第4話 雨女さんとの再会


 ボクは部屋のベッドで目を覚ました。

 昨夜のことがずいぶん昔のことだったようにも思えるけれど、背中の痛みがたった数時間前の出来事なのだと思い出させてくれる。でもボクが今ここに寝ているということは、あの発煙筒を見た島の誰かが、ここに連れてきてくれたということだ。

 目を開けたまま、じっと天井を見つめる。この島にいられる時間も、あとどれくらいなのだろうと考えこんでしまうと、この古い板張りの天井もなんだか惜しまれる。

両脇を見渡すと、部屋には誰もいない。センパイはいつも、リビングのソファーに寝ていたから、きっとそこかもしれない。いや、もうとっくに島のどこかでみんなに昨夜のことを問い詰められているだろうか。

ボクは布団から出ると、センパイを探すために部屋を出る。廊下に出ると、魚を焼くいい匂いがしていた。リビングの扉についた擦りガラスに映る、ぼんやりとした影。ちょこまかとした動作にはどこか見覚えがあった。

扉を開くとダイニングテーブルの上には、食事の仕度が済ませてあって、キッチンにいたのは、巫女衣装にエプロンをしたハルだった。

「何してんの?」とボクが怪訝な顔をすると、小さな口でやついた笑みを零しながら「この島で遭難したのは涼太お兄ちゃんと君のセンパイが最初だよ。5分も歩いたらここについたのに、なんで発煙筒なんか使ったの?」

「へっ? 5分?」

「そうだよ。おかげでこっちはいい迷惑だったのっ! まあ一応、涼太お兄ちゃんは昨日気を失ったんだし、私がついておくことになったよ」

 そう言って、ハルは椅子に座るとテーブルに用意した自分のぶんをばくばくと食べ始めた。炊飯器も茶碗も勝手に使っている。巫女衣装にエプロンをして、人の家で食事をする女の子にかける言葉が見あたらなくて、ボクはその空気に流されるように椅子に座って同じように箸でご飯と味噌汁に手をつけた。

「料理、得意なんだ」

「特製めかじきの塩焼き。キッチンに塩と砂糖しか調味料がなかったから、塩で焼くくらいしかなかったけど」とハルはやや不満そうに口を尖らせる。

「なんで砂糖と塩しかないの」

「僕に言わないでよ。ここ、芽衣香さんの家なんだから」

「あっ。そか」

 芽衣香さん、普段この家でどんな食生活を送っているのだろう。

「芽衣香なら鱗のついた魚をそのまま焼いて食べていても不思議じゃないね」

 ハルの冗談を聞きながら、僕はテーブルの椅子に座る。

 ボクはリビングに食事を摂るために来たわけじゃなかったような。はっと思い出したときに、背後からセンパイの唸り声が響き渡った。なにやら悪夢でも見ているのか、しかしソファーの上だけで起用にのたうち回っている。格好も昨夜のまま。シャツとぴたりとしたズボンに、それから伊達眼鏡。

 その様を眺めつつ、ボクは昨夜のことが島の人たちにどう見られたのか考えてみる。もっともボクらに都合がいいのは、家の辺りを散歩がてら歩いていたら気分が悪くなってたった5分の道も戻ることができなくなったという場合。

 最悪なケースとしては、すべて島の人たちに筒抜けで、あの施設に無断で侵入して、その挙句怪我を負い、さらには迷った上にたった五分も歩けば家に辿り着ける道半ばで発煙筒を使って島の人たちがなんだなんだと心配させてしまったなら、ボクらはすごく迷惑をかけてしまったわけだからこの島に残れそうもない。

 しかしこれはおそらくないだろう。

 入ってはいけない場所に侵入したボクら外部の人間に、わざわざこちらの家に残って朝食の用意までしてくれるとは考えにくいのだ。

 だからきっと、ボクの想像する限りで言えば、ボクらが島の物珍しさに夜抜け出して勝手に山道に入った。山道と樹木以外は何も見ていない。ほんとうにそういうことになっていればいいのだけど。

「ところで」とハルは箸を休めて小さくため息をついた。

「開発基地はどうだったの?」

 あまりに唐突だったので、ボクは思わず咳き込みながら「な、なにが?」としどろもどろに答える。まさかこんな急に訪ねられるとは思ってもみなかった。

 唯一、味方となってくれそうなセンパイはまだ起きそうにもない。起きていたとして、味方になってくれるかどうかは怪しいものだし。

 しかしセンパイに家の近所まで背負われてしかも発煙筒まで使って助けてもらった恩があるので、ここは島に残るべく何も見ていないふりをする。目の前のこんがり焼けためかじきに箸をつけながら。

「開発基地?」とボクは顎に手を当てて悩んでみせる。もちろん、昨夜のことははっきりと覚えているし、そもそもすべての原因となっているのがセンパイであることにも気づいている。 まあつまり、昨夜の出来事すべてがセンパイのせいであって、べつにボクが恩を感じる必要もないのだけど。

「昨日は海側の道路をずっと回りこんで山道を登って、開発基地の北門から中に入ったんじゃないの?」

 ボクは極力平穏を保つためにご飯を掻き込んでいたけれど思わず手が止まった。

 全部筒抜けなんてどういうことだ。まさか、この島の人間はボクらのことを監視しているんじゃないか。

「……って、君のセンパイが言ってた」

 ぐがっ、とまるで返事をするようにセンパイのいびきが聞こえる。つまり、どうやらセンパイは昨夜のことを島の人たちに全部しゃべってしまったらしい。ボクが眠っている間に、状況は最悪の方向に進んでいた。せめてボクが起きてさえいれば、センパイの口を塞ぐこともできただろうに。 今ソファーで寝ているセンパイの口にキッチンの台ふきでも突っ込んでやりたい。

「それであんな場所で何がしたかったの?」

「ボクだって知りたいよ」

 あの人は肝心なことは何も教えてくれず、それなのに秘密にすべきことは何でもよくしゃべり、やってはいけないことにのみ積極的に行動し、そのくせ大事なときには良く眠り、そうしてボクを窮地に陥れている。

