第2話 煤払いの儀

 

 ひまわり畑を横目に見ながら、畦道を歩く。 

 昨日の夜からソファで漬物石のように眠っているセンパイは家に置いてきた。夜から降り続いた雨が止んで、せっかくの晴天を手に入れたのに、嵐のような人間が傍にいてはその青空を享受できない。と思う。

 ボクは昨日の不思議な出来事を、いわし雲を眺めながら歩いていた。魚の名前がついている雲が見える翌日は雨なのだというけれど、こんなに晴れていると信じられない気もする。

 しかしのんびりと夏の暑さに浸っているボクの懐に、小さな身体がひゅっと入りこんで堅く握った拳を後ろに引いた。

「第一宇宙速度パンチっ!」と人間がおよそ繰り出すことができるはずもない速度を冠したグーパンチがボクの腹部をめがけて放たれたはずなのだけれど、ボクは自転車のサドルに身体を預けるようにして簡単に避けてしまった。

 人工衛星が衛星軌道に乗るために必要な速度は秒速8キロメートルで、時速にすると2万8800キロメートルというとんでもない速さ。もちろん、人間のグーパンチがそんなスピードを出せるはずもなく、殴ってきた子はパンチの着地点を見失ってずしゃっと地面に転んだ。

「何すんだ、痛いだろっ!」

 肘をすりむいておでこを抑えた女の子が涙目でボクを睨む。殴ってきたのはそっちなのに。左手には宇宙入門と書かれた本。もがもがと地面を掻き毟って立ち上がる。パーマがかった栗毛で、おかっぱのはずなのにそこかしこがくるんと巻いている。かわいく引っ込んだ鼻頭はさっき転んだ拍子か少し赤く、リスのような眼は潤んでいる。薄い唇を悔しそうに噛んで、小さくて細い肩を怒らせながらボクを睨む。

 しかし格好はなぜか巫女さんが着る衣装に似ていて、本当なら下は緋袴で、上は襦袢と白衣のはずなんだけど、その子はなぜか上半身にTシャツを着ていた。

 ボクは一旦、上からつま先まで見つめてから

「いちおう尋ねるけど、巫女さんなんだよね?」と指摘することにした。その女の子は小さな身体から、「はああああ、ま、間違えたっ!」と声を上げたあと「さ、柵壊した犯人が昼間っからほっつき歩いているせいだっ!」とボクを指差して叫んだ。

 正確にはあの鉄網を壊したのはボクではないけれど。どうやら彼女の様子を察するに巫女衣装に着替えている途中でボクを見つけて、わざわざ追いかけてきたらしい。

「あ、いやでも……普通、そういう衣装って上から着るもんなんじゃないの」

 ボクはゆるゆるに縛られている緋袴の帯を見た。和服だと襦袢や白衣の裾は外に出さずに袴に入れて帯でしまう。だから女の子は最初に袴を着たことになる。だから、つまり、おかしい。

「もしかして、スカートか何かと間違えたの?」

 すると、女の子ははっと頭を下げて足許を見つめた。そもそも自分が袴を着ていたことすら気がついていなかったのか、裾を摘まんで威嚇する孔雀のように広げてみせた。

「あ、いやっ! 私服と間違ってこんなもん履いたりするかってのっ!」

「ああそう。ならいいんだけど」

「よくないよっ! 似合わないだろ、このヒョロ野郎っ!」

 つんと鼻を横に向ける女の子の横をたくさんの竹を積んだトラックがとおり過ぎる。珍妙な格好をした女の子は「いいから、うちの敷地の柵壊したんだから神社のお掃除のお手伝いしろ、バカ野郎っ!」と恥ずかしさで今にも逃げ出しそうなほど腰を引いて叫んだ。

