第3話 夏の花火と発煙筒

 

 リビングのソファーから漬物石のようなセンパイが動きだした。棺おけから吸血鬼が這い出るように、日が沈む時間になって起きた釈迦堂センパイは、テレビを見ていたボクからリモコンを奪った。

 電源が切られて画面は暗転、

「何するんですか」とボクが抗議すると釈迦堂センパイは「気になることがある」と、寝ていたせいで乱れたシャツの皺を引き伸ばしながら言う。

 襟元と袖が気になるようで無言で直すのに時間がかかって、次の言葉が出てくるまでに少々間があった。それからセンパイはボクを見下ろす。口をへの字に曲げて不機嫌そうだ。

「センパイ、髪の毛ぐちゃぐちゃですよ」

「うむ」

 センパイはボクに頭を委ねながら、腕組みをしている。

「おかしなことに気がつかないか、この島のことについて」

「おかしなこと……たしかに、あの祭りは変だなとは思いますけど」

 しかし田舎の風習だ、よそ者がとやかく言うこともないだろう。

「いや、違う。そういうことではないのだ」

「じゃあどういうことなんですか」

「行って確かめたほうがよかろう」

「で、でも……」

 神主さんから警告されたことが気にかかっていた。夜には出歩かない。それが島のルールなのだから、守らないと留守にしている芽衣香さんにも迷惑をかけることになる。

「行くと言ったら行くのだ、同志よ。兵は神速を尊ぶ」

「戦争してるんじゃないですから……それに、なんですか。そのおかしなことって」

「うむ、それにはまずは自転車を出してくれ。オレは乗り物の運転ができない」と釈迦堂センパイはなぜか誇らしげに告げる。能力のパラメータが偏りすぎたセンパイを持つ苦労。

「でも、島の人が夜は出歩くなって言ってましたよ。豪雨が降るからって」

 言った瞬間、釈迦堂センパイは蠅を吹き飛ばすような勢いで笑う。当然センパイはそんな話を聞くつもりはなく、ずたぼろの黒いリュックを肩にかけた。そしてリビングから玄関へと出る。

「夜に出歩かれるとまずいことがこの島にあるからだろう。それに豪雨は時間に関わらず降るものだ。子どもだましだな、そんなものは」、やっぱりそうくるか。

 あまりに予想できた答えにすがすがしさすら感じる。どんなにセンパイを止めたところで無駄だと諦めている一方で、ボクはもう一度、霧島雨音に会いたかった。

 どうしても、確かめたかったのだ。天気予報が当てにならないというこの島に降る雨の原因が、本当に彼女にあるのか。あの日、霧島雨音が背中に背負っていた傘の束は、雨を知っていたからなのか。

 雨乞い信仰があるというこの島が作り出した、迷信なのではないかとも思う。けれど、たしかに霧島雨音という名の少女は、あのロケットのランチャからボクらを見下ろしていた。そしてまるで雨雲が彼女に呼ばれたかのような、不思議な雨が降ったのだ。

 昨夜は何も聞けなかった。彼女が、人間なのかどうかも。そして生きているのかどうかさえ。それくらい、霧島雨音にはどこか人とは違う雰囲気があった。

 そしてボクは玄関に出た瞬間、夜の鳴神島を自転車で走ろうと決心した。もう一度、あの夜のロケットを見に行こうと決めた。

 玄関先には、まだ乾ききっていない雨傘が二本。この傘を霧島雨音に返すためなら、この島を追い出されてもかまわない。できれば、誰にも見つからずに帰ってきたいけれど。

 ボクは二本の傘を握った。黒とチェック柄の雨傘だ。それをセンパイの前に突き出す。

「傘を、返しに行くだけです」

「いい答えだ」

 ボクはセンパイよりも先に玄関を出た。傘の石突からはまだ昨日の雨水が残っていて、ぽたぽたと地面をぬらす。玄関を出ると、センパイはもう自転車をひっぱりだしていた。

それから自転車の荷台に乗っかって、ボクは立ちこぎで一刻も早くと神社を目指す。間隔を少しずつ狭めていく呼吸に苦しみながらボクは唾を飲み込み、センパイに訊ねた。

「あの、それで、気になることって、何かを……見たんですか?」

 重大な、何か。雨音の姿。

 外灯に羽虫や蛾が集って乾いた音を立てている。自転車は、ハルを乗せていたときよりも早いスピードで、夜道を駆ける。もう、神社への道はなれた。危ないでこぼこの位置も大体把握している。

