第7話 自転車の荷台に乗るメイド


 夜6時半。

 ボクはハルと海岸に抜ける畦道の十字路で待ち合わせをした。なるべく人目がつかなくてわかりやすいところ、と思ったのだけれど、この島は目印になる近辺には必ず、人の出入りがあるため、十字路のバス亭と決めた。

 雨はまだ降っていて、ボクは傘を差しながら自転車をこぐ。

 島を歩き回るには時間がかかりすぎるので、移動に自由の利く自転車は便利だった。バスを使えば乗客はほとんどハルの知り合いだし、8割方運転手さんもハルを知っている。

 バス亭を照らす外灯の下。歯科医院の看板が貼られた水色のベンチの横に立っているハルを見つけて目の前に自転車を止める。

「なんで、そんなこうもり傘?」

「だって、これしか持ってないの」

 ハルは身の丈ほどの長さがある大きなこうもり傘を差していた。

 まだ夜というには明るい。ハルが夜道は怖いから嫌だというので、ボクらは日があるうちに学校へ向かうことにした。

 こうもり傘は不気味さが目立っている。しかもメイド服のまんまだし。ハルは傘を畳むと、羽織ったレインコートのフードを被って荷台に乗った。ぎゅっとハルはボクの胴を握って、落ちないように力を込める。

「ねえ、涼太お兄ちゃん。今日じゃないと駄目なの?」

ハルは雨に濡れるのが嫌なのか、やや不満げにおでこをぐりぐりとボクの背中に押しつける。

「だって、雨女なんだから雨の日じゃないと会えないよ」と言うと、赤くなったおでこをさすりながらため息をつく。

 ボクは少し重たくなったペダルを踏みだした。ライトが道の手前、水たまりのあるでこぼこ道を照らしながら進む。

 道案内はハルに任せる。昨日は港をぐるりと廻ったけれど、ハルは竹林を抜ける近道を教えてくれる。ブロック塀や漆喰に囲まれた小路に何度もTシャツや傘の骨や露先が擦れる。

 梅雨を越えたばかりで、漆喰の壁は苔むしている。平坦な道から坂になってボクは立ちこぎでペダルに体重を乗せる。

「お、降りたほうがいいの?」

「だい、じょう、ぶっ!」

 ボクは歯を喰いしばって車輪をひたすら回す。顎を上げて呼吸してまた身体を深く沈みこませる。林の小路を抜けて見えてきたのは、島の住宅街を一望できて、てっぺんに到着すると一気に駆け下りる。

 そのとき、ボクはある人影を見つけた。

 あまりに一瞬だったからあやうく見落とすところだったけれど、間違いない。ボクが見たのはものすごい勢いでボクらと逆方向へ走り去っていくセンパイの姿だ。

 巨大なリュックを左右にゆすりながら、手のひらをパーにして太腿を異常に引き上げながら前に進む独特の走法で坂を駆け上がる。

「せ、センパイっ?」

「ちょ、ちょっとっ! 涼太お兄ちゃっ、わふっ!」

 下り坂で急ブレーキをかけたせいで、ハルは鼻頭をボクの背中にぶつける。けれどそれにかまっている暇はない。

「ハル、まだ約束の時間までちょっとあるからっ!」

「あるから、何なのっ!」とハルは鼻を押さえながらボクの背中を叩いてさきほどのブレーキの抗議をしている。

「追いかけるっ!」

  釈迦堂センパイの行動は把握しておくべきだ。それがきっとあのロケットを守ることにも繋がる。

 ボクはそう信じている。要するにあの人がたった一つのことに情熱を傾けているときにはろくなことがない。ボクはそれを何度も味わっていて、その件に関して例外はない。登ってきた坂を再び駆け下りる。

 センパイは坂を下り終えるとガードレールを広いストライドでハードルのように飛び越える。ボクらは自転車を降りて、ガードレールの奥を覗き込む。林と潅木のせいでセンパイの姿を見失ってしまった。

「誰かいたの?」

「センパイ。ボクのセンパイ。たぶん、また何かやらかしそうだから、止めようと思ったんだけど」

 まあ止めても聞かないのはわかっている。

「また何をしようとしてるの」

「僕らがこの島に来た理由は、あのロケットを一目観たかったからなんだ。でもセンパイはあれが迷信で打ち上げられなかったと知ったら、どうしても打ちあがるようにしたいらしい」

