第4話

 その日は朝から、天気が荒れ気味だった。

 雨はさしてひどくもなかったが、風がある。空を見上げると、雲が渦巻きながら流れてゆくのがわかる。

 それでもこれくらいの風雨だったら、大人のトゥトゥは平気で飛ぶ。彼らの羽毛は水をはじくし、よほどの嵐でもなければうまく風をつかまえて、危なげなく飛行することができる。

 トラムのいいところは、天候に関係なく運行できるところだ。エトゥリオルは雨をふるい飛ばしながら、ステーションに向かう。

 テラ人たちが使っている傘のことを思い出して、いいなと思う。ポシェットを濡らさないための防水カバーはあるけれど、トゥトゥ自身が濡れないための道具というものは、ほとんどない。

 仕事の帰りにひとつ、買ってこようかと、エトゥリオルは考える。けれどこうして行き帰りに、トゥトゥしか周りにいない場所で、異星人の真似をして傘をさせば、空から見ても目立つだろう。その度胸が、自分にあるだろうか。

 彼がマルゴ・トアフで働き始めて、そろそろひと月半が経とうとしている。季節は盛夏を迎えて、吹きつける雨粒は生温かい。毎日ステーションまで歩くのにも、ずいぶん慣れはしたけれど、それでもやっぱり、時間がかかる。

 エトゥリオルは毎朝、早い時間に家を出る。もう少しステーションに近い地区に越せればいいのだけれど、家移りするには貯金が心もとなかった。

「エトゥリオル!」

 大声で呼ばれて、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。頭上から、ばさばさと音を立てて、大柄なトゥトゥが舞い降りる。雨が跳ねて、エトゥリオルの顔にかかった。

 知った顔だった。エトゥリオルはとっさに微笑んで、尾羽を下げる。

「ピュートゥ……おひさしぶりです」

 世話になった相手だった。家具の修理を請け負う小さな会社を持っていて、エトゥリオルのことを気にかけて、ときどき半端仕事をまわしてくれていた。

「よう、元気にしてたか」

 ピュートゥは笑って翼を打ち鳴らしたが、すぐに真顔になった。「なあ。お前、マルゴ・トアフで働いてるって聞いたが、本当か」

 険しい語調だった。エトゥリオルは返答に詰まって、冠羽を揺らす。

 テラ人をよく思わないトゥトゥは少なくない。年配のトゥトゥには特に、そういう傾向がある。あらためてそういう話をしたことはなかったけれど、ピュートゥもそういうひとりなのだろう。

 迷ったけれど、嘘をつくのもいやだった。何も悪いことをしているわけではないのだから。エトゥリオルは覚悟をきめて、うなずいた。「はい、先月から」

「馬鹿野郎」

 大声だった。エトゥリオルが身を竦めるのを見て、ピュートゥはばつの悪いような顔になる。翼を二度鳴らして、少し声を落とした。

「なんだってお前、あんなけったくそ悪いところで――いや、事情はわかるが。それにしたって、働く場所はもうちっと選べよ。金に困ってるんだったら、また俺のところでもなにか……」

「違うんです」

 彼にしては珍しいことに、エトゥリオルは途中で話を遮った。「そういうことじゃないんです」

 自分で思っていたよりも、ずっと強い語調になった。ピュートゥが驚いて目を白黒させているのに気付いて、エトゥリオルは我に返る。

「――すみません、心配してくださってるのに」

 エトゥリオルは小さくなって、弁解した。「だけど、あの、お金のために嫌々とか、そういうのじゃないんです。まだ僕、見習いなんですけど、仕事も面白いし、それに職場の方々も、みんないいひとたちで、よくしてもらってます」

 ピュートゥはきつく顔をゆがめた。「馬鹿、いいやつらなわけがあるもんか。お前、ひとがいいにしても限度ってものがあるだろうよ」

「そんなんじゃ……」

「そうじゃなきゃ、お前、騙されてるんだ。わかってんのか、お前。あいつらくにに帰れば年がら年じゅう殺し合いばっかりしてるような猿どもだぞ」

 吐き捨てられて、返答に詰まった。テラで過去に起きた凄惨な戦争や大量殺戮の話は、彼も耳にしたことがないわけではない。それはトゥトゥの社会ではあり得ないような規模のもので――だけど、とエトゥリオルは思う。彼の会ったことのあるテラ系の人々はみな、そんなふうな野蛮な種族には、とても思えなかった。

 いっとき言葉を探してから、エトゥリオルはいった。「彼らは、攻めてきたりはしませんよ」

「わかるもんか、あの地べた這いども」

 エトゥリオルがびくりと体をこわばらせたことに、ピュートゥは気付かない。強い語調のまま、彼は続ける。「だいたい連中、こっちじゃ大人しくしてるように見えるがな、ああやって害のなさそうなふりをして、経済侵略を仕掛けてきてるんだよ」

 年々市場に増えてゆくテラ系企業の製品をさして、ピュートゥはそんなふうにいった。

 エトゥリオルは反論しようとして、やめた。自分が何をいったって、彼が耳を貸すようには思えなかった。なんたって自分はピュートゥにとって、半人前の未熟なトゥトゥにすぎないのだ。

 ピュートゥは恩のある相手だけれど、それ以上話を聞き続けるのがつらくなって、エトゥリオルは尾羽を下げた。

「あの、ごめんなさい。僕、もう行かなくちゃ。トラムの時間があるんです」

 ピュートゥはまだ何かいいたげな顔をしていたけれど、強引に引き留めまではしなかった。エトゥリオルは彼に背を向けて、小走りになる。

 雨にぬかるんで歩きづらい路地を、エトゥリオルは急いだ。

 ひどくみじめな気持ちだった。ひとに恥じることをしているつもりはないのに、小さくなって逃げ出す自分がみっともなくて、いやだった。

 背中から、声だけが追いかけてきた。「困ったら、相談しろよ。力になれることがありゃ……」

 エトゥリオルは振り返らなかった。走りながら、胸の内だけで叫んだ。――あなたたちには、わからない。

 叫んだ直後には、自己嫌悪で死にそうになった。



  ※  ※  ※



 O&Wの社員食堂は、味がいいことで有名だ。

 一般の利用客にも開放されているものだから、ともすれば近隣のオフィスビルから他社の従業員が、わざわざ食事だけ摂りに来る。

 社員寮の食堂についても同じく好評で、その理由の半分は、もちろん料理人が優秀であるからなのだが、もう半分は、同社の農業部門が頑張っているからだ。

 航空機の会社に、なぜ農業部門があるのか。

 そもそもはるか別の星系にまで進出してくるような大企業には、さまざまな分野の子会社を系列に持つ巨大グループが多い。というよりも、中小規模の会社には、ヴェドまで進出してくるような体力がない。

 必然的に、各分野の人材はいつでも不足している。しかし、ヴェドに存在するふたつの地球人街には、いまやそれなりの人口がある。こちらに骨を埋めるつもりの人々はもちろんのこと、一時出向中の人間でさえ、一年や二年ですぐに帰るわけではない。彼らもそれぞれに生活を送らなければならない。

 つまり、求められる事業の幅広さに対して、企業の数自体が多くない。各企業の経営多角化は、避けられない宿命のようなものだ。かくしてO&Wはトースターも発電機も作るし、合金タワシもイモも作る。

 そのO&Wの農業部門には、ひとり、名物の女性研究員がいる。

 レイチェル・ベイカー。彼女は生物学系のさまざまな分野でいくつもの博士号を取得しており、地球にいたころには米国某有名大学の研究員として、多くの論文を発表していた。その美貌もあいまって、学会では非常に目立つ存在だった。

 才媛として名高い彼女は、ジンにとっては、同じ大学の先輩でもある。



 社員食堂はいつものごとく、大変な賑わいを見せている。ジンは支払いを済ませたトレイを持って、空席を探そうと振り返った。

 すぐ近くの席に、エトゥリオルがいた。ひとりで食事をしている。

 声をかけるかどうか、ジンは迷った。

 ひとりというのは、別に珍しくない。ややすると四六時中仲間とつるんでいないと不安になりがちなテラ系人類と違って、トゥトゥはひとりで食事をとりたがる者のほうが、むしろ圧倒的に多い。文化的背景というよりも、進化のルーツの問題かもしれない。

 そういう知識もジンは持っていたし、なにより食事どきまで上司の顔を見ているのでは、エトゥリオルも息が詰まるだろう。そこまで考えが及びはしたのだけれど、しかし、このときはちょうど、彼に話があった。

 三秒迷って、ジンはエトゥリオルの向かいに立った。

「ここ、いいか」

 エトゥリオルは少し驚いたように目を丸くしたけれど、すぐに微笑んで、どうぞといった。トゥトゥの微笑みは、このごろジンにも見分けがつくようになってきている。

「部長からさっき、話があったんだが――」

 エトゥリオルの皿を眺めながら、ジンは切り出した。トゥトゥと地球人では食べ物が違う。O&Wの社員食堂は味がいいことで有名だが、それは地球人にとっての話であって、必ずしもトゥトゥにとってはそうではないことも、ジンは聞いていた。なんせ料理人が地球人ばかりだ。

「――それ、うまいのか」

 自分で切り出した話を中断してまで、つい、ジンは訊いた。エトゥリオルのスプーンに乗っている食べ物の色が、あまりに奇抜な外観だったので。

 エトゥリオルは困ったように首をかしげて、微笑んだ。言葉よりも明確な回答だった。

「トゥトゥの料理人が来てくれたらいいんだがな」

 ぼやいて、ジンは話を再開した。「今度、社員寮に空きが出るんだそうだ。俺が入っているのと同じ所で、寮の食堂も調理師は地球系ばかりだから、飯は期待できないだろうが――だからってわけじゃないと思うんだが、入寮しているトゥトゥの社員は、そんなに多くない。が、ほかにもいないでもない」

 いいながら、ジンは、エトゥリオルが目を丸くして羽毛をふくらませているのに気がついた。冠羽がぴんと立っている。

 ちょっとためらって、ジンは続きを口にする。

「もし希望するなら、入れるそうだが……」

 そのことをエトゥリオルに薦めていいものかどうか、ジンは迷っていた。しかしエトゥリオルは、嬉しそうだった。地球人の目からみてもすぐにわかるくらい、とても嬉しそうだった。

「あの。すごく、助かります。もしご迷惑にならないのだったら」

 本人が喜んでいるところに水を差すのも、気が引けた。それでも黙っておけなくて、ジンは付け足した。

「迷惑なんていうことはない。だけど、会社のすぐ近くの寮ってのも、いいことばかりじゃないぞ。どうしても会社と寮の往復だけになって息が詰まるし――飯の味もそうだが、君らにとってここは、まだあまり暮らしやすい街じゃないかもしれない」

 なんせ、その辺の店で売っている品のほとんどが、テラ人の生活にあわせたものだ。この町で暮らすトゥトゥは、まだあまり多くない。

 けれどエトゥリオルは、すぐに首を振った。「かまいません」

 それでもジンはまだ、ためらった。

 エトゥリオルは本当に喜んでいるように見える。仕事中にも、楽しそうに働いているように、ジンの目には映る。

 しばらく迷って、ジンはいった。「――無理をしていないか?」

「無理、ですか?」

 きょとんとしたように首をかしげて、エトゥリオルは聞き返してくる。ジンは小さくうなずきかえして、注意深く部下の表情を見守った。

 異星人に囲まれて働いているというだけでも、大小のストレスはあるだろう。寮に移ってくれば、ますますエトゥリオルの生活は、トゥトゥの社会から切り離されてしまう。

 それはほんとうに、彼にとっていいことなのか。

 考え過ぎだろうか。エトゥリオルのきょとんとしたようすをみて、ジンは自嘲する。がらにもない余計な口出しをしているという自覚はあった。

 目を丸くしたまま、エトゥリオルは首を振った。

「無理なんて。――寮、入れてもらえるなら、ほんとうに助かります。いまのところから通うのに、けっこう時間がかかってるので」

 ジンはうなずいた。そうまでいわれたら、それ以上かさねて反対するのも忍びなかった。それに、入ってみて合わなかったら、越せば済むことだ。

「わかった。――伝えておく」



   ※  ※  ※



 エトゥリオルは浮かれていた。嬉しさのあまり、食事の残りもうまく喉を通らないような気がした。

 ジンは味のことを気にしていたけれど、食事がまずいというのは、実のところ、大した問題ではなかった。もともとトゥトゥには、テラ人ほどじっくり食べものを味わう習慣がない。好き嫌いはもちろんあるけれど、そもそもほとんどが丸呑みなのだ。

 暮らしが不便というのも、エトゥリオルにとっては、この街に限った話ではない。トゥトゥの町で、曲がりくねった路地を延々と歩いて買い物に行くことが、すでに彼にとっては苦労だった。

 それより、エトゥリオルにとっては社員寮という言葉の響きが、嬉しくてしかたがなかった。まだ見習い期間は残っているけれど、寮の話は、彼にここにいていいのだといってくれているように聞こえた。

 それに――この町に住めるなら、今朝のようなこともなくなる。

 今朝のことを思い出して、エトゥリオルは顔をくもらせかけた。それから慌てて瞬きを繰り返した。暗い顔をしていたら、またジンから無理をしていると思われてしまう。

「食べ物っていえば」

 話を変えようと、エトゥリオルは顔を上げた。「テラからこっちにやってくるのって、すごく時間がかかるんですよね。一年半でしたっけ。その間の食べ物って、どうするんです?」

「ああ、食いものはかなり大量に積みこんでくるな。こっちと一緒で、向こうでも宇宙港は月にあるんだが、月面プラントで作られた保存食が、航海中の主な食糧になる」

 ジンはいいながら、苦笑を洩らした。「いちおう味はいろいろあるんだが、さすがに途中でうんざりしたな――船内にもいちおう小さなプラントがあって、そこでも野菜なんかの栽培はするんだが、それで賄える量なんか知れてるし、何かあっても途中じゃ補給のしようがないから」

 食糧の問題があるがために、たくさんの物資を運んでくるよりも、ひとを一人連れてくるほうがずっとコストがかかるのだと、ジンはいった。そうまでして、遥かな星の海を渡ってひとがやってくるということを、あらためてエトゥリオルは思う。

 サミュエルのことを考えて、胸が痛む。もうじきサムは、地球に向かって旅立ってしまう。いつかまたやってくるにしても、何年も先のことになるだろう。

 向こうについたら手紙を送るよと、サムはいうけれど、手紙――データをやりとりするだけでも、往復で一年ちかい時間がかかるのだという。

「――もっと、近かったらよかったのに」

 思わずそうつぶやくと、ジンは首をかしげた。「そうかな」

 エトゥリオルが見上げると、ジンは思ったよりもずっと真剣な表情をしていた。

「あんまり簡単にやってこれる距離だと、今度は侵略だなんだと、物騒な話も心配しないといけなくなるだろう?」

 今朝のピュートゥの言葉を思い出して、エトゥリオルはどきりとした。これまでに彼が出会ったテラ人たちは、みな、友好的に見えた。それでも、もしもっと地球が近かったら、彼らは攻め込んでくるのだろうか?

 エトゥリオルの不安には気付かないようすで、ジンは首をかしげる。

「その点、これだけ遠ければ、戦争をするにも大勢で移住するにも、まずコストが大きすぎて馬鹿らしいし――この先どれだけ技術が進んでも、かかる時間はたいして短縮される見込みがないらしいからな。遠くてかえってよかったんじゃないかと、俺は思うよ」

 でも――いいかけて、エトゥリオルは言葉を呑みこむ。この話を続けるのが、怖いような気がした。そのかわりに、彼はぜんぜん違うことを口に出した。「すごく優秀なひとしか来れないんだって、ハーヴェイさんから聞きました」

 眉を上げて、ジンは呆れたような顔になった。

「自分でいうんだから、あいつも大概いい性格をしてるよな……」

 いわれてみればそうだ。エトゥリオルは思わず笑ってしまって、ごまかすように嘴を掻いた。

「それは大げさだが、そうだな――まあ、なんせ人ひとり連れてくるのには、さっきもいったように、金がかかるからな。希望すれば誰でも来れるってわけにはいかないな」

「みなさん、希望して来られるんですよね」

「たいていはそうだ。会社の命令で仕方なく、っていうやつもいるだろうが――」

 ふっと遠い目をして、ジンはいった。「俺は来たかった。もとはといえば、むこうの報道で見た君らの姿に憧れたのが、最初だったな。こっちへの移住を希望したのも、飛行機を作りたいと思ったのも」

 エトゥリオルは目を丸くして、スプーンを取り落とした。そんなに驚かなくてもいいだろうといって、ジンは肩をすくめる。

「あとは、向こうの水があわなかったんだ。家族とも折り合いが悪かったし」

 ジンがプライベートの話をするのは、珍しかった。皮肉っぽく笑って、半ばひとりごとのように、彼はいった。「ちょっとでも故郷から遠いところに行きたかった。まあ、地球を発つころには、さすがにそんなのは子どもじみた逃避だって、自分でもわかってはいたんだが――それでも正直にいうと、清々したな」

 エトゥリオルはその言葉に、とっさに同意しそうになった。彼もまた、成人して家族のもとを離れる瞬間、何よりもまず先に、ほっとしたのだった。そしてそのことに、いつもどこかで、小さな罪悪感があった。

 そのことを、ほとんど口に出しかけてから、エトゥリオルは言葉を呑みこんだ。軽々しく、他人にわかるなどといわれたくはないだろうと、そういう気がして。

「――だけど、犬を置いてきたのだけが、つらかったな」

 それだけを英語で、ジンはいった。意識してのことではないだろう。思わず口からこぼれたというふうだった。

「犬……、向こうの動物ですか?」

「ああ。生き物を連れてくるのは、制限が厳しいから――仕方のないことなんだが。野生化してこっちの生態系を崩しでもしたら、おおごとだし」

 わかってはいるんだが、といいながらも、ジンの表情はどこか、寂しそうだった。犬というのがどういう動物かはわからないけれど、いい友人だったのだろうと、エトゥリオルは思った。

「君たちは、動物を飼ったりはするのか。その、家畜とかではなくて」

 訊かれて、エトゥリオルは首をかしげた。「飼う、というのかわかりませんが、鳥の巣箱を作ったりはしますね。やってくる鳥の好きな樹を、庭に植えたり……」

 へえ、と相槌をうって、ジンは頬をゆるめた。「いいな、それ」

「年中そこにいてくれるわけじゃありませんけど、去年と同じ鳥がやってきたりすると、やっぱり嬉しいです」

「社員寮の裏庭にも、来るかな。こんな都市の真ん中でも」

「来るかもしれませんね」

 エトゥリオルは微笑む。それはとてもいい考えのような気がした。寮に入ったら、巣箱を作ってみよう。社員寮には、手ごろな樹があるだろうか。



   ※  ※  ※



 社員食堂の中が、かすかにざわついた。

 ジンは思わず食事の手を止めて、顔を上げた。喧嘩とか非常事態とか、そういう悪い緊張感ではない。しかし明らかに、その場の雰囲気が変わった。

 周囲を見渡したジンは、大股で歩くひとりの女性に気がついた。

 麦わら帽子というものを、彼は、ものすごく久しぶりに目にした。

 すっぴんの頬にはそばかすと、なぜか、乾いた泥。整えればおそらく綺麗なはずの金髪は、帽子からはみ出して、あちこち跳ねている。けれど本人にはそうしたことを、ちっとも気にするそぶりがない。

 袖まくりしたTシャツにジーンズ、足元ははき古したスニーカー。首にはタオルをひっかけて、その白さが眩しい。両手には山盛りの野菜籠を抱えていた。

 いまどきちょっと見かけない、古典的な農家のおばちゃんスタイルだった。

 野菜を盛った籠まで、資料映画の中に出てきそうな、植物の蔓で編んだやつだ。中にはどうやら芋と、トマトそっくりの何かと、何だか見ただけでは見当のつかない根菜が、絶妙なバランスで積まれている。

 貨物運搬用のカートが、自動制御でぴったり彼女のあとについてきていて、そこにも野菜が山積みになっている。いっそ全部カートに積めばいいようなものなのに、なぜわざわざ彼女は両手いっぱいに、みずから野菜を抱えているのか?

 その答えは、彼女の表情にありそうだった。じつに嬉しそうな、自分の作品を自慢してみんなにみせびらかす子どものような、笑顔。

 にこにこと満面の笑みを浮かべたまま、その女性は足早に、食堂を横切って行く。

 間近に通り過ぎる彼女の顔を見た瞬間、ジンは茫然とした。

 知っている顔だった。といっても、知人ということではない。記憶違いでなければ、昔、なんどとなく報道で目にした顔だ。

 最初はまさかと思った――化粧をしなければ女は別人に見える。けれど、彼女がこちらに移住したという話は、たしかにきいたことがあった。

 ぽかんとして、ジンはその背中が厨房に消えていくのを、口を開けたまま見送る。その向かいで、エトゥリオルは彼が何に驚いているのかよくわからないふうに、首をかしげている。周囲のほかの社員たちは、慣れたふうに食事に戻るか、面白がるように笑っている。

「もしかして、お前、彼女を見るのは初めてか」

 隣の席で飯を食っていた同僚が、面白がるように話しかけてきた。

「ベイカー女史……か? いまのが?」

 なぜジンが驚いているのかというと、彼が知っているレイチェル・ベイカーは、常に一部の隙もない完璧なメイクと華麗なスーツで武装した、名高き才媛だったからだ。報道の中で見かける彼女は、いつだってカメラに理知的な微笑みを向けていた。

 報道や彼女の著作に添えられた略歴で、何度も目にしたことのある女史と、さっき大股に通り過ぎて行った女の子どものようなバラ色の頬が、ジンの中で、結びつかなかった。

 おもむろに腕を組んで、同僚はいう。

「こっちにきて野生化した、代表例だな」

 さっきの話を盗み聞きしていたらしい。とっさに笑いをこらえて妙な顔になったジンに、エトゥリオルが不思議そうに首をかしげた。



 いっときして、女史は厨房から出てきた。来た時と同じように、ずかずかと大股で歩いていく。

 まだ茫然としているジンに気付いて、女史は足をとめた。

「見ない顔ね。あなた、新顔?」

 泥だらけの顔のなかで、眼だけが知性の光を帯びて、楽しげにきらきらしている。

 まさか彼女は、支社に所属する何百人からの社員、全員の顔を覚えているのだろうかと、ジンは眉を上げた。覚えているかもしれない。そう思えるくらいには、彼女は堂々たる話しぶりをしていた。

「――あなたの大学の後輩です、博士。お会いできて光栄です」

「そんな噂を聞いた気がするわ。あなた、エンジニアのひとでしょ……ええと、ジン・なんとか」

「タカハラです」

 ジンがいうと、女史はにっこり微笑んだ。「花形じゃないの。がんばってね」

 はい。返事をするジンの後ろに視線を向けて、女史はにっこりと微笑む。

「じゃあ、あなたが設計部門に採用になったっていう子ね。エトゥリオル、で発音は合ってるかしら?」

 エトゥリオルが目を白黒させながら、どうにか挨拶をする。ほんとうに彼女は、すべての社員を把握しているらしかった。

 ジンは女史の農家スタイルに、不躾と思いながら、つい視線を向けてしまう。

「植物学の研究をされているのかと……思ってました」

「わたしもね、来たときはそのつもりだったんだけど――でも、実際に来てみたら、ごはんがまずかったのよ」

 レイチェル・ベイカーはきっぱりといった。非常に真剣な表情だった。「ものすごく、まずかったの。許されざることだわ」

「……そうですか」

 何と答えたらいいかわからずに、ジンは間の抜けた相槌をうった。けれどその途方にくれたようすを、女史は気にするふうもなく、力いっぱいうなずいた。

「何はなくても、まずはおいしいごはんが、すべての基本だと思うの」

 空になった野菜籠を抱きしめて、女史は力説する。「わたしのプライドにかけて、かならずこの地でおいしい野菜をつくって、みんなの食卓を豊かにしてみせる。――期待しててね」

