第5話 鳴神島の秘密



―――聖エルモの光だな。



 授業を終えて、芽衣香さんが家まで送ってやる、と言った。

 車に乗って、10分ほど経ったころだろうか、すでに雨は強く島全体に降り注いでいた。

 ボクと雨音は二人で後部座席に乗ってぼんやりと海沿いを眺めていると、芽衣香さんが運転席から空を見上げて「聖エルモの光だ」と呟いた。聖エルモの光。聞きなれない言葉だった。

「なに、それ」

「よく沖に出た船に起きる放電現象だ。昔はマストなんかで起こったみたいだけどね。あれはたぶん、飛行機か、どこかの灯台だ。こんな雷雨が降るときは、雨音ちゃんの心がね、揺らいでいるのさ」

 ちかちかと、空に輝く光の粒。どうやら芽衣香さんはそれを指しているようだった。でもよく空を眺めていないと見過ごしてしまいそうだ。鳴神島に住む人たちは、なぜか天気の名前に詳しい。それが雨音によるものなのか、この島に特殊な自然条件が揃っているせいかはわからないけれど。

 真っ赤なアルトが海岸沿いを走る。もうそろそろ、側道から家に向かう畦道が見えてくるはずだ。ヘッドレストに頭が届かない芽衣香さんの運転を見ていると、まるで勝手に車が動いて、会話も自動再生しているような気分になる。

 窓ガラスの外の景色に目を映すと、まだ雨が降っていた。

 御庭洗いの雨が降ってからほどなくして空は晴れていたはずだったのだけれど、雨音が一歩校舎から出ると再び雨が降った。しかも、その雨はかなり強くて雷を伴うもので、芽衣香さんが言ったような自然現象が起きるのも頷ける。

 暗い海の上で輝く光が、窓を滑ってやがて見えなくなった。芽衣香さんがハンドルを切って、がたがた道に入る。そこから3分もすれば、自宅に着く。

「ねえ、芽衣香さんなら、あのロケットのこと知ってるんじゃないの?」

 ボクは、触れるのが少し怖かったけれど、思い切って聞いてみる。あの開発基地に入ることができるということは、その施設に縁がある人間ということだ。

 でもボクは芽衣香さんが数年前までどこかの研究員をやっていたとしか聞いたことがない。しかもそこを突然やめたかと思うと、教師になってこの島に赴任したのだという。

 一時期、芽衣香さんの姉であるボクの母親の許に転がりこんで、ずいぶんと幼いボクの面倒を見てくれたらしい。きっと、その期間は芽衣香さんが研究員を辞めたときの話だろう。だから鳴神島で教師をするという話を母が聞いたときにはあまりに急なことでとても驚いたらしい。

「もしかして芽衣香さん、あの開発基地の研究員だったの?」

「いいや、この島に来たのは教師としてだ。元々、あの場所は島民みんなのものだからね、入ろうと思えば誰だって入れる。ただ、入ろうとしないだけ。もう、あの基地そのもののセキュリティなんて、あってないようなもんだし」

「そう……」

「うーん、それにしても、ロケットねえ……私の知ってることなら全部話せるけど、ただそれにはちょっと、この島の過去を話さなきゃいけない。時間はある?」

 芽衣香さんは指で何度もハンドルを叩きながら言う。

「いい? 雨音ちゃん」

雨音が首を縦に振るのを確認してから、芽衣香さんはワイパーを止めて、車のスピードを緩める。雨はやや小降りになってきているけれど、まだやみそうな気配はなかった。

「この島には、神籠家と霧島家っていう大きな家が二つあったんだよ」

 ボクは芽衣香さんが言ってすぐに、雨音が校舎の廊下で呟いた、霧島の名字は島では良く思われていないという言葉を思い出した。

「神籠家は予言を、そして霧島家は雨乞いを、それぞれ特別な力を持っていたと言われているんだ。あ、そうだそうだ。たしか……」

 芽衣香さんは後部座席まで身を乗り出して、なにやら雨音の足許をごそごそと探る。掴んできたのは、デパートの厚手の買い物袋に入った一冊の本。かなり薄いけれど装丁はしっかりしている。

「それ、この島の郷土史。ちょうど去年ね、ようやく出来たんだ。読んでみるといい、この島の大まかな歴史がわかるよ。もちろん、これから話す特別な力ってのは書いてないけど。あくまで世間では迷信の類だからね」

