マルゴ・トアフの銀の鳥

朝陽遥

第1話



 ひとりのトゥトゥが、路地から空を見上げている。

 まだ若い。小柄でせた体つきは、貧相といってもいいくらいだが、その羽毛は美しい。白い羽色の中で、翼の先のほうだけに上品なはんが入っている。

 彼の見上げる先の空では、ようやく飛ぶことを覚えたばかりだろう子どもらが、はしゃいだようすで追いかけっこをしている。まだどの子もよたよたと、飛び方が危なっかしい。ひとりが降下中の大人にぶつかりそうになって、叱られている。

 空は、よく晴れていた。高空にわずかばかりの薄雲が流れている。

 青年はふと疲れたように、視線を下ろす。同胞たちの舞う大空から、狭くごみごみした地上へ。家々の隙間を縫う路地は、ひどく曲がりくねっている上に、通りに面する家の住人らが、そこらじゅうにものを積み上げている。地上を歩いてゆこうと思えば、その隙間を縫ってゆくしかない。

 トゥトゥは町を作るとき、そもそも地面の上を歩くということを、ほとんど想定しない。火災や取り壊しに備えて、少しは家々の間隔をあけてはいるけれど、それだけだ。

 実際、地上をゆく者はめったにいない。まだ飛べないほんの幼い子どもを、どこかに連れてゆかなくてはならないだとか、飛んでは運べないような重い荷物をいてゆくだとか、とても飛べない嵐の中にどうしても出掛けなければならないだとか、そんな事情でもなければ、トゥトゥは歩いて出掛けたりはしない。

 たったひとりで地上を歩く、このトゥトゥの青年は、名をエトゥリオルという。

 ほとんどのトゥトゥがそうであるように、姓はない。ただのエトゥリオルだ。ほとんどのトゥトゥは、家柄や出自しゅつじを誇るということをしない。誇るものがあるとすれば、それはただ彼ら自身の名ひとつというわけだ。

 頭上で子どもらの楽しげな声がして、エトゥリオルはもう一度、空を見上げる。子どもたちと遊んでやっているのか、鮮やかな羽色をした若いトゥトゥが、低いところをゆったりと旋回している。

 見上げるエトゥリオルの翼が、彼らにつられたように、小さく震える。二度、三度。

 けれど美しい茶斑の翼は、それ以上動くことはない。



 長い時間をかけて、エトゥリオルはステーションにたどりついた。空を飛ぶものにはあっという間の距離も、地上をゆけば遠い。

 昨年の冬に改装されたばかりの駅舎は、賑わっていた。二階のロータリーに舞い降りるたくさんのトゥトゥを見送りながら、エトゥリオルはひとり、地上階の非常口へと向かう。体全体で押すようにして重い鉄扉を開けると、音を立てて風が吹き抜けていった。

 駅舎の中はいつ来ても、乾燥した草のにおいがする。このにおいは、いったいどこから運ばれてくるんだろう? ステーションに来るたびに、エトゥリオルは不思議になる。

 階段を下りる彼の頭上を、ひとりの子どもが勢いよく翼を鳴らして飛んでゆく。背後から、母親らしきトゥトゥの怒声が追いかけてくる。建物のなかで飛ぶんじゃありません……

 改札を抜けると、ホームはひどく混雑していた。色とりどりのトゥトゥたちが、いつになくひしめきあっている。

 本格的な“季節オーリォ”にはまだ少し早いようなのに、どうしたことだろう。エトゥリオルは首をかしげる。

 初夏になると、若いトゥトゥたちは、こぞって北に向かう旅をする。

 行き先はそれぞれだ。普通、オーリォには自分の翼で飛んでゆくものだが、旅程の一部にトラムを利用する者もいる。けれどそれで混んでいるにしては時季が早いし、それに、いくらなんでも数が多すぎるような気がした。

