第43話
アンゼルムの屋敷。その入口の扉が荒々しく開け放たれ数十人の男たちが広間へと雪崩れ込む。
だが男たちが予想していたような混乱は起きなかった。広い広間には人の気配は皆無であり、逆にその静まり返った静寂が不気味ですらあった。
「どうなってやがる……まさか嵌められた訳じゃねえだろうな」
広間を見渡していたイヴァンが疑うような眼差しで隣に立つアシュレイを見る。
確かにこの状況では多くの人数は割けないとは言え、アンゼルムの屋敷に警護の人間の姿が見えないなど考え難い事だ。事実、最後にイヴァンが屋敷に訪れた時には二十人近くの構成員たちが屋敷の警備に就いている姿を目撃していた。
「罠ならもうとっくに襲って来てるんじゃないかね、どうもにもきな臭えがもう此処まできちまったんだ、後戻りは出来ねえぜ、旦那」
イヴァンは何処か落ち着かない様子で周囲を窺っていたが、やがて半数の男たちに屋敷の捜索を命じると残りの男たちとアシュレイを連れ、二階に続く階段へと向かう。
「小僧、俺の目の届く範囲から離れるんじゃねえぞ」
イヴァンはそう後ろを歩くアシュレイに釘を刺す。
二階に上がったアシュレイたちはアンゼルムの寝室、広間そして護衛たちの控え室まで虱潰(しらみつぶ)しに捜索するが帳簿どころかアンゼルムの姿すら発見する事が出来なかった。
空き部屋となっていた室内を隈無く探していた……いや荒らしていた男たちの手が不意に止まり、その視線がアシュレイへと集中する。
まるで幽霊屋敷にでも迷い込んだしまったかの様な異様なこの状況に、男たちの困惑とそして苛立ちは最高潮を向かえていた。
「まさかてめえ、アンゼルムと手を組んで俺たちを担いだんじゃねえだろうな」
イヴァンがゆっくりと腰の剣へと手を伸ばす。
「おいおい、勘弁してくれよ、俺がアンゼルムを逃がして旦那たちをこの屋敷に誘い込んだとでも言うのかい、考えてもみてくれよ、そんな事をして俺に何の得が――――」
何の前触れも無くその瞬間は訪れた。
ドドドドッ――――っという炸裂音と共に屋敷全体が僅かに揺れる。
部屋の窓の外から勢いよく立ち昇る黒煙を目にし、男の一人が慌てた様に窓へと駆け寄ると外の様子を見て絶句する。
一瞬でアンゼルムの屋敷は炎に包まれていた。燃え盛る業火が一階の窓という窓を突き破り蛇の舌のようにその姿を覗かせている。
その光景を見たイヴァンたちはアシュレイへの詰問もそこそこに慌てて部屋を飛び出すと、吹き抜けになっている二階に廊下へと逃げ出していた。
一階の広間には火だるまになって絶叫を上げ走り回る男たちの姿。
地下に繋がる入口から吹き上がる炎が壁を伝い、一面を赤く炎の海に変える。
出火元は一ヶ所ではない。そして異常な火の回りの早さからもそれが人為的に周到に仕組まれたものであることは誰の目にも疑いようは無かった。
「これは一体どう言う事なのか説明しろ、小僧!!」
イヴァンはその凄惨な光景を目にし。今にも切り掛りそうな形相でアシュレイに詰め寄る。
「旦那、話は後だ、早く逃げねえと二階部分が崩れ落ちちまう」
炎は既に二階にまで迫っている。火勢を見ても屋敷が崩落するのは時間の問題であった。
周囲に立ち込める黒煙。アシュレイたちは階段を駆け下りるとまだ完全には炎に遮られていない広間を駆け抜け入口の扉へと急ぐ。
不意に開け放たれる扉。
扉から広間へと姿を見せる黒ずくめの男たち。その黒ずくめの男たちから放たれた何かがアシュレイの前を走っていた男たち身体に突き刺さる。
とっさにアシュレイは絶命し床に崩れそうになる男の背を掴むと、その身体を盾にする様に身を伏せる。
無数の風切り音と共に飛来するソレが男たちへと襲い掛かり、次々に男たちの命を刈り取っていった。
アシュレイの横に立つていたイヴァンの身体がぐらりと揺らぎ、無数のソレを身体に生やしたまま仰向けに床に倒れる。絶命したイヴァンの表情は、状況を掴めぬまま逝ったのであろう、驚きの表情を張り付かせたままであった。
息絶えた男の背から床に刺さるソレに視線を送るアシュレイ。
床に突き刺さっているのは直径十センチ程の棒状の物体。先端が鋭く尖ったそれは投剣と呼ばれる一般的な暗器の一つである。
傭兵たちの間でも護身用に用いられる事もあるが、それらを好んで使うのは……。
矢の様に襲い来る投剣の嵐が止む。既にアシュレイの周囲に立っている者の姿は無かった。
アシュレイは油断無く男の背中から僅かに顔を覗かせ、その元凶である黒ずくめの男たちの姿を見る。
炎に照らされ開け放たれた扉の前に立つのは五人。
たった五人。あれ程の投擲を五人で行ったとすればその技量は凄まじいと言うしかない。そして僅かに覗くその目を見てアシュレイは確信する。この男たちが訓練を積んだ暗殺者たちであると。
「面白い趣向であったろう、アシュレイ」