「でも……開発基地には誰もいないよ」

「たぶん、センパイはそれが理解できないんだと思う」

 現に島の人たちが隠している秘密でもある。

 ハルの手を引いて、ボクはガードレールを越える。足許に落ち葉がすべてなくなって土が露出している。おそらく飛び越えたあとに滑って転んだようだった。

「それで、きっとセンパイはどんな手段を使ってでも、あの開発基地をもう一度使用可能にして、ロケットを打ち上げるつもりなんだろうと思う」

「困るのっ! だって、あれはこの島のご神体だもんっ!」

「そう、だからボクはあの人を止める」

 ハルは大きく頷いた。

 竹林の中は日没間近でとっぷり暮れていた。外はまだ日が当たっているけれど、さすがにここは薄暗い。ハルがボクに近づきすぎているせいで、何度も靴の踵を踏まれる。どうやら夜が怖いらしい。

 薄暗い中に、懐中電灯の明かりが見えて、ボクはこっそり近づく。時間はそろそろ七時を廻る。約束の時間は、八時半。あまりここに長居することもできない。

「ねえ、涼太お兄ちゃん。早く出ようよ。暗いよ、危ないよ」とハルはしゃべっている間も、不意打ちのようにボクのアキレス腱を蹴る。何とか恐さを和らげようとボクとの距離を詰めているけれど、こちらは通学用のローファーで蹴られっぱなしだ。

「静かに。……いる」、ボクはハルに身体を低くするように言う。

 ようやく明かりがはっきりと輝くのが見えて、そこにセンパイが蹲っているのがわかった。

 ガードレールを飛び越えたときに転んだせいで、背中から太腿にかけて土と落ち葉がこびりついていた。まるでミステリーサークルのように、円形に竹や潅木や雑草をなぎ倒してその中心でセンパイは一人で何か作業をしている。

「何やってんだろう、あの人……」、いい加減呆れてしまう。

 ボクらは自生した山茶花の木陰に放置された大型トラックのタイヤに隠れてセンパイを監視する。けれどぐっと身体を縮めていたハルが突然、タイヤの陰から離れて、べちょべちょの地面から何かを摘まんだ。

「ねえ、これ」と濡れた紙を見せる。

 そこに描かれていたのは設計図。字体はセンパイのもの。ハルは濡れた土で汚れた紙をタイヤにペタリと貼って、目を細める。きっと、竹林の外も暗くなっているだろう。

 そんな暗闇をもろともせずに、センパイは夜行性のボス猿のようにたった一人でミステリーサークル内をうろうろしながら作業に没頭している。土に汚れた部分を払っていくと、設計図は完成まできっちりと描かれていた。

「……タコ?」

 たぶん、これはタコだ。

「タコって、凧揚げのタコ?」

「そう、たぶんセンパイはここで凧を作ってる」

 え、なんでという言葉も出てこないのか、ハルはただ無言で頬を引きつらせる。

 あの箱型の凧、去年の夏に見たことがある。たしかセンパイが写真部に頼み込まれて製作したものだ。上空からの写真を撮るための協力者として、人工衛星や飛行機、ロケットなど空を飛ぶ人工物にやたらと無駄な知識のあるセンパイが選ばれた。

 それでヘリや航空機による撮影はコストがかかるし、屋上など高い建物からでは範囲が狭いため、結局凧にカメラをつけて飛ばすことになったのだけれど、半年の時間を要して今年の冬にようやく完成した。

 それをわざわざ島まで持ち込むとは、そのためにあの巨大なリュックを背負っていたということか。凧は箱型が三つ並んでいる。それは主力機と副機に別れていて、風が強く吹いても糸が安定する仕組みになっている。

