第20話


 エレナはギルドの二階にある自分の一室で目が覚めた。

 寝台から上半身を起こすと軽く右腕を振ってみる。既に身体には痛みも違和感も無い。

 あの戦いの翌日には意識は戻ったものの、まともに身体を動かせるまでに回復するのに三日。それはエレナの経験の中でも最長の期間であった。どうやらあの時の状態は今までで一番際どいものだったようだ。

 あれからの二日間は双刻の月としても激動の日々で合った。

 エレナの看病の為寝ずの番をしていたレティシアとシェルンに代わり、カタリナが全ての矢面に立って大活躍だったとレティシアが少し可笑しそうに笑っていたことを思い出す。

 緘口令が敷かれていた討伐戦のことは後に協会と王国が合同で正式に公表し、事の経緯に始めは戸惑いを隠せない様子を見せていた市民たちも、上位危険種である穢れし殉職者討伐の吉報の知らせにライズワース中が歓喜に沸いていた。

 だが討伐に参加した上位序列者五十名の内生還したのは僅か七名。つまり大半の者が穢れし殉職者との戦いで命を落としていた。そのことからもあの討伐戦がどれ程過酷なものだったのかは容易に想像がつく。

 エレナたち双刻の月と砂塵の大鷲が合同で討伐したもう一体に関しては協会から厳重な、カタリナ曰く脅しに近い申し出により一切の公表は控えられ協会の秘匿事項となったようだ。

 その対価なのだろうか。双刻の月のギルドランクは一気に七十二位にまで引き上げられ、そして討伐報酬に関しても通常の倍額が協会から支払われていた。

 そしてレティシアとシェルンが晴れて序列持ちになった事が双刻の月にとっては何よりの吉報だろうか。

 レティシアの序列は百七十位。シェルンが二百三十位。

 上位危険種を討伐した者に与えられるには些か序列が低い気もするが討伐の事実が伏せられている以上、この辺りが協会としても譲歩の限界だったのかも知れない。

 とはいえ序列圏外からのここまでの繰り上げは十分異例であり、協会の誠意を感じさせる配慮であった事は間違いない。

 エレナ自身も欠番となった序列三十位という破格の打診を受けてはいたのだがそれを断っていた。

 確かに序列者に与えられる恩恵の中には魅了的な面も多いがそれは同時に責任と義務が発生することも意味している。

 今のエレナにとってそれらは大きな枷となる。それに来年の夏前に開催される剣舞の宴まではなるべく悪目立ちしたくないという思いもあった。

 とはいえこれで双刻の月は構成員三名とはいえ二人が序列持ちとなり、弱小ギルドの汚名は返上できそうである。


 エレナの部屋の扉が控えめに数度小さく叩かれレティシアが部屋の中へと入ってくる。その手には湯浴み用だろうか湯が入った小さめの桶と清潔な布地が見える。


 「良かった起きてたのねエレナ」


 レティシアは桶をテーブルに置くとエレナに向き直り微笑み掛けた。


 「もう体は大丈夫そうです、心配掛けて済みません」


 「そんな事気にしないで、シェルンも私も好きで看病していたんだから」


 済まなそうに謝るエレナにレティシアが大きく手を振る。だがエレナの視線がテーブルに置かれた桶へと移るのに気づくと少し慌てた様子を見せる。


 「あの……酷く汗も掻いていたようだから身体を拭いたほうがいいと思って……」


 確かにギルドに戻ってからこの三日間湯浴みをしていない。服だけは何度かレティシアに手伝って貰い着替えてはいたが、いわれて見れば汗の不快な感覚が肌に絡み付いているような気もする。

 戦場で過ごす日々が日常であったエレナにはそうした事に余り頓着がなかったのだが、考えてみれば今は少女の身体なのだ。周囲がそれを気にするのも無理はない。

 自分は汗臭かったのだろうかとエレナは思わず自分の身体の臭いを嗅いでしまう。

 くんくんと鼻を鳴らして臭いを嗅いで見るが特に強烈に臭うというわけではなさそうなのだが、得てして本人は自分の体臭には気づきにくいものだ。そう考えるとエレナは少し恥ずかしくなってしまった。


 「別にエレナが臭うってわけじゃないのよ!! というか寧ろ凄く良い匂いがして……てそうじゃなくて……あの……」


 寝台で自分の身体の臭いを気にして頬を赤らめる少女の姿に、レティシアは慌てて誤解を解こうとするが気が動転していた為、自分でも良くわからない事を口走っていた。


 「有難うレティシアさん、早速身体を拭かせてもらうよ」


 エレナはレティシアの気遣いに感謝しながら寝台から降りると自分の服へと手を掛ける。しかしエレナが服を脱ごうとしている様子をレティシアは部屋を出て行く様子を見せず見つめている。それを不思議に思ったエレナの手が止まる。


 「その……背中……私が拭いてあげましょうか、拭きにくいでしょうし……」


 何故か俯いて視線を合わせないレティシアの姿にエレナははたと気づく。

 エレナにとってレティシアは妹のようなもの。しかしレティシアから見ればエレナは歳の離れた妹も同然なのではないか。

 女性とは兎角世話を焼きたがる生き物だと誰かも言っていた。恐らくレティシアもそういう年頃なのだろうとエレナは思い至る。


 「じゃあ、お願いしようかな」


 そういうとエレナはレティシアに背を向け徐に上着を脱いだ。

 突然目の前に露になった少女の穢れの無い雪のような背中にレティシアの胸の鼓動が早まる。血が逆流してしまったかのように頬が真っ赤に染まっている。

 レティシアはこのままこの少女の身体を後ろから抱きしめてしまいたいと思う沸き起こる強い欲求と戦っていた。


 (駄目よレティシア……我慢しなきゃ……)


 必死にそう自分に言い聞かせる。

 もしここでそんな真似をすればエレナに嫌われてしまうかも知れない。嫌われるまではいかずとも確実に変な女だと思われるだろう。それだけは絶対に嫌だった。

 レティシアは緊張した面持ちでお湯に浸し搾った布を手に取ると、少女の背中をまるで壊れ物でも扱うかのように慎重に拭いていく。


 「エレナ、痛くないかしら?」


 「とても気持ちいいですよ」


 そのうっとりとしたような少女の言葉にレティシアの心が震える。もう溢れる想いを抑えられそうになかった。

 レティシアは無意識に少女の細い腰に腕を回すと強く抱き寄せる。そしてその小さな背中に頬を寄せた。

 少女の身体が一瞬震え強張るのが分かる。


 「ごめんなさいエレナ……嫌いにならないで……」


 自分のしたことに戸惑い後悔しながらもレティシアはその腕を放そうとはしなかった。


 「嫌いになるなんてそんな事ある筈無いじゃないですか、レティシアさんは大切な人なんですから」


 自分の想いに答えてくれたかのような少女の言葉に感極まりレティシアの瞳に涙が滲む。


 「エレナ……大好きよ……」


 「私も大好きですよ レティシアさん」


 エレナも恥ずかしげにそう言った。もっともエレナの大好き……はその言葉の前に家族の様に、もしくは仲間として、と付くのだが……。

 エレナにしてみれば無茶をする妹に感極まった姉の行動だと勝手に推測していた節があり、当然レティシアの方にしてみれば異性……この場合その表現で合っているかは分からないが、としてである。

 二人は互いに大きな思い違いをしていたのだが、それを指摘できるような人間はこの場にはいない。

 そうしたエレナの意識のずれがちょっとした騒動に発展することになるのだがそれはもう少し先の話である。

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