「いや、厳密には何かを見たのではない。何も見なかったのだ」

「どういうことですか?」

 ふむ、と荷台に乗ったセンパイはボクの身体から手を離して腕組みをする。考え事をするときのセンパイの癖だ。

「もしかして、僕を騙したんですか」

 この、深夜徘徊に。

「そんなことはない」

「じゃあ、なんだっていうんですか」

「妙なもの、というのはロケットのことなのだ」

 ボクは思わず急ブレーキをかけた。

 この島にロケットがあるからこそ、ボクらはこの島に来たというのに、それを今さら妙なもの、と言われても困る。ボクはてっきり、妙なものというのが実は霧島雨音なんじゃないかと胸を高鳴らせていたのだ。

 センパイなら、霧島雨音に何らかのひっかかりを見つけたのかもしれないと期待していた。

 そしてボクには彼女が一体何者なのかが気になって仕方がなかった。この島に住んでいる神主さんも、ハルも会ったことがないらしいあの子。彼女に会ったのはボクとセンパイだけだ。

「センパイ、あの夜にボクらは女の子に会いましたよね?」

 センパイは「ん?」と唐突なボクの問いに眉を顰めた。けれどボクにはどうしても確認しておきたいことだった。

 なにせ、あの夜、ロケットを目の前にしたボクらは、別々に行動をし始めた。ボクは遠くからロケット全体を見上げられる距離にいたし、センパイは暗闇の中、ロケットに近づいてノズル付近を舐めるように凝視していた。そして、霧島雨音とは離れたところにいた。

だから、ランチャに乗っていた彼女を直接見なかったのかもしれない。霧島雨音と会話したのもボクだけだ。そして彼女を雨女と知っているのも、ボクだけ。

「女の子? だから君は、昨日会ったあの娘に傘を返すのだろう?」

「そ、そうです。そうですよね……」

 その言葉を聞いて、少し拍子抜けしたような、どこかほっとしたような心地がした。どこか、ボクは霧島雨音が、幽霊というか、そういう超自然的なものなのかもしれないと考えたけれど、どうやら違ったらしい。

 じゃあ、あの子はあの日、あの時間、どうしてあんなところで空を見ていたのだろう。

「あれは島のどこかの娘だろう。君が傘を返したい気持ちは尊重すると先ほどから言っているではないか。が、気がつかないか。この島にロケットがある理由は何だ?」

「そりゃあ、ロケットを発射するため、じゃないですか?」

「そのとおりだ。それでは、島を発射場にするメリットはなんだ?」

 センパイは次々に、暗闇の中からボクに質問を浴びせかける。ボクはペダルをぐいぐい漕ぎながら考える。酸素を求めて、空を仰ぎ見ると星が奇麗に見えた。

「えーと……海に近いからですか?」

「うむ、非常に曖昧な答えだが、正解としよう。感謝しろ」

「はあ……ありがとうござます」

 別に間違いだと言われても何かを失うわけではないから、正解にされて感謝することもないのだけど。

「ロケットの発射場にするためには地理的条件がいくつかある。それをすべて満たしているのがこの島だ」

「で、その条件ってなんですか?」

「そうだな、ロケットは地球の自転に合わせて、東に向けて打ち上げる。よって日本海側よりも太平洋側が好ましいな。そのほうが、陸地をとおらずにすむ。そしてこれが最も重要だが、第一宇宙速度を突破する際に、地球の自転による遠心力を利用すれば必然、燃料が少なくてすむ」

 うーん、とボクは疲労していく身体で脳をフル活動させながら考える。

「ようするに、地球にぶん投げてもらうってことですか?」

「ほう、いい例えだな。そういうことだ」とセンパイは相槌を打つ。

 自転車はまっすぐ神社へと向かうけれど、途中センパイは十字路を曲がれと指示を出して、勝手に身体を右に傾けた。ボクはあわててハンドルを切って曲がる。タイヤは用水路に突っ込む手前でカーブして畦道の端に転がった石を踏みながらなんとか轍の跡に沿う。

 しかし神社の石段は横に滑るように視界から消えてしまった。

「ど、どこに行くんですか?」

「正面から突破してどうする。こういうものはこっそり裏から入るものだ」

 空き家泥棒の教訓を教えられたって一体センパイが何をしようとしているのかボクにはさっぱりわからない。けれどボクはハンドルをセンパイの指図するように動かす。自転車のライトは手前の畦道しか映してくれず、どこを走っているかも把握できない。道だって知らない上に悪路が続き、急カーブに差し掛かれば転んでしまうかもしれない。要するに通ったことのない道。ボクらは迷ってしまったのだ。

