第9話

 のどかな田園地帯をゆっくりと荷馬車が進んでいく。


 荷馬車の御者台には夫婦らしき男女の姿があり、荷台には黒髪の少女とまだ幼い子供たちがはしゃいでいる姿が見られる……服装から見ても近隣に住む農家の住民たちだろうか、其処には今は失われて久しい当たり前の家族の風景があった。


 ライズワースも都市部を少し離れればこうした田園地帯が広がる区画が存在する。


 災厄後の大陸では嗜好品は兎も角として食料品、主に主食ともなる小麦の確保は各国の最重要の課題となっている……自給自足が可能な食物の生産は不安定な輸入に国民の食を委ねる訳にはいかぬ以上、或る意味当然とは云えた。


 だが一方で年間を通して雨量の多いファーレンガルト連邦のような南方の諸国は、小麦の育成には環境が適さず食文化を根幹から転換せねばならないという苦渋の選択を迫られている国々もまた同時に存在する。


 そんな大陸の情勢下にあって寒暖の差が少なく、種を撒く秋口の雨量が少ないオーランド王国は元々が小麦の一大産地として知られ、災厄後の現在でもこのライズワース内での田園を中心として、小麦の自給率は百パーセントを越えていた。


 王都ライズワースを中心に近隣の地方一帯を堅牢な外壁で囲まれたオーランド王国は大陸で唯一、魔物に怯える事なく農作業に勤しむ事が出来る恵まれた環境下にあると云っても過言ではない。


 肌寒い秋の風が少女の黒い長髪を靡かせ――――そんなかつては当たり前であった風景をエレナは荷馬車の荷台から眺めていた。


 どうしてエレナがこのような場所にいるかといえば話は二日前に遡る。


 ギルド「双刻の月」。


 女性に手渡された紙に記されていたそのギルドの名をエレナはギルド会館で貰った本の一冊に記述されていたギルドの名簿の中から調べ、分厚い本の最後の方でやっとその名を見つける事に成功していた。


 双刻の月 ギルドランク百五十三位。

 キルドマスター レティシア・メルヴィス。

 ギルド構成員 二名。


 簡単なギルドの紹介にはそう記され……そしてこれは職員が書き足したのであろうか、明らかに本文とは違う字体で要指導、と書かれていた。


 あの女性がレティシアという人物なのかは分からないが、エレナにとってギルドマスターが女性というのは実に都合が良く、所属するギルドを探していたエレナにはそれだけで十分に出向く価値の有る理由となっていた。


 エレナがギルドに所属する上で最大の問題は、そのまま傭兵として抱えている問題と誤差無く一致する……だがギルドマスターが女性ならば他のギルドよりは加入できる可能性は高いのでは、と思えたのだ。


 やはり男社会であるこの稼業は女性の絶対数は少ない……勿論、そう単純に話は進まぬだろうが、僅かでもそうした状況の中で同性という事で親近感を持って貰えれば……と期待していないかと云えば嘘になる。


 エレナにとってギルドランクの順位など正直どうでも良かった……目的の大会である剣舞の宴の参加資格さえ手に入るのならばどんなギルドでも構わなかったのだ。


 今更名声なども求めるつもり無いエレナには、目立たぬ下位のギルドである『双刻の月』は寧ろ都合が良く理想的とすら云え……ゆえに今エレナはそのギルド『双刻の月』を訪ねる為に遥々こうして足を運んでいたのだ。


 「有難う御座いました」


 と、道中親切に此処まで乗せてくれた農家の若夫婦にお礼を述べ、荷馬車を降りたエレナは、去ってゆく荷馬車の荷台から自分に手を振る子供たちに手を振り返しながら荷馬車を見送ると、本に記載されていたギルドの所在地へ向けて歩みを進める。


 暫く道沿いを歩くエレナの視界に、点々と存在する民家であろう周囲の家々とは明らかに作りが異なる……一見してそれと分かる建物が見えて来る。


 随分と不便な場所にあるんだな――――。


 と、それがエレナの偽らざる第一印象であった。


 ギルドの性質を考えても、都心部に、とは云わずともそれなりに利便性が……交通の便がある場所に建てた方が良かったのでは……などと要らぬ心配をしてしまうエレナであったが、直ぐにギルドの財政はランクに寄って異なる事を思い出し……納得する。


