第13話 「日本人の生存本能」を使って、日本を分析してみよう。
ここからは、これまでに見つけた「各国の生存本能」の使い方について、解説していきます。
簡単に言うと、「外国人の変な行動や変な考え方」を「各国の生存本能」を通して見ると、今まで見えてこなかった、いろんなものが見えてくるよ、という話です。
私達から見て、謎だった行動や考え方が、簡単に理解出来るようになります。
あとは分かったことを増やしていき、積み重ねるだけです。
積み重ねた分だけ、その国の人の行動が、理解しやすくなります。
では実際に各国の生存本能を使って、それぞれの国の変な行動を分析してみましょう。
ではまず、日本人の生存本能から。
日本人は「問題が起きると全滅する」と、本能の部分で信じています。
これは「外国から見て変なところ」である「空気を読む」と、日本の特徴である「地震、台風、津波などの災害が多すぎる」から推測することができます。
空気を読むとは、言い換えると「問題になることを言わない」ということであり、「問題を発生させない」ということにも繋がります。
そして、日本の大きな特徴である地震、台風、津波などの災害。
これらを合わせて読み解くと、日本人は「災害が起きると全滅する」と思っている国民であることが推測できます。
これが生存本能として、「災害が起きると全滅する」から「問題が起きると全滅する」へと変化して根付いていったのが、日本人ということになります。
この日本人の生存本能は、本当にあらゆるところに見ることが出来ます。
「空気を読む」もそうですし、「多機能・高性能な製品」もそうです。
「交番」や「八百万の神々」「切腹」「裁判」「犯罪の少なさ」「おもてなし」など様々なものに、日本人の生存本能は存在します。
「問題が起きると全滅する」=「災害が起きると全滅する」という生存本能は、本当に深く多くの日本人の行動に浸透しています。
どんなものにでも問題という、「災害のかけら」を見つけてしまうのが日本人なのかもしれません。
それは、地震、台風、津波などの自然災害だけでも大変なのに、他の災害の相手なんてしてられない。というのが日本人の本心の吐露のような感じさえします。
この日本人の生存本能が分かることによって、今まで日本人である私たちですら知らなかった、日本人の行動の意味を知ることが出来るようになります。
では、この日本人の生存本能が見えると、どんなことが分かってくるのか、実例を挙げて解説してみましょう。
「空気を読む」
すでに説明したとおり、日本人の生存本能を表す、代表的な例です。
空気を読むとは、言い換えると「問題となる言葉や行動を、出さない」ということであり、問題発生前に問題の発生自体に対処してしまう行動です、
言葉にしただけで、問題が発生してしまう。そんな状況をいち早く察知し、対処してしまうのが、「問題が起こったら全滅する」という生存本能を持つ、日本人ということになります。
当然、外国人にはなかなか真似ることが出来ません。
問題が起こったら全滅すると思っているのは、日本人だけなので、そんなことをする必要が無いのです。
なので、外国人にとって、もっとも難しい行為となってしまいます。
また、この行動を外国人と比べて、消極的や分かりにくいと捉える向きもありますが、この行動のおかげで、日本人同士での問題の発生が減るわけですから、卑下する必要はないかと思います。
どちらかというと、日本人として誇るべき行動でしょう。
まあ、外国や外国人には通じない行動かもしれませんが。
「なぜ日本製は、精密・多機能なのか?」
問題の発生を嫌う日本人が製品を作ると、製品はどんどん精密に、多機能になっていきます。
これは、日本人の生存本能が作用してのことなので、他の国の人は、なかなか真似できません。あらゆる問題を解決しないと気が済まないので、どんどん製品は緻密になっていくということです。
そして問題を解決していくと、機能が増えていくということになります。
日本人は指先が器用といわれていますが、それ以上に細かい問題点が目に入ってしまう人達なのかもしれません。そして、問題点は解決しないと安心できない国民なのです。
ここで重要なのは、日本製品は精密なものや多機能なものが多いですが、いきなり精密なものや多機能なものが出来上がっているわけでは無い、ということです。
小さな問題点を一つ一つ解消していく、その積み重ねの結果が、精密や高品質、多機能といった製品の特徴として現れているということになります。
このように「問題が起こると全滅する」という日本人の生存本能が、日本製品の質を高めているとするなら、日本製品の質の決め手となるのは、実は毎日コツコツ作業を積み重ねている、サラリーマンや技術者かもしれないということが見えてきます。
日本の価値は、企業のトップが出しているのではなく、毎日作業を続ける、名も無き技術者やサラリーマンである可能性が高いということです。
そういうコツコツ毎日問題を解決する人こそ、日本製を支える鍵になる人材、日本の宝ということになります。
「ルールを守る。清潔。列に並ぶ」
これも問題が発生すると全滅すると思っている日本人らしい行動と言えます。
問題が起こることが嫌だからやっていることです。
