第14話
ギルド双刻の月。その別棟で一人剣を振り続ける少年の姿があった。
他に人の気配がないその場には、ただ少年が振るう剣の空気を震わせる音のみが木霊する。
もう半刻以上休む事無くただ剣を振り続けるシェルン。既にその回数は数千回にまで達しようとしていた。
全身から滝のように流れ出す汗がシェルンの服を濡らしている。その姿はまるで雨にでも打たれていたかの様な様相を呈していた。
「随分と精が出るじゃないか」
不意に掛けられた少女の声にシェルンの手が止まる。
集中し過ぎていたのだろう。シェルンは近づく少女の気配に気づけなかった。
声の方に目を向けると自分の背後に立つ黒髪の少女の姿が目に映る。
シェルンの周りには姉であるレティシア、そしてカタリナと美しい女性が多い。それ以外でも着飾った貴族の令嬢や姿見が美しい女性たちを多く見てきた。
だが彼女エレナ・ロゼはそうした煌びやかな女性たちと比べても明らかに別格の存在だ。
澄み切った夜空のような長い黒髪と黒い瞳。初雪のような汚れの無い透き通る様な肌。儚さすら感じさせる繊細な身体のラインに女性が持つ色香を併せ持つ整った肢体。
それは人というよりも完成された芸術品と呼ぶほうが相応しいかも知れない。
「僕に何か用?」
そうした感情を悟られないよう、殊更抑揚のない声で答える。
「君の努力には感心しているんだよ、その歳で自分を偽って生きるのは大変だろう?」
少女の言葉に一瞬動揺が表情に出そうになるがシェルンはそれを強引に押さえ込む。こうして感情を制御する事はシェルンにとってはいつもの事だ。
「僕が何を偽っているというのかな」
「気づかない? いや……それすら演技なのかな、そんなに他人に自分の弱さを見せるのが怖いのか?」
「怖い? 僕が何を恐れていると?」
「さぁね、お前の事情なんか俺は知らないよ、俺に分かるのはお前が気に食わないってことだけだ」
少女の小さな口元がシェルンを嘲笑うかの様に歪む。
「君こそ、その口調……猫かぶりは止めたのかい」
「それは当然相手に寄るさ」
つまり自分にはその価値がないとでもいいたいのだろうか。自分を小馬鹿にしたような少女の態度に我知らず自尊心を傷つけられ、シェルンの中に怒りの感情が込み上げて来る。
「自分を大切に想ってくれる人たちを悲しませて、傷つけて、それに気づかない振りを決め込んだまま目を背け続ければいいさ。だけど断言してやる、お前が最後の瞬間思い起こすのは後悔だけだ」
「知ったような口を……聞くな」
シェルンの仮面が外れる。少女を睨むシェルンの瞳に宿るのは明確な敵意だ。
「手合わせをしようかシェルン。お前が勝ったら俺を好きにしていい。何でも言う事を聞いてやるよ、ただし俺が勝ったらこれから二度と俺の指示に逆らうな」
「後悔しても……知らないよ」
シェルンは息を整え少女へと向き直る。だが少女は動かない。
「真剣でやろうか、その方がお互い本気でやれるだろう?」
「正気とは思えないね」
シェルンも彼女の実力は知っている。そんな彼女と真剣でやり合えばそれはもう殺し合いと変わらない。流石に刃傷沙汰に発展するまでやり合うつもりはシェルンには無かった。
「じゃあこうしよう」
少女は細い指を一本シェルンに向けて立てて見せる。
「一太刀、一太刀でも俺の剣を受けられたらお前の勝ちでいいや」
「どこまで……」
この少女はどこまで自分を馬鹿にすれば気が済むのだろうか。
(この生意気な少女の泣き顔を見てみたい)
怒りと同時にシェルンの中にそんな暗い感情が芽生える。
シェルンは無言のまま模擬刀を隅に投げ捨てると、壁に立て掛けていたエクルートナを手に握る。
それを見て少女も自身の双剣を抜き放った。
「教えてやるよ、お前が頼るその剣が、その強さがどれ程脆いものかを、そしてその身体に刻め、剣撃の極致に至る遥かなる高みってやつをな」
少女は両手を無造作に広げる。構えと呼ぶには余りに奔放なその姿に、だがシェルンの額から冷たい汗が一筋流れる。
理屈では無い。本能が告げるのだ。自分と少女との圧倒的な力の差を。
底冷えするような圧力がシェルンを包む。少女が発する雰囲気にシェルンは飲み込まれていた。
少女がシェルンへと駆ける。
その少女の動きにシェルンはエクルートナを眼前で斜めに構える。
(彼女の速さは知ってる。まずは初撃を受け止めて――――)
全神経を集中していたにも関わらず彼女の右手が霞む様に消失する。いや消えた分けではない。シェルンには捉えきれない速度でそれは迫る。
(馬鹿な――――!!)