 つまりはそういう事なのだろう、と。


 建物に近づくにつれ、その入口を掃除している人影が目に入ってくる。

 そしてその人物は間違いなくギルド会館で出会った女性であった。


 「あの……」


 掃除をしている女性に歩み寄り声を掛けると女性はエレナを見て暫く動かなくなる……こうした反応は最早、通過儀礼になっていたのでエレナも特に気にならなくなっていた。


 エレナの姿を羨望にも似た眼差しで魅入っていた女性は、目の前の少女が少し困った様な表情を浮かべている事に気づくと恥じ入る様に視線を逸らし、直ぐに何か思い当たったのだろうか、ぽんっ、と軽く手を叩く。


 「もしかして、この前のお嬢さん?」


 「はい、その節はお世話になりました」


 自分の事を覚えていた女性にエレナは内心で胸を撫で下ろし、あの時の謝意を改めて女性に告げる。


 「随分綺麗なお嬢さんだったのね……御免なさいね、ちょっと驚いてしまって……」


 あの折の自分は外套を纏い顔が隠していたのだから寧ろ女性が戸惑うのは当然であり、恐らく声で察したのではあろうが、直ぐにあの時の少女と今の自分が同一の人物であると気づいた女性の洞察力……或いは感の鋭さにエレナは感心していた。


 女性はエレナの背後に視線を送り誰かを探している様子を見せる……恐らくは共に訪ねて来たであろう家族の姿を探しているのだろう。


 「実はギルドに参加したいのは家族では無く私なんです」


 と、切り出したエレナの言葉に女性は一瞬目を丸くし……予想した通りの反応を示す女性の姿にエレナは内心苦笑してしまう。


 「そう……なの、取りあえず立ち話もなんだし、中にどうぞ」


 内心ではかなり困惑しているのだろうが、まさか此処まで一人で訪ねて来た少女を門前で追い返す事に気が咎めたのであろうか、女性はエレナを敷地の中へと招く。


 女性に促され建物の中へと案内されるエレナであったが中を歩く内に直ぐに或る事に気づいた。


 郊外特有の比較的広いその建物には余りにも生活感が感じられず……ギルドの建物だというのに二人の他に人の気配も無い。


 本に記載されていた職員の走り書き、要指導と云う文字がエレナの脳裏に浮かび……あれがいつ書かれたものなのかは定かではないが、どうやら余り改善されている様子は見受けられないな、などと甚だ不躾な事を考えてしまうエレナであった。


 建物の一階の中程、応接室のような場所に通されたエレナは其処で待たされ……暫くすると紅茶と菓子が添えられた皿を持った女性が戻ってきた。


 「遅くなってしまったけれど私がこのギルド『双刻の月』のギルドマスターのレティシア・メルヴィスです」


 と、エレナに紅茶を勧めながら女性……レティシアは改めて告げた。


 「私はエレナ・ロゼ。事情があって剣舞の宴の参加を目指しています」


 「エレナさん、ええと……エレナって呼んでもいいかしら?」


 エレナが頷くのを確認してからレティシアは言葉を続ける。


 「エレナはギルドについて詳しくないようだから確認するのだけど、ギルドに参加するという事がどれだけ危険を伴う事なのかは分かっているのよね?」


 「言葉にすると酷く軽く聞こえてしまうかも知れませんが、命を懸ける覚悟はしています」


 エレナの言葉に少し悲しげな表情を浮かべるレティシア。


 「こんな言い方は気に障るかも知れないけれど……エレナ、貴方ならきっと女性として別の幸せを見つけられるのではないかしら。どんな事情があるのか……私には分からないけれど、もう一度良く考えてみて。貴方の様な子がこんな世界に足を踏み入れるべきでは無いわ」


 レティシアの答えは漠然と、そして遠回しではあったが否定である事には変わらず……だがそれがエレナを思っての発言である事はその言葉の節々からも感じとれた。


 「心配して貰えるのは嬉しいのですが……レティシアさん、それでも私は進む道を曲げる気はありません」


 主張を変えぬエレナを前にレティシアは悲しげに口を閉ざし――――二人の間に沈黙が流れる。


 考えていた通りにはいかないものだな、とエレナは半ば諦め、内心で溜息を付く。


 見た目はどうあれ傭兵たちを束ねるギルドマスターとはもう少し気の荒い女性を想像していたのだが、どうやらこのレティシアという女性は見た目通りの優しい女性のようだ、と。