それからカメラも主力機の20メートルほど下にボックス型の台車に載っていて、カメラはシャッターにインターバルタイマー機能を持つ、最新のAUTOBOY‐TELE6。

 台車は建築学科の技術協力によって果たされた、日本とうちの高校との技術の粋を結集したアンバランスな物体だった。

 ただ組み立てに時間がかかることと、風を待たなければいけないことが難点だけど低空による鮮明な写真はどの航空写真よりも優れていた。

「でも……あの凧は禁止になったはずじゃ……」

「どうして?」

 いや、まさか。そんなはずは。

「凧に雷が落ちて、そのとき凧を操縦していたセンパイが感電したんだ。それで学校側が写真部に凧揚げによる写真撮影を禁止したんだよ」

 もしかして昨夜、芽衣香さんの車の中で見たという聖エルモの光はあの凧に雷が落ちたせいじゃないだろうか。

……だとしたらセンパイ、一度感電しているのだけれど。

「もしかして……涼太お兄ちゃんってすっごく苦労してない?」

 気づいてくれてよかった。

「昨日見た聖エルモの光はセンパイが揚げていた凧に落ちてたんだ」

「え、それって雷に当たったってこと?」

「間接的に、だけど。もちろん、本当に当たったのかは本人にたしかめてみないとわからないけどね。でも、あの人があんなに気分悪そうにするなんてめったにないから……」

 きっとあの人は数日前からここで凧を揚げて、何かを撮っていたのだろう。そこに昨日芽衣香さんの車から見えたのは、雨が降って揚げっぱなしにしていた凧を回収していたところだったのだ。

 そこに雷が落ちて、先端部の凧がコロナ放電を起こしてセンパイは感電した。もし僕の予測が本当なら、二度の落雷で無事という豪運ぶり。

 呆れてしまって言葉もない。

 そして目的はわからないけれど、センパイは凧揚げの準備を終えて、ミステリーサークル内を走り回る。ぐんぐんと凧は浮力を持ち、空へと駆け上がる。

しかもどうやら、芽衣香さんの家を出てからというものここで野宿しているようで、テントやら薪やら石を積んで作った竈やら生活をした形跡がある。本当に呆れてしまう。

 ボクらが夜の校舎で雨音と待ち合わせをしているということは、さらに昨日のような驟雨が来るということだ。予報では今の雨はすぐにやむらしいけれど、雨音が外出するとすれば油断はできない。

―――本当に雨音がボクとの約束を守ってくれればの話だけれど。

「……行こう」

「え、放っておいていいの?」

 ハルは首を傾げる。

「うん、大丈夫だよ……たぶん、だけど」

 いつまでもセンパイにかまっている暇はない。

 気づかれないように、ぬかるみ続きの林道を、さっきのガードレールまで走りぬける。やがて道路まで出ると、少しずつ雨が強まった。

 時刻は8時を回った。

 このまま学校まで自転車で走れば、充分間に合う時間だ。外はすでに暗くて、ボクは雨音の存在を示す、不規則に動く雲を探す。

 不穏な雲はどこにも見つからない、もしかしたら今日は芽衣香さんの車で学校に向かっているのかもしれない。

 きっといる、きっといるはずだ。

 ボクはハルを荷台に乗せて自転車を漕ぎだす。

 やや疲れた息を吐くハルの息が背中にかかる。前輪が雨の雫を飛ばしながら進む。それを拭ってボクは学校を目指す。風が少し出てきた。樹林の木々がしなって、まるで怪物のように身体を揺らしている。その木々の枝葉から落ちる雨がボクらを濡らした。

 山道に外灯はなくて、落石注意の看板がやたらと明るく輝いてみえる。それを目印にガードレールぎりぎりをボクは走る。

「……ッ」

 風で折れた小枝が路肩に転がっていた。

 自転車のタイヤがそれを踏んで見事に後輪にひっかかり、チェーンががりがりと枝葉を噛んでしまった。とっさに急ブレーキをかけると、今度はハルがぎゅっとボクの身体にしがみついた。

 後輪がやや宙に浮いたけれど、ハルはなんとか転げ落ちないように荷台で踏ん張った。路肩が平たくてよかった。これで砂利道だったらきっと前輪がバランスを崩して二人とも倒れていただろう。

 自転車が止まると、ハルは「もうっ!」とボクの背中をぼす、と拳で叩く。

「ご、ごめん……でも、チェーンが外れた」

 ハルが荷台から降りて後輪を少し押す。緩みきったチェーンは回らずにからからと音を立てている。やってしまった。そもそも東京で電車通学しているから普段あまり自転車に乗らない。