自分の反応速度を遥かに超えたその斬撃にシェルンの思考が止まる。
少女の左手の長剣は既にシェルンの首筋へと迫っていた。
どう回避してもその連撃をかわせないと悟ったシェルンの脳裏に浮かぶのは――――。
後悔だった。
シェルンには本当の母親の記憶が無い。シェルンが三歳の時に流行病で急逝していたからだ。
そんなシェルンにとっては父の後妻となった女性は本当の母親と変わらない存在であった。
姉のレティシアは少し複雑であったようだが、シェルンはまったく抵抗なくそれを受け入れることが出来た。
彼女は血の繋がらない自分を実の子の様に愛してくれた。
彼女が家に来てからの数年間は本当に幸せだった。
全てが変わってしまったのは彼女が父の子供を身篭り、その子が男子であると分かってからだ。
その日から彼女は……母は自分を避けるようになった。
父の前では変わらぬ笑顔を見せる母。だが自分を見る眼差しは他人を見るような余所余所しいものに変わっていた。
それでも母を愛していた。嫌われたわけではないと信じたかった。
姉と母の確執は決定的では合ったが、自分が家督を継ぐことで全てが元に戻るかも知れないなどと夢を見ていたこともある。
だが半年前、父が災厄で命を落とすと全ては崩壊した。いや本当はもうとっくに終わっていたのかも知れない。自分がそれに気づけなかっただけだ……。
父の死後から直ぐ、立て続けに自分を襲う事故が母の差し金に寄るものだったと……自分の料理に毒を仕込んだのが母自らだと姉から知らされた時に味わった絶望は言葉には表せない。
愛されていなくても良かった。
嫌われていても構わなかった。
だが自分は憎まれていたのだ。自らの手を汚すことさえ厭わぬ程に自分は母から疎まれていた。
その事実を知った次の日、母に家督を放棄する事を告げた。
母は喜んでくれた。あんな笑顔を向けられたのはもう何年振りになるだろうか。
だからその時決めたのだ。もう誰にも頼りなどしないと。
誰かに何かを期待するような弱い自分はもう御免だ。何を犠牲にしても強くなると――――そう決めたのだ。
迫る双剣をシェルンは呆然と眺める。
(こんな下らない賭けで僕は死ぬのか……)
だがシェルンの胴を斬り裂く長剣の軌道が変わる。軌道を変えた長剣はエクルートナを高々と宙に弾き飛ばした。左手の長剣もシェルンの首筋を捉える前に引かれている。
腰を落とし見上げる少女の黒い瞳がシェルンの瞳に映り込む。
少女の両手が動く。
凄まじい斬撃の嵐がシェルンを襲う。シェルンに軌道すら捉えさせないその連撃は圧倒的な力で全てを蹂躙するまさに暴風(テンペスト)であった。
激しい嵐の中に身を置いた様に身動ぎ一つ出来ないシェルンの足元にエクルートナが突き刺さる。それを合図のように激しい斬撃が止む。
シェルンの身体には傷一つ付いていない。だが体の力が抜けたようにシェルンはその場に両膝をついていた。うなだれるシェルンの瞳から涙が溢れる。
少女が荒い息をつきながらそんなシェルンを覗きこんだ。
(まただ……また僕は……)
母の冷たい蔑むような視線がシェルンの脳裏を過ぎった。
「なんだ、少しはましな顔が出来るようになったじゃないか」
そう言い、少女は笑った。それは屈託のない美しい笑顔であった。
少女はシェルンの頭に右手を乗せると、そっとその身体を抱きしめた。
少女の柔らかい感触がシェルンを包みこむ。とても暖かなその温もりにシェルンの中で何かが溢れ止まらない。
声を出し泣くシェルンを少女は優しくその頭を撫でてやる。
「いいさ好きなだけ泣けばいい、自分の弱さと向き合って認めてやれれば、きっと自分を大切に想ってくれる人たちの気持ちにも気づける様になる。そうなれば後は簡単だ、その人たちを守れる強さをまた一から探していけばいい」
少女の言葉にそっとシェルンが頷くのが見えた。そして躊躇うように少女の身体に両腕を回す。
「大切な者を失う前にちゃんと言葉にして感謝を伝えておけよ、失った後ではもうその声は届かないのだから……」
寂しそうに天を仰ぎ少女はそう呟いた。
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