 軽んじられたり、見下される事にはエレナは慣れていた……ビエナート王国の騎士だった頃に何度となく体験し経験して来たゆえに、そういった人間たちとどう接すれば良いのかは嫌というほど学んできている。


 しかし同じ否定の意味だとしても、その身を案じられる事には不慣れなエレナは、こういう時どう切り返していいのかが思いつかない。


 エレナがそう諦め掛けていると不意に応接室の扉が開かれた。


 「まったく貴方はどうしてそう性急に答えを出そうとするのですか」


 開け放たれた扉から別の女性が姿を見せる。


 歳はレティシアと同じくらいであろうか、髪を結い、眼鏡を掛けた彼女の姿はどこか知的で落ち着いた雰囲気を感じさせる女性の姿であった。


 「立ち聞きなんて趣味が悪いわよ」


 レティシアがその女性に非難の眼差しを向ける。


 「失礼ですね、私が通り掛かったらたまたま応接室から話し声が聞こえてきただけですよ」


 レティシアの抗議に女性はすました顔でそう答えると、彼女の隣の席へと座る。


 「初めましてエレナさん、私はカタリナ……カタリナ・ミューズと申します」


 カタリナはエレナを直視すると眉一つ動かす事無くそう告げた。



              ▼▼▼▼



 エレナへの自己紹介を済ませたカタリナは、その場を仕切り直そうとする様に一度横に座るレティシアを咎めるかの如く眼差しを向け……しかし直ぐにそれは教師が教え子を諭す様なモノへと変わっていく。


 「レティシア、エレナさんは一人で此処まで来たんですよ……それも昨日今日会ったばかりのよく知りもしない貴方に会いにです。それだけでも彼女の覚悟は察せられます。貴方が此処で断ればきっとエレナさんは別のギルドの門戸を叩くでしょう。それではお互い何も得はしませんよ」


 其処で一旦言葉を切ったカタリナは、思案げな表情を見せているレティシアからエレナへと向き直る。


 「エレナさん……貴方に事情がある様に私共にも少々込み入った理由がありまして……エレナさんがギルドに入って頂けると非常に助かるのです。どうでしょう、お互いの利害は一致しているようですし我々『双刻の月』に参加頂けますか?」


 自分の意向を無視してエレナを勧誘するカタリナに、しかしレティシアは複雑な表情を浮かべるが口を挟む素振りは見せず、それがレティシアの胸中の迷いとカタリナへの信頼ゆえに揺れ動いている感情の変化が垣間見えた。


 「勿論です……覚悟は先程述べた通りですし、元々は此方からお願いしている事です。是非参加させて下さい」


 自分にとって追い風となるカタリナの登場に、変化を見せる場の空気に、エレナはこの好機を逃すべきではない、と畳み掛ける様に即答する。


 カタリナもそれを察したのかエレナに軽く頷くと再度レティシアを見る。


 「と、エレナさんも仰っていますが、どうしますレティシア?」


 この場の情勢は二対一……自分の不利を悟ったのであろうレティシアは、親友の裏切り行為に恨みがましく一度深く溜息を付くが、やがて諦めたのだろう改めてエレナを見つめる。


 「分かったわエレナ、貴方のギルドへの参加を認めます……ただし一つ条件があるわ。今後暫くは私の許可無く依頼を受けることを禁じます。それを守れるかしら?」


 「はい、レティシアさん、必ず守ります」


 レティシアが出した条件などエレナにとっては些細な事柄に過ぎない……それでギルドに入れて貰えると云うのなら思案する必要すらなかった。


 「話しは纏まった見たいですね、それではギルド会館へ提出する正式な書面は後に交わすとして、晴れてギルド所属となったエレナさんにはこの『双刻の月』が抱える問題を知って貰う必要がありますね」


 カタリナの暗に説明を促す言葉にレティシアは頷き、そしてエレナへと語り始める。


 エレナ、貴方が加入したことで問題の一つは解決しているの――――と。


 ギルド会館に登録された傘下のギルドは所属する人員が三名未満に減少した場合は全ての活動を休止させねばならない――――現在『双刻の月』はそのギルド会館の規定に抵触し、活動の一切を行えない云わば休眠状態にあった。


