あの記憶を、もう一度
坂町 小竹
あの記憶を、もう一度
もう一度、彼女の笑顔を見たい。
もう一度、由衣の笑顔が見たい。
そんな思いで、目の前にある、買って一か月もしないノートパソコンを開ける。現実でなくていいから、記憶の中でだけでも、今日、会ったばかりの彼女をもう一度見ておきたかった。
「記憶 再生」と打ってEnterキーを押す。一番上に出てきたのは、松崎精神病院。
すぐさまマップを開き、経路と所要時間を見る。約四十二分。俺は迷わず財布と鍵とケータイを持ち、その病院へ向かって車を出発させた。
目の前の白衣の人物は、どうにもゆっくりと話している。そのことが、気に食わない。
「えー、では今日はD3型記憶再生機を使用することになりますね」
「はい」
「えー、では、使用方法は……」
長々と精神チェックや説明などせずに、早く彼女を見たい。使用方法なんて、入ればわかるだろう。どうせまた「小さなお子様の手に届かないよう……」とか「やけどに注意」とかありきたりなルールばかり聞かされるんだろう。
病気でもないのに俺は精神病院の診察室にいた。先生の机には病院らしい、長く細い木が薄茶色い植木鉢に入っている。左側の壁には白く丸い時計があった。先生の一言一言の長さは、秒針三つ分くらい掛かっていた。
そこに一枚の紙を持った看護婦さんが入ってきた。
「先生、D3型記憶再生機を使うんですか?!」
「どうして慌てているんだ?」
すると看護婦さんは先生のもとへ行き、小さな声で何か言ったあと去って言った。変なドラマなんか付けないで、本当に早くしてほしい。
「えー、
「はい」
「えー、あのねぇ、ちょっとD3型記憶再生機がまだ新しいんだけどねぇ……」
先生は先ほど看護婦にもらった紙をじっと見ていた。
「なんというかねぇ……高い確率で重体を起――」
「あの」
「はい」
「早くしてくれますか……」
「そうですか……えー、でも何か失敗が起こる可能性も含めてですね……」
「はい」
「えー、こちらですね。この契約書にサインしていただく必要があります。そして、前払いですのでえーとこちらが……」
そう言いながら俺に先ほどの紙を渡す。特に重要なことも書いていなさそうなので、一番下の下線を引いたところにサインをする。
「えー、三七五万円となりますね……」
予想通り高い。しかし彼女の笑顔のためならその金額は惜しまない。俺はカードを手渡しし、先生がパソコンでピピッとするとレシートとともにカードを俺に返した。
この病院では、診察室で支払いを済ませるのだろうか。確かに精神病患者といったら、対人関係が難しいイメージが浮かぶ。その対策だろうか。
「ではあちらのドアに再生機がありますので、そちらへどうぞ」
先生は俺の前方へ腕を伸ばした。
「ありがとうございます」
見たこともない大きな機械が今、目の前にある。思っていたよりも大きい。記憶再生機も、出てきたのは最近だ。これから進歩して小さくなっていき、数千円で使えるようになっていくだろう。
専門家などもいそうにない。さっきと同じ看護婦が、俺に再生したい時間を訊いた。今日、午後の二時から、三時間。ピ、ピ、と看護婦はボタンを押し、看護婦の指示で俺は中に入った。がっちりと変なヘルメットを装着し、扉が閉まった。
「では再生しますね。目を閉じていても開けていても構いませんよ」
ピー、と音が鳴り、機械の中が闇のように暗くなった。……と思うと、辺りは今日午後見たとおりの景色に変わった。
電車の改札を抜け、駅から出ると左へ曲がっていく。うきうきとした足取りで俺は今、由衣との待ち合わせ場所へ向かっていた。今といっても、過去だ。今日起こった出来事をもう一度体験しているので、なんとなく変な気分になる。
待ち合わせ場所の本屋前へ来た。そこには他の人よりも
靴はハイヒールではなく、おしゃれなモノクロのスニーカー。俺との身長差を気にしてか、付き合って一ヵ月経った頃からは一度も彼女のヒール姿を見たことがなかった。
記憶と同じ風が吹いて、同じように彼女の柔らかく黒い髪が揺れるとともに、俺と目が合った。一秒も経たないうちに、彼女は満面の笑みを浮かべた。
無意識に早足で歩み寄っていったのが、今になっては分かる。
「てっちゃん!」
俺が近づくと、由衣も一歩こちらへ寄り、ほほ笑んだ。嬉しいけど、辛くなってしまう。一生懸命にその光景を目に焼き付けた。
「じゃ、行こうか」
俺は彼女のほんわかとした、春のぬくもりを感じる手を握った。あの時はすごく冷たく感じたのに。本当に、暖かかった。
俺たちは通りをぶらぶらした後、いつもの喫茶店へ入った。そうおしゃれでもないけど、俺にはすごく懐かしく感じた。ここには彼女との全ての思い出が詰まっていた。
今日は由衣の言うところだと、付き合い始めてからちょうど十一ヵ月の記念日らしい。俺は記念日など全く覚えていられなかったが、彼女はそんな俺を許してくれていた。この喫茶店は毎月十七日に必ず二人で一緒に行った。今回が十二回目だ。そして、今回が最後だ。でも記憶の中の俺は、そんなことを知らない。教えてやりたくてたまらなかった。