「あ、ありがとう」

「それで、話の続き。そうやって神籠家と霧島家は特別な力をお互いに持って島の均衡を保っていた、ように見えたんだけど、実はそうじゃなかった」

「どういうこと?」

 ワイパーが止まったフロントガラスに水が滝のように流れている。

「神籠家に、特別な力なんてなかったのさ。予言なんて嘘っぱち。神籠家は、ただ霧島家の雨を降らせる力を使って、それを自分たちの予言だと島に言いふらしたんだ」

「じゃあ……例のロケットの打ち上げの話は? 中止になったんだよね」

「それはたしかだよ。霧島家はずっと昔から、あの禁足地で暮らしていた。ロケット開発の研究者たちが、この島に土足で踏み込んで禁足地にあの場所を作ったから、霧島の一族は住む場所を失った。神籠家だってそれを黙ってみていたわけじゃない。この島の人たちも、反対運動を続けた。ただ……駄目だった。はい問題。そのとき、涼太だったらどうする?」

「僕だったら?」

 突然、話を振られてボクは押し黙る。雨音は、ボクと芽衣香さんの会話を、ただ窓の外を見つめながら聞いていた。自分で語ることをせず、芽衣香さんにすべてを委ねているらしい。

 きっとこの二人はそれだけ長い間、あの開発基地で過ごしてきたのだろう。

「あ、そうか。雨を降らせて打ち上げさせないようにしたのか」

「そう。そして神籠家は開発基地の所長に、予言で嵐が来るから打ち上げはやめるようにと告げた」

「でも、それだと延期って話になるんじゃ……」

「だから、一度だけじゃなかった。打ち上げ当日を迎えるたびに、嵐が来ると神籠家の者がやってきて予言を残していく。そして実際に嵐が来る。雨女の力のせいでね。やがて不気味に思った連中は、すべてここに置いたまま帰って行ったんだよ」

 ボクは芽衣香さんから貰った本をぱらぱらと捲ってみる。簡単な年表、それから島の歴史。でもロケットに関する記事は全部抜け落ちている。まるで意図的に見ないようにしているような……。

「でもどうしてそんな周りくどいことしたの? だったら、霧島家の人たちがやればよかったのに」

「だから予言だって言っただろ? 雨女という存在は世間から疎まれる。特別な力があるとわかればね。雨を降らせると周りが知れば、恨まれもするだろう。ただ、それを神籠の人間がうまく利用しただけなんだよ。霧島家は自分たちの存在を世間から隠すために、神籠家を隠れ蓑に使った。そして当の神籠家はそれで島全域に権力を持つことになった。それから長い時が経ってロケット開発が島で行われるようになったんだ。だから、ロケット打ち上げに関する折衝も、すべて神籠家の予言として行なわなければいけなかったんだ。でないと、霧島の存在が外部の人間にばれるからね」

「……それは、今も?」

「いや、さすがにそんな古い因習はなくなってるよ。けど、ほんの15年前まであったことは事実だ。先代くらいまでだな、ちょうどハルと雨音の母親たちがそうだったみたいだね」

 話を終えて、一呼吸すると芽衣香さんはワイパーをつけて用水路ぎりぎりに止めていた車を車道に乗せた。雨はフロントガラスの上で地面に落ちる線香花火みたいに弾けてワイパーに捕まる。

「だからさ、そっとしておいて欲しいんだ。あのロケットのことは。この島の消えない傷なんだよ」

「それはわかったけど、じゃあ雨音は? 雨音はどうなるの?」

 そんな古い因習がなくなったと言って、雨音の力が失われたわけではないのだ。

「そして霧島の一族はずっと、禁足地にいて神籠家によってこの島の人々から秘匿されてきた。今さら、外に出て雨女ですって言うわけにもいかないだろう?」

「……もしかして芽衣香さん、神籠家に雇われたの?」

「おっと、よくわかったねえ。そのとおりだよ。私は、この島でたった一人だけ残った霧島の一族、霧島雨音のために来た」

 だから教師というわけか。きっと、芽衣香さんが開発基地にいる理由は、そこがずっと昔に霧島の家があった禁足地だったからだろう。ぎっと、車体が揺れて停止する。どうやら家についたらしい。

 ボクが後部座席から降りようとすると、芽衣香さんは「ああ、ちょっと待ってな」と言って一人でさっさと降りて、家の中に入ってしまった。浮かせた腰をもう一度、座席に降ろす。

