第12話
街道を疾走する騎馬はエレナたちに気づくと速度を落とす。
「君たちはギルドの者か、この先に行っては駄目だ!!」
騎馬に乗る男はエレナたちの武装を見て馬上から叫ぶ。
男の必死の形相に戸惑う三人。
よく見ると男の後ろにはもう一人、怪我人だろうか馬の背にもたれる男がいる。
「詳しく話してくれませんか」
エレナは男を落ち着かせようと殊更冷静に話しかける。
だがやはり相当慌てているのか男の話は中々要領を得ない。この先に行くなの一点張りである。
風が流れエレナの鼻腔に異臭が届く。その臭いにエレナの額から冷たい汗が滲む。
エレナにとって生涯忘れることなど出来ないであろうその臭いは間違い無く腐臭であった。
「まさか……穢れし殉職者(アンダーズ・ペイン)……」
忌まわしき記憶と共にその名を呟く。
「奴が……奴のせいでこの先の村々はもう駄目だ……」
男の顔が恐怖に歪む。いや男だけでは無い。その名にレティシアの顔も蒼白となっている。シェルンの表情は変わらないものの無意識に握り締めた手が小刻みに震えていた。
穢れし殉職者(アンダーズ・ペイン)。
中央域から出る事の無い特定危険種を除けば協会が定める危険度の最上位に位置する最悪の魔物の一体。それが穢れし殉職者。
その名と共に人々を恐怖に震撼せしめるのはその特性故だろう。
穢れし殉職者は死を運ぶ者。その身に腐食の呪いを纏う死神。
穢れし殉職者に触れられた者はその呪いを受け、触れられた箇所から急速に腐っていくのだ。まずは全身が腐りそして最後は臓器にまで至る。
その侵食速度は早く、死に至るまでに一時間といわれているが、呪いを受けた者の大半が生きたまま腐っていく自分の姿に数分で発狂してしまう。
幸いといえるのだろうか、この呪いは呪いを受けた者から他者には感染しない。
もしこの呪いが無差別に拡散するものであったなら、間違いなく穢れし殉職者は特定危険種に指定されていただろう。
そして余りにこの腐食の呪いが凶悪過ぎて目立たないが、穢れし殉職者の驚異的な身体能力の高さから生じる圧倒的な戦闘能力は、最早人間の常識の範疇を遥かに越えている。
エレナはかつてこの魔物を三体討伐することに成功している。だがそれは三回挑んで三度成功したという分けでは無い。
三体の穢れし殉職者を討伐するのにエレナは二十数回に渡り挑んでいるのだ。
中でも最初の数回は特に辛酸を舐めさせられていた。
災厄当初はまだ当然協会など存在しない為、各国が独自に調査を進めていたのだがやはり情報量が圧倒的に不足していた。
そうした中、初めてこの魔物に相対したビエナート騎士団千五百名は凄惨な末路を辿ることになる。
戦いとも呼べぬ一方的な虐殺の末、壊走した騎士団の中で生き残れたのはエレナを含め僅か数十名であった。
たった一体の魔物に精強な騎士団がまるで相手にすらならなかったのだ。
腐食の呪いが齎した恐慌は確かに大きかったが決してそれだけが理由ではない。他の魔物とは純粋な強さという点で次元が違い過ぎるのだ。
エレナが討伐に成功した三回の内、一度目はビエナート騎士団の中でも最精鋭と呼ばれた騎士たちと共に、後の二回は各国で最強の冠を戴く歴戦の者たちと共にだ。
エレナにとって穢れし殉教者は災厄の記憶と共に思い出される忌まわしき名であった。
「連れの方を降ろして貰えませんか」
「それはどういう了見で言っているんだ嬢ちゃん」
「私にその方を送らせて下さい」
彼が呪いを受けてからどれくらい経っているのかは分からないが、ここからライズワースまでどんなに急いでも半刻は掛かる。残念だがもう解呪は間に合わないだろう。
「本気なのか嬢ちゃん……」
男は目を見開き、エレナの美しい黒い瞳をまじまじと見つめる。神秘的なその瞳の輝きに魅せられた男は次第に冷静さを取り戻していった。
「済まない……」
男は搾り出すような苦痛に満ちた声でエレナに呟くと黙って後ろの男を地面に降ろす。
間近で見たその男の姿に思わずレティシアは手で口元を押さえ顔を背けてしまう。レティシアが直視できぬ程、男の状態は酷かった。
既に顔の半分を残し、服から見えている肌の全てが腐りかけている。顔の右半分が腐り右目は腐って落ちたのだろうか、そこには空洞があるのみだった。残された左目は固く閉ざされ、口元からは苦しげなうめき声だけが漏れていた。
エレナは男から漂う濃厚な腐敗臭を気にする様子すら見せず、その顔の横に膝をつくと、何の躊躇いも見せず男の腐った右手に自分の両手を添えると優しく握った。そしてその耳元へと自身の顔を近づける。
「意識はありますか?」
エレナの声に反応するように男はゆっくりと残された左目の瞼を開いた。男の虚ろな瞳にはまだ理性の輝きがあった。
恐らくは呪いを受けて直ぐ意識を失っていたのかも知れない。その為に発狂を免れたのだろう。だがそれが彼にとって幸運なのかは分からない。
いっそ狂ってしまった方が楽だったかも知れないのだから……。
「私の名はエレナ・ロゼ。貴方を送らせて下さい」
耳元で囁くエレナの言葉に男は全てを悟ったのか僅かに口元が動く。
「あんたみたいな子に……見届けて貰えるなら……悪くないな……」
最早感覚すらないであろう男の右手が自分の手を僅かに握り返したような気がした。
「もし……また出逢えたら……その時は食事に……誘っても……いいかな……」
「ええ、喜んで」
エレナが男に笑いかける。
その少女の笑顔を瞳に焼き付ける様に男はしばらくエレナを眺め、やがて満足そうに瞼を閉じた。
エレナは男の手を離し立ち上がると腰の長剣を引き抜く。
そして男の首筋へと一閃させる。
最後に残した男の言葉を虚勢と哀れむ者もいるかも知れない。だがエレナは決してそうは思わない。
死に瀕し、絶望を前にして尚、女の前で男の意地を通せる彼の姿をエレナは誇り高いと感じた。
エレナは長剣の切っ先を足元に向け、剣の柄を自身の胸元に押し当てる。
「願わくば勇敢なる魂に平穏を」
それはビエナート王国の騎士が同胞を弔う為に行う騎士の礼であった。
その声に哀愁の色は無い。
込められたのは祈り。
少女の願いが風に乗り天へと舞う。
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