 困惑しながら列に並んで、エトゥリオルは落ち着きなくあたりを見渡した。トゥトゥたちに混じって、ちらほらと、異星人の姿が目につく。

 低い背丈、羽毛のないつるつるした皮膚。その上から、複雑に縫製された何枚もの布地を身にまとっている。いつ見ても、エトゥリオルにはそれが、ひどく窮屈そうに見える。

 さっき階段のところで母親に叱られていた少年が、驚いたように翼をふくらませて、じっと異星人たちを見つめている。彼らの姿が珍しいのだろう。

 その屈託のないようすに、エトゥリオルは思わず表情をゆるめる。はじめてテラ人の姿を間近で見たとき、彼もやっぱり驚いて、まじまじと相手を凝視ぎょうししてしまったのだった。

 エトゥリオルにはひとり、テラ系の友人がいる。



 三年前の入学の日、憂鬱ゆううつな思いで講堂に足を踏み入れたエトゥリオルは、その場の妙な空気に、すぐに気がついた。

 針のような緊張のにおいが、部屋中に満ちていた。敵意というほどのものではない。それでも、新しい環境を見定めようとする者たちが当然に発散する緊張感にしては、張りつめすぎている。

 原因は、すぐにわかった。前のほうの席に、ひとりのテラ人が座っていた。

 外部講師としてテラ系の技術者が招かれるようなことは、まれにあると聞いていた。けれど、そのテラ人が座っていたのは、学生の席だ。彼らのたしかな年齢は、トゥトゥには見分けがつきにくいけれど、どうもかなり若いように見えた。みなが遠巻きにする中で、たったひとり、平然と端末を操作して、資料を眺めている。

 ぽかんと見つめる彼の視線に気づいたのか、異星人は顔をあげてエトゥリオルを見た。

 ――やあ、はじめまして。

 いくらか聞き慣れないイントネーションはあったけれど、きれいな西部公用語セルバ・ティグだった。

 テラ人の少年は、にっこりと笑ってみせた――その表情が彼らの笑顔であるということくらいは、メディアを通じてエトゥリオルも知っていた。それから少年は、さりげなく身を引いた。

 そのジェスチャーは、隣の席にどうぞといっているように、エトゥリオルの目には見えた。実際、そうだったのだろう。座らないのかいというように、少年は彼をじっと見上げて、首をかしげた。

 それにつられて、エトゥリオルは少年の隣の席に座った。それからあらためて、まじまじと異相の級友を見つめた。へんにつるつるした顔や手足、窮屈そうな服――それにトゥトゥとはまったく違う骨格。

 トゥトゥ用の椅子は、座りにくくはないのだろうか? そうエトゥリオルが訊ねると、少年はもう一度、にっこりと笑った。

 ――ありがとう。君、優しいんだね。

 親しくなるのに、時間はかからなかった。異星人とはいえ言葉は完全に通じたし、何よりサムは、いいやつだった……



 出発時刻を告げるアナウンスが流れる。物思いから我に返って、エトゥリオルは瞬きをした。ホームで列車を待つトゥトゥの姿は、ますます増えている。

 静かにホームに入ってきた車体は、最新式の、大きなものだった。

 交通機関は年々発展を見せている。近ごろではその多くに、テラ系の技術が使われている。そのことを苦々しく思っているトゥトゥもいないではないけれど、もともとが旅好きの種族だ。遠距離の旅行が手近になったこと自体は、おおいに喜ばれている。

 ドアが自動的に閉じて、列車はゆるやかに加速をはじめた。振動は少なく、車内は静かなものだ。

 あのテラ系の友人も、ついこの間まで、こうしてトラムに揺られながら、あの学校に通っていたのだ――いまさらのように気付いて、エトゥリオルは車内をまじまじと見渡した。ぴかぴかの新しい内装、座り心地のいい座席。

 向かいの席に、ひとり、テラ人が座っていた。手元の端末を、ずいぶん熱心に覗き込んでいる。何を調べているのだろう。

 エトゥリオルは、かつての日々を懐かしく思い出す。サムもよくあんなふうに、調べ物をしていた。そうしてエトゥリオルに気付くと、ぱっと顔を上げて、屈託なくいった。ねえ、リオ、ちょっと教えてくれるかい……