 厳密に言えばセンパイが行き先を知っているのだから、迷子ではないのだけれど、問題はセンパイが行く先を示しているということだ。この状況において一つだけ言えるのは、センパイが道を知っている事実が少しも救いにはならないこと。ただいたずらにボクを不安にし、精神を削るだけ、なぜならこの人はきっとジャングルの奥地でも自信満々に道なき道を示すに決まっているからだ。

 だからこの場合、道に迷っているというボクの認識は正しい。絶対に、正しい。

 けれど、当の本人は何かが見えているのか、不安という精神的苦痛が許より存在しないのか、自信を漲らせて話を続ける。

「聞いているか。つまりだ、九州南端にあるこの島は日本で言えば自転のスピードが速い地域となる。地球の遠心力は、赤道に近づくほど増すものだからだ。しかも太平洋側に位置しており、東側であればロケットを打ち上げても陸地がなく事故の心配が少ない。よって、打ち上げには好条件にあると言える」

「それが、どうしたって言うんですか?」

「それこそが重要なのだよ。よく考えてみろ。あのロケットは、この島に廃棄されたわけではないのだ。そう、まさにっ! 鳴神島から打ち上げるためにこの地で作られたっ!」

「え? そうだったんですか?」

「おそらく」

「でも、だからってどこにおかしいことがあるんですか」

 別にこの島がロケットの発射実験場だったとしても、さしておかしいとは思わない。

「この島にロケット打ち上げに関連する巨大な施設が見当たらない。それを君はおかしいと思わないのか」

 指摘されて、ようやく釈迦堂センパイがボクに答えて欲しかった正解が見えた。つまり、あのラムダロケットは廃棄されたわけではなくて、打ち上げられなかったロケットであったはず。ここで作られて、打ち上げられるはずだったのなら、近くにそういう施設がないのはおかしい、という話だったのだ。

 例えば、発射管制棟。ロケット組み立て棟。そういった施設が必ず必要だ。しかしこの島には、小さな納屋のような観測施設は存在するものの、ロケットを打ち上げるための施設は見当たらない。

「じゃあ、あのロケットの近くに実験施設みたいなものがあるってことですか?」

「遅いっ! 遅いぞっ! 頭を働かせろ、答えにもっと早く辿りつけ」

「じゃあ、ロケットが妙だって言ったのは……」

「そうだ、あのロケットがランチャに乗せてあるとは言え、単体であの場所に存在していること自体が妙なのだ」

「その施設が、どこにあるかわかるんですか?」

「いや、わからない。ただ、鳴神島の地形からして、社翁山の裏手だろう。そもそも頂上に天弓神社があり、その裏にはロケットと森しか広がっていないというのもおかしな話だ。それが禁足地と呼ばれ、昔から守られてきた場所でああっても、だ。そう、おそらくそこにロケット開発基地がある」

 そうか、ボクは心の中で頷く。

 あの神社の裏へ続く途中で見かけた鉄条鋼は、禁足地を保護するためではなく―――開発基地を隠すためにあったのだ。

 ラムダロケットが風化して朽ちている様子から想像すると、開発基地も廃墟になっている可能性が高い。ロケットのためにある施設が稼動しているなら、そこには人がいるはずだ。研究者や技術者たちが。その人らがロケットを放置するわけがないし、そもそもこの島の人たちに触れさせたりしないだろうし、ましてやノーズコーンに入った人工衛星を取り出してご神体にするなんてこと、見過ごすはずがないのだ。

 センパイが裏に廻ろうと言ったのは、開発基地に直接潜入しようということだったのだろう。

 それに―――彼女は……霧島雨音は、鉄条鋼の内側にいたはずだ。もしかしたら、彼女はそのロケット開発基地の近くで暮らしているのかもしれない。この島で見かけないことを考えれば、可能性はある。

「センパイは、そのロケット開発基地になにがあると思ってるんですか?」

 訊ねると、センパイは口の端を頬まで引いて笑む。何かよからぬことを考えている不気味な微笑みだ。

 センパイはボクに答えを返してはくれなかった。しかしその表情はまるで、「それを知るために行くのだ」と言っているかのようだった。だからボクは自転車のペダルを漕ぐことに集中する。そして指示どおりに畦道を走る。一体、どうして島の地形がセンパイの頭の中に入っているのかは知らないけれど(あまり触れたくもない)、大方どこからか島の地図を盗んだか、最悪実は毎夜起き出してとっくの昔に全島を踏破している可能性だってある。