それでも、突然高度なルールが出来たわけでも、突然清潔になったわけでもありません。
昔はたくさんのゴミがあったはずですし、ルールも穴だらけだったはずです。
それらの問題を少しずつ解決し、問題解決を積み重ねることによって、ルールは整備され、街は清潔になっていったということです。
二〇二〇年のオリンピックに向けて、街中にあふれているローマ字表記の案内板は、外国人にも読める英語表記に書き換えられます。
これも問題に対処するという例の、一つになります。
「分からないものは排除される」
日本には、今の日本社会に理解出来るものと、今の日本社会に理解出来ないものの、二つがあります。
前者は社会に受け入れられ、順風満帆に道を進むことが出来ますが、後者は問題を発生させる存在として攻撃され、排除されます。
問題が起こると全滅すると思っている日本では、問題を発生させる存在は、排除すべき敵になってしまうということです。
これは生存本能が機能してのことなので、なかなか抑えることは出来ません。
事件が起こるたびにマスコミが、マンガやアニメを攻撃するのは、マスコミに所属する人にとって、マンガやアニメは理解出来ないものだからなのかもしれません。
つまり、理解出来ないものは、問題のあるものであり、問題のあるものは何が何でも排除したいという理屈です。
もしかりに、日本の生存本能が働いての行動なら、かなりやっかいであることが容易に予想できます。
問題の放置は、命に関わるので。
一方、排除される側のマンガ好き、アニメ好きは当然アニメやマンガを問題視していませんから、攻撃される理由が分かりません。
そして、問題の無いアニメやマンガを攻撃するマスコミ自体が、問題を起こしているように見えてしまいます。
互いの意識がすれ違い、互いを敵とする姿は悲劇以外の何物でも無いように感じます。
まずは、お互いの見ているものが違うことを確認し合い、本当に問題があるのか、整理し合うことから始めるのがいいと思います。
ただ、一方に聞く耳を持たない者がいるだけで、解決は不可能になってしまいますが。
そしてその行動の裏側には、やはり問題を許したくないという生存本能が隠れているかもしれないので、注意が必要です。
「出る杭は打たれる」
問題を起こす者を叩きつぶすのが、日本人の生存本能です。
それが新しい道を突き進む者であったとしても、です。
だから、スティーブ・ジョブスのような突出した才能が出てきません。
周囲から理解されない突出した才能は、問題を発生させる者として、叩きつぶされるということです。
では、日本で出ることが出来る才能は何かというと、周囲に理解できる範囲での突出した才能か、毎日こつこつ積み重ねる技術職やサラリーマン系ということになります。
そういう人は、日本では天才ではなく、職人と呼ばれます。
日本の中小企業の技術者の一部が、世界トップの能力を持っているのには、そういう秘密があるのではないかと、推測することができます。
「八百万の神々とは?」
あらゆるものに神が宿っているという、日本独特の世界観を表した言葉です。
では、この言葉を日本人の生存本能で読み解くとどうなるのか?
「あらゆる物は、問題を起こす可能性がある」、だから「あらゆる物を、神の宿っている物のように」大切に扱おう。
これが、日本人の生存本能で読み解いた、「八百万の神々」です。
そう日本人は、すべての物の中に問題を見つけてしまう国民なのです。だからすべての物を大切に扱って、問題を起こさせないようにしようとしているのです。
八百万の神々の場合、偉大なものだから神様なのではなく、「問題を起こす可能性のあるもの」だから神様のように大切に扱おうなのです。
このような事例は他にも、見ることが出来ます。
たとえば日本では、災いをもたらすと恐れられている神も、大切な神様として祀るということがあります。
これは、その災いの力を自分たちに向けさせないためではなく、災いという問題自体を発生させないようにするために、祀っているということが考えられます。
逆に言うと、問題を起こしそうな神様を監視したり、なだめたりするために祀っているということです。
外国の世界観を通して見ると信じられないことかもしれませんが、日本では「問題を起こしそうなもの=神」という場合もあるということです。
八百万の神々というのは、日本書紀の時代には存在していたとされる、神道の考え方です。
ということは、このくらい前には、日本人の生存本能はすでに確立していたということが推測できます。
それは同時に、こんなにも前から日本人は、災害に悩まされていたということの証明でもあります。
「世界が驚いた、略奪のない日本」
東日本大震災の時、たくさんの外国メディアが入り、冷静で秩序のある日本人の姿を報じ、賞賛ました。
しかしこのような姿は、日本人にとっては当たり前のことであり、驚くことではありません。
ではなぜ日本人は、このように行動できるのか。
日本人の生存本能を使って分析すると、こうなります。
災害が起きると全滅すると思っている国民にとって、災害発生中に新たに問題=災害を起こそうというのは、全滅への引き金を引きかねない、自殺行為です。
だから、暴動も略奪も、普通の日本人には出来ません。
