第2話


 それは彼にとって、一年半ぶりに目にする青空だった。

 ジンは目を細めて、車窓ごしの空を見上げる。よく晴れている。空の色が違う気がするのは、窓に貼られたフィルターのせいか、それともあまりに久しぶりに空を見るせいで、そんな気がするだけだろうか。

 空が広い、と感じたのは、道幅がゆったりしているのと、建物の背が低いためだ。建築物そのものは、地球の都市で見るものとそう変わらない――当然だ、地球人が作った街なのだから。

 車は自動運転で、ゆっくりと走っている。隣の席で連れが話しかけてくるのに生返事を返しながら、ジンは外ばかり見ていた。流れてゆく景色のなか、建物の上を、大きなシルエットが舞っているのが見える。

 あれがトゥトゥだろうか。ジンは目を眇める。

 イメージしていたよりも、大きい。それとも、翼を広げてゆったりと舞うその優雅さが、実際よりも彼らを大きく見せているのか。

「……だからな、今日は昼前には終わると思うけど、もし体調を崩すようだったら――」

「ハーヴェイ、窓を開けてもかまわないか」

 話を遮られた連れは、小さく肩をすくめてみせた。「いいけど――お前、いま俺の話、聞いてたか?」

「悪い、聞いてなかった」

 いいながら、ジンの手はすでに操作パネルに伸びている。ハーヴェイはため息をついて、付け足した。「風が強いから、気をつけて」

 たしかに風が強かった。たいしたスピードで走っているわけでもないのに、吹き込んだ風が、車中の空気を一瞬でさらっていく。

「なんだかなあ。お前の傍若無人なのには、たいがい慣れてたつもりだったけど……いや、まあ、相変わらずで何よりだよ」

 皮肉でもなさそうにそういって、ハーヴェイは笑う。「なんにしても、古い知り合いが昔と変わってないのを知るのは、嬉しいもんだ」

 トゥトゥらしい大きな影は、ゆったりと上空を旋回したあと、遠くのビルの屋上に降り立って行く。この風の中だというのに、思わず見とれるような、優雅な滑空だった。

「――空の色が、違うな」

 ジンは呟く。こうしてじかに見ても、地球の空とは、少し色が違う。向こうにいるときにも、惑星ヴェドの空を映した資料画像を見たことはあったはずだが、そのときには気付かなかった。

「ああ、そうだな。紫外線もこっちのほうが強いから、長時間屋外で作業するときは気をつけて――だけど、センターにも窓ぐらいあっただろう?」

 ジンはリハビリテーションセンターの部屋を思い出して、肩をすくめた。たしかにあった。嵌め殺しの、小さく分厚い窓が。

 防疫管理上の問題から、地球からやってきたばかりの人間が入るエリアは、笑えるくらい厳重に隔離されている。廊下でさえ勝手に出歩くことは許されないし、中庭のたぐいもなかった。それに――

「正直、ゆっくり窓の外を眺める気分じゃなかったな」

 いって、ジンは窓を閉めた。

 一年半にわたる長旅だった。宇宙船の中でも、欠かさずトレーニングをこなすことが義務付けられていたし、月面の宇宙港にある施設でも、低重力下でのリハビリをしてきた。それにもかかわらず、いざ惑星上に降り立ってみれば、驚くほど体力は落ちていた。

 この二週間、たび重なる検査の合間に、じれったいようなリハビリプログラムをひとつずつこなしながら、気ばかりが急いていた。仮にセンターに広い窓があったとしても、外を眺めたりはしなかったかもしれない。

「で、地球とは違う空の色を見て、帰りたくでもなったか?」

「まさか」

 首をすくめて、ジンは一蹴した。「ただ……そうだな。遠くに来たって実感は、ようやく湧いてきたかな」

 それを聞いて、ハーヴェイがにやりとした。

「ようこそ、マルゴ・トアフへ」

 芝居がかった調子だった。両手を広げて、ハーヴェイは笑う。「住めば都とはよくいうが、慣れれば地球の大都市圏なんかより、ずっと暮らしやすいところだよ。スタッフは気のいいやつらだし――お前にはきっと、こっちの暮らしは、合うと思うぜ」

 自分のほうこそよほど水が合っているような調子で、ハーヴェイはいう。ジンは思わず、まじまじと友の楽しげな表情を見た。

 この旧友が、見た目よりもよほどハードな職責を背負わされているということを、ジンは知っている。なんのことはない、自分と同じということだ。忙しければ忙しいほど活き活きとする、その種の変人ワーカホリックの顔つきをしていた。