「これ、直せる?」

 ハルは黙って首を横に振る。

「だよね」

 さすがに島育ちと言ってもチェーン修理にはなれていないか。

 この暗闇でボクに修理ができるわけもない。仕方なく自転車を押して歩くことにした。自転車のグリップを握って押すボクの横をずぶ濡れになりながら歩を進める。メイド服はすっかり重たくなっていて、通学用のローファーも歩きにくそうだった。

 しかしこれで約束の時間には遅刻だ。

 雨はやんでいて、風もゆったりと吹いている。おかげでチェーンばかりがうるさくカタカタと鳴って、それがボクを非難しているように聞こえる。

 たしかにセンパイのことを考えていたことはたしかだけど。それでもこの仕打ちはあんまりだ。チェーンの音がうるさくて仕方がない。

「ねえ、そういえばハルはどうして島から僕らを追い出そうとしなかった?」

 ふと、芽衣香さんが言ったことを思い出した。神主さんの言うことを聞かなかったボクらが追い出されなかったのは、ハルのおかげらしい。

「そ、それは……」

 ハルはメイド服の袖をいじりながら俯く。

「本当は、みんな無理してるの」

「無理してる? この島にいることを?」

 ハルの言っていることがいまいち掴めなくてボクが聞き返すと、首を振る横顔が見えた。いつもの童顔が少し大人びているように感じる。

「ううん、そうじゃなくって。あのロケットのこと。ハルは、島のみんなに何も聞かされていないけど、それくらいわかるよ。みんな、ロケットのこと嫌ってる。本当はなくなって欲しいって思ってるの。でも、そういうわけにはいかないから、ハルはあのロケットをご神体にしようと思ったの。島の守り神になって欲しかったの。そうして、ぜんぶ忘れて欲しかった」

「そうか。じゃあ、センパイの言ってたことは当たってたんだ」

 センパイはロケットに関する一連の事件が、もし忌まわしい記憶ならそれをご神体にするはずがないと言っていた。すべて嘘なのだと。

 でも島の人たちはあの記憶を引きずりながら変えようと努力したのだろう。煤払いのときも、祭りのときもハルの周りにいた大人たちはみんなあのロケットを憎んでいるようには見えなかった。

 きっとハルが変えようとしていたのだろう。そんな大切な時期に、ボクらはこの島に来てしまった。そんな大事なときに。

「でもね、涼太お兄ちゃん。ハルだってあのロケットが消えてなくなるなら、みんなそのほうが良いって思ってるの。誰も傷つかないまま、ロケットが宇宙に飛んでいっちゃうなら、絶対そっちのほうが良いんだ」

「誰も傷つかないなら、か」

「そうなの。だから、あの人には、この島にいて欲しいんだ。でも……危ない目に会って欲しくない。ねえ、涼太お兄ちゃん、どうすればいいの?」

 ハルの声がわずかに震えている。俯いた表情は髪の毛に隠れて読み取ることができない。でもボクには何となくわかった気がする。

「ハルは、この島のことが好きなんだ」

「うん」

 ハルは無理に笑みを作って顔を上げる。

 本当に誰も、傷つかないなら。


 そう小さく呟くと、ハルが突然蹲って耳を押さえる。


 何か、ひどい頭痛に耐えているような、そんな表情。

 もしかしたら、チェーンが外れた拍子に頭を打ってしまったのかもしれない。いや、こんな表情をしたハルを、僕は一度観たはずだ。

―――いつだったか。

 

 そうだ、ハルが食事を作ってくれて、二人でテーブルに座ったあの日。あのときも、突然頭の痛みを訴えていた。

 

 ボクは自転車を投げ出してハルの背中をさする。

「ハル? ハルっ!」

 身体を震わせて、ハルは道端に身体を横たえると道端の石を掴む。痛みに耐えるために力を込めすぎて、握りしめた手からは血が滲んでいる。

「……っ!」

 どれほどつらい痛みなのか、ボクにはまるでわからない。ただ何度もハルの名前を呼んで、背中をさする。

「い、痛い……っ!」

 頭痛薬、もしかしたらセンパイが持っているかもしれない。こんなときに自転車のチェーンが外れるなんて。この時間なら来るかどうかもわからない車を待つよりは動いたほうがきっといい。ボクはセンパイのところに戻ろうと、ハルを路肩から林が広がる地面に移動させた。

