夜に口笛を吹くことにまつわる迷信とそれを気にしていなかった人

いつのころからか、毎晩、お風呂で口笛を吹くのが癖になっていた。

お湯に肩までつかり、天井を見上げて口をとがらせる。曲は最近はやっているものだったり、子供のころ好きだったアニメソングだったり、頭から離れなくなったCMソングだったりと色々だ。

もともと小1のときに吹けるようになって以来、暇なときなんかによく吹いていた。自分の声とは違う音を出せるのが面白かった。

でも、母親と一緒に住んでいたころは、「夜に口笛を吹くと蛇が出るからやめなさい」と言われていたので、夜だけは吹きたくても吹けなかった。そんな古臭い迷信を信じていたわけではなく、母に怒られたら嫌だったから。

けれど、今は社会人として親元を離れ独り暮らし。怒る人は誰もいない。今夜もまた天井の通気口に聞かせるように口笛を鳴らす。今回のは近頃人気が出てきた歌手のラブソングだ。


今日、職場に新人が何人か入ってきた。みんな新品のスーツに身を包み、かちかちに体を硬直させて、それでも精一杯の笑顔で自己紹介をしているのを見て、自分も数年前はこうだったんだなあと思い出して微笑ましい気持ちになっていた。

最後の女の子の番になった。緊張しているのがバレバレの固い笑顔を浮かべたまま、ぎこちなく自分の意気込みを語る彼女と、目が合った。

瞬間、彼女の瞳は大きく見開かれ、小さめながらも確かに発していた声も止まってしまった。

(え、どうしたのかな?)

心配になったが、近くにいた上司が「大丈夫?」と声をかけると、その子は慌てて私から目をそらし、「あ、ごめんなさい。大丈夫です」と応じてちゃっちゃと自己紹介を終えた。

休憩時間。私がバッグからお弁当を取り出そうとしていると、背後からつかつかと誰かがやってくる音がした。振り向くと、さっき自己紹介で黙ってしまった女の子だった。

「あの、いきなりこんな質問するのは失礼なのは承知しております。ですがあの…最近お身体の調子が悪いということはありませんか?」

本当にいきなり何を言うのかとは思ったが、確かに最近なんとなく本調子じゃないと感じたり、軽い眩暈がすることがあった。病院に行くほどではないと気に留めていなかったけど。それを彼女に伝えると、

「やっぱり…ちょっと、ごめんなさい」

とおもむろに手を私の右肩あたりに近づけてきた。

あれ、私髪に何かついてたのかな?と思ったが、彼女の手は私の髪にも肩にもふれず、代わりに肩の上の空間を人差し指と親指でつまみ上げるような動作をした。二本の指はあたかもそこに何かが存在するかのように、少し広げた形にされたまま、地面に向かって何かを放り投げるような動きをした。

とたんに、怠さが少し和らいだ気がした。

「…あなた、何したの?」

訳が分からないまま尋ねた。

「先輩に蛇が巻き付いているのが見えたんです。そのせいで体調が悪くなっていたんですよ。あれはもう取り除いたのであなたに危害を及ぼすことはありませんが」

「蛇!?」

もちろんにわかには信じられなかった。だが、思い出さずにはいられなかった。


―夜に口笛を吹くと蛇が出るからやめなさい―


もちろん、ただの迷信だろう。でも…ただの迷信であっても、理由はあるのかな…だから、母は何度も私に注意してくれたのかな…

「あなたは運が強いようなので怠さや眩暈くらいで済んでいたのだと思いますが…とにかく、放っておいたら大変なことになっていたと思います」

「…うん、ありがとう。これからは気を付けるね」

私がまだ少しぼんやりしながら彼女にお礼を言うと、彼女はほっとしたように微笑んだ。




そして、再び私に手を伸ばしてきた。

「え?」

「はい?」

「いや…何してんの?」

「え、だってあと数十匹はいるので…全部お取りした方がよろしいですよね?」

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