「うちの敷地?」

「そうなだよ、ハル、あの神社の娘なんだからなっ! わかったらさっさとお手伝いするのっ!」

「何を?」

「お掃除っ!」、威勢はいいのにちゃんとお掃除というらしい。

「お掃除の、なに?」

「お手伝いっ! もう、何なんなんだよっ!」、おもろい。

 しかし弁償と言い出さないのは、田舎の人情なのかそれともこの女の子の言っていることが変なのか。まあそれでも無銭飲食には皿洗いと相場が決まっているし、裏山の柵壊しには神社の手伝いという島の風習なのだろうと納得することにした。しかしあの太い鉄線で出来た鉄条鋼を壊して内部に侵入しておきながら、神社の掃除を手伝うだけなのはわりに合っているのだろうか。そもそもの主犯は家で重石のように寝ているわけで。

「掃除の手伝いって、何すればいいの」

「えーと……あ、そうだ。お兄ちゃんは……名前は、えーと。タマでよかったっけ?」

「いいわけないよ。涼太。宮井涼太」

「えっ?」

「え、じゃない。ボクは猫が人間に化けた仮の姿ではないし、猫だった時期は一度もない」

「ふーん、そうなんだ。がっかりだね」

「すまないな。いちおう謝っておくよ」

「じゃあ、島の外から来たわけだね。そういう人、珍しいよ。ハルは神籠ハル。天弓神社の、たしか28代目くらいで、お父さんは神主だ。ちなみに今日はご神体の煤払いがあるから、それのお手伝いに行くんだ」

 ひと通り説明して、神籠ハルはボクの自転車の荷台に座った。恥ずかしがりやなのか、サドルに背中を向けて来た道の方角を向いている。

「手伝いに行くんだね。というか、たしかってなんだたしかって」

「長いからあんまりはっきりしてないんだよ。でもハルはれっきとした歴史の長い神社の娘、ご神体の煤払いは儀式だから毎年、お祭りの前にやらなきゃいけないの」

「へえ、この島って祭りがあるんだ」

 ボクは夏の日差しを白いワイシャツで受け止めながら、自転車のペダルをこいだ。昨日の雨や湿気が太陽で弾き飛ばされて、汗が出るうちから乾いていく。ごわごわしたハルの髪の毛で背中が少しくすぐったい。

 畦道はでこぼこしていて走りにくかった。昨日できた水溜りを避けながら自転車は昨日の夜に走った道を、昨日よりも少しゆるやかなスピードで進む。自転車に二人で背中合わせになっていることに、少し気まずさを覚えて僕は、ハルに話しかけた。

「神社の娘なのに、宇宙の本読んでるんだね」

 彼女が左手に抱いていた宇宙入門、どこかの星雲が表紙になった、挿絵つきの入門書。

「そう、だってうちの神様にお迎えするんだから。ちゃんと勉強しなくちゃ」

「神様をお迎え?」

「ご神体がね。そういう関係のものだから」

するとご神体が宇宙? スケールが壮大すぎやしないかな。

「うちの神社はもう、ずうっとご神体がなかったんだ。だから、裏山のロケットをご神体にすることにした」、裏山のロケットって、ああ昨日センパイと観に行ったあれか。

「なんか、いい感じに古くなってきて、ほら、そろそろ霊験が備わっていそうだろ」

 昨日、釈迦堂センパイがスプートニクの信号音を出していた地点、つまり社翁山の麓の石段が見えた。

「……あのさ。やっぱ、おかしいかな?」

「何が?」

「ご神体がっ! だって、ほら。裏山のロケットをご神体にしてる神社なんて珍しい気がするんだよ」

 いや、珍しいどころか、そんな神社はキミんとこぐらいだと思う、と言おうと思ったけど、神籠ハルは真剣そのもので、そこに水を注すのも悪い気がして、

「そんなことないよ」とちょっとだけ心にもないことを言ってしまった。まあ、そんな言葉は軽く看破されたようで、肘がボクの脇腹をぼふっと突いた。

「うそだね。ハルは騙されないよ。絶対におかしいと思ってるでしょ」と呟いた。

「うちはお父さんがね、ご神体をなくしちゃったから。島の人にはたくさん謝って許してもらったんだけど、それからずっとご神体にしていいものを探してたんだ」

「そんなことってあるんだ……」

「あったのっ!」

 夏の入道雲に向けて、自転車をこいでいるような感覚になる。後ろに乗っている女の子が、僕の好きな子だったらなあ、とぼんやり考えながら汗を気にせずに必死にペダルをこぐ。