 トゥトゥの社会では、成人したあとも数年間は、仕事の引けたあとに学校に通うのが一般的になっている。エトゥリオルが入学したのも、そうしたハイスクールのひとつだった。

 不自由な翼のために半端仕事しかもらえない彼の懐では、学費を捻出ねんしゅつするのは苦しかった。それでもエトゥリオルが入学を決めたのは、兄の説得に押し負けたからだった。

 お前みたいなやつだからこそ一つでも多くを学ぶべきだと、兄はいった。その言い分には、説得力があるような気がした。

 入学の日、どうにも気の重いまま、エトゥリオルは講堂に足を踏み入れた。勉強自体は嫌いではないけれど、友人を作ることが苦手なエトゥリオルにとって、集団生活を続けなくてはならないということは、どうしても気鬱きうつの種だった。

 けれど結果的に、彼の学校生活は楽しいものになった。初めて出来た、親しい友人のおかげで。

 トゥトゥの学校にたったひとりで飛び込んできたくらいだから、サムはもとからトゥトゥの文化に関心があったのだろう。彼の尽きることのない質問の嵐に、呆れることなくいつまでもつきあうのは、エトゥリオルくらいのものだった。

 サムにものを教えているあいだ、エトゥリオルは自分がまっとうな、一人前のトゥトゥであるかのように錯覚することができた。いろんなことを教えたし、それに、いろんなことを彼から教わった。サムの話す異星の文化は、いつでも興味深かった。

 テラにはニックネームという文化があることも、彼から教わったのだ。彼、サム――サミュエル・フォグナー。

 ――君らにとっては、相手の名前をきちんと発音するのが礼儀なんだろ?

 そういうサムに、エトゥリオルはうなずいて、それから微笑んだ。

 ――うん。だけど、君たちのやりかたは、なんだかいいね。親しい人にだけ許す呼び方っていうのは。

 エトゥリオルがそういったのは、半分は、サムがエトゥリオルの名前を発音するのに、苦労している節があったからだ。

 発声するためのしくみ自体が違うのだから、いくら機械で補助しているといっても、無理があるのだろう。それまではずっと気付かないふりをしていたけれど、このときエトゥリオルは、これはいい機会かもしれないと、気付いたのだった。

 ――リオ、だったら、呼びやすい?

 エトゥリオルは遠慮がちに、そう口にだした。それはサムから借りた小説に出てきた、テラ人の登場人物の名前でもあった。テラ風の名前なら、きっとサムにも発音しやすい。

 サムの返事を待つ間、エトゥリオルは死ぬほど緊張した。ほんの呼吸ひとつぶんの間に、三回は図々しかっただろうかと考えた。

 サムはブルーの目をぱちくりとしばたいて、それからおそるおそるというふうに、確認した。

 ――だけど、君……いいのかい。

 エトゥリオルは羽を膨らませて、大きくうなずいた。

 ――君がそう呼んでくれたら、すごく、嬉しい。

 エトゥリオルはいまでも、誓っていえる。その言葉に、羽毛のひとすじほども嘘はなかった。

 もしそれが彼ではなくて、自身の名に高い誇りを抱くほかのトゥトゥだったなら、名前を縮めて呼ばれたりした日には、侮辱ぶじょくだと言って怒りだしたかもしれない。けれどエトゥリオルにとっては、本当に嬉しかったのだ。親しい友人の証、というものが。

 そのことをきっかけに、ますます彼らは親しくなった。いつか卒業して別れ別れになるのだと思うと、つらくなるくらいだった。

 テラ人たちの居住区で働くトゥトゥもいると聞いていた。もしかしたらエトゥリオルもいつか、そこで仕事をすることがあるかもしれない――その考えは、いつからか頭の片隅にあった。確固たる人生の目標なんていうことではなくて、ただ単純に、サムと同じ場所で働けたら楽しいだろうなというような、漠然とした思いだったけれど。

 エトゥリオルにとって、あのころ、毎日が楽しくてしかたなかった。

 ――地べた這い同士、気が合うんだろうさ。

 誰がいったのかもわからないその言葉が、背中に突き刺さった、あの日までは。



 どうしてあのとき、僕は怒らなかったんだろう?