 ……あんな人にはなりたくない。

「涼太お兄ちゃんに一つ言っておかなくちゃいけないことがあるの」

 ハルはいつの間にか食事を終えて、急須にこんこんと茶葉を入れて、ポットのお湯を入れる。お湯はそんなに入っておらず、注ぎ口を押すとガフーガフーと音を立てている。

「やっぱり、この島にいちゃ駄目かな?」とボクが訊ねると、ハルは首を捻って不思議そうにしながらさっきまでご飯が盛られていた茶碗にお茶を入れる。

「どうして?」

「だって―――」と言いかけたところで、思わず僕はハルの行動に首を傾げた。

「っていうかさ、茶碗にお茶いれる人、はじめてみたよ」

「えっ、やんないの? 駄菓子屋のおばあちゃんとかみんなやってる」

「ああ、いやべつに駄目ってことじゃないけど……」

 まあ、そもそもお茶碗なのだからお茶を入れるものだろうし。でもいつからお茶碗にご飯をよそうようになったのだろう。

 しかもその恰好。巫女衣装の上からエプロンを着るというのは、どういうわけだろう。

「ああ、話を戻すけど、煤払いのあとに神主さんに言われたんだ。夜は外に出ないようにって」

 ハルは茶碗のお茶を少しだけ見つめて、ずずっと呑んだ。間があったのは、きっと田舎の風習とされた行為と知りつつもやってしまうことに自己嫌悪を抱いたけれど、習慣には勝てなかったのだろう。ボクもためしに茶碗にお茶を注いで呑んでみる。たしかに無理して湯飲みを使うこともないか。洗い物も減るわけだから、案外合理的かもしれない。

「夜は出ないようにって、お父さんが言ってたの?」

 ハルは首を傾げながら、キッチンからくるんと竹笹に巻かれたあんころもちをテーブルに置いて広げた。よく見ると、キッチンには風呂敷が畳んであって、きっとそれに包んできたのだろう。しかもどこで覚えたのか、田舎暮らしのポテンシャルなのか風呂敷は肩掛けにできるよう、器用な結び目ができている。

「ハルはこしあん派なんだ」と言うに留めた。

 ハルは「えへへ」と笑んで「作ってきたの」と一個口の中に入れて、おいしそうに両頬を手で覆った。

 そして「ああ、そうそう」と、口をもぐもぐさせながら話を継ぐ。

「島には外灯もあんまりないから、夜は危ないの。それにね、社翁山の裏は元々、天弓神社の禁足地なの。聖域っていうのかな、きっとお父さんが詳しく話したがらないのは、その禁足地に開発基地があることが嫌なんだと思う」

 ボクは頭の中でハルの話を整理する。つまり、天弓神社の裏には元々、人が足を踏み入れてはいけない神様の領域があって、けれどどういうわけかそこがロケットの開発基地になってしまったわけか。

「じゃあ、あの基地に入っちゃいけないってことはないの?」

「……」

「ハル?」

「……」

「ハルっ!」

 ハルは突然、頭を押さえてうずくまった。しかしそれは一瞬の出来事で、すぐに「あ、ああ、ごめんなさい」と呟いたあと、「ときどき、こうなるの」と少しはにかんでみせた。

「だ、大丈夫? かなりつらそうに見えたけど」

「平気平気。もう何ともないから」

 笑いかけるハルに、僕は気候の変化の激しい故のことだろうとしか思わずに話を続けた。

「それでさ、あの基地は……」

「あ、うん。入っちゃいけないってことはないけど、うーん、でもやっぱり、神社の裏手に近づかないってのがこの島のきまりみたいなものだから」

 なんだかややこしい話だ。

 開発基地を見られたくないということではなくて、昔からあの場所には入ってはいけないことになっている。それを釈迦堂センパイに説明して理解してくれるか怪しいものだけど。

「それよりね、今日は天弓神社の祭りがあるの。行ってみない?」

 そっちのセンパイも連れて、とハルは小さい子には珍しいくらい調った箸の持ち方で先っぽをかちかちと鳴らした。

「この間言ってたやつ? 神輿を担ぐとかなんとか」

「うん、そうなの。そろそろ時間だから準備しなきゃ」

 ハルはそう言うと、椅子から降りてテーブルの横からスタンディングスタートの姿勢を取って、まるで陸上競技のようにオンユアマークス―――セット―――ピストル音という一連の流れがあるかのように走りだしてそのまま、センパイの寝ているソファにダイブした。

 体重が軽いとはいえ、巫女に突撃された釈迦堂センパイは喉の奥から奇怪な声を絞り出して目を覚ました。

 昨夜のことがあったから、神主さんに会うのは気が引けたけれど、センパイはそれをまったく意に介しないようで、ご神体であるナノサットを見られると聞くとひとしきり喜んだ。

 そしてそれほど時間を待たずにソファの足許にあったリュックを背負って、どうやら祭りに行くつもりらしい。

「なあ、一つ聞きたいことがあるのだが。ナノサットを見られることはわかったが……ご神体とはなんだ? 人工衛星を神様として神輿に担ぐなど正気の沙汰ではないぞ」

「それは……ボクにもよくわかんないですけど」

 正確には、ご神体はロケットで一時的にナノサットに移ってもらっているらしい。まあセンパイの反応も理解できる。ボクも煤払いのときには不思議と納得してしまったけれど、センパイに「え? なんで?」と言われると言葉が出てこない。

 つまりこの島で起きることの大半は「なんとなく」で出来ていて、それはきっとセンパイには理解できないことばかりだ。

「奇妙なことだらけだな、この島は」

 センパイは寝ている間に皺の寄ったシャツの袖口をきつく閉めながら言う。センパイがボタンをしょっちゅう閉め直すのは、機械のボルトを締めることと同じ感覚だ。とにかく自分の身につけているものがゆるんでいる、という状態が許せないらしい。

 だから釈迦堂センパイにしてみれば、鳴神島のあやふやな神様の定義や、人工衛星やロケットなど現代的なものをご神体にしてしまうそのありとあらゆる事物におけるゆるさというものに違和感をかんじているのだろう。

 だから奇妙だと言われたハルが怒ってもう一度、センパイの腹部に突撃しようとしたのを軽くいなして、「よくわからんこの島の風習にナノサットを利用されてはたまらん。奪還するぞ」と島のご神体の窃盗を提言したのも無理なからぬことだった。

 一つだけ間違いを指摘するとすれば。

 ボクらがあのナノサットを所有していた記憶は一度たりともなく、奪還という言葉はおかしい。ボクとしては、ラムダロケットから取り出されたナノサットを許の場所に戻すという意味なのだと理解したいけれど、開発基地に侵入して何か当時のモノを手に入れる(盗む)のだと豪語した釈迦堂センパイに対してその理解が正しいのか怪しいものだ。