 車は自動操縦で角を曲がる。フロントガラスに投影されたナビゲーションを見る限り、まっすぐに最短ルートで支社に向かっているようだった。O&Wヴェド支社、彼の新しい職場。

「――外に出たいな」

 ジンがそういうと、ハーヴェイは露骨にため息をついた。

「あのなあ、ジン。お前、リハビリだってまだ途中なんだぞ。わかってるのか? 今日だって、手続きのためにやっと外出許可を取ったっていうのに」

 ジンはうんざりして首を振った。

「宙港に入ってから、月面でひと月も待たされたんだぞ。挙句、ようやく地上に降りたと思ったら、今度は窓もあかない建物の中に缶詰だ。これでくさくさしないでいられるやつがいるのか?」

「まあ、わかるけど……」

 ハーヴェイは言葉を切って、少し考えるようだった。

「そうだな。ちょうどフェスティバルがあってるから、途中でちょっと車を止めて、外の空気を吸うか。――不満そうだな。いっとくけど、それ以上はドクターストップだからな。歩き回るのは、まだ早いよ」

 その言葉を聞いて、ジンはふと笑った。見咎めて、ハーヴェイが眉を寄せる。

「何が可笑しい?」

「いや。お前が医者だっていうのも、まだぴんとこない」

「失礼なやつだな。だいたい、向こうで最後に会ったときには、もう医師免許は取ってただろ」

 顔をしかめながら、ハーヴェイは操作パネルを触る。その画面を見ながら、ずいぶん旧式の車だなと、ジンは呆れた。

 けれどそれは、わざとそうしてあるのだというのも聞かされていた。へたに最新技術を使っても、地球とは違う環境で運用される上に、何かあっても、修理できる設備や人材が、向こうに比べると限られてくる。それよりは壊れにくく、修理が容易なものがいいというわけだ。長年使われて信頼性のあるものなら、なおのこといい。

「フェスティバルっていうのは?」

「ああ。各企業から金と人を出して、ハロウィン風のお祭りをね。うちの会社からは、航空ショーをやってるよ」

「――へえ」

「おい。仕事をするにはまだ早いぜ」

 呆れたようにハーヴェイがいうのに、ジンは肩をすくめた。

「見るだけだ」



 車を降りるとき、ジンは慎重に地面を踏みしめた。ふらつきでもしたら、ハーヴェイに何といわれるかわからない。

 ホログラムの動物たちが、足元をにぎやかに走り回っている。デフォルメされた猫、兎、通りの向こうにはプードルまでいる。それを見た年配の婦人が、喜んで声を上げている。こちらに移住して久しいのだろう。彼女の気持ちが、ジンにもわかるような気がした。ヴェドに生き物は持ち込めない。

 顔を上げると、やはり空が、視界いっぱいに広がった。

「――建物の背が、低いな」

「ああ、それは協定があるんだ」

 ハーヴェイはいって、ぐるりとあたりを見回した。 

「背の高い建物があると、ビル風が彼らにとって危険なんだそうだ。建物の色が全体的に地味なのも、同じ理由だよ。反射光が危ないっていうんで、地球みたいに、ガラス張りのぴかぴかした建物はつくれない」

 いわれてみれば、たしかに建物よりもほんの少し高いところを、トゥトゥらしき大きな影が、ゆったりと飛び交っている。

 色とりどりの羽――風を巧みにとらえて自在に行き来する、強い翼。

 その優美さは、鳥のそれと同種のものだったけれど、シルエットひとつとっても、地球の鳥とはずいぶん違う。体型も違うし、翼のほかにもうひと組、があるのもそうだ。資料では知っていたはずのことでも、こうして目の当たりにすれば、やはり新鮮だった。

 地上にも、歩きながら屋台を冷やかすトゥトゥの姿が目立っている。屋台といっても、その食べ物がほとんど無料で配られていることに、ジンは気付いた。

 ハロウィン風とハーヴェイがいったとおり、仮装している人々もいたが、それは地球人ばかりだった。トゥトゥにはそもそも、服らしい服を着る習慣がない。しかし彼らの羽の色はさまざまで、それ自体が仮装のように、ジンの目には映った。

 いまの時期、このあたりは晩春のころだと聞いていたが、風はそこそこ冷たかった。メインストリートには、にぎやかな音楽が溢れている。地球でいつか流行った歌に混じって、こちらの音楽だろう、聴き慣れない拍子のメロディーが混じる。ときおり色とりどりの風船が、空に放たれていく。

