 「心配は要りません、大丈夫ですよ」


 エレナは御付きの女性を安心させる様に笑顔を浮かべるが、此処に至りエレナもこの状況に違和感を感じていた。

 その一番の原因は警備隊員と思われる男たちが自分たちに向ける下卑た視線だ。

 肌に絡み付く様なこの種の不快な視線には慣れているとは言え、仮にも晩餐会の様な催しに招いた客に対して向けるには些か……いやかなり無礼であろう。

 エレナは無意識にその手を腰へと伸ばすが其処に二振りの愛剣の感触は無い。

 御付きの女性だけでも引き返させた方がいいか……とエレナが思案していると不意に使者の男が立ち止まる。


 「此方です。どうぞお入り下さい」


 使者の男が二人を案内したのは、この建物の中でも奥まった場所にある一室。周囲には人の気配は無い。


 「すみません、どうやら忘れ物をしてしまった様です。申し訳有りませんが一度官舎の方に戻らせて下さい」


 エレナの言葉に使者の男が露骨に舌打ちする。

 刹那、扉が内側から開け放たれ二人の男がエレナと御付きの女性に襲い掛かる。

 恐らくは扉の内側で息を潜め聞き耳を立てていたのだろう。それ程完璧なタイミングであった。

 エレナは流れる様に重心を左へと移し、自分へと伸ばされる男の両腕を避ける。だが履き慣れない儀礼用の靴にエレナの態勢が崩れる。エレナは咄嗟にその場に片膝をつくことで転倒を免れる。


 「いやぁぁぁぁぁ!!」


 もう一人の男に組み敷かれる様に床へと倒された御付きの女性が悲鳴を上げる。

 男は御付きの女性の両手を左手で拘束すると右手を自分の懐へと伸ばし、取り出した短剣の刃先を御付きの女性の首筋へと当てた。


 「エレナ殿、我々は貴方を亡き者にしようと言う訳ではありません。大人しく従って下されば誰も怪我をしないで済むのです」


 泣き叫ぶ御付きの女性の悲鳴に、エレナは抵抗の意思がない事を示す様に両手を上げた。


 「流石はエレナ殿、素直さは淑女の美徳ですよ。中で執政官がお待ちです。それでは参りましょうか」


 「代理、が抜けてるんじゃないか」


 エレナの皮肉に使者の男は薄っすらと笑みを浮かべ、エレナの細い両腕をもう一人の男と左右から強引に掴むと部屋の中へと連れて行く。

 御付きの女性も髪を男に掴まれ引き摺られる様に室内へと消えていった。


 「晩餐会へようこそ、聖女様。もっとも今宵のご馳走は貴方ですがね」


 「もう少し気の利いた台詞の一つでも言えないのかな、とんだ三文役者だね」


 下卑た笑みを浮かべ部屋の中でエレナを迎えたラビルにエレナは小馬鹿にした様な笑みを返す。

 男たちはエレナを椅子にと座らせその手首を後ろ手に縄で縛り上げると、椅子にその身体を拘束する。

 部屋の隅には放心した様に御付きの女性が座り込んでいる。


 「強がりは止めて最後の夜をお互い楽しもうじゃないか」


 ラビルのその言葉を聞いてエレナはようやく思い至る。

 ラビルは明日の撤退戦の成功を信じていないのだ。だからこそ最後の夜などと言う言い回しをするのだろう。

 自暴自棄になり己の欲望を満たそうとする男の誘いに、疑いもせず乗ってしまった己の迂闊さに我ながら呆れてしまう。


 「悪いけどあんたみたいな男は趣味じゃないね」


 エレナはラビルの先を見通せぬ狭量さを笑う。

 だがエレナの言葉を、自身の見た目の醜さを馬鹿にされたと勘違いしたラビルは咄嗟に怒りに我を忘れた。

 激情に任せ振り下ろされたラビルの平手がエレナの頬を叩く。

 乾いた音が部屋の中に響き渡る。

 力任せに叩かれたエレナの左頬は赤く染まり、その衝撃で切れた小さな唇から血が滴る。

 ラビルは美しい少女の唇から滴る血を目で追い、その血が純白のドレスに隠された小さな胸の谷間へと零れ落ちるのを見ると、怒りを忘れ身体を奔る悦楽に身を震わせた。


 欲情にぎらぎらと獣の様に瞳を輝かせたラビルは、自分を睨みつけるエレナの前髪を掴むと強引にエレナの顔を仰け反らせる。

 そして露になった美しい喉元に顔を近づけ、エレナの白磁の様な白い肌にその舌を這わせた。

 ラビルの舌はそのままエレナの喉元から胸の谷間へと舐める様に移動し、胸元に付着した血を舐め取る。

 エレナはその不快な感触に思わず身を震わせる。

 刹那、部屋の扉が荒々しく開け放たれた。


 「ぎりぎり間に合った様ね」


 アニエスは目の前に広がる光景に不快そうに眉を潜めるが、同時に最悪の事態にまで至っていなかった事に内心胸を撫で下ろしていた。

 官舎に戻ったアニエスはエレナが不在の理由を聞かされ、直ぐに行動を起こしていた。

 以前ラビルがエレナに向けていた視線を覚えていたからだ。皮肉な事に当事者であるエレナより、アニエスとシェルンの方がラビル。バナットと言う男を正確に理解していたのだ。

 そして結果としてその迅速な判断がエレナを救う事に繋がった。

 アニエスから話を聞いたベルナークの判断により、行政府へと派遣された部隊は既に行政府内の警備隊を制圧していた。


 アニエスの隣に立ち、部屋の光景を目にしたシェルンの思いはアニエスとは異なるモノだった。

 椅子に縛り付けられラビルに髪を掴まれているエレナの姿。

 エレナの赤く染まる頬。

 そしてその小さな唇から滴る血。肌蹴た胸元。

 そんなエレナの姿を目の当たりにし、シェルンの表情が見る間に消えていく。

 シェルンは能面の様に無表情のまま、感情の篭らぬ暗い瞳を男たちへと向ける。


 「殺しては駄目よシェルン、面倒になるわ」


 だがそんなアニエスの言葉など今のシェルンには届いてはいない。

 瞬間、部屋の中へと、エレナの下へと駆け出したシェルンは背中のエクルートナを駆け寄り様抜き去ると一振りでラビルの首を跳ね飛ばしていた。

 それはまさに一瞬の出来事であった。

 驚愕の表情を浮かべたままラビルの頭部がシェルンの足元へと床を転がる。

 頭部を失ったラビルの身体は鮮血を巻き上げ、エレナの身体から力無く離れると床へと崩れる。

 シェルンは自分の足元に転がるラビルの頭部に右足を乗せると、そのまま踏み潰した。

 その凄惨な光景に御付きの女性は意識が遠くなり気を失ってしまう。

 周囲の男たちも余りの衝撃に凍りついた様に固まり、その光景を見つめていた。

 べちゃ……べちゃ……という嫌な音が部屋に木霊する。


 「シェルン……もういい、止めるんだ」


 シェルンはエレナの声すら聞こえぬ様に暗い瞳でラビルの頭部だった残骸を見下ろしたまま、何度も何度も繰り返し踏みつける。

 肉を潰すような音が静まり返る室内に響き渡り、いつまでも途絶える事は無かった。

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