 ちなみに、この島の地図は一般に販売されていない。もっと大きな、九州全域地図としての記載はあるけれど、役所などの公的機関と道路の記載があるのみで、観光として来る人はいないため全島の詳細に記した地図は入手が難しい。だから山の裏手が私有地や森と書いてあれば、そうなのだと思うしかない。

 ボクらの自転車は神社を地軸として社翁山を周回するようにぐるりと畦道を自転車で回りこむ。

 やがて潮風がきつくなって、アスファルトの車道に出た。堤防が二人乗りをするボクらの背丈ほどあり、右手には切り立った山肌が見えて、しかし左を見れば潮風を運ぶ波の音が聞こえる、島特有の景色が広がっている。

 センパイははっきりと指で西南の方角を指した。だからおそらくボクらはぐるりと島を廻ってきたわけだから、ちょうど社翁山頂上にある天弓神社の手前辺りになるだろうか。

「あそこですか?」

「そうだ。あの区域だけ、謎なのだ。この広くもない島で誰も知らない区域がある」

「島の人たちは知っているんでしょうか」

「当然、あることは知っているだろう。だがな、例えば自分の住む町に施設があって、廃墟になっているとしたらどうする?」

「どうするって……昔からあるんだったら、そういうものかなとは思いますけど」

「そうだな。きっとこの島の人たちも、触ようとしないだけだろう。まあしかし、事故があっては困るから我々のような勇み足を止めることくらいはするだろうが」

「そうですね……」

「ただ、果たして本当にそうだろうか、と疑問を提示しておこう」

「どういうことですか」

「オレにもわからない、ということだ。島の連中が、この区域について口を閉ざしていることについて―――」

 事故を防ぐため、という理由を考えてみる。山を歩きなれていない外部の人間に島をうろつかれて怪我でもされたら面倒ごとにはなる。それはたしかだ。

 でも、神主さんの言葉はそういう意味を孕んではいなかった気がするのだ。もし仮に、事故が起こる可能性を考えているなら、そう言えばいいだけの話だ。

 この島の人たちがあえて口を閉ざしているとしたら。やはり原因は霧島雨音ではないだろうか。天候を左右させてしまう雨女のことについてではないだろうか。

 センパイは荷台から勝手に降りてしまった。どうやら、そこへと入る山道入口についたらしい。しかし車道にぱっと明かりがついた。車のヘッドライトがボクらを捕らえそうになって、センパイはボクの頭を掴んで地面に伏せさせる。急に力が加わって膝から地面につく。頭が砂利につきそうになったところで、車が横を通過した。

 投げ出された自転車のハンドルが泥で汚れる。まだ車輪が回っていて、チェーンがかちかちと音を立てている。

「み、見つかりましたかね?」

「いや、大丈夫だろう」、大丈夫じゃなかったとしても釈迦堂センパイはきっと問題視しないだろうけれど。

「というか、センパイ。ボクらって何してるんですか」

「君は、昨日の娘に傘を返すのだろう。オレはいささか趣味的だな。人工衛星やロケットに関する何らかの物体を施設から盗み出すだけだ」

「犯罪じゃないですかっ!」

「犯罪ではない。完全犯罪だ」

「だからそれも犯罪ですって。その見つからなければいいという発想はやめてください」

「なに、もしそういう区域があれば、の話だ。もし何もなければ、君の淡い恋を見守ることにしよう」

「な、何を馬鹿なこと言ってるんですかっ!」

 センパイは常時こんな感じだから放っておくとして。

 淡い恋。本当にそうならもっと違うシチュエーションを期待していた。

 借りた傘を返すためだけにこんなサバイバルをする必要があるのであろうか。僕はもっとロマンティックなことを想像していたのだ。

 島の人に見つかって、神主さんに報告された末には、島から放逐されかねないというスリリングな状況だ。

「……やっぱり、帰ってもいいですか」、傘を返すのは次の機会に委ねるとして。

「馬鹿者、もう我々は空き家の玄関で靴を脱いだも同然だ、今さら言い訳のしようがないだろう」、確信犯だ。絶対、この人確信犯だ。ここまでボクを引きずりこむために思わせぶりなことを言ってここまでつれてきたに違いない。

 しかしセンパイはすでに山道の細い入り口に一歩踏み出していて、ここでボクが何を言ったとしても、たとえ地面に転がってだだをこねたとしても振り向くことすらしないだろう。

 それにからからと車輪だけが回ってサドルが少し歪んだこの自転車を漕いで、来た道を戻ったとしても、すでにここがどこなのかもボクにはわからない。ただセンパイの指示どおりに来てしまった以上、もう引き返すよりもついて行くほうがましだ。