「派手にやってるな」

「まあね。――もとはうちの支社長が言い出したらしいんだけど、そこに国連支部のなんとかいう出先機関が乗っかってきて、けっこうおおごとになった」

「国連が?」

「そ。ファースト・コンタクトから数えれば、もう二百年から経つっていうのに、現地民との交流がなかなか進まないってんでさ。きっかけはなんでも歓迎なんだろう」

 へえ、と相槌を打って、ジンは空を見上げた。高いエンジン音が近づいてくると思ったら、空のずいぶんと高いところで、小型飛行機が曲芸飛行をやっている。車中でハーヴェイがいっていた航空ショーだろう。

 小型輸送機だった。ジンは目を眇めて、銀色の機体を見定める。戦闘機でもないのに、見事なものだ。

 しかしそれを見上げるトゥトゥたちの反応は、感心が半ば、困惑が半ばといったところに、ジンの目には見えた。

「――交流、ね。それで食いものを配って、ショーフライトか。発想が軍隊だな」

「俺もそう思う」

 いって、ハーヴェイは皮肉っぽく笑った。「しかしまあ、天気がよくて何よりだったよ。なんせこっちは、天候が変わりやすくて」

「この風は、いつもか?」

「ああ、今日は特に風があるほうかな。だけど、向こうに比べたら、ずっと、風の強い日が多いよ」

「上空はもっと風があるんだろうな」

 ジンの目が小型機をじっと追っているのを見咎めて、ハーヴェイは肩をすくめる。

「仕事にはまだ早いっていっただろ。張り切ったって、どうせあと一か月は仕事はさせられないんだ。のんびりやれよ」

「それは、医者としての意見か?」

「支社の規定だよ。焦っても無駄ってこと。ま、復帰したら嫌でもこき使われるから、覚悟しとくんだな。なんせエンジニアの数はぜんぜん足りてない――お前、なんでもやらされるぜ。こっちでは専門外って言葉は通用しないんだ」

「覚えとくよ。――と、失礼」

 ふらついた拍子に通行人とぶつかって、ジンは振り向いた。とっさに口から出た謝罪は英語だったが、そこに立って目を丸くしていたのは、地球人ではなかった。

「こちらこそ、ごめんなさい」

 目の前のトゥトゥの口から、英語で返事があったことに、ジンは意表をつかれた。地球人居留区で働くトゥトゥもいるとは聞いていたし、英語を話すものがいても不思議ではなかったが、それにしても、きれいな発音だった。

 はじめて間近で見るトゥトゥの姿に、ジンは一瞬、正面から見とれた。白くつやのある羽毛は、翼の先の方だけに茶色の斑が入っていて、その模様が目に美しい。周囲をゆきかうほかのトゥトゥに比べると小柄なように見えるけれど、それでもジンと同じくらいの背丈がある。

「リオ、大丈夫? 君、さっきから上ばっかり見てるから……」

 そういいながら駆け寄ってきた地球人の少年は、このトゥトゥの連れらしかった。そばまで近づいたところでハーヴェイのほうを見て、驚いたようすで目を丸くした。

「あれ、ハーヴェイさん? 休暇ですか?」

「なんだ、サムじゃないか。いや、いまから支社に戻るところだよ。――友だち?」

「ええ、ハイスクールで一緒だったんです。もしかして、そちらの方は――」

「ああ、そうか。こいつが君のお父さんの後任になるんだよ」

「そうなんですね」

 ジンの方を振り返って、サムは微笑んだ。そのいっぷう変わった色味の金髪や、ひょろりと高く伸びた背丈に目をとめて、ジンは驚いた。

「君は、二世代目?」

「ええ。生まれたときから、ずっとこっち。――もういっときしたら、地球に戻ることになります」

 そう話すサムは微笑んではいたけれど、そこに不安の影がにじんでいることに、ジンは気がついた。彼にとっては、ここが故郷なのだ。いくら両親のルーツだとはいっても、見知らぬ星に移住するのは不安だろう。

 ハーヴェイがふっと真顔になって、サムの肩を叩いた。

「いつか君とも一緒に働くものだと思ってた。残念だよ」

「僕もです」

 サムは、歳に似合わない大人びた表情で笑う。「――いつか僕も、こっちの飛行機、作りたかったな」

 呟いたあとで、少年はぱっと友人のほうを振り返って、笑顔になった。

「そうだ――リオ、さっきの飛行機、すごかっただろ?」

 ああいう飛行機の設計をする人なんだよといって、サムはジンを手のひらで示してみせた。

 しんみりした空気を吹き払おうと無理をしているのは明白で、その少年らしからぬ気遣いが、かえって痛々しいように、ジンの目には映った。

 リオと呼ばれたトゥトゥは、いっとき言葉を詰まらせて、嘴を開閉していた。緊張しているのか、羽を逆立たせて、さっきまでよりも全体的に膨らんで見える。いっとき口ごもってから、思い切ったように顔を上げて、口を開いた。