 つまりボクは、センパイの言う奪還という言葉を他人の事物を奪い、自分のものにするジャイアン的行為と認識した。

 家から出ると、夕方近くの埃っぽい空気が辺りを包んでいる。

 二人が玄関を出たあと、いちおう鍵をかける。日差しが強くて、つい目を細めて額の上辺りで、両手で庇をつくって空を見上げる。

 快晴。

 雨の空気は少しもない、夏らしい暑さと大きな入道雲が南の空に昇っている。ただ少し湿っぽい匂いがするのは、畦道の両脇に広がる田んぼのせいだろう。

 1日、畑仕事や田植えの中干しを終えて、水を入れる音が聞こえる。祭りは中干しのあとに雨水を恵んでもらえるよう、神様に祈るためだとハルは言う。

「毎年必ずね、この時期には大雨が降るの」

 田んぼの畦道を三人で歩く。用水路いっぱいになった水は、ときどき溢れて畦道までもれている。その中を蛙が跳んで、田んぼへと帰っていく。

「ねえ、この時期に雨が降るって、毎年必ず降るの?」

 ここの雨は不規則でいつ降るかわからない。肘笠雨を教えてくれた駄菓子屋のおばあちゃんがそう教えてくれたのに、祭りの前後は必ず降っているというのも変な話だ。

「うーん、そうなの。毎年降るから、不思議なの。でも祭りは雨乞いのためだから」

「しかし、巫女娘。雨乞いをしたからと言って雨が降るとは限らんぞ」

 巫女娘ってなんだ。

「降るよっ! この島は、鳴神島。夕立と雷の島だから、夏の雨乞いはね、必ず届くの」

 ハルは自信を漲らせて断言する。空はこんなにも晴れているのに、祭りの後に雨が降るなんて信じられない。でもボクは少しだけ、それが霧島雨音によるものかもしれないという思いがよぎった。一体、ボクは何を期待しているのだろう。2号棟の2階にいた、霧島雨音の上空にはあんなに星が散らばっていたというのに。

 僕の中ではすでに、霧島雨音に雨を降らせる力はない、と結論づけられたはずではなかったか。

「雨乞いをすれば雨が降る?」

 センパイが怪訝な顔で眉根を寄せる。

「そうなの、雨ってそうやって降るものじゃないの?」

 センパイはハルの言葉を聞くなり急に黙り込んでしまった。ハルの言葉はたしかにおかしい。雨は雨乞いをしたからと言って降るものじゃない。

 ボクらがとぼとぼ歩いていると、来た道からうお~い、がたんごとんという、人の声と車がでこぼこ道に乗り上げながら進む音が同時に聞こえる。振り返ると、ハイエースがこちらに向かっていて、運転席には麦わら帽子を被ったおじいちゃんが手を振ってボクらを呼んでいる。

「おー、がんちょさんだあー」

 ハルは両手を振ってハイエースを呼ぶ。しかしがんちょってなんだ。

「沖田巌一さん、それでがんちょさん」

「あんたら、昨日山の麓に自転車置いていったじゃろ」と麦わら帽子の下で焼けた肌をにっこり持ち上げてボクらに言う。

 きっと、昨夜二人乗りをして夜の島を走ったときの自転車。そういえば、山道に入る手前に乗り捨てていったのだった。ハイエースの荷台に載せられて、ロープで固定されたカゴ付き自転車のヘッドライトが置いていったボクらを責めるように見下ろしている。

「あー……ごめんなさい。今日取りに行こうと思ってたんですけど」

「ええ、ええ。それよりもハルちゃん、この人たちを祭りに呼んだんじゃろ? 神社の手前まで乗っけて行こうか」

 がんちょさんは運転席の窓から身を乗り出して言う。

「いえ、もう神社までそんな距離ないですし……」

「ほんとっ! がんちょさんありがとうっ!」

 遠慮しようと口を開く僕を強引に遮って、ハルはタイヤに足をかけて荷台によじ登る。島の人にはどうしても遠慮してしまうけれど、ハルはもちろんそんな気遣いは無用なのだろう。ただセンパイは、なぜかハイエースの荷台に乗りたがってハルの襦袢の襟を握って、「オレが乗る」と言って聞かない。しかし自転車を載せているせいで、荷台のスペースが一人分しかなく、結局じゃんけんをしてセンパイが負けた結果、「巫女娘は子どもだな」と小学生のような捨てゼリフを吐いてハイエースの助手席に乗り込んだ。

 ハイエースには、運転席に加えて助手席が二人分あって、少し狭いけれど短い距離だからそう苦ではなかった。再び、がたんごとんと轍にできた窪みを踏みながらハイエースが動き出す。

「あんたら、この島の神主さんの言うことを聞かんとは根性あるのう」

「ご、ごめんなさい」

 謝る僕をよそに釈迦堂センパイは何も言わず、ふんと居丈高に鼻を鳴らす。

 がんちょさんはハイエースのハンドルを切る。窓を左右とも開けているおかげで少しは涼しいけれど、蝉の鳴き声が背中の汗をじっとりと滲ませている気がする。

 それでも夕方なのにまだ日中の日差しを浴びた入道雲が残っていて、緑をまぶしたような夏の風が気持ちいい。

「もうあの事件があって15年近くになるかのう。神主さんもそのせいで、あんたらに口やかましく言うとるんじゃろ」

 がたん、と大きく石に乗り上げてセンパイとボクの身体が少しだけ浮く。

「事件、ですか?」

「そうじゃ。神主さんはあまり言いたがらんが、天弓神社を司る神籠家には代々、予知能力者が生まれる伝説があってな。それは昔っから言われておることじゃから、わしもようとはわからんが、その予知能力というのは神籠家の女にのみ備わるそうな」

「馬鹿げた話だ」とセンパイは腕組みをしながら目を瞑って言う。

まあ、センパイらしいというか、ロケットや人工衛星という、一つの目的のために無駄なものを極力省く機能美を追求した科学の結晶のようなものを好むセンパイが、予知能力や予言めいたことに関心を寄せるとは思えない。

「それで、事件というのはどんなものだったんですか?」

「ふむ、まあ、聞きなさい」

 がんちょさんは、スピードを少し落とす。窓枠が鳴らしていた風切り音が止んで、荷台に乗ったハルの楽しげな声が聞こえる。しかしそれも段々と遠くなる。たぶん疲れて荷台に座り込んでいるのだろう。

「あのロケットが打ち上げられる当日、神籠家の先代の巫女、つまりハルちゃんの母親じゃが、ロケットが落ちる予知夢を見た。神主さんは、そのことを当時、開発基地にいた連中に告げた」

「それで、どうなったんですか?」

「開発基地の所長とやらが、打ち上げの中止を決めたのじゃ。そのせいで、今でもあのロケットは打ち上げられぬまま、朽ちてしまっておるわけじゃ」

 がんちょさんがしゃがれた声で言う。それをかき消して叫んだのは、さっきまで腕を組んで黙って目を瞑っていたセンパイだった。

「そんな馬鹿なことがあるかっ!」

 拳で目の前のアタッシュケースを叩く。プラスティックの乾いた音が運転席に響き渡って、驚いたハルがこちらの窓に「大丈夫?」と声をかけてくれる。アタッシュケースに入っていた、農作業についてのメモや、野菜の種がぱらぱらと下に落ちる。それを拾おうともせず、センパイはなぜか悔しそうに唇を噛んでいた。