 やがて入道雲が山の頂に隠れて、少し陰になった山道が見えた。

自転車が石段の前に到着すると、ハルは荷台から降りた。

「大丈夫、かなあー……」、と僕は不安げに言う。

「大丈夫って、何が」

「ああ、いや。何でもない」、巫女の衣装を私服と間違える娘に、ご神体を無くす父親。ここの神様に同情を禁じ得ない。

 神社の石段前には、ボクの自転車とトラックが止まっていた。さっき、ボクらの横を通りすぎて行ったトラック。その荷台には七夕に使うような、笹がついたままの細竹が何本も載せられている。

「さ、それを一本持ってっ!」

 ハルがトラックのタイヤに足をかけて、トラックの荷台に身を乗り出す。ゆるゆるに縛られた緋袴だけ、そのまますとん、と地面に落ちてしまいそうで怖いけど、そんなボクの不安をよそに、ハルは荷台の中にそのまま頭からひっくり返った。ごつん、という大きな音のあとに、唸り声が聞こえた気がするけれど、すぐに細竹がのっさりと頭をもたげてボクに覆いかぶさった。

 が、しかし。緋袴は予想どおりにずり落ちて、キャラ物のパンツが丸見えである。

「エッチっ!」とハルは笹竹を振るが、完全に不可抗力だ。

 僕にパンツを見せまいと、笹竹を鼻の前で振っている。青臭い笹の匂いが鼻についた。

「ボクはパンダやコアラじゃない」

「誰も食べろって言ってないのっ! 見るな、バカっ!」

「ちゃんとパンツ、履いてるんだね。巫女さんは着ないって聞いたことあるけど」

「最近はそんなでもないよ、バカ野郎っ!」、ううーと唸りながらハルは立ち上がり、緋袴を腰まで引き上げた。

「ほら、これでロケットの煤払いをするの」

言うとハルはトラックを降りた。

 そして自分の分の竹を持ち上げて振って見せた。白幣を振ったときのような音が聞こえる。それを肩に担いで、楠木や杉の幹に両脇を挟まれた神社への坂に足を踏み入れる。竹の長さは2メートルほどあって、笹の繁った先っぽは、しなって地面を箒のようになでていた。ボクも手渡された竹を掲げて、ハルの後ろについていく。

 ちょうど、社翁山の裾に朽ちた杉の虚があって、そこがトンネルになっており、くぐるとすぐに、昨日のロケットがある付近に到着する―――という近道が田舎にあるわけもなく、昨夜と同じように石段を昇らなければならず、しかも竹をひきずって歩くわけだからこれが重労働。

 まるで石をロープで括りつけて運ぶ古代の石工のような風情で、ボクは汗を石段に滴らせながら昇っていると、石段の中腹辺りでボクらの先に上っていたおばあさんに会った。

「おーい、駄菓子屋さあん」

 ハルは汗で湿った髪の毛を触角のようにくるりと逆立てて手を振る。まるで人懐っこい犬の尻尾のようにパーにした手が左右に動いて、出会ったときにボクをしとめようと狙った腕とは思えない。

「ハルちゃん、もう煤払いはじまっとるよ」

 そのおばあさんは小豆色の甚平を着て、手ぬぐいを頭に巻いていて涼しげな顔で微笑んでいる。そうして、おばあさんは木々の陰になってまだ昨日の雨が残った石段をゆっくり登りながらボクらが追いつくのを待っていた。