「ハル、待ってて。すぐに戻ってくるからっ!」

―――そのときだった。

 ハルは虚脱しきった胡乱な目をしたまま立ち上がった。痛みが自然と身体から抜け出て、魂まで持っていかれてしまったかのように。ボクはそんなハルの姿が怖かった。元気に笑う表情は消えうせて、立ち上がったハルは身体についた泥も払わずにじっと、社翁山の向こうを見つめていた。

 視線の先は天弓神社か、それとも禁足地か。神木のようにランチャに乗せられて時間だけが過ぎてしまったロケットを見ていたのか。この暗闇では判断できない。でもたしかに何かにとりつかれているかのように、ボクにはみえた。

 ボクはハルの両肩を握った。

「ハルっ!」、身体を揺さぶって、瞳に意思が戻るようにと何度も声をかける。がくんと一度、ハルは瞳を閉じたまま俯いて、すぐに顔を上げた。その表情はいつものハルの姿だった。

 しかし両目に涙をためていて、すっと頬に流れ落ちた。

「……やっぱりね、駄目なの」

「駄目って、何が?」、それよりも大丈夫なのだろうか。

 ハルは袖で目元を拭いながら首を振る。

「見るの。こんなふうにね、ひどい頭痛が起きたときに目を閉じると浮かんでくるの」

「な、なにが?」

「―――ロケットが落ちる姿」

「神籠の人たちが、予知夢を見るのは嘘じゃなかったの?」

 それは雨女の力によって可能だったと芽衣香さんは言っていた。

 雨の預言は、ただ雨女の力を使っていただけで、それを自分たちの預言のように仕立てあげたのだと。

「……芽衣香は、信じてくれない。神籠の家の預言は雨女のおかげだって思ってるの。本当の予知夢を見るのは、一生にたった一つだけ。同じ夢を小さい頃から何度も観るの。そして現実に近づくにつれて、頭の痛みがだんだん強くなるの」

 たしかにあの人は純然たる科学者だ。

 迷信を信用しない性質だから、たしかに未来予知と言ってもそこにカラクリを見出すだろう。そのカラクリの後ろに霧島家がいて、芽衣香さんは二つの家の関係性を暴いたのだ。

 けれど、もしハルの言うことが正しいとするなら。

 いや、仮にハルの言うことが正しいとしよう。

 予知夢を観るのは一生に一度。もしそうなら。

 神籠の家が雨女の力を使って預言者としての地位を保とうとしていたのは、自分たちの予知夢が顕れたときの備えということになるだろうか。神籠の女は普段、力が現れないとき―――つまり予知夢を見ないときには、雨女の力によって雨を預言する。

 それは予知夢を見ないときの日常だったのかもしれない。

 霧島家の女が、雨音のように雨をこの島に降らせる前に、雨が降ることを預言したことにして、預言者としての地位や支配を得ていた。

 やがて神籠の女が島に危機が訪れるほどの予知夢を見たときに、島の人たちはそれまでの雨を預言する力を信じて、神籠家の予知夢の話をすんなり受け入れてしまう。

 それがこの島の、あの二つの家の過去だったのかもしれない。そういう両家の力を互いにうまく使って、バランスを取っていたということか。

 ハルは唇を強く噛んで、ボクのTシャツの袖を握っていた。

「じゃあ……ハルは今さっき、予知夢を見たの?」

 こくん、と小さな顎が立てに揺れる。

「ロケットはね、打ち上げてすぐに体勢を崩して、川に落ちちゃうの。それに、ものすごい爆発が起きて―――」

 ハルはすぐに自分の両肩を抱いて、震えだした。

「うん、もういいんだ」

 ボクは神主さんが言っていた言葉を思い出していた。

 たしか、ハルが預言を出したと言っていたのはこのことか。ボクらに、夜出歩くなと言っていたのは、ハルの予言を信じていたことが大きかったのかもしれない。もちろん、そのときのボクらは預言と聞いてもまったく信じていなかった。