「打ち上げにどれだけの労力がかかると思っている。それを、たかが予知夢を見たからと言って中止にするだとっ!」

「事実、そうなったのじゃから仕方なかろう。しかし本当に事故が起きれば、この島は惨事に見舞われるわけじゃからのう。こちらも他人事じゃあなかった」

 センパイの歯軋りが聞こえてきそうだった。でも、どうして中止になってしまったのだろう。まさか、本当にハルの前の巫女さんが予知夢を見たからと言って打ち上げが延期でもなく、取りやめになってしまうなんてボクでも信じられない。

「何か事情があったにせよ、その話が本当なら、その開発基地の所長はろくでもない根性なしだな。研究者の風上にも置けない、素人の思考だ」

 釈迦堂センパイはひとまず落ち着いたようで、腰を背もたれにつけてまた腕を組んだ。

「この話をするのはまずかったようじゃのう」

「他に何か打ち上げを中止にする要因はなかったんですか?」

「いいや、何も聞いておらぬよ」

 がんちょさんは、ハンドルを片手で操作しながら麦藁帽子を被りなおした。ハルがボクらの会話を気にして、荷台でおろおろしているのが、バックミラー越しにわかる。ごとんと車内が揺れるたびに、さきほどセンパイが拳で叩いたアタッシュケースから紙きれやら工具が落ちるけれど、ボクらはそれをなんとなく放っておいた。

 夕方の空気が深まって、車内の空気がさっきよりも重たい。

 スピードを落としていたハイエースは、夕方をちょうど迎えたころに神社前に止まった。揺れる心配がなくなってから、ボクは車内に散らばったものを拾い集める。そのとき、がんちょさんがふう、と息をついた。

「あんたらを警戒しておるのは、外から来たわけじゃのうて、ハルちゃんが、予知夢を見たからじゃ」と少し申し訳なさそうに呟いた。

「どんな予知夢ですか」

「もう、15年前に打ち上げをやめたはずのロケットが、打ち上げられるというのじゃ。あんなもんをまた動かすなど、外から来たもんに決まっておるからのう」

 そう言って、がんちょさんはハイエースの扉を開けて降りると大きく伸びをした。ボクは運転席を降りたがんちょさんに「その予知夢は―――最後はどうなったんですか?」と訊ねた。

 ハルに直接聞けばいいことかもしれないけれど、それまで言わなかったのはきっとボクらに気を遣ってのことだろう。

 がんちょさんは眉尻を下げて少し寂しそうに首を振っただけだった。  15年前に打ち上げに失敗すると予言されたものが、突然時が経って成功に転じることはない。ましてやボクらは素人だ。それで何かが劇的に変わるとは思えない。

 釈迦堂センパイは、一人厳しい顔をしながら、がんちょさんに「ご老人、声を荒げて申し訳なかった」と深く頭を下げた。

 けれど、釈迦堂センパイは堅く拳を握って、がんちょさんに聞こえないくらいの小さな声で、「しかし神に悪魔のハイフンは見抜けない」と呟いた。

 そして一人で勝手に神社の階段に足をかける。ボクはその背中を追いながら、センパイの言葉の意味を考えたけれど、さっぱりわからなかった。

 ハルがボクらについてくる。自転車はハイエースの荷台に乗せたままで、僕らは祭囃子が聞こえるほうへと階段を駆け上る。センパイはまるでボクらを振り切るように黙々と登っている。

 がんちょさんが階段の麓から、「自転車はここに置いて置くぞお」と声をかけた。ボクとハルが同時にお礼を言って、さらに長い石段を登る。

杉や檜の枝が日光を遮って辺りを暗くしていた。盥が階段から転がってくるのに似た蝉の鳴き声が鼓膜を震わせる。

「センパイ、どうしたんですか急に。さっきからおかしいですよ」

「……必ずナノサットを手に入れるのだ」

 センパイは神社境内から降ってくる笛の音を睨みつけながら力強く言う。この目をボクは何度か目撃している。その先に何か物体があるから見つめているわけではなく、明確な目的を発見してそこに最短距離で駆け抜けるよう準備をしている段階だ。

「……なにか、よくないことを考えていますね」

「あのロケットを打ち上げる。予言などという非科学的なものに潰された無念を晴らすのは、ここにいる我々の使命ではないか。そうだろう」

 ボクはそんな使命を帯びてここに来たつもりはないのだけれど、センパイはどうやらがんちょさんの言葉に触発されたようだった。たしかに予言で打ち上げが中止になった、と聞けば、ボクだってまだあのロケットは生きていると思う。故障でもなく、明確な原因があるわけでもなく、ただ放置されたロケットだと。

 そう思えば、あの開発基地のどこかに、ロケットを正常に動作させるなにかがあるかもしれないと期待してしまう。でもボクらは素人だ。たとえ、まだラムダロケットが当時のままで現存していようと朽ちたものを生き返らせる知識なんてない。

「無理ですよ、きっとなにか原因が……あるはずです」

「ならば、その原因とやらをこの目で見るまでオレはこの島から出んぞ」

 釈迦堂センパイのわがままが発動している。こうなると、この人は本当にロケットそのもので、推進剤を包んだ薄皮の鉄容器はノズルから熱エネルギーを噴出させながらどこまでも高く飛んでいく。石段を一歩ずつ登りながら、センパイはまっすぐ前を見据えている。

「1962年のことだ。NASAのアトラスロケットが打ち上げられたあと、破壊指令によって爆破された。原因は何だと思う?」

 ボクは肩で息をして登っているのに、センパイは汗一つ掻いていない。そしてはるか後方でハルがへたりこんで弱々しくボクを呼んでいる。蝉の声が夏の暑さをともなってじりじりと鳴いている。夏は音さえも、うだるような暑さを持っているかのようだ。

「一体、何の話ですか」

「神に悪魔のハイフンは見抜けない、という話だ」

「ハイフンは記号の、あのハイフンですか?」

「そうだ。アトラスロケットを制御する誘導プログラムにたった一つだけ、ハイフンが抜けていたのだ。それだけで、ロケットは制御を失い、飛行中のロケットに破壊指令が出されて粉々になりながら大西洋に落ちた。それから人為的ミスをなくす教訓としてプログラムから抜け落ちてしまった記号を悪魔のハイフンと呼ぶようになった」

 センパイは一呼吸置いたあと、眼鏡を丁寧に鼻の上に載せた。

「つまりだ。失敗を回避できるのは、神の予言ではない。人の力だ。さまざまな失敗を教訓として、ロケットは人間の手で打ち上げられるのだ。その積み重ねを神が否定してよいものではない。悪魔のハイフンを見抜くことができるのは、神とやらが授けた予知能力ではないのだ。人が積み上げた叡智そのものだ」