このような災害中に、新たな災害を起こせるのは、日本人の中でも、真の犯罪者か馬鹿だけです。
生存本能として、日本人は問題を起こせないようになっているのです。
これは災害に対して生き残るために、日本人が編み出した唯一の手段であり、生存方法です。
問題を起こさないというのは、消極的な問題解決方ではなく、生き残ろうとする日本人の必死な姿だと理解してください。
「おもてなし」
同じく東日本大震災の時、救助のためにやってきた他国のレスキュー隊に対して、もてなせなくて申し訳ないと思う被災者がいて、他国のレスキュー隊を驚かせました。
これも日本人の生存本能が働いた結果だと、想像できます。
普通の日本人にとっては、八百万の神々と同じく、外から来た人も、問題を起こすかもしれない存在なのです。
その問題を起こすかもしれない外から来た人を、災いの神ではなく、福の神にするための行動が、日本の「おもてなし」になります。
災害時でも「おもてなし」を忘れないというのは、それが日本人にとっては当たり前の行動になっているからということです。
そして、外から来た人をもてなさずに帰すことは、問題を起こすかもしれない存在をそのまま帰すことになり、大変危険です。
それでは、よそ者をお客様にも、福の神にも出来ません。
そして、問題を解決しないことは全滅にも繋がります。
だからこそ、問題を発生させないためにも、少しでも余力のある人は、わざわざ遠方から来た人に対して、「おもてなし」をするということです。
それはねぎらいの行為でもあり、感謝を示す行為でもあり、日本人一人一人が獲得した、全滅を防ぐための積極的な防衛手段でもあるということです。
「すみませんが口癖。すぐ謝る」
「すみません」は問題発生を防いだり、問題をこれ以上大きくしないための言葉であり、そこには、謝罪や感謝などその場にあった複数の意味も込められています。
日本人はそれを知っているので、「すみません」をただの謝罪やネガティブな意味には捉えません。
その場を納めるために必要な言葉であったり、感謝を表す言葉であったりと、使い方や意味は様々です。
謝罪オンリーと外国人は思ってしまいますが、問題発生を防ぐための武器が「すみません」であるということです。
このようないっけん消極的に見える、積極的な防衛行動は「おもてなし」にも共通します。
すべて、問題解決したいという、日本人の生存本能が働いているからこその行動と見ることが出来ます。
「謝るから見た国際常識と、日本の非常識」
「問題が起きたら全滅する」と思っているのが、日本人です。
なので日本人は、問題を収めるためには、多少損をしても良いと思ってしまいがちです。だから、自分に非がなくてもその場を収めるために、謝ってしまうことがあります。
ですが、世界の常識では自分に非がある時しか謝りません。
もっと厳密に言うなら、自分に非があっても謝らない国すらあります。
そんな国際常識の中で、すぐに謝ってしまう日本は、相当酷いことをしたから謝ったのだと、国際社会から自動的にそう思われてしまいます。
このズレが、日本への誤解に繋がり、日本への非難へと発展しているのです。
そして今でも、国際社会の中で日本が様々な問題をこじらせているのは、非がないのにも関わらず意味なく謝ってしまったからだと、考えることが出来ます。
意味なく謝るのは誤解を生むだけであり、問題を大きくするだけです。誰のプラスに もなりません。
なぜなら、日本人の生存本能を持っているのは、日本人だけであり、どういう目的や意味があって、日本人が謝っているのか、正確に理解できるのは日本人だけだからです。
国際社会相手に行動するなら、国際社会に伝わらない「日本人の生存本能に従った行動」ではなく、きちんと伝わる国際常識にそった行動をしなければならないということです。
そうでないと、こちらの意思は正確に相手に伝わりません。
日本人の生存本能に従って謝っても、相手に真意が伝わらないばかりか、より事態を混乱させるだけという場合もあるのです。
「抗議を嫌う。主張が弱い」
日本人は海外の人から見ると、問題は起こさないが、世界一分かりにくい旅行者と思われています。
なぜなら、問題を起こさないのと同時に、不満などのネガティブなことも、旅行先では口にしないからです。
これでは、日本人が何に不満を感じているのか、外国の人には分かりません。
そして、旅行先での不満は、帰ってから口にするのが、一般的な日本人のようです。
ではなぜ日本人は、旅行先で不満を口にしないのでしょうか。
答は簡単で、やはり日本人の生存本能があるからです。
問題を起こすことは全滅に繋がると思っている。だから、極力自分からは問題を起こしたくない。
そして、不満を口にすることも問題発生に繋がると思っているので、旅行中に何かあっても、その場で不満を口にしない。
旅先で問題を起こさない代わりに、帰ってから文句を言うのが日本人ということになります。
「マタニティハラスメント」
「妊娠=問題」と捉えて、攻撃している可能性があります。
だとしたら、これは積極的な防衛本能であり、攻撃している側に、悪意や罪悪感はないのかもしれません。