 この規約は大陸では最早常識となっている対魔物との戦闘に置いて基本的な三人一組での連携が取れないという、最低限度の構成を維持できないギルドに対して無謀な戦闘行為を戒める、無駄な人員の被害を防ぐ為の予防措置として制定されたものである。


 レティシアの説明では双刻の月は三月前にギルドの認可を受けてから、構成人員が二名となったこの一月の間、定められた規約に寄り活動を休止してきたが、エレナが加入した事で再度活動を再開する事となるという。


 「活動を再開すれば協会から魔物討伐の依頼が来るわ、そうなればこれまでの経緯を考えてもそれを断る事は私たちには出来ない……つまり貴方に直ぐに実戦を経験させてしまうことになる……それが心配なのよ……」


 「最善を尽くすつもりです」


 今エレナがどれだけ言葉を連ねてもそれはレティシアの救いにはならないだろう……それが分かるからこそエレナは簡潔な言葉のみを口にする。


 「それではエレナさんを紹介する意味でもあの子を連れてきましょうか、全員揃った方が話も早いですしね」


 カタリナが発した言葉にエレナは不審そうに首を傾ける。


 今この応接室には自分を含めてレティシアとカタリナの姿が在り、関係者が三人揃っている……更にもう一人居るのならば先程の説明と所属している人員の数が矛盾するのではないか、とエレナは純粋に疑問を抱く。


 「御免なさい……勘違いさせてしまったかも知れないけど、カタリナは双刻の月には所属していないの……彼女は私の幼馴染でギルドの運営を手伝って貰っているだけなのよ」


 エレナの様子から察したのだろう、レティシアはそう説明に補足を入れる。


 「ではもう一人ギルド所属の傭兵の方がいらっしゃるのですね」


 「ええ……それがこのギルドのもう一つの問題……なのかしらね。あの子、いえシェルン・メルヴィスは私の弟なのよ」


 レティシアの説明にエレナはなるほど、と合点がいく。


 幾らランク最下位のギルドとは云っても、ギルドに所属する事での恩恵を考えれば余りにも人が集まらな過ぎるのでは無いか、という漠然と抱いていたエレナの疑問は此処で氷解する。


 双刻の月、とは身内だけで構成された……言い方は悪いが女子供だけのギルド。


 競争が激しいというギルド間では勧誘もまた激化しているであろう中、自分のような特別な事情でも無い限り、好んでこの様な或る種特殊な環境に身を置こうとする者は少ないのかも知れない。


 だが同時にもう一つ別の疑問がエレナの中に生じる。


 ギルドの認可を受ける為にはかなり厳しい審査を通らなければならない……正直この双刻の月が認可に必要な多くの要件を満たしているとはエレナには考え難かったのだ。


 「身内だけのギルド、どうしてそんなものが認可を受けられたのかが不思議でならない。エレナさんはそう思っているのですね」


 と、カタリナはエレナの疑問を端的に言い当て……話して置いた方が良いと、同意を求める様にレティシアの様子を窺う。


 まるで自分の心を読まれたかの様なカタリナの洞察力にエレナは内心で関心するが、今は話の流れを逸らすべきではないと考えて二人の遣り取りに口を挟む事は控える。


 「実は彼女たちの実家であるメルヴィス家はこのオーランド王国でも名門に連なる貴族の名家なのです」


 頷くレティシアに代わり回答を口にしたカタリナの言葉に、此処まで話しを黙って聞いていたエレナの脳裏に一人の人物の姿が嫌が応にも浮かんでくる。


 最初にメルヴィスの姓を耳にした時には思い出す事も無かったが、今こうしてオーランド王国の貴族としてその家名を出されるとどうしても浮かんでくる名前があった。


 「カダート・メルヴィス卿……」


 「エレナはお父様のことを知っているの?」


 驚いたようにエレナを見るレティシア。


 ――――カダート・メルヴィス。


 それはエレナにとっては懐かしい名であった。


 七年前……エレナはオーランド王国からの大使としてビエナート王国にやった来た彼の護衛の任に就いていた時期がある。


 カダートが帰国するまでの半年間という決して長い期間では無かったが、今振り返れば嘗ての自分にとって一つの転機となった……そんな半年間であった。


 カダートという人物は掴みどころの無い男で、口が悪く、女癖は最悪で、酒に弱いのに潰れるほど飲んでしまう様な、外交特使とは甚だ思えぬどうにもだらしのない男ではあったが、同時に誰の懐にでも違和感無く入ってしまえる様な……憎めない愛嬌を湛えた不思議な魅力を持つ人物であった。