 それっきりセンパイはしゃべらなくなって、蝉の鳴き声が降る石段の先を登り続ける。

 ボクもどちらかと言えば、センパイの言っていることが正しい気がする。ロケットがたくさんの失敗の積み重ねによるものだ。もしその失敗を予言できるとしたらそれは神様の予言なんかじゃなくて、例えば事前にミスが見つかった場合や故障が起きたときだろう。

 いや、もしくはゼロからロケットを組み上げた人の直感やほんの些細な異常を感知する観察力だ。それだけがロケットの失敗を事前に回避できる。

 ハルがボクらに追いついて、Tシャツの裾を握る。背中に重さを感じるけれど、そのままボクも神社の鳥居を目指して石段を一歩ずつ踏む。

 登り切ると、そこではすでに神輿を出すための儀式が始まっていた。神輿の屋根に乗せられたナノサットを、センパイは睨みつける。本当にあれを盗みだそうとしているみたいだ。いや、みたい、ではなくてその野望に燃えていると言ってもいいくらい。

「……あんまり変なことしないでね」

 ハルはボクのTシャツの裾をひっぱりながら、汗を襦袢の袖で拭う。

 でも、それは、たぶん、もう遅い。もしそれを願うのだったら、がんちょさんの話を釈迦堂センパイに聞かせるべきではなかったし、だから時間をそれよりも少し遡ってみてハルがあのとき荷台に乗りたいと言わず、もし言ったとしてもセンパイとのじゃんけんには負けるべきだった。

 ただの結果論で理不尽なようだけど。

「でも、センパイのことだからなあ」

「……何かやるつもりなんでしょ。あの人」

 しかしハルも釈迦堂センパイがなにやら妙なことをやらかす空気みたいなものを感じ取っているようで、それはそれで頼もしい限りだ。

「まあ、変なことをするなって言ってもセンパイは理解しないよ。夏になれば蝉は鳴くし、年がら年中センパイは変なことをする。それは普通のことで、ちっとも不思議じゃないんだ」

 説明してみたけれど、ハルは唇を窄めて腑に落ちない顔をしている。もちろんそうだろう、ボクだってそんなことを言われて納得できるわけがない。ただこの島の人たちが、不規則な雨の降り方をどこか受け入れてしまっているのと同じように、そのうち悟ることだろう。

 釈迦堂センパイはボクらが木陰で突っ立っている間に、一瞬どこかに消えてまた戻ってきた。その手には祭りで使われるはずの法被が握れている。

「これを着ろ。祭りにまじるのだ」

 そう言って、Yシャツの上からセンパイは法被を肩にひっかける。どうやら自分の衣服を一枚脱ぐ気はさらさらないらしい。ボクの想像で言えば、センパイの性格なら機能性を無視した法被という存在は許しがたいものだろうし、ほぼ何も着ていないような状態になることや袖や裾に余分な空間が多いのもじかに身につけたくないことが要因だと思われる。

 そうしてボクらは法被姿で神輿を担ぐ準備をしている島の人たちに混じった。意外と股引きや腹掛けの上から法被を着ている人よりも私服の上から法被を羽織るだけという人の方が多く、ボクらが混じってもあまり違和感はない。

 靴もスニーカーだし、センパイを見るとやはりゴム製の長靴だ。まるでサラリーマンが営業中に農作業を頼まれてひとまず田んぼに入れる格好をしたような風体。

 境内は島の人で溢れていて、参道には店棚も幾つか。玉垣辺りで、子どもたちが走り回っている。

 そのとき神社裏手の、蝉時雨の中から一風変わった音が鳴り響いた。ハルも島の人もその音を聞いて、わっと歓声を上げる。

「こじゃん雨だっ!」

「こじゃん雨?」

「小銭雨のこと。夏の大雨のことを、小銭雨っていうの。地面に小銭が散らばる音に似てるから」

 ハルは両手を叩いて音の聞こえるほうへボクらを呼ぶ。こじゃん雨、というのは小銭雨が崩れたものらしく、今では神輿担ぎの前に行なわれる清めの儀式で使われるのだという。

 神社の裏手から出てきたのは、狐面の白装束を着た島の人々、10人の縦二列で一人ずつ自分の背丈ほどの竹筒を杖のようにして持っている。

「あの竹筒で神輿がとおる場所を清めるの」

「竹筒で?」

 そのとき、狐面を被って二列に並んだ計20人の島民が一斉に竹筒で地面を叩いた。その音はすさまじく、まるで石を鉄で思いっきり叩いたかのようなすさまじい音が鳴り響いた。

 驚いて、身体が竦んだ。

「余所から来た人たちは必ずこの竹の音に驚くの」とハルは笑う。

 センパイはというと、耳を塞ぐ余裕もなかったのかカキ氷を一気に掻きこんだときのように眉間を人差し指でぐりぐりと押している。

「ま、まだ耳がキンキン言ってる……」

 ハルは慣れているようで塞いでいた両耳を離すと、「あの竹筒の中にはね、天弓神社のお賽銭が全部詰め込まれてて、それを振り上げて地面を叩くの。元々、鳴神島では神様が雷になって空から降ってきて、地面に姿を隠すっていう言い伝えがあって、神様を呼ぶって意味もあるの」

 音はがしゃん、がしゃんとたしかに小銭の鳴る音が聞こえている。しかしそれが20人一斉に響かせるものだから、音量はものすごい。さきほどまでうるさくて仕方がなかった蝉の鳴き声も止んだかのようにボクの耳には届かない。

「ほらね、雨の音に似てるでしょ。小銭で雨に似た音を出せば、降ってくれる。雲が、雨を思い出すような気がするの」

 雨乞いか。つまり、実際には降っていなくても音さえ出せばそのうち降るという祈りだ。お賽銭に込めたみんなの願いを、大地の下にいると言われる神様に届けるという意味と、雨の音に似た小銭の音で雨を忘れてしまったかのような空に思い出させるという二つあるというわけか。

 歩く竹筒を持つ行列は、参道から方向を変えて神社の裏道、ラムダロケットへと向かう。ハルの話では、島の禁足地である区域の手前で一度止まって、ロケットをぐるりと廻るコースを通るのだという。

 神社の脇に建っている社務所と通じる納屋の戸は開けられていて、そこから神輿が押し出される。屋根に乗ったナノサットが太陽電池パネルを広げてまるで鳥のように鎮座している。

 多少どころではない違和感があるけれど、島の人たちはその新しいご神体が乗った神輿を担ぎ上げてわっしょい、わっしょいと掛け声を上げる。

「なんだ、あの人工衛星は……見たことないぞ」

 センパイはまた違った意味で、興奮気味に空に展開されたアンテナを凝視する。球体の中心から真横に出た太陽電池パドル、それから背中から羽根のように広がる展開アンテナ。四足歩行動物のように突き出たカメラやレーダーといった観測装置が備えつけられている。