「妊娠=問題」になってしまっているということは、問題と思えるくらいには、毎回面倒なことが起こっているのでしょう。
これは間違いなく、制度不備です。
妊娠が問題にさえならなければ、人々や妊婦を攻撃する人は、日本社会の中で極端に減るはずです。
何の負担もなく、解決できる事柄であるなら、それは問題として敵視する必要はなく、攻撃する必要もなくなるのですから。
「ハラキリ、切腹」
切腹は、問題を起こした当事者に問題を解決させる行為と見ることが出来ます。
もしそうであるなら、西洋の断罪とは違い、切腹した人は問題を解決した人であり、罪を精算した人にもなります。
そして解決された問題はそれ以上問題を起こすことはなく、罪は許される方向へと向かいます。
自ら腹を切る行為は外から見るとショッキングですが、罪がその場で精算され、永遠に残ることもないという意味では、日本の生存本能に合った解決方法です。
切腹を行った場合、西洋のように、他者に断罪され、死後も永遠に石を投げられるなどということは無いということです。
ただし、切腹にも資格があり、切腹によって罪を精算することが可能な場合にしか行われないと考えるのが妥当です。
「自己責任論の正体」
自分から危険な場所に行き、危険な目に遭う行為がしばしば「自己責任論」をからめて、国民から批難されます。
具体的には、危険地帯で拉致されたり、殺害されたりして、日本政府や危険地域の関係国に迷惑をかける行為です。
ではなぜ、このような行為をした人が、日本人から批難されるのでしょうか?
答は、問題を起こしたからです。
「問題を起こすと全滅する」という生存本能を持っている日本人には、「問題を起こす人」は「全滅の引き金を引く人」に見えるということです。
そしてその問題が大きければ大きいほど、強く全滅をイメージさせます。
「全滅の引き金を引きかねない、大きな問題を起こした人」というのは、日本人の生存本能を刺激し、その結果、激しい拒絶反応を引き出すことになるのです。
つまり、自己責任論とは、問題を起こした人を攻撃しているだけということになります。
そして日本人の、心からの悲鳴でもあります。
「治安の良さ。犯罪の少なさ」
問題を起こすと全滅すると思っている日本人には、問題を起こすこと自体ができません。
そしてどんな問題も無視できないので、必ず解決しようとします。
その一つ一つの問題解決が積み重なり、今の日本が出来ているのです。
日本人の持っている問題を起こさない力と、問題を解決しようとする力、この二つがあることによって、日本の治安は保たれていると言えます。
アメリカの銃ように、強力に犯罪者と対抗できる手段がなくても、犯罪の発生が抑止できているのは、問題の発生を嫌う日本人の生存本能に負うところが大きいということです。
それは同時に、問題発生嫌う日本人全員が、準警察的な働きをするということでもあります。
いろいろなものが「問題だ、これを放置すると犯罪が増加する」といわれながらも、外国よりも圧倒的に犯罪が少ないのは、この問題を起こすと全滅するという、日本人の生存本能があるせいだと考えることが出来ます。
また日本は宗教色が薄く、自制するための装置がないにも関わらず、犯罪が少ないのは、日本人の自己抑制が外国人と比べて高度なのではなく、やはり問題を起こしたくないという、日本人の生存本能があるおかげです。
宗教に頼らなくても、日本人は生存本能の部分で問題を起こさないように出来ているのです。
「交番」
日本以外の世界では、問題発生前や大きくなる前に、問題を処理しようという考えはありません。
警察は、問題が起こってから使うものなのです。
だから、日本のような交番制度は日本でしか発達しませんでした。
したがって、これも日本人の生存本能が影響して出来たものと、推測することが出来ます。
問題発生前に問題に対処しようなんて考えは、世界から見ても独特な日本の生存本能無しには、誕生しえなかったということです。
「日本の治安と、移民政策」
日本の治安の良さは、日本人の生存本能によって作られたものなので、移民が増えると自動的に治安は悪くなります。
ただし、移民の大半が日本の生存本能を獲得したり、日本の生存本能に合わせて生活してくれるなら話は別です。
治安の良さはそのまま維持されることになります。
日本人の生存本能である「問題が起きたら全滅する」から推測すると、日本人の大半は、犯罪者でも無い限り「準警察」的な行動をとると予想できます。
落とし物を見つけたら、交番に届けますし、泥棒を見つけたら警察に通報したり、取り押さえようとします。
また交通ルールは守りますし、店先で並んで待つことも普通に出来ます。
つまり、治安維持に関しても、とてつもなく優秀ということです。
ですが、これらの行動が「日本人の生存本能」によってもたらされた行動だとすると、外国人に同じ事を求めるのは酷だという話になります。
少数の移民による多少の騒動の増加なら、今の治安状況でも吸収できますが、これが大量の移民となると、吸収できる量の限界を超えて、治安が急速に悪化する可能性もあります。
また、インドの生存本能を見ても分かるように、究極的な多国籍化は、人の心を分断し、急速な治安悪化を招きます。