 センパイのたとえ話に付け加えるならば、もうボクらは空き家の玄関で靴を脱いで(そんな空き巣がいるのか知らないけど)、後ろのドアは閉まっている。

 センパイとこの島に来たときから、島民の怒りを買って島を放逐される運命にあるのかもしれない。とにかくあとは見つからないように祈るだけ、ボクは無力だ。

 その背中を追いかける。センパイはもうずいぶん先に進んでいて、例の、長靴にズボンの裾をインする独特のスタイルが機能的に抜群の力を発揮していた。するすると登るセンパイを追いかけるボクはスニーカーで何度も足を滑らせながらなんとかついていく。

 しかし山道はそれほど長くは続かなかった。突然、拓けた場所に出て、背の高い樹木が辺りを覆っているけれど、鉄条鋼が張り巡らされた先は広い芝生だった。まるで山を歩いていたら突然、ゴルフ場に出てしまったみたいな……。しかし釈迦堂センパイはボクの目の前で突然、蜘蛛のような格好で腹ばいになった。

 雨が降ったのが昨夜だと言っても、木陰の多い山道は濡れている。しかも朝露や霧のおかげで晴天つづきでもこの土の歩道が乾くことは滅多にない。それなのに、地面に身体をぴたりとつけたセンパイはその身体をずりずりと鉄条網に近づけている。

 神社のロケットを囲っていた鉄条網は、有刺鉄線をまっすぐに張らせていたのに、この施設に張り巡らされていたのは蛇腹型で、コイル状にぐるぐると鉄線を巻いている。たしかこれは軍事施設などでよく利用されている形じゃなかったか、と考えていると伏せろと声が聞こえる。センパイは前を見張ったままこちらに手を扇いでみせる。

 たしかに、鉄条網の先は開けていて、たとえ森の中にいると言っても発見されやすい。仕方なくボクも地面に伏せることにした。

「あれを見ろ」

 センパイがしゃべるたびに、地面に落ちた木の葉が上に吹き上がる。濡れて重たくなっているのに、釈迦堂センパイの肺活量が優れて高いせいなのか、葉っぱが絶え間なく舞う。ボクはそっちに気を取られつつも、センパイの目が追う先を見つめる。

 それは釈迦堂センパイの動物的な勘のせいか、それとも眼鏡によって矯正された視力のせいかわからないけれど、暗がりの中で薄く明かりがこぼれている。センパイの眼鏡も伊達ではないということなのだろう。

 鉄条網の先は全面が芝生だと思っていたけれど、そうではなくて、よく見ると深い暗闇の先に溶け込むようにアスファルトが広がっている。

 そしてその先にタワーじみた建物が聳えて、その真ん中あたりから、たしかに薄く明かりが灯っている。しかも明かりはときどき左右に動いている。おそらく懐中電灯か何か。

「明かり、ですね……。ここは封鎖されているはずじゃなかったんですか?」

「む? 明かりだと?」

「え、見ろってあの明かりのことじゃないんですか?」

「何を言っているのだ。オレは明かりのことなど知らん。見ろと言ったのはこっちの方だ」

 そう言って、センパイは手近な鉄条網のわずか右を指差した。そこどうやら、基地内に入る入り口だったらしく、鉄条網がスライドして開くようになっている。そこにかかっている錆びた南京錠が空けられたまま放置されていた。

「扉が開いてますね」

「それよりも、明かりはどこだ?」

「ほら、あそこですよ、ちょうど建物の中央です」

「わからん。こんな暗がりでよくあんな遠くが見えるものだな」

「別に、普通だと思いますけど……でもボクは視力そんなに良くないですよ。センパイ、眼鏡かけてるのに見えないんですか?」

「オレの眼鏡はレンズが入っていない」

 どうやら、センパイの眼鏡は伊達だったらしい。

 しかし釈迦堂センパイの言う開けられた南京錠と、ボクが見たあの明かりを見るに、他に誰かがここに侵入しているということだ。明かりを見失わないように追いかけた。

「この施設がまだ動いているという証拠があるのかもしれん。急ごう」

 釈迦堂センパイは腹ばいから少し身体を浮かして、中腰で扉に近づいた。開けられている南京錠のおかげでボクらは難なく施設に入ることができて、周囲に人がいないか確かめながらゆっくりと建物に近づく。建物の数は、ざっと見て5つ。そのそれぞれ番号が振ってあるのがわかる。