特徴的な声、しわがれた老人のようなその声にアシュレイには覚えがあった。
入口に立つ男たちが左右に道を開け、闇の様な漆黒のローブを纏いアウグスト・ベルトリアスがアシュレイの前へと姿を見せる。その手にはアシュレイたちが探していた帳簿らしき物が握られていた。
「俺は当て馬だったってことかい、アウグストの旦那」
「そうではない……こんな物などただのついでに過ぎん」
アウグストは手に持っていた帳簿を炎の中へと投げ入れた。投げ入れられた帳簿に瞬く間に炎が燃え移り塵にと変えて行く。
「貴様を気に入っていると言ったではないか、貴様が最後に見せる絶望……それを見る為だけにこうして舞台を整えたのだぞ」
「全ては出鱈目……始めから俺を騙していたってわけかい?」
「死んだ人間を生き返らせる魔法……肉体だけなら兎も角、魂まで復元するなどできよう筈もあるまい。魔法とは貴様が考える程万能なものでは無いのだよ」
アウグストの言葉に項垂れるアシュレイ。
バチバチと炎が立てる音だけが周囲に響く。
だが面を上げたアシュレイの顔に……その瞳に絶望の色など微塵も無かった。
「有難うよ旦那、これで……これで本当に吹っ切れたぜ」
アシュレイとて死者を……アトリを生き返らせる魔法が存在すると本気で信じていた訳ではない。
信じていた訳ではない……信じたかっただけだ。
アシュレイと妹のアトリはこのライズワースより遥か北。極寒の地にある鉱山の街で生まれた。
父親の顔をアシュレイは知らない。娼婦であった母親が誰とも知らぬ男との間に出来たのがアシュレイであった。
何故母親がそんな子供を生んだのか……それは労働力として男手は金になるからだ。だがら同じようにまた身篭った母親が、生まれた子供が女だと知ると直ぐに山へと捨てに行こうとするのはアシュレイには予測できた行為であった。
当時十三歳であったアシュレイは母親を止め、自分が二人分働くと約束することで母親を思い留まらせる。その子を捨てれば自分も家を出るという脅しに近い説得と、当時もう娼婦としての旬が過ぎていた母親の危機感がその背景にはあったのだろう。
アシュレイはその赤子にアトリと名づけ、それからのアシュレイの生きる全てとなる。
それから十二年。アシュレイはアトリの為に昼間は炭鉱夫として、夜は娼婦たちの用心棒の真似事までして母親とアトリの生活を支えていく。
アトリが十二歳の誕生日を迎えた日、母親は酒に酔った男と酒場で銅貨二枚程度の貸し借りのいざこざが元で男に刺されて死んだ。
当時オーランド王国が起こしていた戦乱の嵐は貧困とそして疫病を蔓延させていた。元々身体の弱かったアトリはその疫病に感染してしまう。
アトリの感染を知った街の住人たちは感染の拡大を恐れ二人の家に火を放ち、石を投げつけ二人を追い立てるように街から追い出した。
街を追い出された二人は極寒の地である北の果てで路頭に迷いながら、やがて見つけた山小屋で生活を再開させることになる。
それからのアシュレイは人を信じず、騙し、奪いそして金の為に殺した。
だがそれから半年、アシュレイの献身的な看病も実らず、アトリは十三歳の誕生日を迎える事無く短い生涯を閉じる。寂しい山小屋でただ一人アシュレイに看取られて……。
それから一年。アシュレイは生きる目的も無くただ生き続けてきた。だからこのライズワースでアウグストと出会い、その話を聞いた時アシュレイが抱いたのは希望。
人を信じず騙し続けてきたアシュレイが最後に縋ったのは虚飾に彩られた虚言であったのだ。
アウグストから真実を聞かされた時、過ぎったのは諦めと脳裏に浮かぶ顔すら知らぬ少女の顔であった。
覚悟していた程の落胆も後悔もそして怒りすらも不思議と湧いてはこなかった。アシュレイ自身恐らく気づいてはいない。僅か数日過ごしただけのその少女との生活がアシュレイの心境に大きな変化を与えていたことに。
早くあいつを探して、名前を聞かなくちゃな……アトリ・ベルトーニはもういねえんだから……。
「悪いなアウグストの旦那、絶望なんてもんは当の昔に嫌って程味わってるんでね」
アシュレイは男の背に隠れたまま数歩後ろへと下がり……男の背から離れると炎が渦巻く通路へと身を躍らせる。
炎の中に消えるアシュレイの姿をアウグストは暫く眺めていたが、やがて踵を返すと燃え盛る広間に背を向けた。
「下らぬ顔をみせおる……とんだ興ざめであったな、もうよい……見つけ次第殺せ」
アウグストの言葉を受け黒ずくめの男たちも何の躊躇いも無く炎の中へと身を投じていく。
アウグストが屋敷を出た瞬間、轟音を立て屋敷の二階部分が崩れ落ちる。アウグストの背に焼け落ちるアンゼルムの屋敷が嫌な音を立て軋む。それはまるで断末魔の絶叫の様に周囲に響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます