第3話


 幼いころ、エトゥリオルはいつか自分も空を飛べるようになることを、疑ってもいなかった。

 ひと一倍熱心に、彼は飛ぶ練習を重ねた。他の子どもらがそうするのと同じように、屋上のへりに足でしっかりしがみついて、くりかえし羽ばたきの練習をした。段差から飛び降りながら翼を動かしてもみたし、年長のトゥトゥが手本としてやってみせるように、助走をつけて翼を広げようとしてみたりもした。

 けれど彼の翼の動きは、どれだけ練習を重ねたところで、ごく弱々しいものにしかならず、体が浮き上がるような兆候は、いつまでたっても見られなかった。

 そもそもほかのトゥトゥが滑空をするときのように、すばやくまっすぐに翼を広げるというだけのことさえ、彼には満足にやれなかったのだ。時間さえかければなんとか広げることはできるのだけれど、それは赤ん坊のトゥトゥといい勝負の、緩慢かんまんな翼の動きにしかならなかった。

 近所の同い年の子どもらは、ひとりまたひとりと飛ぶことを覚えてゆき、やがてエトゥリオルだけが、最後まで取り残された。

 楽しそうに飛びまわる友人たちを、ひとり地上から羨ましく見上げるのが、エトゥリオルの日常になった。

 飛べないこと以上に、その仲間はずれのさびしさが辛かった。昨日までは同じように空を見あげて悔しそうにしていた友人が、あるとき魔法のようにこつを掴んで、危なっかしく、けれどたしかに自らの意思で、空へ飛び立ってゆく。

 そうなれば、すぐに彼らは空の上での遊びに夢中になる。地上からいつまでもひとり飛び立てない、どんくさい友達のことを、いっときのあいだ気遣いはしても、そういつまでも人の心配ばかりはしていられない。

 満足がゆくまで空を飛びまわって、やがて戻ってきた彼らは、エトゥリオルの姿を見て、ばつの悪そうな顔をする。その瞬間がつらくて、だんだんエトゥリオルのほうから、彼らと距離を置くようになった。



  ※  ※  ※



 自分の机をもらえた。

 それはエトゥリオルにとって、大事件だった。

 たかが机だ。自分でも、頭ではそう思う。トゥトゥがよく使う軽くて分解しやすい製品ではなくて、合金と樹脂の組み合わせの、重くて頑丈なデスクだというのは、珍しい経験かもしれない。それでも机はしょせん机だ。

 しかもテラ人の体にあわせて作られたデザインだから、彼にはあまり使いやすくもない。椅子ははじめからトゥトゥ用のものを用意してもらったけれど、引き出しの位置が邪魔だったり、広すぎて奥の方まで手が届かなかったりする。座り心地のいい席かといわれると、返答に詰まる。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 自分だけの席が、オフィスにある。毎日、出勤したらその席について、彼に与えられた端末に向かって仕事をする。

 それは彼にとって、人生で初めてのことだった。

 舞いあがるあまり、デスクを前にした瞬間、エトゥリオルは固まった。あまりにも長いあいだ立ちつくしたまま固まっていたので、初日から上司を困惑させてしまった。



 出勤初日のその朝、会社のロビーで――地上階のほうの入り口だった――面接のときの人事部長が、にこやかに出迎えてくれた。その横に、ひとりの異星人が立っていた。

 知っている顔だった。フェスティバルの日、メインストリートでぶつかった異星人。エトゥリオルがこれまでに見たことのあるテラ人と比べて、背が高く、痩せていて、そして無愛想だった。

 今日から彼が、君の上司になる。そういって紹介されたその人は、ジン・タカハラと名乗った。

 そっけない感じで伸ばされた手は、指が長く、関節が目立って、なんとなくごつごつとしていた。

 彼らに握手の習慣があるというのは、サムから教わって知っていた。あわてて中肢をさしだしたエトゥリオルは、見た目とは違う異星人の手の柔らかさに、ちょっと戸惑った。

「あの――なんてお呼びしたらいいですか」

 おそるおそる、エトゥリオルがそう訊ねたのは、どうやらテラ人の多くが上司を呼ぶときに、役職や敬称を使い分けているらしいということに、気付いていたからだ。周囲で雑談しながら歩く人々もそうだし、サムから借りた小説や映画の中でも、そうした風潮は垣間見られた。