 けれど、さっきのハルを見ているとあながち嘘ではないと思う。

「それはどのくらいで起きるということはわからないの?」

「わからないの。でも、きっと数日のうちに……」

 だとしたら、その原因となるのはおそらく、センパイに間違いないだろう。

「そっか……今日はもう帰ろう」

 ボクは地面に横倒しになった自転車を立て直した。

 サドルもハンドルグリップも前カゴも泥だらけだ。芽衣香さんの自転車だから、きっとこっぴどく怒られるだろう。

 誰も傷つかないなら、と言っていたのはハルが自分の見る予知夢を気にしているからだ。自分の見る夢が、少しずつ現実に繋がっていく恐怖はハルを怯えさせているはずだ。

 チェーンは壊れたまま、タイヤをからから回してボクは向きを変えようとする。

 もう約束の時間も過ぎてしまっている。

 このまま学校に行っても雨音がいるかわからないけれど、もしあの日のように芽衣香さんが授業をやっているとすれば間に合う可能性はある。

 でも、ハルに無理をさせるわけにもいかない。

 県道をひたすら降るとやがて島の人たちが多く暮らす平地が見えてくる。その手前に橋がかかっていて、対向車線からバスのライトが濡れた道路を照らしていた。ちょうど最終のバスが来る時間だった。

 そのとき、ぽつぽつと大きめの雨粒がハルとボクの頬を打った。

 ボクらがバス亭に到着すると、バスは乗客の乗降のために停車する。

 しかも降りるドアも開いて、こんな時間に家も何もないこの橋で降りる人も珍しい。

 橋の名前は薄明橋。

 どうして、そういう名前がついたのかは知らない。

 ぼんやりとバスを眺めていると降りてきたのは、傘を背中に背負っていつもの格好をした雨音だった。まるで雨が降ることを知っているかのように(事実、雨が降るのだけれど)、雨合羽に傘を何本も背負ってバスのタラップから降りてきたのだ。

しかし雨音はボクを見るなり顔をしかめて、

「こんなところで何をしている?」と怒気を孕んだ声で呟いた。

 そりゃあそうだ。約束の時間に遅刻してずぶ濡れになりながら県道をうろついているのだから。

「ごめん、自転車が壊れちゃって」

 ボクはチェーンに視線を落とす。けれど雨音は空を見上げてふっと息をつく。

「……そうか。それは大変だったな。しかし、困ったことになった」 

 そう言って、背中に差していた傘を取り出してボクらにくれる。小降りになっていた雨が突然、大きな粒となって傘を叩く。その様を、ハルは目を丸くして見ている。傘と、雨音を交互に見やって、「本当に、降るんだ」と不思議そうに一人ごとを零した。

「困ったことって?」

「涼太が歩いていたのが見えたから、思わずバスを降りてしまった」

 あ、とボクもそのとき気がついた。上空には、あの不規則に動く奇妙な雲が渦を巻いて集まり出している。そうだ、雨音は外に出れば雨を降らせる。どうやら、今雨が降るのは困ることみたいだった。

 「芽衣香が気づいてくれると良いが」

 最終のバスも行ってしまった。この雨量で、来た道を戻るのも難しい。 住宅街へと降りて、手当たり次第にチャイムを鳴らすか、いっそのこと学校に入って、雨音の持つ雨雲が去るのを待つしかない。

 バス亭に並ぶ、水色の合羽とこうもり傘と水玉の黄色い傘。雨はさらに強さを増して、ボクらの傘を激しく叩く。正面の川がみるみる増水していく。さっきまで、露出していた河原が水の下に埋もれて、ここからすぐに離れなければとボクは来た道へと身体の向きを変えた。

 そういえばセンパイ、この雨の中大丈夫なのだろうか。

「大丈夫だよ」

 雨音は涼しげな目元を、ぴくりとも変えずに呟いてボクの服についた泥を取ってくれた。

「少しだけ、芽衣香と約束していた場所よりも早く降りてしまっただけだ。彼女ならわかってくれる。今は、ここを離れないほうがいい」

 そう言って、雨音はバス亭の後ろにあった古びたベンチに座って、ボクの服から取った泥を人差し指でいじっている。ちょうど、センパイを追いかけてガードレールを飛び越えたときについたものだろう。