 明かりが見えた背の高い建物は、白壁の右上にゴシック体で『2』と大きく番号が描かれている。

「明かりはまだ見えるか」

「いえ、もうどこかに行っちゃいました」

 ちょうど建物の中腹辺りに動いていた明かりが消えて、建物全部を眺め廻してみたけれどやはり見えたのはあの光だけだった。建物までの距離は50メートルほど、その間にアスファルトには白線が引かれていて、まるで飛行機の滑走路のようだった。

 中腰のままセンパイは駆けた。それが異常に速く、ボクは息を切らしながら追いかける。建物の目の前に来ると、白い壁には汚れやひび割れが目立って、ずいぶん長く放置されていることはたしかだ。

「きっと、ここはロケットの実験場として使われていたのだろう。1号棟から5号棟まで、どんな実験をしていたのか興味はあるが……」

「まずは、あの明かりですかね」

「そうだな、そちらを優先するとしよう」

 しかしセンパイはガラス張りになった二号棟の入り口の扉をしばし見つめたあと、ぐるりと建物を一周し始めた。意外と用心深い性格みたいで、人の侵入を検知する機械がないか探しているのだろう。

 建物は正面入り口だけアスファルトの道で繋がっていて、横と後ろは全面芝生に囲まれていた。湿った芝の感触は固くて、それが不思議とボクを緊張させて今さらながら無断で施設に入ってしまったことに胃の辺りがぴりぴりと痛んだ。

 センパイが中腰のまま固まって、何かを指さす。ちょうど、芝生の辺りに500ml缶ほどの機械が直立している。しかしそのほとんど、とくに上部がガムテープでぐるぐる巻きにされていた。

「なんですかね、これ」

 ボクが訊ねると、センパイは腕を組んで唸った。

「雨量計だな。しかし、なんのためだ、これは」

「これで雨が降ったかどうかわかるんですか?」

 なんというのか、本当にただ缶ビールをそのまま芝生に置いたような装置だ。

「雨量を測ること自体、そこまで複雑なものではないのだ。この中に小さな枡が入っていて、それが0.5ミリごとに返る仕組みになっている。その回数で雨量を測るのだ」

「じゃあ、このガムテープは何ですか?」

 これでは雨量計に雨が降り込まなくなって計測はつねに0ミリになってしまう。どんなに雨が降ったとしても、計測上は晴天か曇りになる、と思う。

「雨量計というものは本来、一か所に設置されるものではない。約10キロ単位で置かれているはずだから、他の場所が機能していればここの異常は感知されて無効なデータとなる。もし仮に数十キロの範囲でいくつもの雨量計をガムテープでぐるぐる巻きにしたって、それこそ異常として発見されやすいはずだ」

「……子どものいたずらですかね」

「さあな。しかし妙だな」

 センパイはどこか腑に落ちない表情をしていた。

わざわざこんな施設に忍び込んでまでいたずらで雨量計の蓋を塞ぐことに意味があるとは思えない。けれど、ボクにはぱっと霧島雨音の顔が浮かんだ。きっと、これは彼女の仕業なのかもしれない。自分が起こす不規則な雨を、なかったことにするために意図的に塞いでいると考えると筋は通る。筋が通るだけ、だけど。ただ僕は待ち望んでいるのだ。また、彼女に再び会えることを。

 もし僕の予測が正しいならば。霧島雨音はこの近くにいるのだろうか。

 ボクは空を見上げた。星空が広がっていて、到底雨が降るようには見えない。霧島雨音がもし本当に、その場所に存在するだけで雨を降らせてしまう特異な人間で、それが雨女と呼ばれている理由だとしたら―――今日は晴れている、彼女に会えることはないのかもしれない。

 もし彼女が雨女だとしたら、雨が降っていないということが、霧島雨音がここにはいないということを教えてくれているのではないだろうか。もし本当に彼女が雨女ならば、の話だけれど。彼女の存在を、雨が教えてくれるとすれば、の話になるけれど。

 ぼんやりと2号棟のはるか遠くを見上げているボクに、釈迦堂センパイが涼やかな表情で軽く伸びをして言う。

「よし、登るぞ」

「えっ?」

 ボクは思わず空から目を離す。登る、ということならボクらはさんざん山道を登ってきた。これ以上、登る場所なんてありはしない。周辺はだだっ広い芝生とアスファルト。登るにしても、樹木は鉄条網の向こう側。だからここには登ろうにも登る場所すらない。

「登るところなんてありませんよ」

「いいや、ある」

 ああ、とボクは顔の半分を手で被ってもう一度空を仰いだ。

 そういえば、釈迦堂センパイがさっきから一瞬たりとも視線を外していなかったことにボクはもっと危機感を覚えるべきだった。そしてもっと、センパイの性格を理解しているべきだった。センパイが2号棟を周回したのは、決して用心深いせいではなかった。