 女史は不敵に笑って踵をかえすと、来た時とおなじく、勢いよく去っていった。

「なんだか、かっこいいひとですね」

 エトゥリオルが、まじめな調子でそういった。

「――そうだな」

 ジンはうなずいた。女史の言動に思わずあっけにとられてしまったが、実際のところ、彼女のような人材がいてくれるからこそ、この異郷で地球人たちが暮らすことができているのだった。

 トゥトゥの作る野菜のほとんどは、地球人にとって、食べられるものではない。うまいとかまずいとかいう問題ではなく、消化できないのだ。

 作物のほうの改良だけではなくて、人体のほうへのアプローチ――人工の消化酵素を体内に入れることの研究も、少しずつ進んできてはいる。しかしなにせ人体実験を要する研究というものには、とにかく時間がかかる。

 食べ物の問題は、テラ系人類がこの星で活動するうえで、大きな制約になってもいるのだ。ふたつの移民街の外に出て、トゥトゥの街で暮らす地球人がほとんどいないのも、この問題が最大の障害になっているからだった。

 農業部門は、苦労が多いはずだ。地球から植物を持ち込むことにはとんでもなく制限が厳しいし――その点、月面プラントのほうがまだやりやすいはずだ――許可が下りても、その植物がこちらの風土で育つとは限らない。いまあるものに品種改良を重ねて、安全性を確認するための、途方もない検査と実験の積み重ね。大変な仕事のはずだった。

 そのはずだというのに――女史の活き活きとした笑顔を思って、ジンは感じ入った。

「彼女には、こっちのほうが水があうんだろうな」

 そう呟いた自分の声が、思いがけず羨ましそうな響きをしていて、ジンは苦笑した。

 自分にとってはどうだろうか――ジンは考える。

 まだわからない。同僚には恵まれていると思うし、暮らしにも、我慢できないほどの不自由を感じたことはない。地球に戻りたいと思ったことは、この二か月で実のところ、一度もなかった。それは彼女のように、こちらの水があっているからだろうか?

 そういうことではないだろう、と思った。彼はただ、故郷から逃げてきただけだ――このままでは。

 自分が惑星ヴェドにやってきた意味を、見出せる日がいつかやってくるだろうかと、ジンは思った。



   ※  ※  ※



「……じゃあ、寮の話は伝えておく。今日はこれで上がってくれ」

「はい。お疲れさまでした」

 帰ってゆくエトゥリオルの背中を見送って、ジンはわずかに眉をひそめた。

 エトゥリオルの足取りは、心なしかいつもより軽い。社員寮に入るのが、そんなに嬉しいのだろうか。ただ通勤が近くなるというだけの理由で?

「難しい顔をしてるわね」

 同僚から肩をたたかれて、ジンは椅子を回した。

「そんな顔、してたか?」

「まあ、もとからあんたは辛気臭い顔をしてるけどさ」

 笑われて、ジンは顔をこする。「悪かったな」

「なんかトラブルがあるんなら、早めに相談しなさいな。何ごとも問題の共有が基本よ。小さなことでも、ね。――リオがどうかしたの?」

「お、なんだ。問題発生か?」

 もうひとりの同僚が、椅子を滑らせて寄ってくる。これはいい同僚に恵まれたと喜ぶ場面だろうかと、ジンは首をかしげた。ふたりの面白がるような顔からすると、ただ単に物見高いだけかもしれない。