「転んだ拍子にチャツボミゴケをつけるなど、涼太は幸運なのだな」

 そう言いながら、雨音は雨が降りしきる中、合羽の胸ポケットからシャーレを取り出してボクの服に付着していた泥を入れた。たしかにその泥は緑がかっている。

「珍しい苔なんだ?」

「まあ、珍しいな。強い酸性土にしか生息しない」

「苔、好きなんだ?」

「数少ない趣味の一つだ」

 増水する川を見つめながら、ぼたぼたと空から落ちて耐えることのない雨を傘で感じる。まさかこんなところで雨音の趣味を知ることができるなんて思いもしなかった。

 じっと、雨音の言うとおりにベンチに座っていた。ひんやり冷たいけれど、とっくに身体はびしょぬれだからあまり気にもならない。

「あ、あの……っ」

 ハルが傘の柄を両手で強く握って顔を伏せたまま声を上げる。雨の雫が傘に落ちる音にも負けないくらい大きな声だったから、ボクらは思わず顔を向ける。

「雨女さんは、ずっとこの島にいたんですか?」

 そうだ、そういえばハルが雨音に会うのは初めてなんだ。神籠家と霧島家に交流があったのは、先代までだと言うし、それに神主さんだって会ったことはないと行っていたから、それなりに雨女というのは神籠の中でも秘匿されてきたのだろう。それを考えるとハルが雨音の存在を不思議に思うのも無理はなかった。

「私は、ずっと見ていたよ。ハルがあのロケットをご神体にしようと努力していたところもちゃんと見ていた」

 雨音の声は大きくなかったけれど、凜として張りのある声で雨が傘に落ちる音にも負けずにハルに届いていた。

「雨女さんは―――」

「雨音。霧島雨音だ。その呼び名は、好きじゃない」

 言われて、ハルはぐっと押し黙る。

 指摘されたのが嫌、というよりもどこか雨音と呼ぶことに気恥ずかしさを感じているようだった。雨を吸った空気が靄のように白んでいて、水の中にいるみたいな感覚がする。

 僕は何も言わなかった。

 ハルが何か、言いたそうにしているから。濡れた落ち葉は側道の排水溝を泥水とともに流れていく。

「あ、あのっ、雨音のお母さんは……どんな人?」

 ハルは自分の聞きたいことが本当はいっぱいあるはずなのに、なぜか雨音のことを訊ねた。しかし雨音は唐突に母親のことを聞かれてもいぶかしむ様子もなく、淡々と答える。

「3歳くらいだったと思う。私は母とこの場所に一度来たことがある。それが、たった一つの、母との記憶だ」

「この場所って、この橋の上?」、薄明橋という名前の橋。

ボクはこんな人気もない場所が幼いころに鮮明な記憶となるだろうかとふと辺りを見渡す。でもやっぱり、橋の上にはバス亭とベンチが一つ。それからバスが登っていく山道と、住宅街へと下る坂道。

 これと言って特徴のない場所だ。でも雨音は懐かしそうにベンチに触れる。

「その頃は、ここのベンチもまだ真新しかった。橋が出来たばかりで、わざわざ海沿いをぐるりと回る必要がなくなってみんな喜んでいたみたいだ」

 ということは、この橋が架けられたのも、それに伴ってバスルートが敷かれたのもそれほど昔のことではないらしい。たしかにバス亭は雨風にさらされているのに、錆があまりない。

 たださすがにプラスティックのベンチは端が掛けたり罅がきたりしているけれど。

「薄明橋という名前がつけられた理由を、私は母から教わった」

「ここの島って、天気に関する由来を持つ場所が多いよね」

 天弓神社も、許は天が泣くだし、社翁山も春に降る社翁の雨から来ている。喫茶店の翠雨もそう。

 島そのものが、雷を意味する鳴神だから天候由来の土地や場所を多く持っている。それはきっと、不規則な天気にさらされてきた島に、昔から住む人たちの独特の感性によるものだろう。

「そうだな。薄明橋もその一つと言っていいだろう。曇り空の隙間から零れる光の筋を、薄明光線というんだ。別の名前は、天使の梯子。明け方、運が良ければこの場所から奇麗に見える」