 2号棟入り口のちょうど右側面には、地下へと水を流すための排水溝の蓋があり、そこから雨どいが地面から白壁に這うように延びている。壁はまったいらで登ることなんてできないだろうけれど、たしかに雨どいに足をかけて登ればあるいは、いや、絶対に、無理だ。

「まさか、ここから登るつもりですか?」

「まさか、とはなんだ。見ろ、2階のガラス窓までそう高くない。もしあの窓に鍵がかかっていなければ楽に侵入できる」

「普通に正面入り口があるんですから、あそこから入ればいいじゃないですか」

 さっきボクらが見た正面入り口だってガラス張りで、そう頑丈な扉とも思えない。

「……今後の教訓のために言っておく。謎の建物に侵入するこのようなケースを想定した場合、正面玄関は非常に危険だ。罠の可能性がある。そういうときは、自力で側面から登るか、何らかの方法で屋上に降り立ち、最上階から降りるかのどちらかしか方法はない」

 釈迦堂センパイにとって、罠のある建物に侵入することは日常なのだろうか。このセンパイについていけば、本当にこの教訓が生きてしまうことが容易に想像できてしまう。

「センパイ、日常的に不法侵入してるんですか」

「いや、したことはない。アクション映画などから得た教訓だ」

「よくもまあ……」

「なんだ?」

「よく映画で観たことを自分で経験したかのごとく語れますね」

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというだろう。それだ」

「それ、ですかね。ちょっと違う気もしますが」

「シーザーを語るのにシーザーである必要はないし、壁を登るのにロッククライマーである必要もない」

 センパイは雨どいに右足をかけた。どういうわけか、怖ろしいほど手つきがいい。リュックからロープを取り出して、雨どいと壁の隙間にひっかけながら力強く登っていく。ボクは下から同じようにロープを握り、それを手繰りながら登り始めた。

 壁の中ほどからセンパイが手を振った。雨どいの、ほんの小さな窪みやでっぱりに足をかけて僕の身体をロープで引き上げてもらう。

あまり時間をかけるわけにもいかない、このままセンパイを残しても、もしこの人が誰かに見つかってしまったらボクも同じようにこの島から追い出されてしまうだろうし、根は正直というのか、発言の一切が予測のつかないこのセンパイならば全部しゃべってしまうかもしれない。

 だから、この人を置いていくわけにはいかない。センパイの好奇心に引きずられるようにして、僕はこの島にやってきたわけだけど、この地を踏んだ瞬間から、僕らは一蓮托生であったのだ。早く気がつくべきだった。

 ボクは急いだ。汗で手が滲んで滑る。自分の意思にまったく反して、雨どいが這う壁を登らされているわけだけど、しかしボクはどういうわけか次第に気分が高揚した。不思議な感覚がする、夜に雨どいを登ることになぜか使命感すらかんじてしまっている。

 登る。登る、ボクは無心になって登る。

 やがて、ロープから引き上げられる力が止まった。センパイが2階のガラス窓についたのだろう。ボクも懸命に登っておいつく。そして窓の桟に足をかけた。

 ガラス窓には、カーテンもブラインドもかかっておらず、中は薄暗かった。

「何か、見えるか?」

「い、いえ……」

 いや、今ちょっとだけ何かが動いた気がする。ボクはもう少し中をよく見ようとガラス戸に張りついてじっと闇の奥を見つめる。そのとき、ぼんやりと何かが動いて、それが近づいてくる。中心が真っ白で―――すけるような肌。

 ボクは身体を強張らせた。一瞬、何が起きたかわからなかった、窓際に近づく黒い物は夜空の月や星の光を受けて、はっきりとした人の姿になってボクらの前に現れる。黒い髪が揺れ動く。その髪の下から胸と白の下着がボクの瞳を叩く。がちり、とロックされていたガラス窓が開いた。透明な一枚の板すら失った僕の目の前にいたのは、下着姿の霧島雨音だった。

「のぞきか? あまり褒められたものではないな」

「あ……い、いやっ! 傘をっ!」、言葉がでない。

「私の下着姿がそんなに珍しいのか?」

 そう言って、霧島雨音はボクらが踏んでいる桟に肘を乗せて薄く笑う。下着と胸が同時に揺れて、形が崩れるところを思わず凝視する。

「ち、違う……あ、いや違うっていうか、この施設が珍しくって、そ、それに……」

 ボクは霧島雨音の、白む瞳に慌てて言葉を返そうとする。

 しかし傘を返しにきた、と口に出したとしても、それがどれだけ馬鹿げた言葉なのか言う前に気づいてしまった。認めたくはないけれど、雨どいを登ることに知らずしらずのうちに気分が高揚したのは、このシチュエーションを心のどこかで望んでいたせいだろうか。

