第47話
双刻の月の敷地内に建つ別棟の窓に早朝の朝日が差し込む。
朝日に照らされた窓枠がその影を伸ばしシェルンの足元まで伸びている。
シェルンはその影を一歩踏み抜く様に右足を踏み出しエクルートナを正眼へと構える。そのシェルンに対峙するように黒髪の少女が立つ。
朝日を浴びて少女の長い艶やかな黒髪が輝き、強い意志が宿る、黒曜石の様な神秘的な黒い瞳がシェルンを見つめる。
神話や御伽話の中で語られる永遠の少女、神に祝福されし乙女――――その姿を体現させたかの様なその美しき少女は両手に持つ双剣を僅かに傾け、シェルンを誘う様に誘うように優雅にゆっくりと半身に構えた。
「行くよ、エレナさん」
その声と同時にシェルンは少女へとエレナへと駆ける。
シェルンの身長とほぼ変わらないエクルートナの間合いはエレナの持つ双剣より遥かに長い。その優位性を活かし双剣の届かない間合いの外から繰り出されたエクルートナがエレナへと迫る。
その刃先がエレナへと触れる刹那、エレナの左手のエルマリュートがエクルートナの刃先を受ける。
シェルンの渾身の力を込めた一撃はかつてエドラットが反応出来なかったあの時よりも遥かに速く、そして重い。
エレナの華奢な細腕では到底受けきれない、剛剣とすら呼べるシェルンのエクルートナはだが主であるシェルンの意思に反してその刃先をエルマリュートの刀身に滑らせていく。
「くっ!!」
エクルートナの支配を取り戻そうとシェルンは体重を乗せその刃先を返そうとする。だがエレナはその動きすら予測していたようにシェルンに合わせ左手を返し体重を移動させていった。
完全に力を受け流されたシェルンのエクルートナは火花を散らしながらエルマリュートの刀身を滑っていき、そして虚空へと弾かれた。
僅かに態勢を崩したシェルンにエレナの追撃は無い。揺れる前髪から覗く黒い瞳はシェルンの全てを見透かすかの様にその姿を見つめている。
シェルンは構わず更に一歩踏み込みそのままエクルートナをエレナへと切り下ろす。だが結果は変わらない。受け流されたエクルートナは今度は別棟の床へと弾かれた。今度は大きく上体を崩されたシェルンの眼前にエレナのエルマリュートが突きつけられる。
「悪くない、だがまだ力み過ぎだ。力量が肉薄すればする程そうした一つ一つの事柄が勝敗を分ける事になる」
シェルンの剣を左手のエルマリュートのみで封殺し、息すら乱すこと無くエレナはシェルンにそう告げた。
シェルンはエレナと自分を隔てる大きな溝、埋まらぬ圧倒的な力の差を前に知らず唇を噛み締める。
だが同時にそんな彼女に追い着きたいとシェルンは強く願う。必ず護ると誓った少女の横に並び立つ為に。
剣戟の音が止む事が無い別棟の窓から見える朝日はやがて高く昇り、その音は不意に途絶えた。
「もうこの辺で今日は止めよう……」
双剣を鞘へと収めエレナは肩で息をしながら床へと腰を下ろす。対してシェルンは額には汗が滲んでいるものの、まだ息を乱す程の疲れは見られない。
シェルンはまだ少し物足りなそうではあったがエレナが早々と剣を収めてしまったのを見て渋々といった様子でエレナの隣へと腰を下ろす。
「強くなったなシェルン……同じ大剣同士で言うなら、もうヴォルフガングさんといい勝負が出来るんじゃないかな」
砂塵の大鷲のギルドマスターであるヴォルフガングの序列は十五位。共に戦った経験を持つシェルンにしてもヴォルフガングの強さは肌で感じていた。それを考えればエレナの言葉はシェルンにとっては最大の賛辞ではあるのだが……。
「でももし戦場であの男と戦ったら僕は勝てない……そうでしょ?」
「まあ……ね、恐らくシェルンは殺される、だけどそれは技量が劣るからじゃない、培ってきた経験の差だ。でもそれはシェルンが弱い訳じゃない。そうした経験は修練を重ねたからといって一朝一夕で身に付く物ではないしね、こればかりは仕方が無いさ」
口を噤むシェルンの頭にエレナの小さな手が乗せられ、シェルンの顔の間近にエレナの顔が、その黒い瞳が覗き込む。
「焦ることは無いさ、才能でも伸び代でも遥かにシェルンが勝っているんだ、いずれはヴォルフガングさんを超えられる。そしていつかは……」