 そんなカダートだが外交官としての手腕は確かなもので、当時内戦に明け暮れ、国外に目を向ける余裕など無かったビエナート王国ではあったが、国境を接する大国でもあるオーランド王国の関係は決して良好とはいえなかった。


 しかしそんな両国の間にカダートは幾つかの条約を締結させることに成功させている。


 本人は職務を全うしただけと誇る様子も無かったが、その条約によって齎された物資が戦乱によって荒廃したビエナート王国の辺境に住む何万人という人々の命を救った事をエレナは知っている。


 エレナにとっては自分などより彼こそがビエナート王国を救った英雄であり、また恩人であるという思いが今尚あったのだ。


 「名前だけは存じているのですが、カダート卿は御壮健であられるのですか?」


 その言葉にレティシアが悲しげに瞳を伏せる。


 「お父様は討伐軍に参加されて、魔導船『ノーデンヒルト』と運命を共になされたわ……御立派な最後であったと伝え聞いています……」


 「そうですか……」


 エレナは惜しい人を亡くした、とはいわない。


 人は善人も悪人も等しく死は訪れる……それを悔やんだところで何も残りはしない……だがあの死に魅入られていたような戦いで、願わくば彼が強制されたのでは無く自分の意思で身を投じていたと信じたい。


 「レティシアは災厄で敬愛する父親と愛する婚約者を亡くしてしまったのです。そのことが彼女が家を出てこうしてギルドに身を置く理由になっています」


 貴族の令嬢ならば成人を迎える十六歳で他家に嫁く事は常識とされる当然の倣いであり、レティシアはまだ若いが名門貴族の娘であるのならば確かにこの歳まで独り身でいることは不自然であった。


 だが婚約者がいたとなれば頷ける話だろう、とエレナは納得する。


 「アインス様は亡くなってはいないわ!!カタリナ、いい加減な憶測を軽々しく私の前で口にしないで!!」


 突然聞き慣れた名前を叫ばれ、これまでとは異なり激しくカタリナに食って掛かるレティシアの、まるで人が変わってしまったかの様な姿にエレナは言葉を失う。


 「このようにベルトナー卿の名前はレティシアには禁句ですのでエレナさんも覚えておいて下さい」


 エレナに教える為とはいえ不用意な発言であったことは感じたのか、カタリナが何度もレティシアに謝っている……だがそんな様子などエレナの視界には入ってはいなかった。


 アインス様……ベルトナー卿……?


 エレナにとってそれは聞き覚えのある名であった。


 だがエレナには許婚など居た覚えはないし交わした相手すら居ない――――其処ではたと思い出す。


 七年前、一度だけ酔った勢いでそんな話をしたことがあったような……と。


 ――――なぁアインス……お前が一廉の騎士になった暁には俺の可愛い娘をくれてやる……どうだ嬉しいだろう。


 遥かな昔、酔いつぶれて床に倒れていたカダートを介抱していた折にそんな事を呟いていた記憶が微かにある……あるのだがそれ以降そんな話は一切二人の間で出ることは無かったし、エレナ自身ただの冗談としか思っていなかったのだが……。


 「御免なさいねエレナ、カタリナが変な事を言ったけど気にしないでね。アインス様は戦いで深い傷を負われて今は養生されていらっしゃるだけで、傷が治れば私を迎えに来て下さるの……だからアインス様が戻られるまで私があの方の代わりに一匹でも多くこの大陸から魔物を駆逐しなければならないのよ」


 レティシアの美しい瞳が熱を帯びたように潤んでいる。


 レティシアの別の側面を垣間見たエレナは気圧され、呆気に取られた様にレティシアに対して相槌を打ちただただ頷いていた。


 嘗ての恩人の子供たちが作ったギルドに今自分は参加しようとしている――――エレナは其処に数奇な運命を感じずにはいられない。


 ましてその恩人の娘が自分が許婚などと……最早それはエレナの理解の範疇を越えていた。


 そして同時にエレナは思う。


 会ったことも顔すら知らない誰かを一途に想い続けることなど果たして本当に出来るモノなのであろうか、と。


 エレナにはとても理解が及ばぬ感情であったが、何か肩に新たに得体の知れない重みを感じるようで無意識にその肩を撫でるエレナであった。

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