 いや、そんなバカな。そういう特異なケースをボクが勝手に妄想していたというのか。

 しかしどんなに施設に侵入するためだと言ったとしても、女の子が着替えている2階の窓に、わざわざロープを使ってまで雨どいをつたって登ってくる男子高校生に言い訳など許されないだろう。センパイが、さっきから「何をしている、さっさと中に入れっ!」と叫んでいる。「邪念だ、邪念を払うのだっ!」と叫んでいる。けれどボクに邪念はない。いるのは、霧島雨音だ。そう、目の前で窓を塞いでいるのは、下着姿の霧島雨音なのだ。

 釈迦堂センパイが力尽きたのか、彼女が下着姿で微笑んでいることにボク自身の心が耐えられなくなったのか。いや、センパイが上から落ちてきたのと、僕が両手を離したのはほぼ同時だったように思う。

 そうしてボクらは、宇宙基地の2号棟、その2階窓から落下した。

 落下するボクの瞳に映っていたのは、視界の端から端まで広がった星空だった。そして霧島雨音がいるのに空が晴れている、そのことにふつふつと湧きあがる怒りにも似た感情。そうだ、雨は降っていないじゃないか。

 じゃあ、霧島雨音がボクに言ったことばは嘘だったのか。ぐちゃぐちゃと考えているうちに、ボクは芝生に背中を打ちつけた。どすん、と背骨を揺らす衝撃が走る。しかし釈迦堂センパイはリュックをクッションにしてすぐさま立ち上がった。そしてボクの背中の痛みが和らいだころにセンパイを呼ぶと、そのときすでにボクはセンパイに背負われて2号棟の裏から脱出していた。

 島の人に見つかってはいけない、ましてや捕まるなんてもってのほかだ。あの人はきっとそういうだろう。

 センパイが最も畏れていることがある。それはロケットに触れて、さらには発射場に開発基地までその目で見たというのに、この島から放逐されることだ。

 それをなんとしても避けたいのか、あの場所から逃げ出したのだ。もう今は、鉄条網の向こう側に達しようとしている―――。その背中に負ぶわれて、センパイの芝生を踏む足音がボクの耳に響く。

 霧島雨音が2号棟にいるということは、センパイにしてみれば他の島民もいる可能性が高いということだろうから。

 でももしかしたら霧島雨音はこの島の集落から一人離れてここで暮らしているのかもしれない。雨女を捜してはいけないよ、その神主さんの言葉は、やはり霧島雨音のことじゃないかと思えてならなかった。

 背中を打ちつけたせいで、息が苦しい。

 センパイはボクを背負ってよたよたと身体を引きずりながら鉄条網をなんとか越えた。けれど、釈迦堂センパイに背負われるうちに、次第に意識が薄らいでいく。どうやら2階から落ちた衝撃はただごとではなかったらしい。ボクはちょうど、南京錠がぶら下がっていた鉄条網の近くで降ろされた。落ち葉に残った水がボクの乾いた唇にしみこんでいく。

 センパイの叫ぶ声が聞こえる。やがて耳許でたくさん話しかけられた。起きろ、だの目を覚ませだの、そのあとにばちばちと頬やら肩やらをやられる。

 やがてボクはセンパイに再び背負われて、山道を駆け下りる。しかしその途中、釈迦堂センパイはようやく観念したのか、リュックから発煙筒を取り出して発火させた。そのとき、釈迦堂センパイが言った言葉と自分の無力さを呪うあの表情は、一生忘れないだろう。

「すまん、同志よ。道に、道に迷ってしまった……」

 立ち昇る煙の奥にうっすらと火花が見えて、今年の夏の花火だってまだ見ていないのに、よりによってこれが今年で最初になるのかとぼんやりとした意識の中で呟いてボクは瞳を閉じた。

 発煙筒の輝きが、暗い空を侵食している。ああ、奇麗だ。

 あの発煙筒を見た島の人たちがきっと、ボクらを助けに来てくれる。でもそれは、同時に神主さんとの約束を破ってしまった罰を迎え入れる儀式のようにもみえる。

 花火は夏の終わりを告げるけれど、たしかにボクらの燃え上がる発煙筒もこの島で暮らすはずだった夏が終わったのだと感じさせるものだった。



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