 エトゥリオルは羽をしぼませて、座席に深く埋もれる。そうすると、ただでさえ痩せて小さな彼の体は、ますますみすぼらしく見えた。

 トラムの車窓から見える単調な光景は、鏡のように車内の様子をうつす。乗り物での遠出にはしゃいだ様子の子どもたち、静かに考えにふけっている年配のトゥトゥ――小さく縮こまって、卑屈ひくつな眼をした、やせっぽちの彼自身。

 サムはあの日以来、エトゥリオルに話しかけるのを、ためらうようになった。眼が合えば微笑むけれど、積極的に近づいてはこなくなった。

 それでもエトゥリオルのほうから、近づいてゆけばよかったのだ。何もなかったような顔で、明るく挨拶をして、前日までの続きの、たわいない雑談を持ちかければよかった。前に借りた本の感想だとか、教え方の悪い教師への不平だとか、そういうことを。

 どうしてたったそれだけのことが、できなかったのだろう。

 エトゥリオルは子どもの頃から、自分から人に親しく話しかけるということが、ひどく苦手だった。空を飛べない彼は、年の近いトゥトゥからは、たいてい馬鹿にされるか同情されるかのどちらかで、たまに誰かと少し仲良くなれたような気がしても、親しく付き合い続けるのは難しかった。たとえばちょっとそのあたりまで一緒に遊びに出掛けるというようなことが、エトゥリオルがいると、一々難しい。相手にわずらわしさを感じさせていると感じるたびに、気が引けてしまうのだった。

 そうしたことの積み重ねが、エトゥリオルを委縮いしゅくさせた。やがて彼は、ほかのトゥトゥと親しくなるということをはじめから諦めるようになり、その癖は、大人になってもなおらなかった。たまに向こうから話しかけてくれる相手には、なるべく礼儀正しく振る舞うこと――それがエトゥリオルにとっては、ずっと、精一杯だったのだ。

 うつむいて、エトゥリオルはポシェットを探る。取りだした小型端末の画面に表示しているのは、フェスティバルの案内だ。見慣れない動物や乗り物のイラストの上に、華やかな色彩のロゴで、今日の日付と場所が躍っている。

 サムから送られてきたものだった。

 その案内チラシが送信されてきたのは、卒業のすぐあとのことだった。もし都合がつくようなら遊びに来ないかと、遠慮がちな文面が、そこには添えられていた。

 ステーションが近くなり、列車がゆっくりと速度を落とす。正面の席のテラ人が顔を上げて、端末を荷物に放り込む。テラ人が好んで使う大きな手提げ鞄が珍しいのか、隣に座っていたトゥトゥの少年が手を伸ばして、母親にたしなめられている。

 アナウンスされた駅名は、マルゴ・トアフ。古い西部公用語で、水辺の町という意味だ。この惑星上にたったふたつっきりしかない、テラ系移民街――そのひとつ。



 列車から吐き出される乗客の波に押されて、ようやくエトゥリオルは気がつく。この大勢のトゥトゥたちは、自分とおなじくフェスティバルのためにやってきたのだ。

 こんなにたくさん乗っていたのか……エトゥリオルは振り返って、走り去る列車を見送る。

 改札を出て、エトゥリオルはトゥトゥたちの混雑から、すっと離れた。まっすぐに二階のロータリーへのぼってゆく彼らに背を向けて、地上の通用口を目で探す。

 前方に、思っていたよりもずっと立派な出入り口があって、エトゥリオルは首をかしげた。それから、遅れて気がついた。いま、青年の周りには、何人ものテラ人たちが行き交っている。

 彼らのあとに続いて自動扉を抜けながら、エトゥリオルはしきりにまばたきをする。ほかの人々といっしょの玄関を使うということに、彼は慣れていない。

 彼らにとっては、これが普通なんだ。

 そのことを納得したのは、ステーションの外に出てからだった。地上に並ぶいくつもの施設――地上を歩くたくさんの異星人たち。

 彼らは逆に、地上階から出入りするトゥトゥを見慣れないのだろう。おや、という顔でエトゥリオルに視線を向けて、通り過ぎてゆく。

 サムはあの学校に通うあいだ、どんな気持ちだったんだろう?