アメリカは多国籍でもやっていけていますが、アメリカは最初から多国籍であり、「先に攻撃しないと全滅する」という生存本能を持っている国ですから、日本にとっては、まったく参考になりません。
アメリカは、どんな状況になったとしても「先に攻撃すること」つまり、銃で治安を守るだけです。
日本人は「問題を起こしたら全滅する」という生存本能を持っている国民です。
その生存本能によって、日本の治安は維持されています。
なので、日本の中で、日本の生存本能を持つ人の割合が減れば、自動的に減った分だけ日本の治安も悪化するという話です。
移民を本気で推し進める気なら、日本人の生存本能を使って治安を維持する場合、最低全体の何割が日本人の生存本能を持っているべきかは、検証するべきだと思います。
その土地にあるべき生存本能が、別のものに置き換わってしまえば、そこは日本であっても、日本で無くなってしまうのですから。
「多民族・多宗教・多言語国家と移民政策と差別政策」
日本が移民政策を推し進め、多民族・多宗教・多言語国家を目指すなら、カースト制度やアパルトヘイトのような、差別政策を絶対にとってはいけません。
アメリカが宗教と人種のるつぼである移民国家でありながら、国家として成立していられるのは、一人一人が自分はアメリカ合衆国の国民であるという自負を持っているからです。
多民族・多宗教・多言語化すると、相手の気持ちが分からなくなるのですが、それを自分達は同じアメリカ合衆国の一員であるという誇りと自負によって繋げているのが、アメリカという国なのです。
多少相手のことが分からなくても、合衆国の敵が現れた時には一丸となって戦う、味方になるのです。
そういう意味では運命共同体であり、絶対的に決別することの無い、自由と平等を愛する同居人という風になっています。
わずかな繋がりがあるからこそ、国として成立することが出来るということです。
では、多民族・多宗教・多言語国家が差別政策を取り入れるとどうなるのか?
インド化します。
多民族・多宗教・多言語でただでさえ相手の気持ちが分かりにくい上に、さらに差別制度で人と人との分断してしまうと、本当に隣にいる人の気持ちも分からなくなります。そしてついには、相手の気持ちが完全に分からなくなり、社会が崩壊するような犯罪が激増するでしょう。
また多民族でなくても、差別制度があるだけで、人の心が分断され、争いが増えることは南アフリカ共和国のアパルトヘイトで証明されています。
差別政策は、最終的に人と人との心の繋がりを分断し、国を荒廃させる原因となるということです。
「差別と排除」
日本では人種差別や宗教差別というものは、あまりありません。
ただし、排除はあります。
排除の対象になるのは、問題を起こしそうな人すべてです。
日本に来て、日本の常識では考えられない変なことをして、周囲に迷惑をかけると、排除の対象になります。
逆に、日本語が話せる外国人に対しては、警戒のハードルが下がり、受け入れられやすくなるということがあります。
なぜなら、言葉が通じないという「問題が一つ減り」、心理的負担が下がるからです。
これだけのことで問題を起こしそうな人から、積極的に日本を受け入れようとしているお客さんに格上げされて、心の距離が近づきます。
宗教であっても、人種であっても、自分達とは違うというだけで日本人が差別することはありません。
日本人が気になっているのは、その人やその宗教が「問題を起こすかどうか」だけなのです。
「問題を起こすことが全滅に繋がる」と信じている日本人は、日本人の生存本能を刺激しないものは、安心して受け入れるということになります。
ただし、問題を起こすものに対しては、全力で排除します。
これは人種差別や宗教差別ではなく、全滅を避けるための生存本能が働いたからしてしまう行動です。
地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の分派が、今でも監視され、周囲の住民から排除されているのは、もちろん地下鉄サリン事件を起こしたことが大きな理由です。
ですがそれと同じくらい「問題を起こした」こと自体が、日本人にとっては問題だったと言えます。
なぜなら「問題を起こすこと」は、日本人にとっては全滅への引き金を引く行為だからです。
だから日本人の本能として、「問題を起こす人や集団」はどうしても排除したくなるのです。
当然これは排除であり、差別ではありません。
宗教や人種とは関係なく、「問題を起こした」から排除されるということです。
「裁判とは?」
日本の生存本能と読み解くと、日本の裁判は、どういう意味を持っているかというと、「問題を解決するためのもの」です。
裁判と聞くと、法律に従って犯罪者を裁くためにあるのでは? と思われるかもしれませんが、それは違います。
国の生存本能は、善悪の前に作動するので、当然各国の裁判事情にも大きく影響します。
なぜ善悪の前に、生存本能が作動するのかというと、死んでしまっては善も悪もないからです。
まずは生きていなければならない。
だからこそ、先に人の生存権とも言える、国の生存本能が先に作動するのです。
では、「問題が起こったら全滅する」と思っている日本人の生存本能は、どのように裁判に影響するのでしょう?