「トラブル、っていうわけじゃないんだが」

 ジンは言葉を濁した。

 ――よかったらリオと呼んでもらえますか。

 あるときエトゥリオルは、そういった。

 はじめは皆、驚いた。なんせふつうのトゥトゥは、名前を正確に呼ばれることについて、非常に強いこだわりがある。

 けれど最近では皆が、その言葉に甘えている。たしかに彼の名前は、地球人にとって、正しく発音するのが難しいのだった。

 サムを通じてニックネームの文化に共感したというエトゥリオルの言い分には、納得できるものがあったし、本人がそれでいいというのなら、ジンが文句をいう筋合いはない。

 それでもジンには、どこか気になる。

「こっちのやりかたにあわせようと、努力してくれているのはわかるんだが……」

 ほんとうにそれで、いいのか。

 口に出してみて、ジンはようやく、自分が何にひっかかっていたのか、わかったような気がした。

 種族間の相互理解は、望ましいものであるはずだ。けれど現状、トゥトゥには地球人を嫌うものも少なくない。いずれその垣根が低くなってゆくことは期待されても、それは今日明日のことではないだろう。

 いまこの時代を生きるエトゥリオルが、無条件に地球人に肩入れすること、生活の多くを地球人のやりかたにあわせるということが、彼にとって、いいことなのか。周囲のトゥトゥ――エトゥリオルの家族や知人の、彼を見る目はどうなのか。

 エトゥリオルは家族の話をしない。トゥトゥはそもそも一般的に、成人して自立すれば、家族とは距離を置く。エトゥリオルが特別ということではないのかもしれないが――

「過保護なやつだな」

 笑い飛ばされて、ジンは視線を上げた。

「そう見えるか」

「見えるね。リオだっていい大人だぜ」

 いわれてみれば、たしかにそうなのだった。ジンは頭を掻く。

 エトゥリオルの嬉しそうな後ろ姿を思い出せば、考え過ぎだろうかという気がした。そもそも、自分だって故郷になじめずにこんなところまで流れてきたくちで、ひとのことをとやかくいえた立場ではない。

 それに――昼間に見たベイカー女史の活き活きした顔を、ジンは思い出す。エトゥリオルだって、同じことなのかもしれない。もしトゥトゥの社会よりもこっちのほうが水が合うというのなら、それはべつに、悪いことではないのかもしれない。

 考えこむジンの肩を叩いて、同僚が笑う。

「お前ら二人とも真面目すぎて、見てるこっちの肩が凝りそうだよ。もうちょっと気楽にやれよ――ってことで、これよろしく」

 端末に送られてきたデータをちらりと見て、ジンは眉を上げた。

「なんだ、これ」

「息抜きにはちょうどいいだろ。俺、いまちょっと別件で忙しいんだわ」

 ファイルを開けば、そこには仕様書が入っていた。

 トラムの客席周りで使う、小型ヒーターの改良案件だった。

「――いくら専門外はないったってなあ」

 肩を落として、ジンはぼやく。本分とはいわなくても、せめて飛行機の設備の仕事をしたい。

「馬鹿。大事だろう、暖房は」

 わざとらしい真顔で諭されて、ジンはため息をついた。相談していたつもりが、体よく仕事を押しつけられただけだった。

 くすくす笑いながら、もうひとりの同僚が横から覗き込んでくる。

「それ、リオにやらせてみたら?」

 ジンは眉を上げて反論しかけて、それから呑みこんだ。エトゥリオルは皆の雑用を手伝いながら、どんどん知識を吸収している。もっと先のつもりでいたが、そろそろ実際に、何か触らせてみてもいいかもしれない。

 ジンはファイルの中身を検討した。それほど難しい仕事ではないし、なにより納期にはかなり余裕がある。「そうだな……教えてみるか」

「あの子、ほんと覚えが早いよね。ついこの間まで素人だったなんて思えないな」

 ジンはうなずいて、頭の中で予定を組み始めた。何からまず覚えさせるべきか。

「あんた、もっと褒めてやりなよ。あの子、比べる相手がいないんだから、あんたに褒められないと、自信がつかないよ。自分がどれだけすごくて、周りに期待されてるかってこと」

 ジンがとっさに反論しようとした、その口を封じるように、追い打ちがきた。「ちゃんと褒めているつもりだって、いま思っただろ。忠告しておくが、お前の褒めかたは、わかりづらい」

 憮然ぶぜんとして、ジンはうなずいた。

「――気をつける」

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