エレナの視線はシェルンを離れ虚空へと移る。そしてその黒い瞳はやがて高い別棟の天井へと至る。
「いずれ……か」
シェルンにはそれが遥か遠い先の未来に思え、どうしても素直に喜ぶ事が出来なかった。
「しかし……暑いな」
エレナの右手がシェルンの頭を離れ、エレナの白い肌を伝う汗を拭う。そしてそのまま自身の胸の上にまで伸びると、服の胸元を掴みパタパタと扇ぎ出す。
無意識にその動きを追っていたシェルの目に、はだけたエレナの服の胸元から覗く小さな胸の膨らみが映り込み慌てて顔を背ける。
この人はなんでこんなに無防備な姿を簡単に男の前で晒すのだろう。
自分の事に無頓着過ぎる……とシェルンは僅かに頬を上気させ心の中で呟いていた。
エレナのこうした態度や仕草が男に誤解を与え、相手に寄っては劣情すら抱かせるのだ。シェルンはそんなエレナが心配で堪らない。
例えば此処で自分が彼女の両手を掴み押し倒したとしたら、非力なエレナでは抗うことは出来ないだろう。そんな事を考えてしまいシェルンは頭を振り慌ててその良からぬ思いを打ち消した。
だからこそ姉であるレティシアのエレナへの過保護過ぎる行動にシェルンは注意することが出来ないのだ。その心配が痛い程分かってしまうから。
「エレナさんはもう少しアニエスを見習った方がいいよ」
「ん?」
シェルンの言葉の意図を理解出来ずエレナは僅かに小首を傾げた。
その何処か愛らしい行為は意識しての仕草では無い。それだけに逆にたちが悪い。そんな事を考え深い溜息をつくシェルンであった。
「なあシェルン、午後から少し付き合ってくれないかな? 買いたいものがあるんだ」
エレナの声に顔を上げるシェルン。
「買い物? だったら姉さんも誘って三人で」
「あ……いや、男同士で……ええと……シェルンと二人がいいな」
少し照れた様に顔を背けるエレナの姿を思わずシェルンはまじまじと見つめてしまう。
「別に……いいけど」
素っ気無く答える声音とは裏腹にシェルンの胸はまるで早鐘を打つように高鳴っていた。
シェルンを連れエレナが向かったのは中央区にある大手商会の店舗の一つであった。祝福された休日であることからか大通りには人影は疎らで開いている店舗もそう多く無い。
がらがらの店内に入ったエレナは迷うこと無く店の奥に展示してあるソレの前に小走りで向かう。シェルンがその後に続き、エレナが目を輝かせ見つめるその短剣に目を移す。
「刀身の刃紋といい……美しい形状といい素晴らしいの一言に尽きる……まさに名品だよ」
およそ年頃の娘が興味すら抱かぬであろう短剣をエレナはうっとりと眺めている。
エレナが普通の女性と大きく感性が異なることは事実だ。綺麗な服や装飾品、そうした一般の女性が好む物に一切興味を示さない。華美な服装を好まないレティシアやカタリナでさえやはり普段は服装や小物など女性として気を掛けていると言うのにだ。
「お嬢さん、お目が高いその短剣は……」
エレナに気づいた店員の男が二人に声を掛けるが、振り返ったエレナの顔を見て男は言葉を詰まらせる。暫く呆然とエレナの姿を眺めていた男はやがておずおずと目線をエレナから逸らす。
「宜しければ……その……お手に取られてご覧になられますか?」
「いいの?」
男はエレナと目線を合わせる事無く頷くと壁に飾られていた短剣をエレナへと手渡す。
エレナは手に握られた短剣の刀身に指を這わせ優しくなぞる。何処か艶かしさすら感じさせるそのエレナの仕草に男はゾクリと背中を震わせた。
「シェルン、どうかな?」
短剣を手に持ち笑い掛けるエレナの姿にシェルンは返答に困ってしまう。
少女が短剣を手にして自分に微笑み掛けている。ある種異様なその光景を前にして、似合ってるよ、というのは些かおかしいのではないか、などとシェルンは真剣に悩んでしまう。短剣を褒めるべきなのか、エレナを褒めるべきなのか……。
どう答えようかシェルンが迷っている内にエレナは短剣を男に返すとシェルンの手を握る。その柔らかく小さなエレナの手の感触にシェルンの思考が一瞬止まる。
「じゃあ、行こうか」
「え……買わないの?」