「あの――僕を、あなた方の会社で、雇ってもらえませんか」



   ※  ※  ※



 オーウェンアンドウィーバリー・エアプレーン・インダストリーズ。それがハーヴェイの勤務先の正式名称だ。

 創業者たちの名前がいまだに残っているという、なんとも前時代的な感のある社名だが、長くて面倒だというので、対外的にも社員的にもO&Wで通っている。

 もともとは古くからあった航空機メーカーが、多角経営化が進んだあげく、いまでは傘下に多くの企業を持つ巨大グループになっている。わざわざ遠くの星に人材を送り込んで支社を立ち上げるくらいだから、惑星ヴェドに存在する地球系の会社は、この手の大企業がほとんどだ。

 そのO&Wヴェド支社には、かなりの広さの診療室がある。慣れない異星での生活ということで、産業医の配置や健康診断の内容に、地球の企業よりもよほど厳しい制約があるためだ。

 広々とした診療室の隣、自分に与えられている事務室で、ハーヴェイは椅子を揺らしながら、電子カルテをチェックする。旧友を迎えにちょっとセンターにいっている隙に、机の端末には大量の書類が届いていた。まあ、それくらいはいつものことだ。

 来客用のテーブルで、同じく大量の誓約書と格闘していたジンが、ふっと顔を上げて呟いた。「――しかし、えらく話が早いんだな」

 件のトゥトゥは結局、今日のうちにすぐ面接という運びになった。いまごろ人事部社員の立会いのもとで、テストを受けているはずだ。

「支社の方針があるんだよ――もっとトゥトゥの雇用を増やしたいんだ。とにかく人手が足りてないからね」

 答えて、ハーヴェイは肩をすくめる。なんせ地球から技術者を呼び寄せるのには、とにかく金がかかる。あらゆる経費の中で、地球から人を連れてくるのにかかる費用が、桁違いに飛び抜けているのだ。

「だけど、うちで働きたいっていう奇特なトゥトゥは、なかなかいないからさ。――はい、ついでにこっちの同意書も電子署名サインして、一緒に人事に提出しといて」

 ジンの手元の端末に書類を転送しながら、ハーヴェイは自分の肩を揉んだ。このあとジンの手の甲にIDチップを埋める簡易手術が待っている。

 O&Wの主要事業である航空産業は、トゥトゥの間から、いまだに反対の声が根強い。反対の声よりも需要のほうが大きいからこそ、参入する余地があるわけだが、それでもやはり、ここで働きたいというトゥトゥは多くない。

「エトゥリオル、っていったな。まあ、十中八九、すぐに決まると思うよ。真面目そうな子だし――それに、聞いただろ。あの流暢な英語!」

 あまりにきれいな英語を話すので、どこで覚えたのかと尋ねると、本人ではなくて、一緒にいたサムのほうが胸を張った。もともとは僕が教えたんですけど、でもこいつ、天才なんですよ!

 褒められたエトゥリオルのほうはというと、ひどく小さくなって首を振った。

 ――そんな。僕はただ、サムから借りた地球の本や、映画が面白くて。それで。

「しかし謙遜するトゥトゥってのは、はじめて見たな」

 ハーヴェイは呟いて、口角を上げた。

「そういうものか」

「まあトゥトゥも色々なんだろうけど――珍しいタイプなんじゃないかと思うよ」

 地域差や個人差はあるにせよ、トゥトゥは概して誇り高い。その誇りに見合うだけの礼儀正しさをも持ち合わせた種族ではあるけれど、しかし多くのトゥトゥは、自己評価を低く見積もることを好まない。

 ――あの、僕、生まれつき障害があって、飛べないんです。

 おっかなびっくりそう申告したエトゥリオルのようすを、ハーヴェイは思い出す。飛べないということが、あの小柄なトゥトゥのメンタリティに関係しているのかもしれない。

 何かしらの配慮のいる相手かもしれない――少し考えて、やめた。本人をよく知りもしないうちにあれこれ憶測しても、仕方のないことだ。顎をさすって、ハーヴェイは旧友のほうを振り返る。

「ま、あとはお前の裁量が試されるってわけだ」

「――俺か」

 にやりと笑って、ハーヴェイは端末に視線を戻す。人事部の知り合いからメールが届いていた。

「人事部長のさっきのようすからしたら、まずそうなると思うね。トゥトゥのエンジニアをいずれ育てたいっていうのは、前々から出てた話だったし――お前の通訳にももってこいだ。よかったじゃないか」