 そのことを、いまはじめて考えた自分に気がついて、エトゥリオルはショックを受けた。

 いつだって自分のコンプレックスを持て余すばかりで、友の苦労に思いをはせることを、ほとんどしてこなかったのだった。

 会いにいく勇気がしぼんだ。

 エトゥリオルは立ち止まって、地面に落ちる自分の影をみつめる。いったいどんな顔をして、サムに会えるというんだろう?

 このまま引き返してしまおうか。サムの端末に、都合が悪くなったと連絡をいれて。

 長いこと、迷っていた。やがてすっかり周りの人影がまばらになるころ、エトゥリオルはようやく顔を上げた。

 いまサムに会わずに帰ったら、このさき一生、友達なんか、ひとりもできないような気がした。

 ありったけの勇気を振り絞って、エトゥリオルは足を踏み出す。街の中心部へ向かって。



 ステーションのまわりには、たくさんの花々が植えられていた。整えられた花壇、たくさんのプランター。

 いっときそれらを見渡して、エトゥリオルは気付いた。それらの花々はおそらく、空から見下ろしたときに、いっそう美しく見えるように配置してあるのだった。この日のために準備したのだろう。

 マルゴ・トアフの街並みは、彼の目には、とても新鮮にうつった。建物同士の間隔が大きくあいていて、道が驚くほど整然としている。そしてとにかく、広い。ほとんどの人が、当たり前のように地面の上を歩いている。

 フェスティバルを見に来たトゥトゥたちの大半は、普段どおりに空を飛んで移動しているようだったけれど、中には面白がっているのか、テラ人たちの真似をして歩いているトゥトゥも、ちらほらといた。

 視界の隅を鮮やかな色が横切って、エトゥリオルは顔を上げる。色とりどりのバルーンが、風に飛ばされてゆくところだった。それを追いかけて、子どもたちが飛んでゆく。

 あんなにたくさん飛ばして、大丈夫なのだろうか? 上空の鳥たちを驚かせはしないだろうか。

 心配になったエトゥリオルが見守るうちに、バルーンは次々にはじけて、あとかたもなく消えていった。そのあとから、また新たなバルーンが放たれてゆく。ホログラフ? それともシャボン玉のようなものだろうか。

 いくらでも上ってゆくバルーンを、目で追いながら歩いているうちに、エトゥリオルは前方の広場に、友の姿を見つけた。待ち合わせ場所の噴水の前。全体に小柄なテラ人たちの中でも、特に小さく見える。まだこちらに気付いたようすはない。

 いまならまだ、引き返せる。また気持ちがくじけそうになって、エトゥリオルは足をとめた。

 迷う彼の視線の先で、サムは手元の端末をしきりに眺めては、顔を上げて周囲を気にしている。列車の時間は伝えてあった――エトゥリオルがなかなかやってこないので、心配しているのに違いなかった。

 意を決して、エトゥリオルは駆けだした。走りながら、大きく息を吸い込む。

「サム!」

 叫んだ瞬間、緊張のあまりに、体中の羽が逆立った。

 けれどサムはぱっと顔を上げて、笑顔になった。それからちっともためらわずに、両手を大きく振った。

 噴水の前に駆けつけるのと同時に、サムが飛びついてきた。

「よかった、会えた!」

 エトゥリオルが目を白黒させているのに気付いたのか、サムは抱擁ほうようを解いて、彼の背中をばんばん叩いた。「来てくれないかと思った」

「待たせてごめん」

 ばつの悪い思いで、エトゥリオルは尾羽を垂らした。けれどサムはぶんぶんと首を振って、笑顔になった。

「道はすぐにわかった? ステーションまで迎えにいくっていったのに」

「ありがとう。でも、一人で歩いてきてみたかったんだ。子どもみたいで恥ずかしいんだけど……」

 そんなことないよと微笑んで、サムはもう一度、エトゥリオルの背中を叩いた。

「なんだかすごく久しぶりみたいだ。――元気にしてた?」

「うん。君は……いつも元気そうだ」

 思わず本音が出たけれど、サムは歯を見せて笑った。そのいたずらっぽく光るブルーの目を見て、エトゥリオルはほっとした。前のように話せていることが、嬉しくてたまらなかった。