 そこまではわかるのだけれど、どんなふうに使い分けたらいいのかが、エトゥリオルにはぴんとこない。敬称というもの自体が、そもそもトゥトゥにはなじみがないのだ。

 トゥトゥのあいだでも役職はもちろんあるが、役職で相手を呼んだりしたら、まずまちがいなく侮辱だといって怒られる。トゥトゥはなによりも先に、まずその名をもつひとりのトゥトゥであって、名もなき誰かではない、というわけだ。

 けれど、テラでは違う。彼らの会社で働かせてもらうのだから、彼らのルールにあわせるべきだ。エトゥリオルはそう考えた。

 けれどジンは、あっさりといった。「ジンでいい。――それが君たちの流儀だろう?」

 やっぱりそっけない口調だった。エトゥリオルは困惑して、眼をしばたいた。

「え――だけど、その、失礼にあたりませんか?」

「俺は、君たちの名前についての考え方を聞いたとき、とても感銘を受けたし、羨ましい話だと思った」

 間髪いれずジンはそういって、それから軽く首をかしげた。「――ただ、たしかに君のいうとおりだ。相手と場合によっては、失礼だと思われるかもしれない」

 エトゥリオルが慌ててうなずくと、ジンは少し考えてから、教えてくれた。

「そうだな。よく知らない相手には、とりあえずファミリーネーム……あとのほうの名前だな、それの前にミスタを付けて呼べば、たいてい失礼にはならないだろう。女性ならミズ」

「ミスタ・タカハラ、というふうに?」

「そうだが、頼むから、俺にはやめてくれ。ミスタ、なんていうがらじゃない」

「わかりました。――ジン」

 エトゥリオルがそういうと、ジンは小さくうなずいて、それから少し、ためらうような間をおいた。

「君の英語のほうが、俺の西部公用語セルバ・ティグよりよほど流暢りゅうちょうだし、こちらにあわせてもらうほうが、合理的なんだろうが……」

 ジンはこちらの言葉で、そう切り出した。英語で話すときと、声質ががらりと違う。サムもそうだったけれど、本来は発音できない声域を、機械でカバーしているのだ。

「しかし俺は、こっちの言葉をなるべく早く、マスターしなきゃならない。言葉を覚えるのには、とにかく使うのが早道だと思う。勉強につきあうと思って、君たちの言葉で話してくれないか」

 そんなふうにいうわりに、彼が話すのは、きちんとしたセルバ・ティグだった。ところどころイントネーションに違和感はあったけれど、通じないところも、文法的に間違っているところもない。

 本当に練習の必要があるのかとは思ったけれど、いわんとすることは納得できた。エトゥリオルは素直にうなずいて、自分もセルバ・ティグに切り替えた。

「わかりました」

「――もしかして、あらためて英語を勉強してきてくれたんじゃないのか」

 その言葉を聞いて、エトゥリオルはやっと、ジンが言い出しにくそうにしていた理由に気がついた。彼の努力を無駄にしたのではないかと、気にしてくれたのだろう。

「いえ――ええと、機械をさわる仕事だと聞いたので、関係のありそうな言葉を、少しだけ。だけどもとからサムに教わっていましたし、あらためてというのは、そんなに」

 言葉を選びながらそういうと、ジンはうなずいて、すまないといった。

 エトゥリオルは、上司への印象を改めた。よく笑うサムと違って、なんだか表情は少ないし、ぶっきらぼうな話し方をするひとだなと思っていたけれど、そういうことではないのかもしれない。

「しかし、正直にいって、言葉はなんとかなると思うんだが……八進法に慣れるのには、手間取りそうだ」

 その言葉に、エトゥリオルはジンの手を見た。テラ人の、十本の指。そういえば、サムも数学が苦手そうにしていた。こちらで育ったサミュエルでさえそうなのだから、来たばかりの彼からしたら、なおさらだろう。

 ここだといってジンが足をとめたのは、大きな扉の前だった。金属製の扉はきっちり閉ざされていたが、彼が壁の機械に手をかざすと、触れもしないのに、かすかな音を立てて開いた。

「君にもあとで、IDカードを渡す。俺たちは小さなチップにして手に埋め込んでしまうんだが――君は、そうだな、紐を通して首からでも下げておくといい」

 うなずきながら足を踏み入れると、なかには広々とした事務室があった。

 ゆったりとした間隔で、デスクや作業台がいくつもならんでいる。その上には、何に使うのかわからない道具の数々。デスクの数よりも、機械類のほうがずっと多い。壁際にはエトゥリオルにとっては見たこともないような、大型のコンピュータがたくさん並んでいる。

