第9話 陸上選手からプロ野球へ転向した飯島秀雄

かつて飯島秀雄というスプリンターがいた。

1964年、西ベルリン(当時)の国際陸上競技会で、100メートル10秒1(手動計時の記録による)を記録した。これは吉岡隆徳の持っていた日本記録10秒3を29年ぶりに更新したもので、一躍東京オリンピックの期待の星となった。

そして迎えた東京オリンピック。飯島は第一次予選を10秒3の同予選最高タイムで通過。第二次予選も10秒5でクリアしたが、ゴール直後に転倒。この影響か、準決勝では10秒6に終わり、決勝進出はならなかった。翌1968年のメキシコ大会でも準決勝敗退、この時の10秒34は日本人最高記録であったが、なぜか長らく公認されなかった。

飯島の人生が大きく変わるのはこの後だ。1968年暮のプロ野球ドラフト会議で、東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)がなんと飯島を9位で指名。契約金は1000万円、元陸上オリンピック選手の前代未聞のプロ野球入りはこうして始まったのである。


日本記録保持者だった飯島だが、野球は素人の代走専門。元オリンピック選手がどのくらいの盗塁を決められるか、大きな話題になった。

チームは束京からロッテに代わり、3年間在籍して117試合に出場。盗塁はわずか23個(失敗17個、牽制死5)に終わった。だが、飯島が走者にいた時の打者の打率は、4割2分4厘の高率だった。投手が、飯島が塁にいると神経が打者から削がれたのだろう。また、陸上のオリンピック選手からプロ野球へ転向した飯島の話題性は高く、ロッテの観客動員にも大きく貢献した。


プロ野球引退後の1983年、飯島は5歳の女児を車ではね、死亡させる事故を起こした。1年2ヵ月の実刑判決を受け干葉県市原市の交通刑務所で8か月過ごすこととなった。服役中、所内で運動会があり、飯島は作業場対抗リレーのアンカーに選ばれた。

だが本番でバトンを受け走り出した時、右足首に衝撃を受けアキレス腱断裂。これが最後のレースとなった。

なお、飯島の10秒34は、服役中の1984年に日本記録として公認された。メキシコオリンピックから16年が経っていた。

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