「――今日、来てくれてよかった」

 サムが急にしんみりというのに、エトゥリオルは瞬きをした。サムはいっときうつむいていたけれど、やがて顔を上げて、いった。「僕、地球に帰ることになったんだ」

 はっとして、エトゥリオルは友の瞳を覗き込んだ。

「帰るって――」

「一度も行ったことのない場所に、帰るっていうのも、ちょっとへんな話だけどね」

 サムはそんなふうに、笑ってみせた。彼はこちらで生まれて、故郷の星を知らない。

 彼らの母星までの道のりは、何年もかかると聞いた。エトゥリオルは慌てて口を開いた。

「だけど、君、ずっとこっちにいるんじゃなかったのかい」

「その予定だったんだけど……」

 サムはうつむいて、口早にいった。「うちの両親が、ふたりして本社に呼び戻されることになったんだって。僕だけでも残りたかったんだけど……居住権とか、難しいみたい」

 それきりサムは口をつぐんで、いっとき足元を見つめていた。

「そうか――君、まだ未成年だった」

 普段は忘れているその事実を思い出して、エトゥリオルは言葉を詰まらせた。サムはうなずいて、またちょっと笑った。

「うん。君たちみたいに、十歳で成人だったらよかったんだけど」

 そういって空を仰いだサムの瞳に、空を流れる雲がうつりこむのが、エトゥリオルから見えた。いっとき二人は黙りこんで、広場の楽しげな喧騒けんそうから切り離されていた。

 言葉を探し、何度もためらったあとで、エトゥリオルはようやく口を開いた。

「――いいほうに考えようよ。君、いつかはテラに行ってみたいって、いってたじゃないか」

 口に出してから、無神経だったような気がして、エトゥリオルは気がふさいだ。けれどサムは笑ってうなずいた。

「そうだね……うん、それはちょっと楽しみではあるんだ」

「――いつか、戻ってくるんだよね」

 縋るように、エトゥリオルはいった。サムは何度もうなずいた。それから少しためらって、続けた。「そのつもりでいる。――でも、自分の力でこっちにやってくるのって、けっこう大変なことみたいなんだ。時間がかかると思う」

 今度こそ言葉を失って、エトゥリオルは口をつぐんだ。またうつむいてしまったサムの頭のてっぺん見つめたまま、いくつもの言葉を飲み込んだ。

 いっときして、サムは急に、ぱっと顔を上げた。「ねえ、メインストリートに行こう」

 面食らうエトゥリオルの中肢を引いて、サムは笑う。無理に笑って見せているのがわかる笑顔だった。

「もうじきショーがあるんだよ。あっちのほうがよく見える」

「ショー?」

 聞き返すと、サムの眼がきらりと光った。「そう。詳しいことは、見てのお楽しみ!」



 メインストリートは、なかなかのにぎわいを見せていた。

 さっきまでいた場所とは違って、道の中央には車道があり、そこには驚くほど小さくてスマートな自動車が、整然と走っている。

 サムから教えてもらったテラの本やムービーで、彼らの自動車を見たことは何度かあったけれど、実物を間近に見て、エトゥリオルはあらためて驚いた。

 トゥトゥにとっての自動車というものは、もっと大きくて、たくさんの荷を積んで街の外を走るものだ。それはたとえば、トゥトゥの手で運ぶには重すぎるような物資を、トラムの通らない場所へ運ぶような機械であって、ひとの移動のための乗り物ではない。

 歩道を歩く人の数は多い。サムがいったとおり、仮装している人がちらほらと混じっている。ときどきぎょっとするような格好のテラ人もいるけれど、エトゥリオルと眼が合うとにっこりと笑い返して、ときには手まで振ってくれる。エトゥリオルはしじゅう面食らったまま、サムについて歩いた。