「昨日は、肘笠が来たみたいだねえ」と、濡れた石段を見ておばあちゃんが言った。追いついたボクらは肺に呼吸を急き立てられて一旦、おばあさんの傍で休憩する。

「あのー……肘笠って、なんですか?」

「ねえ、おばあちゃん。こいつらだよ、夜に神社に忍び込んだの」

 問いかけるボクを無視して、ハルは眉をえびぞりにして駄菓子屋のおばあさんに告げ口していた。

「ほうほう、客人が来るんは、いつぶりだろうかねえ。肘笠というのはね、あんたらが昨夜やったんじゃないかねえ」

 駄菓子屋のおばあさんは自分の右腕を頭の上に持っていって被っていた手ぬぐいに乗せた。

「肘笠雨ちゅうのは、にわか雨のことだよ。ここじゃあ、よくあることなんだけどねえ、肘を笠にして雨を凌がにゃならんほどの突然の雨を肘笠というんだよ」

 なるほど、たしかに昨夜ボクらは大粒の雨が降ったせいで、自転車に二人乗りで傘を差せるわけもなく、頭に両手を置いてずぶ濡れで帰った。

それで肘笠雨というわけか。

「ここら辺の島一体は、天気予報がまったく当たらんのよ。ずうっと昔から雨乞い信仰がある島だからねえ、神様が頃合いを見て降らせてくれとるのよ」

 駄菓子屋のおばあさんは、手に握った巾着から飴を取り出してボクの手の平に載せてくれた。ハルも、ハルもとせがむその手の平にも一個。

 ハルは喜んで石段を駆け上がる。頂上には軒がついた鳥居、それから石畳が神社境内へと蛇の舌のように延びている。苔や雑草が石畳の隙間から地表に顔を出していて、四角を複雑に組み合わせたような薄緑の幾何学模様を描いていた。

 ずりずりと竹を引きずってボクらは裏手に廻った。

 昨夜は見えなかったけれど、神社の裏手からラムダロケットの先端であるノーズコーンが、森の木々の間から突き出ている。ボクらが持っている細竹の笹が、すでに幾つもロケットの辺りをふらふらしている。どうやらあれが煤払いの儀のようだった。

 ハルはボクを急かしつつ、裏道のでこぼこした岩に飛び移りながら駆け下りる。鼻歌めいたものを呟いて下り坂を終えると、目の前にはまた昨日とは違った風景が現れた。

 ボクが思っていたよりも、ずっとラムダロケットは島に馴染んでいるようだった。

 錆びはまるで辺りの樹木と同じ年月を重ねているかのように見えたし、色あせた塗装は岩肌と同じだけ雨と日差しを浴びてきたみたいだった。ロケットの周りには、ブルーシートを敷いてくつろぎながら交替で煤払いをする島の人たちが20人ばかりいた。

 肌着やTシャツに麦藁帽を被って、竹の笹で何本もロケットを撫でている。ロケットランチャにも7、8人ほど鳶工や法被姿の人がいるなかで、ランチャから竹梯子をかけてノーズコーンの辺りまで登る人―――それは黒の狩衣に身を包み、浅黄袴に垂嬰の冠を頭に頂いた神主だった。

「あっ、ほら、間にあったっ! ご神体っ! あれを神社に運ぶんだっ!」とハルはロケットの先端、竹梯子に登って作業している神主さんを指さした。

 その神主さんの手から、丸い銀色の球体が引っ張りだされようとしている。大きさは、人の胴体くらい。ハルが目を見開いて球体に手を振って見せたり、拝んだりしてみたりしている。そこに水を注すようで悪いけれど、あれはたぶん……。

「あれって、ナノ・サットだよ。ああ、そうか。ロケットはあれを宇宙に運ぶつもりだったのか」

「なの、さっと?」

 何を言ってるの、と同じイントネーションでハルは首をひねる。あれはご神体だよと言わんばかりに。

「ナノ・サットっていうのは、小型人工衛星のことだよ。まだロケットの積載能力が低かった時代、乗せる人工衛星も小型化する必要があったんだ。日本で初めて打ち上げられた人工衛星も、20キロちょっとしかなかったし……」

