その日

その日、ナオキはいつも通りの時間にいつも通りに起床した。いつも通りに着替え、いつも通りに顔を洗い、いつも通りにリビングに向かった。そしていつも通りの1日が始まった。

はずだった。

「おはよう」

いつも通りに家族に声をかけた。が、誰も返事をしない。

聞こえなかったのかと思ってもう一度、今度は少し大きめの声で言った。

「おはよう」

今度も誰も反応しない。少しイラッとしたが、とりあえず座ろうとテーブルの自分の席に目をやった。

「あれっ」

自分の分だけ朝食が置かれていない。他の3人のはあるのに。

「父さん、俺のは?」

キッチンから出てきた父親に尋ねたが、見向きもしない。

父親と母親、弟の3人は困惑するナオキの前で食事を始めてしまった。

あまりにもナオキが席についていないのが当然であるかのように振る舞うので、話しかけることすらできなくなってしまった。

仕方なくキッチンで食パンをトースターで焼いた。バターやジャムは全部家族が使ってしまっていたので、何もつけずに立ったまま食べた。

(やべーな… 俺昨日みんなを怒らせるようなことしたっけ?)

嫌な気分の中、もぐもぐとパンを咀嚼しながら手がかりを探そうとひたすら頭を回転させるが、心当たりはない。

そうこうしているうちに少しずつ食べていたつもりだったパンをいつの間にか食べ終わっていた。口内には焼けた食パンの表面がまだ微細な多数の欠片として残っている感覚があった。

まだ到底腹は満たされていなかったので、2枚目を食べようかと食パンの袋に手を伸ばしかけたが、気まずい雰囲気の家に居続けるのも辛いのでやめ、まだ早いが学校に行くことにした。

持ち物を確認して、バッグを背負う。

一応「いってきまーす…」と食事中の3人に声はかけたが、返事はないままだった。


歩いていると、見覚えのある後姿を見つけた。クラスの友人だった。

そう言えばあいつ、いつも1番に教室に来てるらしいもんな。

駆け寄って、肩を叩いた。

「おはよう!」

友人はしかし、振り向くことはなかった。

それどころかどんどん歩いて行ってしまう。

「おい、ちょっと!? 俺だよ!」

慌てて友人を追い越し、顔を見せた。

前方を向いて歩く友人には間違いなく見えたはずなのに、やっぱり何の反応もなく、ナオキを避けて歩いていってしまう。

今朝の家族の様子を思い出して背筋が凍りかけたが、偶然だと自分に言い聞かせ、前を歩く背中に話しかけた。

「…あーのさ、なんか怒ってるの? いや、その…なんかわかんないけど、ごめん。俺がなんか悪いことしたんだったら謝るから、だから正直に言って欲しいっていうか…」

どんなに話しかけても、友人がこちらを向くことはなかった。


「…おはよう」

いつも始業のチャイムぎりぎりに登校してくるクラスメイトに挨拶をし、スルーされた。

これでクラス全員にスルーされたことになる。

今日は秋にしては暑めの日なのに冷や汗が頬を伝っていく。ナオキは大きく息を吐いた。

幼稚園の時からの幼馴染、高校に入ってからできた親友、中学の頃からの悪友、あまり話したことのない生徒…

ナオキは自分の教室についてから前方のドア付近に立ち、やってくる級友達に片っ端から「おはよう」と声をかけていった。おかしいのは家族と朝会った友人だけだ。他のみんなはいつも通りのはずだ…

だが、その希望は今打ち砕かれた。誰も、ナオキに関わろうとしない。と言うより、誰もナオキが見えていないし、ナオキの声も聞こえていない。誰も。

立ち尽くしたままのナオキの背後のドアが開いて担任が入ってきた。担任も席についていないナオキに構うことなく、いつものように出欠を取り始めた。ナオキはしっかり欠席扱いになっていた。


「いいかげんにしろよ!」

ナオキの我慢が限界に達したのは3限目のことだった。

朝のことに絶望しつつ、それでももしかしたらと授業中も常に立ち歩いてクラスメイトや先生に話しかけたり、友人達のノートや教科書や筆記用具を床に落としたりしてみたが、やはりみんなナオキに気付いた様子は皆無だった。

怒りで頭がぐらぐらしだした時、ナオキにノートを落とされた生徒がそれを拾い上げ、隣の席の生徒にこういったのが聞こえた。

「ノートが勝手に落ちた」

その一言が、導火線に火をつけた。


ナオキは怒鳴る。

「何なんだよ! なんでだよ! 俺何もしてないだろ!? 普通にしてるだけだろ!? ここにいるだけだろ!? いつも通りの時間にいつも通りに起きて、いつも通りに着替えて、いつも通りに顔洗って、いつも通りにリビング行って。それでいつも通りの日が始まると思ってたのに! 何だってんだよ! なんで今日はみんな無視すんだよ!? なあ…」

そんな必死の訴えも、そよ風ほどにも周囲の奴らに影響を与えない。

ナオキは教室を飛び出した。


近所の商店街、ナオキは顔馴染みの店員や客に声をかけ続けた。

「おっちゃん、今日きゅうり安いんだね」

「あれおばあちゃん、退院したの? けが良くなったの?」

「おー久しぶり、元気だった?」

人々の目がナオキに向けられることは決してなく、声をかければかけるほど、孤独が大きくなるだけだった。まるで幽霊にでもなってしまったかのような気分だった…

幽霊? ああ、そうか。


マンションの4階。ナオキの自宅がある階。共通廊下から下を見下ろす。

色とりどりのパンジーが植えられたマンション前の花壇、犬の散歩をしている人がいる公園、大小さまざまな車が並ぶ立体駐車場…

そうだ。俺はきっと、気付かないうちに死んで、幽霊になってたんだ。だから回りの人達には俺が見えてなかったんだ。だってそうだろう? そうじゃなきゃみんなが俺に気付かない理由を説明できない。

だってみんな昨日まで普通にしてたんだぞ? 普通に俺と話して、普通に俺とふざけて、普通に俺にご飯作ってくれて… 今日急に昨日までと違う状況になるなんて、死んだくらいのことでもなきゃありえないだろ? そうだ、きっと俺は夜寝てる間に死んだんだ… あは。なんだ、そうだったのか…

体温が急速に引いていくのを感じた。頬を今朝とは違う種類の液体がつたったのがわかった。


ふと、思った。

ああ、それじゃあこっから落ちても平気なはずだ。幽霊だから飛べるんだよな、幽霊だから。

いつもだったら、アホらしいと鼻で笑うようなことを、本気で。

塀に両手をつき、身を乗り出した。足を地面から浮かせ、頭を思い切って下に向ける。驚くほどあっけなかった。ナオキの身体は、重力に微塵も抵抗することはなかった。


ナオキの父親は窓から下を確認して叫んだ。

「死んだよー」

それを聞きつけ、近所の人達がわらわらと集まってくる

「あーやっと死んだか」

「意外と死ななかったよねー」

「あーこれですっきりしたわー」

口々に言いながら、破裂した水風船のように血液や身体の中身を辺りにぶちまけているナオキに近寄る。

「うわっ、汚っ」

「結構血出るもんなんだな」

「で、これ何ごみに出せばいいの?」

1人がナオキの身体だったものについている左脚だったものを引きずり、残りの数人が道路に広がった血をたっぷり拭き取って暗い赤色になった雑巾やナオキの内臓だったものを入れたビニール袋をそれぞれに持ち、商店街の反対側へ歩いていった。


そして、町の時間は何事もなかったように動き出した。いつも通りに。

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