 よし、とこちらの背筋が凍ってしまいそうな、なにやら釈迦堂センパイの決心めいた言葉が聞こえた。そして法被を羽織ったボクらは神輿の棒先を肩に乗せた。

 肩にずしりと来る神輿の重さが、どこかこれから巻き起こる事件の匂いを感じさせる。もちろん、それは何時間もあとのことではなくて、ほんの数秒後に起きるものだった。

 ラムダロケットに至る山道へと入る二つの行列。それはじゃんじゃん、と竹筒を打ち鳴らしながら大地をついている。ハルは巫女としての役割なのだろうか、その行列の後ろについて、神輿を導いていた。

 ちょうど、神輿が行列の最後尾においついた頃だろうか、ハルははるか西の上空を指差した。

「ほら、雨雲が来たよっ! 御庭洗いの雨が来るっ!」

 まだ夕暮れにさしかかったばかりで、夕立が降るのにも早い。それなのに、西から大きな黒い雲が、晴天の空を侵食している。まるでその雲が生きていて両手で空を囲い込んでいるかのようだった。

「本当に、雨乞いが通じたのか?」

 釈迦堂センパイは、黒く染まる西の空を驚愕しながら見つめる。両目を見開いたまま、ずれた眼鏡を片手で整える。肩に担いでいたはずの神輿が、センパイの身体から離れた。

「今年は少し早い……どうしたんだろう?」

 ハルは少し心配そうに、西の空を見上げている。

「御庭洗いの雨……」、きっと肘笠雨と同じように、島に伝わる雨の名前なのだろう。

「そうなの。こじゃん雨で、地面を清めながらその後ろを神輿がゆくの。そして、そのあとに降る本当の雨は、神輿で舞った砂を鎮めるための、大雨。だから、本当に降るのは夜を迎えてからのはずなの」

 本当にそうか? あの雨雲はあの竹筒で呼ばれたものなのだろうか。しかし雨雲は明らかに普通の雨雲とは違う、おかしな軌道を取っている。直進するのではなくて、ゆらゆらとどこか彷徨っている印象すらある。そんな雲がどこの世界にあるだろうか。

 蝉の声が弾ける音が聞こえた。

「急げ、このままではナノサット奪還に失敗してしまう、雨が降る前に早くっ!」

 釈迦堂センパイは、きっと行列の中からもれ聞こえる、「一旦引き換えそうか」と相談し合う声を察知したのだろう。

 しかしセンパイもセンパイだ。こんな大事な儀式の途中で、島のご神体であるナノサットを奪おうものならそれこそ島の人たちにこっぴどく叱られる。いや、叱られるだけならまだいい方だ。

 盗むにしても、もう少し人がいない時間帯のほうがいい。

 だけど雨で神輿担ぎが中止になってしまえば、社務所に忍び込むしかなくなる。それでも後日に神輿担ぎはあるだろうから待てばいいのに、それを手間と取ったのか、釈迦堂センパイは自分が担いでいた神輿の棒先に足をかけて飛び乗った。

 自転車には乗れないくせに、こんなときに尋常ならざる運動神経を発揮する釈迦堂センパイは、神輿の上でナノサットを掴み上げて高々と空に掲げた。そしてボクに「受け取れっ!」と叫んで、放り投げる体勢を取る。

 もちろん、神輿の屋根に乗ったご神体であるナノサットを投げるからボクにキャッチさせるつもりだったのだろうけれど、島の人たちは釈迦堂センパイをひきずり落とそうとしている。

 その中にはハルも混じっていて、「もーっ!」と憤慨している。当然だ。しかし僕には、その騒動のことなどちっとも観てはいなかった。視界に入ってすらいなかった。僕が観ていたものは、あの雲だ。不規則に動き、不安げに雨を降らせているあの雲だ。

 ボクはその場所から走って逃げた。いや、正確には逃げたのではない。追いかけたのだ。あの雲を。あの雲の下にあるこの島の不可思議を。

 釈迦堂センパイを裏切りたかったわけでも、直前になってご神体を奪うことに呵責の念が渦を巻いたわけでもない。

 あの雨雲の下に、霧島雨音がいるように思えてならなかったからだ。だからボクは山道から引き返して、地面に張り出した樹木の根を飛び越えながら走った。

「うわああああっ! なぜだというのだっ、なぜ裏切ったのだっ!」

 雲を追いかけ、僕は駆ける。裏切られたと思った釈迦堂センパイは、島の人たちが突き上げ揺らす神輿の上でバランスを崩して落ちていく。

 センパイが島の人たちに捕まえられるなかで、ボクに向けて残した最後の言葉がある。

―――わかったぞ、あのナノサットは気象観測衛星だ、あれはGMSシリーズ、気象観測衛星ひまわりの試作機だ

 それを異常なスピードでまくし立てながらセンパイは島の人たちの中でもみくちゃになる。その間もセンパイの口から零れていたのは、このナノサットが持つ性能の素晴らしさや、数字の羅列で、まるで何かに取りつかれたかのように叫び続けている。

 不思議とそこにボクに対する怨嗟の声はなく、ただナノサットの正体を掴んだ喜びに溢れるものだった。

 ボクは振り返ることはしなかった。釈迦堂センパイには申し訳ないけれど、ボクの心の奥にずっと残っている謎を解くチャンスなのだ。

 異常なのだ、あの雲は。あんな動きをする雲など観たことがない。

 あの生きたように動く雲が、霧島雨音によるものだとするなら、ボクはただあの雲を追いかければいいだけだ。ただそれだけで、もう一度霧島雨音に会えるはずだ。そしてそのときこそ、本当に彼女が自在に雨を降らせることができるのかを、確かめられる。

神社の参道から鳥居を抜けて石段を駆け下りる。その先にあるのは、鳴神神社と掘られた石柱と―――自転車。

 がんちょさんのハイエースはすでになく、自転車はロープから放たれてサドルに乗る誰かを待っているようだった。うっすらと夕方の明るさが残る中で、自転車はターコイズブルーの車体を夕闇に輝かせていた。

 サドルにまたがって、ボクは勢い良く蹴り上げる。明かりの少ないこの島で、無灯のまま自転車で走るのは危険だから、ライトをつけるけれど、車輪の回転によって発電させるタイプの自転車はペダルが重くなる。

 ボクはたった50メートルほど走っただけなのに、息が切れて両足は引きつりそうになっていた。けれど体重を乗せて思い切り漕ぎ続ける。

 西に広がっていた雲に少しずつ近づいたと思ったら、また離れてその繰り返しだった。

 夕立は馬の背分けると、昔おばあちゃんに聞いたような気がする。まさにそのとおりで、雨は明らかに島のほんの一部に降り注いでいた。ボクは立ちこぎで自転車のペダルを何度も踏み込む。肺が破裂しそうなくらい息を吸い込んで、しぼんでしまうほど吐き出した。