裁判の内容を問題と捉え、とにかく問題を解決しようとします。
そして問題が無くなれば一件落着です。
ですが、日本の裁判はそんなスッキリするものばかりではありませんよね?
裁判が終わって、問題は解決したはずなのに、なぜ我々の心はモヤモヤしたままなのか?
答は簡単、解決してないからです。
問答のようになってしまいましたが、なぜ解決したはずの裁判が、解決していないのか。
ここに日本の裁判が抱える、問題点があります。
裁判所は、法律に則って行われる問題解決の場です。
ですが、「何を問題と思うか?」の主体は、問題に関わっている当事者ではありません。たまたま判定下すことになった裁判官が、主体なのです。
つまり、この裁判官が「これは問題だ」と思ったものしか、裁判では解決されないのです。
裁判には、被告人、弁護士、検察官、被害者、裁判官、そして裁判を見守っている国民など、いろいろな人が出てきますが、何を問題と思うかは、裁判官個人の世界観にかかっているということです。
よって、裁判官の世界観から見て問題に見えないものは、なかなかスッキリとは解決されないということです。
そして、この裁判官の世界観が、国民とずれた時は悲劇です。
問題を解決するはずの裁判所で、なにも問題が解決できなくなり、多くの人が苦しむことになります。
この「裁判官が何を問題と思うのか?」と「国民が何を問題と思っているのか?」のズレによって、日本ではしばしば裁判所批判や、裁判官批判が行われます。この批判や、国民と職業裁判官との認識のズレを小さくしようとして行われているのが、裁判員制度です。
裁判官と国民の、認識や世界観のズレを少しでも小さくして、裁判での「問題解決」を、より国民の「問題意識」に寄り添った形で、進めようという政策です。
つまり「裁判官『だけ』から見て、問題と思えるものを解決しよう」から、「日本人から見て問題と思えるものを解決しよう」にシフトした形です。
ただ、判決の判断にプロの裁判官が一人も関わっていない裁判はありませんから、やはり「裁判官の世界観」が判決に大きく影響する形になります。
プロの裁判官が問題と思っているものの中で、多数の日本人が問題と思っているものしか、裁判員裁判の中では解決されないということです。
それでも裁判員裁判によって、裁判での問題意識は少しですが「国民が問題と思っているもの」に近づきました。
裁判員裁判は、国民の不満を解消するためだけでなく、日本人の生存本能により近い形で、問題を解決できるようになったということです。
これは、日本人の本能として納得できる裁判に近づいたことになり、日本人にとって単純な不満解消以上の、大変重要な意味を持っています。
とは言っても、裁判員裁判は重大事件でしか使われませんから、他の裁判での、裁判官と国民の問題意識のズレが解消されるのは、当分先ということになります。
また地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所でそれぞれ判断が分かれるのは、何を問題ととらえるかの、主体がが違うからとも言えます。
同じ事案の裁判でも、裁判官の世界観が違うだけで、全く違う判決になりうるということです。
それが「問題解決を第一」とした日本の裁判所の、一番の特徴ということになります。
「感謝される日本人、エルトゥールル号遭難事件」
一八九〇年、オスマン帝国の使節団を乗せてやってきたエルトゥールル号が、和歌山県串本町沖で座礁し、遭難しました。
そして乗員六五〇名のうち、六十九名が救助され、帰国しました。
このとき、遠い国である日本が、乗員の救助に尽力したことに対して、今でもトルコに感謝されています。
時は流れて一九八五年、イランイラク戦争ではトルコ政府がトルコ航空二機を使い、自国民よりも日本人を優先して、救出してくれました。
現在串本町にはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑があり、五年ごとに慰霊祭が行われています。
困っている人を助けること、鎮魂することは、問題を解決したい日本人には当たり前の行為です。
そして、問題を解決しないと全滅すると思っている日本人には、絶対にやらなければいけない行為です。
それでも、この行為がトルコとの友情の原点になるなら、こんな嬉しいことはありません。
「世界一問題解決に向いている国民、日本人」
生存本能の後押しもあり、問題解決することが日本人の喜びになっています。
そして、問題が解決できると、日本人は満足感を得ると共に、安心します。
日本人が問題を解決した時は、問題を解決される側も、解決する側もハッピーになれる可能性が高いということです。
これほど問題解決に向いている生存本能を持った国民は、他に居ないかもしれません。
「見て見ぬふり」
問題発生を嫌う日本人ですが、解決できない問題や大きすぎる問題、自分にとって問題ではない問題に対しては、見て見ぬふりをする場合があります。
これは日本人の生存本能を使って読み解くと、生存本能が普段とは別の方向に働いた結果と言えます。
