第6話 メイドとカチューシャ

 

 山から日差しが届き始めたころ。田んぼに囲まれた畦道を歩いていると、ようやくアスファルトで舗装された道路が見えた。

 校舎までは距離があるので、バッグを背負っていると背中からは汗が噴き出る。おかげで一歩踏み出すのも億劫になっていた。

 社翁山の反対方向に進むと、学校や住宅街や商店が立ち並ぶ一画が現れる。

 舗装された地面に立つと、熱が下から湧いてくるような感じさえする。吹きさらしの風も海側だと潮が肌にこびりつくような暑さがある。

 畦道を通ってきたときには、田んぼばかりだと思っていたけれど、海側に出てしまうと今度は路肩に魚を入れるトロ箱の破片が散乱する風景に変わる。

 側道には魚の鱗と缶ジュースのプルタブが散らばっていて、夏の日差しを浴びると七色に輝いてみえた。

 港には大体フェリーが停泊していて、4時間おきに本州に向かう便が出るみたいだった。フェリーと陸を繋げる桟橋には、ヘルメットを被った中高生が自転車を押す姿も見られる。

 その手前では漁師が夏休みに魚釣りをする小学生たちの釣った獲物を現金で買い取る光景が見られる。釣竿で得たあの小銭を駄菓子屋で使うのが島の子どもたちの夏休みらしい。

 フェリーの桟橋は波に揺られて鉄の軋む音がここまで聞こえる。蝉の鳴き声は遠くて、音と言えば船を繋いだ鎖が錆を海にぽろぽろと落としながら、伸び縮みする響き。

 きっと、小路を抜ければもっと早く学校に着けるのだろうけれど、ここを通ったほうが道に迷いにくい。フェリーに乗る学生が道に迷わないように、道を示す看板が立っているからだ。

 そしてこの島には一つだけ、商店街と呼べる通りがある。

フェリーの桟橋からまっすぐ繋がる通りが、この島で最も人通りの多い道でもある。通りに面した木造建屋はどこも湿った潮風で戸板が湾曲している。

 港から吹く潮風にやられた壁が立ち並んでいるのはこの通りが港に接しているせいで、どこも古びてはいるけれど、しかしだからと言ってどこのシャッターも下りていない。きっとそれも海に近いおかげだろう。

この通りのゆるやかな勾配を登ると学校に辿りつく。

「の、だけど……」

 朝と言ってもとっくに気温は上昇を続けて、背中に背負ったバッグが重たくて仕方がない。

 荷物を置いていくわけにもいかないから、子どもたちが入っていった駄菓子屋の斜向かいにある喫茶店らしき扉を開いた。『翠雨』という看板がボクを迎え入れる。

 どうやら先客があるらしく、前カゴにヘルメットを載せた自転車が一台。ここで一息入れようと、ドアノブを捻ると、来客を知らせる小気味の良い鈴の音が聞こえる。

 ようやく涼風に煽られて、ボクは入り口で思わず膝に手をついた。奥の席で休もうと、顔を少し上げたそのときだった。真横から、シュロの皮を使った箒が飛んできた。

 ボクの頬は柔らかな箒の毛先に撫でられる。客に向けて箒を投げつける人物の顔を見遣った。そこにいたのは、ハルだった。

「な、何しに来たのっ! この罰当たりっ!」

 まあたしかに、とボクはあやうく傷つきそうになった頬に触れる。学校などで見かけるシュロ皮の箒は毛先が柔らかい。おかげで助かった。

 ハルにしてみれば、煤払いのときから準備を重ねてきた神輿行列をぶち壊しにした張本人なのだから箒くらい投げつけてきても不思議じゃない。問題は、そのほとんどがセンパイのせいであってボクはほぼ無関係だ。ということを説明するにはどうしたものか。

「えっと、じゃあカフェオレを一つ」、ボクは甘党でコーヒーは苦手なので頼まない。

「えっ!」、ハルは身構えた状態で声を上げ、「……この状況で注文するの?」と呟く。

「うん、ちょっと歩き疲れたから」

 今日はさすがに巫女装束ではなかった。ボクがハルにカフェオレを頼んだのは、その格好が店員のものだったからだ。学生服にアイボリーのエプロン姿で、しかもポケットから注文伝票がちらちら覗いている。きっとここでバイトでもしているのだろう。

「それで、あのー……カフェオレ。砂糖もお願い。苦いのは苦手なんだ」

 ハルはボクと一定の距離を取りながら自分の武器と信じている箒を掴んだ。だったら投げなきゃよかったのに、と思うけれど、ハルは箒の先をボクに向けて、

「あ、あの変な人はどこなの?」と声を震わせながら訊く。

「変な人には違いないけど、そういう言い方するとセンパイ傷つくよ」

 やっぱり、ボクよりもセンパイの方を警戒しているらしい。あの人の今までの行動を見ていれば当然だけれど。

「今日は僕一人だよ。奥、いいかな?」

 箒を握りしめたまま、ハルは返事をすることもなく外に出て左右の安全確認をする。たしかにセンパイはどこに潜んでいるのかわからないし、単独行動に出たセンパイほど怖いものもない。今となってはどこにいるかもわからない。