 やがて雲の下に入って、濡れた地面が見える。アスファルトを打つ雨が飛沫を上げてまるで壁のようにボクの前に立ちはだかっていた。夕立とは思えないほどの豪雨。着ていた法被が重たくなってボクは自転車をこぎながら片手で脱ぐと、前カゴに入れた。

 Tシャツ一枚になったボクはさらにスピードを加速させる。ほんの1キロ先に雨の様子はなくて、晴れた夕暮れが見えていた。

 ちょうど、雨雲の真下に来たころだろうか、目の前にあったのは、鳴神島の学校の校舎だった。グラウンドは水びたしになっていて、さっき降り始めたようにはみえない。

 校門前に軽自動車が一台止まっていて、そこに真っ赤なスズキのアルトが止まっている。ボクはこの軽自動車に見覚えがあった。芽衣香さんがいつも乗っていた自家用車。今日、家を出るまで自宅の車庫にあったはずなのに、どうしてここに。芽衣香さんは、海外に行っているはずなのに。ボクは車越しに見える学校の校舎を見つめた。

 校舎の窓からぼんやりと光が漏れている。カーテンをしていてもわかる。隙間から覗く人影、けれど雨のせいではっきりとは見えなかった。ボクは門扉によじ登ってグラウンドに入った。

 鳴神島の校舎は、平屋で今も木造建て。唯一高い箇所は時計塔だけれど、時計そのものは故障しているようで13時で止まっている。グラウンドは東京に比べると、驚くほど広かった。それにプールと体育館がない。ただ、まったいらに整備された地面に石灰で引いた線が滲んでいる。敷地の周りに松の木が立ち並んで、裏から大きな楠が生えている。

 ボクは一直線にぼんやりと光る校舎の窓へと走った。ペダルをこぎ続けたせいで、足がうまく廻らない。何度か転びそうになりながらも、ボクは校舎窓の桟を掴まえた。隠れるように伏せて、呼吸を整える。その間も雨がやむ気配はなかった。

 そして校舎窓の桟から、教室の中を覗きこもうを頭を上げた、そのときだった。

「どうした、またのぞきか?」

 ボクは突然、声をかけられて後ろを振り返った。そこには、ロケットの前で会ったときと同じ、セーラー服の上から業務用のでかい合羽を着て、カラーコーンを逆さに持ったときのような格好で大量の雨傘を背負う霧島雨音がいた。

「ああ、いやっ! 別に……」

 ボクは何も言葉が浮かんでこなくて、雨が次から次にボクの視界を妨げるのを何度も拭う。そういえば顔を拭うのは緊張したときにやってしまう小さい頃の癖だった。

「冗談だ。この間は傘を返しにきたんだろう? しかし、わざわざ傘を返すためにあの壁を登ってくるとは律儀なやつだな、今回も傘を返すためにわざわざ自転車で走ってきたのか?」

 霧島雨音はどこか気だるそうにそう言った。

「う、ううん。今日は、霧島さんに会いに」

「わ、私に?」

「霧島さんは、ここで何しているの?」

 これは最初に会ったときも聞いた。同じことばかり聞くなんて、ボクの会話能力の貧弱さには呆れてしまう。

「名前は、たしか……みや?」

「宮下。宮下涼太だよ」

「宮下……ああ、なるほど。君が芽衣香の」と霧島雨音はボクの質問に答える前に、勝手に納得してふむふむと顎先に手を置いて頷いている。

「まあ、ひとまず校舎の中に入ろうか。このままではいつまで経っても雨がやまない」

 彼女はそう言うと、ボクの手を引いて玄関口へと向かう。『すのこ』と下駄箱が並んだ、学校に良くある玄関。しかし夏休みのせいか傘立てや上履き入れはがらんとしていてどこかもの寂しい。霧島雨音は空を見上げて、雨に顔を濡らしながら、

「鳴神の祭りのあとに雨を降らせるのが、私の仕事になっているんだ」と呟いた。

 一歩だけ霧島雨音が玄関に足を踏み入れると、さっきまですさまじいほど降っていた雨は小康状態になって、やがて生きたように彷徨っていた雨雲は少しずつその姿を薄くしていく。

「仕事って、雨を降らせることが?」

「そうだ。私は雨女だと言っただろう。雨を乞われるならば、雨を降らせる。ただしすべての願いを聞くわけじゃない。ただ、御庭洗いの雨は特別なものだから」

「霧島さんは、芽衣香さんを知ってるの?」

「雨音、できればそう呼んで欲しい。霧島という名字は、この島に限って言えばあまりいいものではないんだ」

 雨音は少し悲しそうに呟いた。

 ボクはセーラー服の上から羽織られた真っ青の合羽を追いかける。しとしとと地面を垂れる雨水を気にもせず、雨音は素足のまま廊下を歩く。ボクはずぶ濡れの靴下を脱ぐ暇もないまま、廊下に出る。玄関のすのこを上がっても、うちの学校で見られるようなリノリウムの床はない。廊下は板張りで歩くたびに音が鳴る。

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

「かまわないよ。私に答えられるものであれば」 

「雨音は本当に雨を降らせることができるの?」、カラーコーンを逆さに背負ったみたいな大きな傘が左右に揺れる。

「いいや、私が降らせるわけじゃないんだ。ただ私のいるところに雨が降るだけ―――つまりは呪われているんだよ」

「でもこの前会ったときには降らなかったけど……」

 昨夜、開発基地の中で見かけたときの空は晴れていた。廊下の突き当たりの部屋から明かりが零れている。雨音はこんな夜の学校に何の用事があって来たのだろう。

 木造校舎の窓が風でカタカタと鳴る。外もちょうど日が沈んで、風が吹くと涼しさを感じる。けれど、日が昇っている間に篭った熱がひしめき合っていて、歩くたびに汗が出る。蝉の声もまだやむ様子はなかった。むしろ、雨がやんだせいでより一層増したかのようだった。

「ファラデーの籠だよ」

 雨音は少し間を置いてそう言った。

「ファラデー?」、ボクは意味がわからずに繰り返す。

「航空機や自動車が落雷を浴びても中にいた人間が怪我一つ負わないということがある」

「それは……どこかで聞いたことがあるね」

「つまりそれは金属に囲まれた内部の電位が等しくなるかららしい」

「う、うん……」

 もう雨音の言っていることがわからない。そもそも電位ってなんだ。

「私の力にもそれと似たような効果を持っている。つまり、鉄筋コンクリートやこのような木造校舎でもいい、何かに私が囲まれているならば天候に影響を与えない。ファラデーの籠が外部の電場を遮断する力を持っているのと同様に、私の力も遮断されるというわけだ」

