第15話 日本人初参加のストックホルムオリンピック
日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年の第5回ストックホルムオリンピックである。参加した日本選手団はたったの4名。
柔道の創始者として知られる嘉納治五郎・大日本体育協会(日本体育協会の前身)会長と、大森兵蔵・同総務理事を役員に、選手は陸上短距離の三島弥彦(東大)とマラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)の2人だけであった。
ストックホルムと言えば北欧・スウェーデンの首都。
現在なら飛行機ですぐ行けるが、1912年当時、彼ら選手団はどうやって移動したのだろうか。ちなみに、ライト兄弟の世界初の動力飛行成功が1903年。そのわずか9年後では、当然、海外への移動に飛行機が浸透しているわけもなく、日本選手団は鉄道と船を利用するしかなかった。
三島、金栗両選手は5月16日に新橋駅を出発し、敦賀から船でウラジオストク(ロシア極東地区)へ向かった。そしてシベリア鉄道でサンクトペテルブルクまで移動し、さらに船に乗り、ようやくストックホルムに到着。
かかった時間は実に18日間に及んだ。
ストックホルム到着後、短距離選手の三島はまず100メートル予選に出場したが、最下位で落選。200メートル予選も敗退した。3種目目の400メートル予選では3人が棄権したため、2位で準決勝に進出を果たしたが、疲労のため棄権している。
一方、マラソン代表の金栗は、当時のマラソン世界記録保持者であり、好レースが期待されたが、32キロ地点で日射病のために倒れ、民家で一晩介抱された。
当時は選手が行方不明になったと話題になり、時の人にもなった。
両選手とも、やはり長旅の疲れがあったのだろう。こうして日本人初のオリンピック参加を終えた2人だったが、金栗には、こんな後日談がある。
オリンピック開催から55年後の1967年、ストックホルム市はオリンピック開催55周年記念祭を開き、「消えた日本人」こと金栗四三を招待した。
レースの途中で行方不明となった金栗は、大会の記録が「棄権」扱いになっておらず、記念祭の主催側から「ぜひゴールを」と要請されたのである。
76歳になっていた金栗は、かつてのゴール地点に案内されて10メートル手前から走ってゴール。場内放送で「第5回ストックホルムオリンピックマラソン競技は完全に終了しました」とアナウンスされた。
タイムは、54年と8ヵ月6日5時聞37分20秒3。
その後の会見で、金栗老人はこんな素晴らしいスピーチを披露した。
「長い道中でした。途中で孫が5人もできました」
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