 雨音はずっと外を眺めているばかりでちっともこちらを見ないので、どんな表情をしているのかわからない。肘を車窓の桟に乗せて、斑点をつける雨粒を目で追っているだけ。

「あ、雨が降ったら……」

 ボクは小さく呟く。それを聞いているのかいないのか、雨音は天井のライトが当たって緑がかった髪を撫でつける。髪の雫のせいで、手が濡れている。ボクは助手席のヘッドカバーにしゃべりかけるように正面を向いたまま顔を上げる。

「そ、そうっ! 雨が降ったら、ボク、学校に行くよっ! 今日と同じ時間に」

 そして必要以上に、声を上げて雨音に呼びかける。

 なんだろう、少し背中がむず痒い。雨音は、ふと何に気がついたようにこちらを振り返って何度も瞬いた。丸い瞳が瞼に見え隠れして、わずかに首を傾げる。

「今日と、同じ時間か?」

「うん、そう。雨が降る日なら……降ってもいい日なら、雨音は外に出られるよね。あの開発基地に行くのは、なんというか、ボクらはもうずいぶん島の人に迷惑をかけてるからきっと無理で……」

 しどろもどろに説明して要点を得ないけれど、なんとかこの間を埋めないとこちらが苦しい。あの件に関してはボクら、というかほとんどセンパイのせいなのだけど、島で遭難しかけてしまったくらいだから、夜にあの開発基地に出歩くのはまずい。でも、夜の学校なら。あそこは外灯も多いし、町の明かりが一番多い場所だから安心だし島の人たちに強引に止められることもないだろう。

「わかった」、そう小さく雨音は呟いたような気がする。

 けれど彼女は少し息を吐いて、また外へと視線を泳がせる。そして待ち合わせの約束をする前に後部座席のドアが開いた。

「もういいよー。涼太のセンパイにちょこっと話つけてきたから」

 芽衣香さんは満面の笑みでボクを見下ろす。雨音の返事をもらえなくて心残りだったけれど、芽衣香さんがボクの腕を引く

 。背中に少しだけ視線を感じるけれど、それはボクの気のせいであって、振り返る勇気もなかった。車から出ると、後部座席の扉が閉められて、芽衣香さんはスキップをしながら運転席に戻って、勢い良く車を発進させた。

 次の雨、雨音は本当にあの場所に来てくれるのだろうか。

 ボクは不安を抱きながら振り返って玄関の薄明かりを見上げる。

ご神体のナノサットを神輿から奪おうとするセンパイを見捨ててしまったせいだろう、家がどんよりと重たい。

 芽衣香さんの笑みを見ると、きっとセンパイは家にいたのだろう。そして話をつけるという意味も、大体わかっている。だからボクはさらに家に戻るのが億劫だった。けれど入らないわけにもいかないので、門から玄関までの数メートルを重たくなった足取りで歩く。

 そして家のドアを開くと、体育座りをして膝小僧に頭をうずめたセンパイが廊下で小さくなっていた。

 身体が大きいので、その姿勢はどこか滑稽だ。

「あ、あのー……ご飯は食べましたか?」

「ひどいぞ。あやつを連れてくるとは」

 岩のような塊がしゃべった。釈迦堂センパイにしてみれば、子どもの喧嘩に突然、親が出てきたそれ以上の衝撃だったのだろうけれど、それは仕方ない。今日の場合は不可抗力だ。

「……センパイ? 大丈夫ですか?」

「大丈夫ではない。吐きそうだからリビングから袋を持ってきてくれないか」

 一体何をされたんだ。それを聞くのも嫌だし、センパイも芽衣香さんについて一言もしゃべりたがらないので深くは追求しないことにする。

 ただ大人しいセンパイというのも不思議と寂しいものがある。

「あの……ロケットが打ち上げられなかった理由、芽衣香さんから聞いたんですけど、今日はやめときますか?」

 センパイは膝に顔を埋めたまま黙っていたけど、すぐに少しだけ目を上げた。

「……聞く」

 なんとかセンパイを立ち上がらせて、さっきから吐きそうだというから両手にビニル袋を持たせる。ようやくダイニングのテーブルに座って、芽衣香さんから聞いた話をする。あの、郷土史の本もセンパイに渡した。

 霧島家と神籠家のこと。脅迫にも似た予言によって打ち上げが延期につぐ延期でついに中止になって開発基地にいた研究員たちがみんな島を出ていったこと。それから芽衣香さんは教師としてこの島に赴任してきて、禁足地で一人きりになった雨音の面倒を、神籠家に頼まれて見ていること。