つまり、解決できない問題に当たると、その問題を見なかったことにし、問題自体に近寄らないようにするということです。
問題が解決できてない場合、日本人の中に不安が発生します。
大本の問題にではなく、新たに発生した「不安という問題」にだけ対処にしたのが、見て見ぬふりという行為になります。
根本的な問題解決にならない点でダメですが、意識的に見ないようにすることで、解決できない問題に対する意識が薄れ、心の中が不安が減るという、対処法です。
解決できない問題に労力を割くより、解決できる問題に注力した方が、生存率は上がるということなのかもしれません。
また別の見方をするなら、一方で問題と思っていることを、もう一方では問題と思っていない。
だから、対処しないということはあります。
今で言うなら、原子力発電所がそうでしょうか。
一方では存在自体が問題と思われていますが、他方ではきちんと安全性に配慮すれば問題ないと思われています。
福島での原子力発電所事故を経験した日本人の多くは、原子力発電所に不安を抱いています。
そしてその中でも特に、今すぐ原子力発電所を停止させたい人から、原子力発電所の運転再開を望む人を見ると、いつか起こすかもしれない原発事故に、この人達は目を背けている風に見える、ということです。
このように、ある一方が問題と思っていることを、問題として見ないことを批判する言葉が、「見て見ぬふり」かもしれないということです。
日本人の生存本能である「問題が起きたら、全滅する」を、無視することはかなり難しいので、「問題を問題と思っていないから対処しない」という後者の方が、日本人の生存本能には近いかもしれません。
ですが、どちらも日本人的でありそうです。
これは「問題が起きたら全滅する」という生存本能を持っている日本人でも、「解決できないことや、解決しないこと」があるということを表しています。
問題に敏感な日本人ですが、問題への対処が常に良い方向であるとは限らないということです。
逃げたり、目をつむったりするという対処の仕方も、日本人にはあるのです。
それも日本人の全滅を避けるための行動であり、善悪の判断の前にやってしまうことかもしれないということです。
「日本人、日本企業の海外進出失敗の原因」
日本人の良さである「問題を無くしたい」「問題を無くすことで、品質や価値を向上させる」という能力は、自分が問題と思わない限り発動しません。
日本人の立場から見て「問題を無くす」という行為は、日本製品の場合、すでに日本国内で行われています。
ただしこれは、「日本から見て問題となるもの」だけについてです。
「外国から見て問題と思えるもの」の解消は行われていません。
つまり、「日本人の立場」を持ったまま、日本の製品を売ろうとすれば、それは「ただの日本製品」になってしまうということです。
日本製品の良い部分は常に「問題を無くす所」であり、「いろいろな問題を解消してくれる点」です。「いろいろな問題を解消してくれる日本製品」だからこそ、多くの人に愛されているのだということを、もう一度よく確認してください。
たとえば、日本国内の日本製品がやたらと多機能・高性能なのは、「問題が起きると全滅する」という生存本能を持った日本人が、日本の消費者に合わせて作ったものだからです。
日本人は、問題の発生が全滅に繋がると信じているので、自然と他の国の人よりも多くの問題点が目についてしまいます。その問題点を解消していったら、多機能・高性能になってしまったということです。
つまり、日本人の生存本能に合わせて、問題点を解消していったら、多機能・高性能な日本製品になってしまったということです。
ただ、この結果できた日本製品は良いものでありますが、「日本人にとっての問題点を解消した」だけの製品に過ぎません。
外国に売るのであれば、日本人にとっての問題点を解消しただけの製品を売るのではなく、その国の人々にとっての問題点を解消した製品を売るべきなのです。
それこそ、正しい「日本人の生存本能」の使い方であり、世界に愛される「問題を解決する日本製品」の正しい姿なのです。
なぜこういうことが出来ていない人が多いのかというと、外国に行ってその国の人の立場に立って考えるのではなく、日本人の立場で考えてしまう人が多いからです。
そして、日本人の立場から見ると、日本製品は完璧で、何の問題も無いように見えてしまう。
ですが、その国の人が問題と思うことを解消してくれる製品にはなっていない。
つまり、その国の人から見ると、日本人の生存本能を生かした「問題を解消してくれる製品」という、日本の長所が無いものになってしまっているということになります。
これでは、ただの高価で高性能な製品になってしまい、外国では売れません。
どんなに「問題を無くす」という日本人の生存本能が優秀でも、日本人の立場から動かなければ、その国の人々にとっての問題点は見えてきません。
問題点が見えなければ、日本人の生存本能は発揮されません。
つまり、日本の製品をその国の人にとっても、良いものにするためには、日本人の立場から外に出て、その国の人の立場に立って考えることが必要になるということです。