 ハルが座っていたテーブルには夏休みの宿題と思われるノートと教科書、問題集が散乱していた。ハルは中学2年生らしかった。

 どこまで見てきたのか知らないけれど、汗をかいて戻ってきたハルは大人しく奥の席に座るボクを見ると、ようやくカフェオレを出す気になってくれたらしくカウンターに立った。そして黒の受話器を取ると、電話を掛け始めて「カフェオレ一つ」と注文した。

「どんなシステムだよ」

 まさかデリバリーの喫茶店があるとは。

 ボクが呟くと、ハルは頬を膨らませて「今さっき、子どもが駄菓子屋さんに行ったからおばあちゃんはそっちの店番しなきゃいけないのっ!」と警戒心の解けない、強い口調で言った。

 喫茶店は駄菓子屋さんが経営していて、人手が足りないので駄菓子屋に客が来ると、対応するためにハルが店番をするらしい。田舎らしい臨機応変さで、ただ言い方を変えればいい加減とも言える。

 やがて駄菓子屋のおばあちゃんの手で直接、コーヒーカップが運ばれて、斜向いとは言え、砂埃や潮風を浴びたコーヒーがボクのテーブルに置かれる。一口すすると、ハルが顔を傾けて、こちらの表情を伺っている。

「どう? おいしい?」

「うん、おいしい」と素直な感想を言う。

 学生服の上に着たエプロンが涼風に煽られて、ハルの膝小僧辺りが見え隠れしている。涼風はもちろん、エアコンではなくて扇風機で、しかもハルは客がここにいるというのに自分の方向へ首を固定していた。そのせいで、だんだんボクのテーブル付近は天窓から直接、日光が降り注いで暑くなる。

「あのー、お客さん来るとは思わなかったの。だから、ちょっと着替えてきてもいい?」

「着替えるって、何に?」

「喫茶店の制服に」

「別にいいけど……」

「じゃあ、ちょっと待っててっ!」とそのまま、両手で制服とエプロンが何とか見えないように覆いながら電話台に駆けていく。

 受話器を取り、また駄菓子屋さんに電話をかけたかと思うと、「メイド服一丁っ!」と叫んで、喫茶店を飛び出した。店はどうするんだろう。

 数分経って扉が開くと、そこには一応ここの喫茶店の衣装を身につけて、肩を上下に揺らして息を吐くハルが立っていた。

「こ、これでいい?」

「あのー……」

「え、何か変かなっ!」

「あ、いや何でもない」とボクが言うと、不審がるハルはきょろきょろと辺りを見回しながら、ヘッドドレスを装着して白のペチコートと黒のワンピースの下にヒラヒラした白地のエプロンを腰に巻く。

 なんとも古典的なメイド服。ただ、店に客は僕一人しかいないので、無理して制服に着替えることもないと思うけど、言わないことにする。

 まだ警戒心が解けないハルはボクの挙動を常に見張りながら、メイド服のまま自分のテーブルに座り、広げていた宿題を解きはじめた。

 ボクは席を移動して、ハルの正面に座り、相席をする。

「な、なに?」とじとりとハルはこちらに目を上げる。目が大きいので、小さくても睨まれるとやや迫力が出る。

「一つ、聞きたいことがあるんだけど」

 ボクはいくつか懸案事項を抱えている。センパイはきっと、これから脇目も振らずにロケットの調査を進めていくだろう。その暴走を止めるには、合理的な理由が必要だ。絶対に、あのロケットの打ち上げが中止されたもっと深い理由がこの島には眠っている。

 その解決なしに、あの人を説得して島を出ることは不可能だろう。

「聞きたいこと?」と突然、ボクの真面目な口調に不意をつかれたようで宿題の手を止めて鉛筆を置く。缶ペンケースの蓋にはシャープペン禁止の文字。ハルの字体ではないから、おそらく先生か保護者によるものらしく、鋭く尖ったシャーペンは危ないとか何とか説明書きがついている。

「霧島家ってなに? ハルの名字は神籠でしょ? 何か関係があるの?」

 霧島、という言葉を聞いた瞬間、ハルの肩がびくんと跳ねた。やっぱり何かあるらしい。わかりやすい反応で助かる。

「え、え? キリシマ?」

「そうだよ。芽衣香さんから聞いたんだ。この島には、昔から続く二つの家柄があるって。ちなみに、ハルがこの島の預言者みたいに振舞えてるのも、昔に霧島と関係があったおかげだってことも聞いた」