「由衣またイチゴかよ」
「ふふーん」
そう。彼女の手にはとても一人分とは思えないサイズのコップに、ピンク色のスムージーの下にイチゴタルトが詰められ、上にクリームが乗っかっり、イチゴをコップのふちに差した「贅沢イチゴフラッペ風スムージー」があった。
「てっちゃんもそんなこと言いながら、ただのコーヒーだね」
「ただのじゃないって何回言ったらわかるんだよ。ここのエスプレッソは格別美味しいんだからな」
「へーっ、じゃ、交換ー」
由衣がここに来るときは、いや、俺といる時はいつも本当に嬉しそうだ。
ただのコーヒーと言っていながら、毎回四分の一を彼女に飲まれる。前回は俺も負けじとスムージーの四分の一を飲もうとしたが、スムージーがあまりに大きすぎて、その間に彼女が俺のコーヒーを二分の一ほど飲んでしまった。なので今回は諦めてスムージーを少しだけ飲むだけで返した。
由衣はスムージーを置いて、鞄の中をがさごそと
「じゃーん」
彼女は文房具開発業者で働いている。いつもこうして自分がデザインした文房具を披露してくれている。
「おう」
俺は少し素っ気ない返事をした。由衣を見ると、表情が少し陰ったのが分かる。なんで、こんなことを言ったんだよ……! せめて、こんな日くらいは可愛いとか言ってあげれば……。しかし彼女も俺も止まることなく記憶の時間が過ぎていく。
「ほら、うさぎちゃんのノート! 中身は四ページごとに変わるの! ピンクに、青色に、黄緑色に、白黒!」
今見ると、案外可愛い。しかし女々しすぎる。
「消しゴムはねぇ……ハート型、パソコン型、リボン型、マリモ型、フクロウ型、船型なの」
どうしてこんな組み合わせなのかわからない。別々に考えたのかもしれない。
「なんでこんな組み合わせなんだよ」
「えっ、可愛いから……かな?」
なんでそんなことお前は訊くんだよ。確かにこれは俺だ。でも、今の俺だったらそんなこと訊いたりしない。由衣を少しでも幸せな気分にしたい。しかし俺はこの記憶をただ見ているだけで、過去を変えることなんてできなかった。
由衣の文房具披露会を終え、大きなスムージーも飲み終えると俺たちはその喫茶店を出た。
彼女の一瞬一瞬の表情が、とても眩しかった。すべて保管しておきたかった。
俺は腕時計を見た。四時三十三分。ああ、もうすぐだ。そう思うと急に泣きたくなってくる。それでも記憶の中の俺はすごく浮かれている。俺は今の感情と過去の感情を同時に感じていた。感情が違いすぎてずきずきする。
「じゃあー今度はあそこで服買おっかー」
「そうだな。今回は何買うんだ?」
「えっと……あ、そうだ! ペアルックとかいいよね!」
だめだ。そんなのは今度でいいから。今日だけは渡らないでくれ。この道を渡った先の店なんて行かないでくれ。
「じゃ、お揃いのTシャツとかにするか?」
「んー、色違いの靴とかどうかな?」
「黒と白とか?」
「えーっ、赤と青がいいなーっ」
さっきよりもずきずきする。自分の鼓動が、手を伝わって彼女に伝わらないか心配でならない。
俺たちは横断歩道まで来た。赤く光る信号の前で、ペアルックの話で盛り上がりながら待つ。
ピーッ、ピーッ、ピ。記憶にない機械音が一瞬鳴り、止まった。耳鳴りだろうか。心のずきずきは、治まっていた。
「あ、青になったよーっ」
由衣が俺の手を引っ張った。待て、由衣!
「えっ?」
由衣は振り向いた。
「どうしたの、てっちゃん?」
あれ、こんなところあったっけ……? でもとにかく、ここにお願いだから戻ってくれ……。
「そんなに言うなら、戻るけど……」
そして由衣が歩道へ戻った瞬間、赤信号だったはずの車道からトラックが出現する。幸い、由衣には当たっていない……。
「きゃっ」
そう叫んで由衣は俺の方へ駆け寄った。
由衣が、助かった。ぎりぎりだった。
「うん、こわかったよ……」
え、あれ?
「ん?」
俺が由衣と会話を交わしている! そうか。俺は、過去を変えたんだ……。
「無事でよかったよ、由衣」
「うん、怖かったね」
「本当に、本当に、無事でよかった……」
俺は由衣をぎゅっと抱きしめた。知らぬ間に、涙が出ていた。ぽた、ぽたと、由衣の青いセーターに水滴が滲んだ。
ペアルックは買わなかった。俺と由衣は、家へ帰り、優しい夜を過ごした。
明日は結婚式だ。もちろん、俺と由衣のだ。明日から彼女とお揃いの苗字になるんだと思うと、すごく嬉しかった。
ちょっと残念なことと言えば、俺のお母さんと由衣の両親は出席できないことだ。代わりに俺の祖父母と父さんと、由衣の祖母が来ることになっている。
「綺麗でしょ?」
真っ白なウエディングドレスを身にまとった由衣が、そこにいた。二年も経ったのに、由衣は二年前と変わらず綺麗だった。
「綺麗だよ」
俺は心を込めて由衣に言った。この笑顔を、ずっと見ていられるように。
あの記憶を、もう一度 坂町 小竹 @kotake_s
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