 しかしボクが説明を始めたとたんに、ハルの表情は曇り、両頬を膨らませて細竹の笹をばさばさと振って威嚇してきた。

「そういうの、いらないんだよっ! 豆知識かよ、博識かよっ!」

「いや、べつに博識でもないけど」

 でも、あのナノ・サット。不思議な形をしている。スプートニク一号は球体に、四本のアンテナが伸びていて昆虫みたいだった。おおすみは、球体が三角の帽子を被ったサンタクロースみたいな格好で、台形型の第四段階ノズルがスカートのような作りをしていて、ユニークだったから、それを思えば、あれも特別おかしい形とも言えないか。

 神主さんが持ち上げたナノ・サットは、展開型の太陽電池パドルが球体の真ん中から水平に両手を広げていて、頭頂部に翼のような金色のアンテナを持っている。それから、細い二本の地球センサとカメラが取り付けられて、両足のようにもみえた。

 スプートニク一号が昆虫で、日本初の人工衛星『おおすみ』がサンタのおじさんだとすると、この小型人工衛星はまさしく鳥だった。

 江戸時代の火消しみたいな法被を着た島の人らが、そのナノ・サットを神主さんから受け取ると竹梯子からランチャに降ろしたあと、戸板に乗せたあとでゆっくりと地面におりてきた。

「で……あれはなんなの?」

 ボクはその光景が腑に落ちなかったけれど、ハルは満面の笑みを浮かべて「え? 何が?」と細竹でロケットの表面の煤を払っていた。僕の手に握られている竹だけが風に揺れているばかりでは気まずいので、ラムダロケットの補助ブースタを撫でる。

「いやあー……人工衛星にしめ縄はどうかと」

「えーどうして? かっこいいのに」

 ハルは口を尖らせて、ちぇっと舌を打つまねをした。

 ボクがハルや島の人たちの趣向に無理解なのか。それともこの島の人たちの感性が、ガラパゴス諸島のように特殊な進化を遂げたのかはわからない。けれど、人工衛星の胴体、つまり球体の部分をぐるりと一周する形で、しめ縄がまわっていて、なんだか鳥というよりは化粧回しをした力士のようにも思えてきた。

 あの格好を見たら、釈迦堂センパイなら「機能美を追求した人工衛星になんてことを」と怒り狂ったかもしれない。実際、センパイは「重力の存在しない宇宙にこそ、機械としての本当の美しさがある」と熱弁することがよくあった。ようするに、どんなに太陽電池パネルの羽根を伸ばしても、コテンと傾かない。だからあの人にしてみれば、人工衛星にしめ縄は余分なものに見えるに違いない。

 地面に降りてきた人工衛星は、両足がセンサとカメラで長さが違うのか、戸板の上でうまくバランスを取れないようで、結局一人が戸板の上に乗って抱えながら神社へと運ばれている。ご神体なのだから万が一、落としたらという配慮のためだろう。

「あれ、どうするのかな?」

「どうするって……ご神体にするって何度も言ってるだろ。記憶力ないのか」

 ハルはこの期に及んでまだ同じこと聞くのかとため息を吐く。いや、そういうことじゃなくって。勝手にロケットの中を開けて人工衛星取り出していいのかなって意味だったんだけど。

「明後日には祭りだから、あのご神体を神輿に乗せて担ぐんだ」

 もちろん、そんな意図がハルに通じているわけもなく。

「神様が居る場所として神域をロケットだと思ったらいいだろ。だからあの人工衛星は祭りの日だけ神様に場所を移ってもらうための依り代なんだよ。もちろん、祭りが終わったらまた、ロケットの中に戻すんだ。わかった?」

 さっぱりわからない。さっぱりわからないよ。

 神様にもロケットからナノ・サットへと移ってもらい、ご神体であるロケットの煤払いも終わったらしく、さっきまで広かったブルーシートにみんな寄り集まって宴会から食事やらして、煤払いに使っていた細竹はなぜか燃やされている。

 この島に来て数日経つけど、田舎ではよく何かが燃えている。そんなに燃やすものがあるのかと思うくらい煙が立ち昇っているけれど、要するに燃えるものは何でも燃やすらしかった。