 ボクはハルのテーブルに移し変えていたカフェオレをすすった。まだ暑い。どうしてこんな暑い中、僕はホットを注文したのか。いやそもそも聞かれていない気がする。

 なぜアイスかホットか聞いてくれなかったのだろうか。

「芽衣香、この島にいるの?」

「うん、昨日の夜会ったよ。信じられない?」

「ううん、その話知ってるなら、芽衣香が話したってわかるから。そう、いるんだ」とハルはノートを閉じる。

「……霧島家の女の人は雨女になるって言い伝えがあって、この島にある雨乞い信仰も、昨日の祭りも全部霧島の人たちのために行なわれてきたことなの」

「今は? 家同士に関係はない?」

「今は―――ないの。この島がロケットの実験施設になるって話が出たくらいから、少しずつ霧島家は天弓神社や神籠家から離れて行ったの」とハルは決まり悪そうに眼を逸らした。それから窓枠に視線を移す。外で、静かに雨が降り始めていた。

「自転車、濡れるよ?」

「え?」

「外の自転車、ハルのでしょ」

「どうしてわかったの」

「だって、店にいるの僕とハルだけだもん」

 けれどハルは首を振って話を続ける。

「島の禁足地になっていた区域は元々、霧島家の敷地で、あの人たちが開発基地として勝手に全部譲り渡したの。この島を、島の人たちを、裏切ったってお父さんが言ってたの」

「裏切った?」

「うん。神籠家の巫女と霧島家の女の人は義理の姉妹になる約束ごとがあって、姉妹になる儀式が終わるとずっと一緒に暮らしていたの。だから……」

 だから、一方的にその契約を破棄する事件が起きた。それにあのロケットと開発基地が関わっている。

「じゃあ、芽衣香さんが言ってたみたいに、神籠家が霧島家を従えていたわけじゃないのか」

 なんとなく、芽衣香さんの口ぶりからそんな関係性が読み取れたけれど。

「ううん、立場は同じ。どっちが上とかじゃなかったの」

 もしそれが本当の話なら、ハルの父である天弓神社の神主さんは、仲間に裏切られて立場上苦しかったのだろう。そうすると本来、神籠家と霧島家は共存関係だ。

霧島の女はその力を外部に漏らさないために神籠家を隠れ蓑にする。そして神籠家は霧島家の雨を降らせる力を自分の預言と偽って信頼と支配を得ていたはずだ。

「どんな理由で、霧島の人たちが天弓神社を裏切って、禁足地を譲ってしまったのかわからないけれど、でもお父さんは怒ってる、と思う」

 ハルは学校指定の紺色のセカンドバッグから、錆びた鉄の板を取り出した。それは長い間土に埋もれていたのか、雨ざらしになっていたのかわからないけれど、腐食していて許がどんな形だったのかもわからない。

「これ、お父さんから預かってるの。亡くなった、お母さんが雨女さんに貰ったんだって」

 きっと、ハルよりも前の巫女、つまりハルの母親が最後に霧島家と関わっていた人物なのだろう。亡くなった、という言葉に触れるとハルが傷つくと思って、ボクは無言で鉄の板をじっと見下ろす。ただの板、しかし何か文字が彫ってある。『の』の前後は錆びがひどくて判読が難しい。

「雨……の、ため……に?」、意味を繋げると、大まかにこのように読める。そして文字の幅から行くと、大体六文字ほど。でも鉄の板の欠け方からいくと、さらにその先に文章があるようにも思える。

「これは?」

「霧島の家が開発基地に禁足地を譲ってすぐに書いたやつだって、お父さんが言ってたから、そのときのものだと思う」

「その先、なんて書いたか神主さんには聞けない?」

 ハルはボクの言葉に首を振る。ハルの話だと、がんちょさんや駄菓子屋さんにもその当時のことや、この鉄の板について聞き出そうとしたけれど、誰も話そうとはしないのだという。

 今もこの島にある開発基地が禁足地に残されていること自体、島の人たちにとって癒えない傷になっているのだろう。しかしそのロケットをご神体にする、という行為は霧島の家や開発基地のことを忘れて立ち直りを見せているきっかけなのかもしれない。

「みんな、あのロケットのことも開発基地のことも教えてくれないの」

「知りたくない?」とボクは訊ねる。

 つまり、この文言の続きがわかれば、どうして霧島家がこの島の人たちを裏切ったのかがわかるかもしれない。そしてたった一人、霧島の名前を持つ人物をボクは知っている。

「ボクは、この島の雨女に会ったことがあるんだ」

「あ、会いたいっ! 私も、会ってみたいのっ!」

 ハルはテーブルから身を乗り出して声を上げる。鉄の板に印されているのは、ハルの母親と深く繋がっている言葉。ならその先を知りたいと思うのは当然だろう。


 外は、雨だ。


 しかも今日は予報でも雨を告げていた。柔らかな夏の雨は、雨音が降らせる雨とは似ても似つかない。

 なら、今日は雨音と約束した日。また、夜に学校で会う約束を果たす日だった。

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