「今日は、何のお祭りなんだい」

「ええと、なんだっけ。ハロ……ハロウィン、だったかな? 地球でなんかそういう名前の、仮装してやるお祭りがあって、今日はその日っていうことにしたんだって。でも、向こうとは暦も同期してないんだし、そのへんけっこう適当みたいだよ。騒げればなんでもよかったんじゃないかな」

「へえ」

 たしかに、通りを歩くテラ人たちの表情には、どこか浮かれたような明るさがあった。

 通りを歩くトゥトゥには子ども連れの姿が多いのに対して、異星人たちはほとんどが大人だ。こっちで生まれ育った子どもはまだあまり多くないのだと、いつかサムがいっていた。

 広々とした歩道のそこここに、色とりどりの屋台が出ている。そこに立ってお菓子や飲み物を振る舞うひとたちの中には、テラ人もいれば、トゥトゥもいた。配られているのは、テラ風のお菓子やジャンクフードがほとんどだが、その多くは、トゥトゥにも食べられるように工夫してあるようだった。

 歩く二人の足元を、小さな動物が音もなく駆け抜けてゆく。驚いて声を上げたエトゥリオルに、サムが笑い声を立てた。「ホログラムだよ」

 いわれてまじまじと見れば、たしかにそれは、映像だった。きれいな毛皮をした四足の動物が、気持ちよさそうに伸びをして、一声にゃおん、と声を立てる。その鳴き声は、どこか違う場所から聞こえてきたようだった。気付けば大通りのそこここを、似たような動物が駆けまわっている。

「ああ、これ、母さんがプログラムしてたやつだ。こういうことになると無駄に凝るんだから……」

 サムが伸ばした手は、あっさり映像を突き抜けて、その上に乱れた光がおどった。

「これ、なんていう生き物?」

「猫だよ。――僕だって、映像でしか見たことないけど」

 なんだか楽しくなって、エトゥリオルもサムの真似をして手を伸ばした。けれどホログラムの猫はしらんぷりをして、さっさとどこかに行ってしまう。

「可愛いね。誰か連れてきたりはしないのかな……」

「よその星の生き物を持ち込むのは、難しいんだって。生態系への配慮とか、色々」

「そっか、そうだよね」

「もっともそういう僕ら自身が、まずよその星の生き物だ」

 そういって、サムはちょっと皮肉っぽく笑った。「ああ、ほら、そろそろだ――」

 サムの指さす先を見上げて、エトゥリオルはぽかんと口を開けた。

 正面、通りのずっと向こうの空から、何かが飛んでくる。

 ものすごい速さだった。トゥトゥたちが飛びかうような空よりも、はるかに高いところを、銀色に光るものが、まっすぐに駆けてくる。先頭にひとつ――そのあとに続いて、みっつ――

 それはあっという間に、頭上を通り過ぎて行った。追いかけて巡らせた首が、痛くなりそうだった。

「ねえ、いまの――」

 聞きかけて、エトゥリオルはすぐに言葉を飲み込んだ。飛び過ぎていった四つの光が、旋回して戻ってくる。

「飛行機。フライトショーをやるんだって、父さんから聞いてたから。君、こういうのあんまり見たことないだろうと思って」

 ――飛行機。

 報道の中でしか知らなかったその言葉を、エトゥリオルは繰り返す。

 条約によって飛ぶ場所を厳しく制限されているという、テラ人の乗り物。報道の中で小さく映っているところなら、何度も見たことがある。それでも記憶のなかの機械と、いま空を行き交うそれを、エトゥリオルはうまく結びつけることができなかった。だって、こんなに速い――

 それは、まるで鳥のように編隊を組んではいたけれど、鳥のようでも、トゥトゥのようでもなかった。

 優美な軌道を描いて、高い空に翻る、銀色の翼。よく晴れた空のなか、地上のひとびとをからかうように、軽やかに踊っている。

 エトゥリオルは言葉を失って、空を見上げる。

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