「ここで仕事をすることになる。といっても、実際は、工場のほうといったりきたりだな。――いまちょうどほかの連中が出払ってるが、午後には戻るらしいから、そうしたら皆に紹介しよう」

 そういいながら、ジンは入り口のそばのデスクを指し示した。ごく何気ない、あたりまえの仕草だった。

「君の机は、それだ」

 エトゥリオルは、その場で固まった。たっぷり呼吸五つ分は、動けなかったと思う。

 言葉も出てこなかった。

 頑丈そうな、真新しい感じのする机だ。どうやって搬入したのかと思うような大きさの、エトゥリオルの何倍も重さのありそうな、どっしりした事務用デスクだった。そして何より重要なことに、ほかにたくさん並んでいるものと、同じデザインだった。

 みんなと同じ、机。



「――座ったらどうだ」

 いわれて我に返ったエトゥリオルは、恐る恐る椅子を引いて、そっと腰を下ろした。そうすると、視線の高さにディスプレイがあった。

 彼用の机で、彼用の椅子で、彼用の端末なのだ。

 嬉しかった。ものすごく、嬉しかった。

 役に立たないといけない。まずなによりまっさきに、そう思った。

 なんせ自分は、まだ見習いなのだ。仕事が決まってからあわててちょっと勉強をしてきただけの、専門の訓練を受けたこともない、右も左もわからないような素人だ。

 それなのにまっとうな一人前であるかのように迎えてくれた彼らに、それだけの価値のある人材だと認めてもらえるように、頑張らなくてはならない。

 何を頑張ったらいいのかさえ、まだわかってもいなかったけれど、とにかくこのとき、その思いだけが、エトゥリオルの頭を占めていた。

「もともと、俺の専門は飛行機の、機体のほうの設計なんだが――どうやらここでは、なんでもかんでもやらされるらしい」

 人手が足りないのだと、ジンはいった。

 トゥトゥの言葉で「設計」といった、彼の声の響きを、エトゥリオルはふしぎな感慨とともに聞いた。あの飛行機のような機械を、設計して、実際に動くように組み立てる。それはどんな途方もない作業だろう?

「しかし、そうはいっても、俺自身がまだ復帰したばかりで、まともに仕事にならないんだ――悪いが今日は、とりあえず端末に入っている資料を眺めていてくれ。詳しいことは後回しにして、だいたいこういう感じの仕事だっていうのを、ざっと見てくれればいい」

 いわれてディスプレイを見ると、エトゥリオルの視線を拾って、インターフェイスが勝手に立ちあがった。

 端末自体は見慣れない大きなものだったけれど、ディスプレイの形やインターフェイスは、エトゥリオルも触ったことのある、トゥトゥの大手メーカー製品だった。

 もしかして、自分にあわせてわざわざ用意してくれたのだろうか? 驚いたエトゥリオルがそのことをいうと、ジンはあっさりと首を振った。

「いや。コンピュータ製品の基本性能は、こっちのもののほうがいいからな。使い道によっては善し悪しがあるらしいが、コストパフォーマンスまで考えたらな」

 俺はまだ、慣れなくて戸惑ってるがと付け足して、ジンは自分の端末に視線を投げた。いわれてみれば、そちらもどうやらトゥトゥの製品のようだった。ただ、ディスプレイの形状がまったく違う――トゥトゥと彼らはものの見え方が違うというから、彼らにあわせて改良してあるのだろう。

 エトゥリオルは驚きすぎて、言葉もなかった。

 なんせ相手は、異星人だ。はるか遠くの星系から、はるばるやってきた人たちで――宇宙を旅する手段も、空を飛ぶ飛行機も、速度の出る上に安定して動くトラムも、そのほかトゥトゥの手元にはいまだなかった重機や建築方法やその他の構造物を、はるばるこの星に持ち込んだのは、彼らテラ人なのだ。

 対してトゥトゥは、自分たちの惑星の月にさえ、いまだに自力で行ったことがない。そのトゥトゥの作った製品のほうが、彼らの持つコンピュータよりも性能がいいなんて、どうやったら信じられるだろう?