 そして最も大事な、霧島雨音という雨女について。

 センパイはそれらの話を、郷土史をぺらぺらと捲りながら聞いていた。

 ボクの話を聞き終わると同時に、本は閉じられる。それほど分厚くもないから時間的にもセンパイなら読み終えられただろう。

「それで? どう思ったのだ?」

 センパイ息を吐きながら言う。

「どうって、どういうことですか?」

「本当にこれを信じているのかという話だ」

「し、信じるというか、これがこの島の歴史なんですよ」

 釈迦堂センパイは外れていた袖のボタンをきっちりと留めなおしながら眉間に深い皺を寄せて郷土史の本を睨みつける。そして片手でそれを掴むとボクの前に突き出した。

「島の歴史だと? こんなお粗末な出来のものがか? こんなもの、近所の年寄りに聞いたことを適当にまとめて歴史のように仕立て上げただけではないか。では、200年前は? 300年前はどうなっている? どんな連中が最初にこの島に来た? そこでどんな戦いがあった? 物語があった? ここに書かれている、天弓神社を司る神籠家の20代前は何と言う名前のやつだ? せいぜい100年ほどの歴史しか書かれていないものを郷土史などと片腹痛い。こんなものでオレを騙せると思っているのか」

 ものすごい勢いでセンパイはボクにまくし立てる。けれど、それはボクも感じていた。芽衣香さんは本の出版が去年と言っていた。長い歴史を持っている島に郷土史がつい最近出たばかりというのもおかしい気がする。

「そして最も重要な、たった15年前のロケット打ち上げ中止に関する前後がすべて抜け落ちている。同じように、過去にも明らかな空白期間が見られる。これはおそらく、意図的に見せたくない部分を削除しているせいだ」

 たしかに、芽衣香さんは島の人たちがロケット打ち上げに反対していたって話をしていた。その記事もないし、その前の段階で禁足地を開発基地にすることにだって反対していたはずだ。

「もしかして……」

「どうした」

「やっぱり意図的に隠された過去があるってことじゃないですか? 霧島家という一族について」

 天弓神社にご神体がないのは、神主さんがなくしてしまったのではなくて、雨乞い信仰という独特の信仰のせいで必要がなかったのかもしれない。つまり霧島家という存在そのものをご神体としていたのだ。

「この不明瞭な郷土史からわかることを整理すると、神籠家と霧島家と云う二つの家だ。それで、こいつを見てくれ」

ボクはセンパイから一枚の新聞記事を見せてもらった。

「これは……」

「昨晩の、鳴神島周辺の海域、この島が往来する数県の天気図だ。よく見ろ、どこも雨が降っていないことになっている。もちろん、この島もだ」

「で、でも昨日雨は降りましたよね?」

 そしてセンパイは一枚の写真をテーブルの上に置いた。それは昨日の夕方、西の空に現れた不規則な動きをしていた雨雲。一気に夕明かりを消して不気味に島を覆っていた、雨音の雲。

「スーパーセルだ」

 センパイは緊張した表情で呟いた。嵐を呼ぶ巨大な積乱雲。激しい荒天となるため飛行機墜落事故の原因となることもある。そんな巨大な雲が、鳴神島の上空にあったのだ。

「しかも驚くべきことに、この雲は本州側からも沖からも目撃されていない。ただ、我々この島にいる人間のみ見ることができた」

「そんな、ことってあるんですか?」

「本来ならあるべきではない。なぜなら、スーパーセルがどんなに予測不可能であっても観測されないこと自体がおかしいのだ。だが、それがこの鳴神島の特異な気象なのだろう」

「それが、雨女が、降らせる雨です」

「ならば納得が行く。こいつが君の言っていた雨女が降らせる雨か」

「はい……そうなんですけど」

 まさか、センパイがそんなにあっさり理解してしまうとは思ってもみなかった。またそんなこと科学的じゃないと言って怒り出すかとはらはらしていたのに。

「なんだ、そんなにオレが納得したのが珍しいか。別にオレは科学を万能と信じているわけではない。ただ人間の積み上げてきた科学という学問を愚弄する行為が気に食わないだけだ」

 釈迦堂センパイはこつこつとテーブルを叩きながら何やら考えている。

この状態に陥ったセンパイがボクの得になることなんて何一つないのだけれど、心のどこかで期待もしている。

 シャツの襟を紐ネクタイで締めて、袖という袖を紐やゴムで縛り、シャツをぴたりとつけた状態でズボンにすべて入れて、足許の裾は靴下の中に入れて余分なものを徹底的に排除する姿勢は真似したくはないけれど、機能性を突き詰めている点では尊敬すべき部分ではある