 ファラデーの籠、というのはつまり、四方を金属で囲まれている場合に中にいる者は安全だという雷の性質のことで、雨音が雨を降らせてしまう力もそれに倣うものらしい。

 明かりのついた扉の前に立った。雨音が教室のドアを開くと、中にいたのは芽衣香さんだった。珍しくスーツに白衣を着て、仕事をしているふうな格好をしている。

「げっ!」とボクを見るなり芽衣香さんは顔をしかめた。

 そりゃあ、そうだ。この人は本来、海外に行っているべきで家を空けるからボクがこの島に来たというのに、本当に気まぐれな人だ。

「なんで、芽衣香さんがここにいるの?」

「あー……なんでいるのっていうか、ずっといたっていうか、最初から島の外に出る気はなかったっていうか……」

 頭のてっぺんで髪の毛を巻いているけれど、身長はまったく伸びた様子はない。教壇に立ってやっと教師らしく見えて、違和感と言えば背の小ささと童顔の鼻に乗った縁なしの眼鏡。

 何もかもアンバランスで、白衣やスーツを身につけていてもその乖離は広がるばかりで、しかし気の強さだけはヒールでそこらじゅうの壁を突き破るほど有り余っている。

 蛍光灯の明かりが一段飛びでついていて、机の数は20余り。教室の広さからいえば、少し少ない。雨音は大量の傘を降ろして、合羽を脱いだ。

 紺に白地のセーラー服に赤い水色のスカーフ。半袖の下から伸びる雨音の肌はどこか宵口の薄ぼんやりとした白さを思わせる。

「二人はここで何してるの?」

 芽衣香さんは、ボクに嘘をついてまで島に残って夜の校舎にいる。

「何って、授業に決まってるじゃない。考えればわかんでしょボケ」

 芽衣香さんは丸っこい瞳をボクに向けて言う。

 昼間なら補習なのかなとは思うけれど、夜の校舎で授業するケースは稀で、しかも二人きりなんてことはない。だからそんなの考えてもわかるわけがない。

 芽衣香さんのこの攻撃的な物言いは、この中学生とも間違えられる体型えおキープしつつ、20歳を過ぎたときから酒にたばこにギャンブルを好み、ゆえに補導と職務質問の回数は常人の三倍はあるせいだ。この島にたった一つある警察署の警官全員に顔を覚えられるほど、夜道を歩けば止められることが頻発した結果、以前からあった攻撃性が増した。

 留意するべき点は元々攻撃的な性格だったことで、別にお廻りさんが失礼なことを言ったわけでもない。ただ中学生の頃からほぼ同じ体型であったらしく、単にその長く成長しない自分に飽いて腹を立てているだけだ、これがボクの見解。

 芽衣香さんは、白衣のポケットに両手を突っ込んで、眠たそうに欠伸をしながら「しかたないな、座れ」と命令口調で言う。

 雨音は合羽の中に大量の傘の他に、肩掛けのセカンドバッグを担いでいたようだった。少しくすんだバッグを一番前の机に置くと、そのまま椅子に座って何の違和感もなくノートや教科書を開きはじめた。

「あんだ、涼太も授業受けんのか。だったらさっさと座んな」

「……う、うん」

「って、あれ、授業ってどこまでやったんだっけ」

 芽衣香さんは教壇の横で、勝手に窓際の席の椅子を持ち出して座る。夜の校舎にはボクらたちしかいなくてやたらと静かだけど、ときどき軒から雨の雫が落ちる音が聞こえてくる。そこに混じる蛙の鳴き声。そしてやっぱり蝉は夜も鳴く。

「地学だよ。たしか天文の分野だ、芽衣香」

「おーそうだった。さすが雨音ちゃんは賢いなあ。涼太とは大違いだ」

「初めて来たのにわかるわけないよ」と憤るボクを無視して芽衣香さんは教壇の引き出しに置きっぱなしにした地学の教科書を開く。そして妙に何かを知ったかのような悪い笑みを浮かべて、芽衣香さんは頬に手の裏を当てて教壇に肘をつく。

「それで、ここで何をしているのかという質問だったよな?」

「え?」

「今日までずっと、補習として鳴神宇宙開発センターを借りて授業をしていたんだよ。雨音はまともに学校には通えないからな」

 芽衣香さんの言った意味は、きっと雨音は外に出ると雨を降らせてしまうからその力が外部に漏れないようにということだろう。もちろん、いちいち雨が降れば周りに迷惑がかかるということもあるだろうけれど。それよりも、あの区域は鳴神宇宙開発センターっていうのか。

 ということは、芽衣香さんはあの開発基地と何か関わりがあるのかもしれない。

「ただ、今日はどうしても学校で授業を受けたいとうるさくて。私の愛車でここまで連れて来た。お前らがすやすやと家で眠っている隙にな」

 今日は元々、夜から御庭洗いの雨が降る日。その日なら、みんなが迷惑することもないし、雨を恨むこともない。雨音が外出を許される日は、天候が崩れて雨が降る日、それから雨が許されている日だけ。晴れの日だけは、太陽の下に出てはいけないのだという。

「ああ、そうそう、雨音はちゃんと涼太に言ったのか?」と芽衣香さんは薄く笑う。

 雨音は無表情に頭を何度も横に振った。

「なんだ、涼太がアホなせいで言えなかったのか」

「ボクのアホは関係ないでしょ」

「まあせっかくだ。雨音ちゃん、今日外に出たいと言ったのは、涼太に言いたいことがあったからだろ?」、ボクはずぶ濡れのまま、髪の雫を払いながら雨音の横の席についた。

「―――傘。」、雨音が吐息のような言葉を呟いた。

「傘、返しにきてくれてありがとう」

「えっ? う、うん」

 それっきり、雨音は教科書に視線を落として黙ってしまった。長い髪の毛が、影を作って彼女の表情は読み取れない。芽衣香さんが椅子からようやく立ち上がって、チョークを握る。これから本当に天文学の授業が始まるらしい。でも夜に天文の勉強をするのはある意味正しいとボクは思う。

「雨音は高校生というものをよく知らなくてな。学校に行けば会えるかもとだだをこねたときには笑ったが、まさか現れるとは、ホントにアホだな涼太は」

 教科書を読み上げる前。まるで遅刻してきた生徒を叱るかのように呆れた声で芽衣香さんが呟いた。あの開発基地の中で暮らしてきた雨音には、高校がどういう場所なのかすらよくわからないのだという。ボクはなんとなく雨音の隣で緊張してしまって、ずっと俯いていた。

 とっくに夜を迎えていて、晴れた空に月が昇っていた。夜の校舎にたった一部屋だけともる蛍光灯の明かりは、まるでこの世界には三人しかいないかのような錯覚をみせる。

 芽衣香さんの口から零れるたくさんの星や星雲の名前を聞きながら、やがて暗号のように聞こえてきたと思ったときには眠りに入っていた。



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