 宴会に混ざるわけにもいかないから、だだっ広いブルーシートの隅で静かにしていると、ハルがおにぎりをボクに向けてコロンと転がしてきた。

「涼太お兄ちゃん。一つ、聞きたいことがあるのですが」

「どうしたの。急にあらたまったね」

 ハルの神妙な面持ちが気になって、ボクは足許で転がるおにぎりを手に持つだけで話を先に聞くことにした。

「東京だと、機械をご神体にするのって普通なのか? なんだか、不安になっちゃったんだけど」

 ハルは少し照れたように笑った。

「あ、いや、もちろん東京には行ったことあるよ。ただ、最近はほら、行くほどでもないっていうか」

「じゃあ、最近、東京に行ったのっていつ?」

「に、二歳くらい、だったかな?」とハルはまたもや恥ずかしそうに微笑んで袴で隠れた膝小僧に人差し指でくるくる円を描いている。

「ハル、残念だけど東京でも人工衛星をご神体にするようなことはほとんどないんだ」

 あとそれから、ハルほどご神体を探すのに熱心な人もあんまりいない。

「えっ?」とまるで言っている意味がわからないというふうに首を傾げられても困る。

「じゃ、じゃあ、なんとかタワーっていうすっごい高い建物だろ。あれはご神体なんだろ?」

「いや……あれは東京タワーって言って、電波塔なんだ。だから東京タワーにしめ縄はしないし、近くの住民たちが集まって竹で煤払いをしたりもしない」

 ちなみに、巫女さんの衣装である袴をジーパンかスカートのようにして履いている子もいない。

 ハルはそんなバカなと言いたげに、口を大きく開けてボクを見つめるけれど、嘘は言っていないし、そもそも二歳のころ行ったきりなのに、どうしてさも東京に詳しいみたいな雰囲気を出しているのかわからない。

「東京って機械とかコンクリートとかばっかりだから、神様もきっと居づらいんだねえ」

 なぜかハルは優越感に浸りつつ、抱えた膝に頬を当てながら笑んだ。もちろん、東京に神様や神社がいない、というわけではなく、この島がちょっとズレているだけの話。

 そもそも、どうしてこの島には神木になりそうな樹木がごろごろ生えているのに、それをご神体としようとしないのか不思議に思っていたけれど、ロケットをご神体にすることがこの島では先進的だという解釈がされているのかもしれない。

当然のことだけど間違っている。

 さっきまでご神体を運んでいた神主さんが戻ってきたが、狩衣を腰にまいてTシャツ姿、しかも娘と同じように浅黄の袴はそのままで、まるで着ぐるみの上だけ脱いだ怪獣役が休憩しているかのようだ。

 ハルは神主さんに、シュタッと手を上げて「よう、親父」と照れ隠しに声を張った。

 神主さんは、団扇でTシャツをはためかせながら「夏でもあの格好はしんどいね」と頬を掻いて言う。

「キミはー、ああ、そうか。芽衣香君が言ってた甥っ子さんか、あっはっは」

 一体、芽衣香さんはボクについてどんな注釈をつけたのか知らないけれど、なぜか笑われて神主さんはボクの肩を二度三度と叩くと「あの人の甥っ子するのも大変でしょう」と気づかってくれた。ま、それはそうなんだけど。一体、あの人この島で何をやらかしているんだ。

「この島に人が来るのは、久々だからねえ。みんな浮き足立っちゃって。いつもはこんなに集まらないんだ。ほら、僕が神主っぽくないからね」

 神主さんはまたおおらかにあっはっはと笑う。

そりゃあ、神主や巫女の衣装を私服のように着て廻ってご神体すらなくしてしまう親子が取り仕切る神社に霊験とか神様が宿りそうな厳かさはないように思える。

 しかも今さらご神体を探すだの堂々と言ってしまうところなんかもマイナス点をつけられているのだろう。

「だけど、りっぱなご神体になりそうでよかったよ。ちなみに君は、ロケットがご神体なんておかしいと思うかい?」

 神主さんは、ビニールシートに寝転がって空を見上げて言った。ハルも同じような格好をして、きっとそのうち寝息を立て始めるに違いない。ボクは返答に困って、ロケットのノーズコーン真下にあるフェアリングを見つめた。人工衛星が収納されていた場所だ。