「これは我々に降ってきたチャンスだ。今こそ、あのロケットを打ち上げる方法を考えるべきではないだろうか。島の画策によって断念せざるを得なかった開発基地の研究者たちのたむけとして」

「で、でも……センパイ、ボクらは素人です。打ち上げられるはずありませんよ。もう古くなって故障してるでしょうし、どうやって直すんですか」

「我々の力だけで打ち上げるわけではない。それが難しいことくらい、オレにもわかっている。ただ、あのロケットが再び日の目を浴びる機会を、作ることくらいはできるだろう?」

「一体何をする気ですか」

「もう一度、あの開発基地に侵入を試みる必要があるな」

「やめましょうよ、一体どれだけボクらが島の人に迷惑をかけていると思っているんですか」

 釈迦堂センパイは伊達眼鏡を外すと眉間を揉みながら深いため息をついた。

感情的に怒ろうとしているけれど、それを何とか押し留めているかのような、指に込めた力がそれを思わせる。

「島の迷惑がなんだというのだ。連中は意図的に、あのロケットの秘密を隠している。いわば開発基地の反対に立っていた連中だ。彼らの話を真っ正直に聞く必要があるのか?」

「でも、今ではあのロケットはこの島のご神体です。ボクらが勝手にどうにかしようなんて―――」

「ロケットがご神体だと? 島の人間にとってあれは本来忌むべきものだろう。それを打ち上げが中止になったからと言って今さら崇め奉るなどご都合主義が唾を吐きよるわ。それに、ロケットは打ち上げられて初めて価値を持つ。失敗も、成功も財産として残るのは打ち上げに関する結果だけだ。いいか、あのロケットがどんなに島の人間の尊崇を集めようと、点火するまでは無価値のままなのだ。日の目を浴びれば、あのロケットは新しい研究者の手に委ねられて、打ち上げられることもあるかもしれない」

「けど……あまりに危険です。ボクらがどうにかしていいものじゃない」

 センパイの表情が一瞬にして凍る。

ボクの言葉がセンパイにどう映ったのかはわからないけれど、釈迦堂センパイは広げていた新聞の広告を掴むと近くにあったボールペンで何やら書き出した。ぐちゃぐちゃと怒りのまま走らせるペンは尖っていて、テーブルに傷をつけそうなほど筆圧が高い。

「ここに何をしに来た? 何のために今までオレについてきた? 君はここで一体何を成し遂げようと思っているのだっ!」

 テーブルに拳を叩きつけた。

 そしてセンパイはテーブルから立ち上がると、「オレは一人で行動する。お前はお前のやるべきことをやれ」と言い残して、ぼろぼろにほつれた黒いリュックを背中に背負うと廊下を出ていく。

「ま、待ってくださいっ!」

 ボクはセンパイの背中を追いかけると、すでに靴はなくて玄関は開けっ放しになっていただけだった。どうやら本当に出て行ってしまったらしい。扉はドアノブの重さでゆっくりと戻り、やがてがちゃんという音を立てて勝手に閉まった。

 ボクはどうすればいいのかわからずにリビングに戻る。

 どれほど時間が立っただろうか。ちょうど日が昇ってくるところだった。長い夜が終わろうとしていて、今日は夏の暑さが戻ってくるようだった。ボクはセンパイのやろうとしていることだけは、受け入れることができない。あのロケットは、今はもう島の人たちが大事にしている象徴なのだ。

 ボクは仕度を整える。センパイがロケットをどうしても調べ上げるというのなら、ボクにはそれを止める義務がある。きっとあの人の暴走を止めることが、ボクがこの島に来た理由だ。

 思えば、センパイの好奇心に引きずられるようにして、僕はこの島へ来てしまった。しかし、この島は芽衣香さんの居場所であり―――霧島雨音の島なのだ。

 僕には雨音との約束がある。

 そのためにボクがこの島について知るべきことはまだ山ほどあるのだ。

 庭先にある納屋から、荷物入れにできそうなバッグを取り出す。ずっと心のどこかで釈迦堂センパイに頼っていたのがボクのミスだ。あの人がいない今、使えそうなものは全部持ってこの島を探索しよう。

 そうしてランタンやら工具やら使えそうなものは何でもつめてボクは家を出た。

 まだ太陽が出たばかりで、昨日降った雨露が乾ききっていなくて、ひんやりと冷たい夜の空気がボクの頬をなでる。蝉の声が少しずつ重なり始めていた。

―――そしてボクはあの夜の校舎に置きっぱなしにした自転車を取りにいくことにした。



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