「それは助かるが……まあ、いい。もう決まったも同然なんだろう。その話しぶりからすると」

「ご明察」

 メールを一読して、ハーヴェイは椅子を回す。「いま書類が回ってきたよ。案の定、優秀なもんだ」

「――それはいいが、なんでそんな書類がお前のところに回ってくる?」

 にやりと笑って、ハーヴェイはメール画面を閉じる。

「まあ要するに、人付き合いは重要ってことさ」



   ※  ※  ※



 新年度から来られるかい。そういわれた瞬間、エトゥリオルは舞いあがるあまり、言葉を失った。それから大慌てで、ぶんぶんと何度もうなずいた。

「僕なら、明日からでも」

 勢い込むエトゥリオルに、人事部長という人は目を丸くして、破願してみせた。「そいつは嬉しい心がけだが、こっちにも手続きがあるし――それに、きみの上司になる予定の人間が、まだいっときリハビリテーションセンターから出てこないんだよ」

 どのみちじきに夏になることだし、しばらく待ってくれと、人事部長はいった。

 オーリォの季節になると、若いトゥトゥの多くは旅に出てしまう。

 そのためトゥトゥの一般的な企業では、そのひと月ほどの期間、ほとんど開店休業のような状態になる。マルゴ・トアフのテラ系企業が、その慣習に合わせているというのは意外だったけれど、よく考えてみれば、彼らにとってもオーリォの季節は、取引先の多くが休みに入る時期なのだろう。

 すぐに働けないというのは残念だったけれど、それでも帰り道、エトゥリオルはずっと浮かれていた。はじめのうちは見習いという話だったけれど、それでもこれまで彼が置かれてきた境遇からすれば、夢のような話だ。

 ――そうだ、念のために聞くけど、君、成人してるよね?

 面接に入る前に、ハーヴェイからそう確認された。

 気を悪くしないでくれよ。僕らにはなかなか、見ただけじゃ君らの年齢がわかりづらくってね――ハーヴェイは申し訳なさそうに弁解したけれど、それが方便だということは、すぐにわかった。痩せて体の小さいエトゥリオルは、同胞の間でさえ、ときどき子どもと間違えられる。

 成人したのは三年も前だ。それでもエトゥリオルは、返事をためらった。その微妙な間に、ハーヴェイが首をかしげるのがわかって、エトゥリオルは慌てた。

 ――あの、法的にはとっくに成人してます。ただ、僕――生まれつき障害があって、飛べないんです。それで、一人前としてみてもらえなくて……

 飛べないことで、仕事に制約があるというだけではない。十歳を迎えた次の夏、自分の翼で最初のオーリォに出て、はじめてトゥトゥは成人したとみなされる。

 古くからの慣習だ。地域によっても差はあるけれど、ほとんどの地方のトゥトゥがいまでも似たような風習を持っている。法律上はともかく実質的に、エトゥリオルは彼らのあいだで、一人前のトゥトゥと思ってはもらえない。

 ――あの、だけど、僕。

 何かいわなくてはならないと焦るエトゥリオルに、ハーヴェイは何でもないようにあっさりと首を振った。

 ――それは特に、問題ないと思う。ここでの仕事には、空を飛ばないとできないようなものはないよ――あったら僕らが大変だ。

 そういって、ハーヴェイは笑った。それより君、手先は器用かな? 機械をさわったりするのは好き?

 勢い込んで何度もうなずいたエトゥリオルに、それはよかったといって、ハーヴェイは書類を渡してくれた。

 そのあとで面接をしてくれた人事のひとも、同じような質問をして、やっぱり、まったく問題ないといった。

 飛べないということが、彼らのあいだでは、なんのハンディキャップにもならないのだ。

 考えてみれば当たり前のことだ。けれどたったそれだけの事実が、エトゥリオルにとって、どれだけ嬉しかったか。

 面接が終わるまで待っていてくれたサムは、わがことのように喜んで、ばしばしとエトゥリオルの背中を叩いた。よかったね、ほんとによかった――

 エトゥリオルは家路を歩きながら、翼を震わせる。サム――彼に会わなかったら、こんなチャンス、巡ってくることなんてなかった。



 その夜、たった一日でがらりと変わってしまった自分の運命に、エトゥリオルは興奮して、なかなか寝付けなかった。何度となく夜中に目を開けては、昼間の出来事は夢だったのではないかと疑って、小型端末を開いては、書類の存在を確認した。

 眠りなおそうとして目を閉じるたびに、瞼の裏に浮かぶのは、あの街の空に見上げた、銀色の飛行機。

 ――あの街で、働ける。

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