 そういうと、ジンはあっさり首を振った。「求められてきた技術の方向性が違うっていうことだろう。――誤解があるかもしれないが、もともと俺たちのほうが、君らの文明から学ぶために、こっちに来てるんだ」

 二度驚いて、エトゥリオルは羽毛を逆立てた。信じられないような話だと思った。

「俺からしてみたら、むしろ、不思議に思える。これだけの技術力があるのに、どうして君たちの知識と技術が、航空や宇宙の分野にはあまり向かなかったのか……」

 途中で言葉をきって、ジンはわずかに目を細めた。「だが、まあ、なんとなくわかるような気もする。――飛べない俺たちのほうが、空への憧れが強かったんだろう」

 どきりとして、エトゥリオルは顔を上げた。ジンはディスプレイに表示された図面を、じっと見つめている。

 エトゥリオルもつられて、その図面を眺めた。それの外形は、あの日の空に見上げた飛行機のものと、よく似ているように見える。

 ――これが、飛行機の設計図なんだ。

 ふしぎな感慨とともに、エトゥリオルはその図面を見た。書かれている数字や記号の意味も、いまはまだ、さっぱりわからなかったけれど。

 ――空に憧れて、どうしても飛びたくて、それで、あんな飛行機を作ってしまうんだ。

 図面を見つめるジンの真剣なまなざしを見て、同じだと、エトゥリオルは思った。

 このひとたちと自分は、きっと、同じだ。



  ※  ※  ※



 五歳の誕生日をまもなく迎えようかというころになっても、エトゥリオルは飛べるようにならなかった。どんなに発育の遅い子でも、いいかげん自由に空を飛び回っている年齢だった。

 いくらなんでもおかしいというので、両親に手を引かれて病院にいった。住んでいる街のちいさな医院ではなく、トラムにのって、隣まちの大病院へ。

 わざわざ足を運んだわりに、検査自体は、簡単なものだったと思う。少なくとも、まだ子どもだったエトゥリオルが、退屈を持て余して騒ぐほどの暇もなかったのはたしかだ。

 検査機器にうつった画像を眺めて、医師はいっとき黙り込んだ。そこにはトゥトゥの骨格が映し出されていた――それが自分の体の骨を透かして見ているのだということをエトゥリオルが理解したのは、少し遅れてからだった。

 長い沈黙に、彼ら家族がすっかり不安でいっぱいになるころ、医師はようやく、重い口を開いた。

 ――竜骨、というのです。

 そういって、医師はこつこつと、中肢で自らの胸を叩くそぶりをみせた。続いて画像の真ん中のあたりを、そして最後にエトゥリオルの胸元を、指してみせた。

 ――こっちが、平均的なトゥトゥの骨格。

 そういって医師がディスプレイに表示させた写真は、さっき見せられたばかりの画像とは、似ても似つかないように見えた。三角の、大ぶりで、頑丈そうな骨。

 ――この骨が、飛ぶための筋肉を支え、ほかの骨と骨を、しっかりと繋ぎとめておるのです。おわかりになるでしょうか。

 医師は淡々と説明を続けた。いわれている言葉の内容ではなく、その声のため息のような響きに、エトゥリオルは不安をつのらせた。

 ――一般に、なかなか飛ぶのが上達しない子というのは、体重が重すぎるか、筋力が足らんのです。あるいはただ単純に、体を動かすこつを呑みこむのが、ちょっとばかり遅いか。そういうのは、とにかく時間はかかっても、努力で解決できる。

 そこで少しためらってから、医師は思いきるようにいった。

 ――だが、お子さんの場合は……たとえ筋肉をつけたところで、それを支えるだけの骨がなくては。

 その言葉を聞きながら、つないだ父親の手がかたくこわばったのを、エトゥリオルはよく覚えている。

 帰り道、父親は、もう手をつないではくれなかった。彼が見上げると、視線をひどく彷徨わせて、やがてばさりと羽を鳴らした。そうしてひとり、先に飛んでいってしまった。

 そのぐんぐん遠ざかる背中を見送りながら、エトゥリオルは何度も父親の名前を呼んだ。どうやら自分が飛べるようにならないらしいということよりも、置いていかれる恐怖のほうが、そのときにはずっと強かった。



   ※  ※  ※



 ――地べた這いどうし。

 いつか背中で聞いたその言葉が、ディスプレイの図面を見つめるエトゥリオルの胸に、ふとよみがえる。

 あのとき、その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、エトゥリオルは悔しかった。悔しくて、恥ずかしくて、その場から逃げ出したかった。いなくなってしまいたいとさえ思った。

 いまは、どうだろう。

 複雑で精巧な、飛行機の図面――読み方もわからないその表示を、エトゥリオルはじっと見つめつづけた。目に残像が残るほど、いつまでも。

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