シェルンの手を引き店を出ようとするエレナに止まっていたシェルンの思考が働き出す。
「うーん、やはり良い物は高いからね、直ぐには手が出ないかな」
残念そうに笑うエレナの姿に思わずシェルンの口から買ってあげようか、という言葉が出掛かるがぎりぎりの所で思い留まる。
エレナとシェルンは双刻の月から毎月決まった俸給が出ている。しかし二百三十位と言う高位の序列を持つシェルンとエレナではその額に大きな開きがあった。加えて序列者に与えられる恩恵の一つとして与えられる序列に応じた給付金を入れれば恐らくエレナの三倍近い額を月々シェルンは貰っている筈だ。
金銭的な面だけで言うならシェルンはエレナより遥かに懐に余裕があるのだ。
だがシェルンはその言葉を飲み込む。エレナがそうした申し出を好まないのを知っていたからだ。仮にシェルンの好意をエレナが受けたとしても、それを恩として感じてしまいきっと返そうとする。エレナ・ロゼと言う少女はそうした人間だ。
シェルンはエレナに恩義を感じられるのは嫌だった。自分に笑い掛けるその笑顔が自分に接するエレナの態度がそうした恩義を返す為の行為だと邪推してしまうだろう自分の姿を想像して堪らなく嫌になる。
「それに今日の目的は此処じゃないからね」
エレナはシェルンの手を引き店を出る。
そして通りで馬車を拾い向かった先は中央区にある新年を祝う式典の会場であった。
エレナの今日の目的はシェルンの息抜きに付き合うことであったのだ。シェルンは誰かが誘わなければ一日中でも剣を振り続けているだろう。その一途さや真剣さはエレナから見れば好ましいものではあったがそれだけではいずれ行き詰ってしまう。
そんなシェルンの姿にかつての若き日の自分の姿が重なり、エレナはどうしても放ってはいられなかった。
それに自分自身にしてもどうせ羽目を外すならやはり気を使ってしまう女性のレティシアやカタリナより男のシェルンの方が一緒にいて楽だと言う思いもある。
やはり祝いの会場だけあってその場は多くの人々で込み合っていた。その様子にエレナはフードを被り直しシェルンの手を取ると人混みを掻き分けるように奥へと進んで行く。そして会場の隅の方に空いていた二人掛けのテーブルにシェルンを座らせ、自分はまた人混みの中へと消えて行った。暫くして戻ってきたエレナは小さな身体一杯に抱えてきた酒の瓶をドスンとテーブルにと置く。
「よし、今日は飲もう」
そう言って自分に向かいの席に座るエレナの姿を呆気に取られた様に見つめるシェルン。
羽目を外すと言えば酒を飲む。そんな生き方しかして来なかったエレナにとっては他に息抜きの方法が思い浮かばなかったとは言え、シェルンにして見れば余りにも今日のエレナの行動は突飛に過ぎた。
「今日のエレナさんは何処かおかしいよ」
「そうかな、たまにはこういうのもいいんじゃないか」
そう言いながら自分とシェルンの杯に酒を注ぐエレナ。
「それじゃあ、改めて新年に乾杯しよう」
エレナに促される様にシェルンは杯を手に取るとエレナと杯を重ねる。
「なあ、シェルン……」
エレナは言葉を捜す様に選ぶ様にゆっくりと口を開く。
「あんまり根を詰めすぎて身体を壊さないようにしないと、若いからって無茶は禁物だからな」
考えた挙句やたらと年寄り臭いことを言ってしまうエレナ。だがそこで初めてシェルンは今日の不可解なエレナの行動の真意に気づく。
そして不器用なエレナのこれまでの行動に自然と笑みが浮かんでしまう。普段余り表情を変えないシェルンにしては珍しいその姿にエレナは照れたように顔を背ける。
「そうだね、たまにはこんな日があってもいいよね」
シェルンは目を閉じると静かに耳を澄ませた。人々の喧騒の中詩人たちが奏でる演奏が微かに聞こえてくる。
照れた様に一人黙々と酒を飲み続けるエレナ。それ以降二人の間に会話は無い。だがシェルンにとってそれは本当に久しぶりの休日となった。
「有難う、エレナさん」
傾きかけた夕日を背にシェルンはテーブルに顔を埋ずめスヤスヤと寝息を立てて眠るエレナの姿にそう声を掛けるのだった。
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