 ロケットは、仕組みを観れば巨大なライターみたいなものだ。炎を噴出し、それにノズルで爆発力をつけて宇宙へと飛ぶ。

ゆえに中身は推進剤と呼ばれる、固形の酸素と燃料の塊。ただそれだけだ。それと人工衛星を抱えて宇宙へと向かう。

「失くされたご神体はなんだったんですか?」

「あー、娘が話しちゃったみたいだね」と神主さんは平たい額を団扇で叩いて困った顔をした。

「天弓神社のご神体は、矢だったんだよ。だから、新しくご神体にするものも、できるだけ矢のようなものと思っていたんだ」

「矢、ですか」、それで天が泣く、という雨の神社から弓という字が当てられたのか。

「アメノワカヒコが天上界に矢を射たという伝承があってね、ほら、ロケットなんてその矢に似てると思うんだよなあ」

 神主さんは一応の、ロケットをご神体にする理由をつける。ハルも目を瞑りながらも頷いてみせて、ご神体を見つけたのは自分の手柄だと誇らしげに微笑んでいる。そう聞かされると、べつにロケットがご神体でもいいかという気になってくるけれど、それはこの島ののんびりとしてものごとをあやふやにしてしまう空気に毒されているだけなのかもしれない。

「この島の雨はもう見たかい?」

 それはきっと、駄菓子屋のおばあさんが言っていた肘笠雨のことだろう。ボクは小さく頷いた。

「昨日の夜、ここに来たときに自分のことを雨女だと言う女の子に会いました」

 ボクの言葉を聞くと、神主さんは顎を上げて「へえ」と興味深そうに身体を起こして、ボクを団扇であおぎ始めた。涼しいけれど、人に扇いでもらうのはなぜか心苦しい。

「君は運がいいよ。雨女はこの島でもめったに会えないんだ。この島は天候が不規則だろう?昔からそれは雨女のせいだと言われてきた。その姿を見たという島の人もいるし、信じない人もいる。迷信みたいな話だけど、僕は信じたいね」

「会ったことはあるんですか」

「いや、ない」と神主さんはきっぱりとした口調で言った。

「いいなあーハルも会いたい」

 ハルは目を瞑ったまま話を聞いていたようで、口を尖らせながら言う。そして語尾には寝息も混じって、言葉がぷつりと切れると同時に完全に寝入っていた。きっと、煤払いの儀があるからと張り切って、朝から走り回っていたのだろう。

 それを見計らっていたのか、神主さんは穏やかな表情を少し緊張させて、ブルーシートに延びた影を踏むように立ち上がった。

 夕暮れが近づいていて、宴会や食事をしていた島の人たちの姿はまばらで、片づけが始まっていた。ボクもブルーシートから降りる。寝ていたハルは神主さんが背負って、それでも起きる気配はなかった。くるくると茣蓙のように巻かれたブルーシートの下から、篭った草木と天露のにおいが立ち込めていた。

「一つだけ、お願いしていいかな」

「はい」

「この島は突然、豪雨が来るから夜にあまり出歩かないこと。それから、雨女を捜してはいけないよ。君たちは、ロケットを見に来た。いいね?」

 ボクは神主さんの警告めいた言葉に頷いた。夕暮れの日差しが強くて、神主さんが怒っていたのかどうかはわからなかったけれど、少なくともボクと釈迦堂センパイが、ロケットのことだけに関心を寄せている以上はこの島にいてもいいと暗に告げているような空気を感じ取ることができた。

「じゃあ、帰ろうか」

 スピーカーから流れる音楽が夕暮れを引き伸ばしてくれているようだった。オレンジ色に染まるロケットの機体をボクは一度振り返って、ハルがおぶられた神主さんの背中を追いかけた。

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