そして、その国の人の立場に立って考えれば、自然と日本人の生存本能も発動し、その国の人にとっての問題点も見えてきます。
あとは、その国の問題点に合わせて、日本製品を改良し、販売すればいい。
すると、今まで高性能で高いだけだった日本製品が、「自分たちの問題を解消してくれる、自分たちにとって必要な製品」になっているはずです。
その国の人が抱えている問題を解消してこそ、真の日本製品であり、日本人の生存本能を生かした「世界に愛される日本製品」になれるのです。
まとめると、自分が日本人の立場にいるときは、日本人にとっての問題点しか見えてこないということ。
そして、様々な問題点を発見するためには、立場を移動する必要があるということです。
日本人が、日本製品や日本のインフラを通して売るのは、その国の人々が抱えている「問題を無くすこと」「問題を解消すること」です。
「日本のロビー活動」
基本的に、「やったもの勝ち」で嘘をつくことにためらいの無い中国と、「何も考えていない」韓国、「問題を起こしたくない」日本とでは、外交・ロビー活動で明らかな差があります。
嘘をついてでも有利に物事を進めたり、自分たちにとって有利な上を流したい中国は、ロビー活動でどんどん未確定情報を流せます。
やったもの勝ちの生存本能で、嘘に罪悪感じない中国には、ためらいや後ろめたさはありません。
対して日本は、問題を起こしたくないので、不正確な情報や未確定情報は流せません。
だから中国のロビー活動に、一歩遅れてしまうのです。
やったもの勝ちのロビー活動というのは、日本から見るとほぼ犯罪であり、かたくなにルールを守って、正攻法でやることにこだわる日本にとってはやりにくい相手です。
こういう相手に対しては、ルールを守ることよりも、やっつけることを念頭に置いて対処しなくてはなりません。
中国には守るべきルールなど無く、「損をすること」以外に中国の負けは無いことを、もう一度日本の外交、ロビー活動担当者は確認するべきでしょう。
損をした時、初めて中国は負けるのであり、中国の行動は止まるのです。
中国相手に正攻法で勝とうと思っては、いけません。
重要なのは、「いかに中国に損をさせるか?」です。
それが中国相手の切り札になります。
ロビー活動を行われる側のアメリカは、「先に攻撃して勝った者を、勝者として認める」国です。
たとえば慰安婦問題が、こんなにアメリカで蔓延しているのも、韓国がロビー活動で勝ったからです。
その情報が正しいかどうかは、アメリカには関係ないのです。
アメリカにとっての勝者とは、生きている者であり、敗者とは死んでいる者なのですから。
この構図は、アメリカの裁判と同じものです。
悪人は誰か? その情報は正しいか? ではなく、裁判での勝者こそが正義であり、敗者は悪なのです。
放っておいても、正しい情報が勝つだろう、正しい情報に修正されるはずだ、正しい情報に修正されるべきであるというのは、日本人特有の思い込みでしかありません。
勝ったほうが正しいというのが、今の世界の常識です。
だから、世界中にばらまかれた間違った慰安婦問題に関する情報は、未だに間違ったままだし、南京大虐殺の犠牲者も、中国政府の思惑によってどんどん増えていくのです。
必ず正しい情報が勝つ、放っておいても正しい情報に修正されるという思い込みは、日本人の生存本能である「問題が起きたら全滅する」から来ている、日本人だけが持つ特徴だと思うべきです。
日本人の生存本能を持っていない、日本人以外の世界の人々は、このように思っていないことを、心に刻み込んで行動してください。
日本人の生存本能や思い込みに従って、間違った情報を放置してしまうと、外国や世界では必ず間違った情報は巨大化し、さらなる間違いや問題を生みます。
国際社会に蔓延する、日本に関する間違った情報を、日本人がなかなか修正できないのは、日本人の生存本能が、日本人の思考や行動、思い込みに影響しているためと思ってください。
なぜ日本の常識と国際常識が違うことは分かっているのに、日本人の大半がそう思ってしまうのかというと、理由があります。
日本ではそうなっているからです。
日本人の生存本能を持つ人間が多く存在する日本国内では、間違った情報や問題のある情報は、問題を起こす可能性のある情報として認識され、必ず修正されます。
なぜなら、問題が起こると全滅すると思っている日本人は、間違いや問題を放置できないからです。
そして、このような日本社会や日本の常識に慣れてしまった日本人は、世界も日本国内と同じように、問題や間違いが修正されるだろうと思い込んでしまうのです。
その結果として、日本に関する間違いは放置され、世界中で新たな被害を生むという図式になってしまっているのです。
間違いや問題が「必ず」修正されるのは、日本だけであり、世界では必ずしもそうでは無いことを肝に銘じておくべきでしょう。
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