 3歳の頃に、雨音はそれを母と見に来たらしい。

「だが、私は自分の力をまだ深く理解していなかった。だから、雨が降るばかりで、結局その光景を見ることはなかった」と雨音は呟いた。

 ハルはそれ以上、雨音に何も訊こうとしなかった。

 きっと、母親のことを訊かれて3歳の頃の記憶を引き出す雨音を察したのだろう。それ以上に、新しい記憶はないのだと。母親について話す言葉の端々に、すでにその存在が失われていることにボクらは気づいていた。

 ばしゃばしゃと、山道を薄く覆った水を車のタイヤがしぶき上げる音が聞こえる。ライトがボクら三人を捉えて、眩しさでボクは目を細める。それは見慣れた赤い軽自動車。

 運転席の窓から、腕を突き出して振る芽衣香さんの姿があった。この雨の中、ハンドルを片手で操作している。

「おーいっ!」

 声を聞いて、雨音が立ち上がった。そしてボクらを振り返って微笑む。

「明日、私のうちに来るといい。今日の埋め合わせに、苔の世話でもやってもらおう」

 芽衣香さんの車がボクらの前で止まる。窓からこちらに身を乗り出して、小さなおだんご髪が怒ってふるふると揺れている。

「うち? うちって、もしかしてあの開発基地?」

 あの2号棟の2階で着替えていたけど、まさかそこが家と言えるのだろうか。しかし雨音はわずかに首を傾げる。まるで今さら、と言いたげな表情。

「決まっているだろう。私はあそこで育ったのだ。芽衣香が母の開発助手をしていたことに甘えてずっとあの場所に住んでいる」

「開発助手? 芽衣香さんが?」

「そうだ。そして、母である霧島茜は―――あの開発基地の所長を務めていた人だ」

 それを聞いて、雨音に返すべき言葉が何も見つからなかった。ばさばさと雨が傘を打つ音だけがやたらと耳に大きく聞こえて、まるでさっきの言葉が幻聴のようにも思える。

 けれど、雨音が当然のように口にした言葉は生暖かい風とともにはっきりと残っている。

「おいこら、涼太。女の子を誘ったのならちゃんと責任取りなさいよっ! なんでこんな雨の中、私があんたたち迎えに来なきゃならないのよっ!」

 思っていたよりも、怒りを向けてこないのは、雨を降らせているのは雨音だからその気遣いもあるのかもしれない。本当に、この人がそんな気配りを出来るのかわからないけれど。

 まずハルに後部座席に乗ってもらい、そのあとにボクも身体を縮める。助手席のドアが開いて、雨音は合羽を脱ぎながらシートに座る。下に着ていたのは、いつものセーラー服で、青みがかった黒髪は白に水色のラインが入った制服に映えていた。

 クーラーの風が心地いい。歩き疲れたのだろう、ハルがうつらうつらと目を閉じかけては頭を振って睡魔に抗っている。

「寝てていいわよ」

 バックミラー越しに芽衣香さんが言いながら、クーラーの温度を下げる。それを聞いて雨から解放されて家に帰れるという安堵感からか、ハルは眠りについた。けれどボクはさっきの言葉の意味を考えていた。


―――霧島茜はあの開発基地の所長だったのだ。


 もし雨音の話が本当だとするなら、芽衣香さんは雨音の母親の助手をしていたのだという。しかし芽衣香さんは、雨音の教師としてこの島に来たのだと言っていた。芽衣香さんがどこかの研究員だったという話は知っていたけれど。

 もしそれが本当だとしたら、芽衣香さんはあの開発基地のことを深く知っているはずだ。

 それならどうしてあんな嘘をついたのだろう。

 そもそも霧島の一族が雨を降らせてロケットの打ち上げを中止に追いこんだと言っていたけれど、それは開発基地の所長である人間がやることだとは思えない。

 明らかに、芽衣香さんか雨音かのどちらかに嘘があるのだ。

 しかし今のボクにはそれを確かめる情報があまりに少ない。ハルにしたって、島の人にも神主さんにもあのロケットのことや、二つの家のことを聞き出せていないのだから。

 ちらりと、バックミラーに映る芽衣香さんを見ると、目が会いそうになってボクは膝元に視線を落として寝たふりをする。

 センパイなら、どう考えただろう。どちらの話を本当だと信じるのだろう。いやそれとも、あの人なら自分の持つ情報だけを信じるのかもしれない。

 だから、自分で考えるのだ。自分の力で。

 

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