雨女さんと廃墟のロケット

東城 恵介

第1話 ラムダロケットに雨が降る


―――地球はみずみずしく、色調に溢れて薄青色をしている


―――宇宙に神は、見えませんでした



 最初に宇宙から届けられた声は、地球がどんな色をしているのか、宇宙に神はいるのかという問いに対する答えではなかったらしい。「ハローハロー地球のみなさんこんにちわ」、どうやらこれも違うと言うし、「ワレワレハ……」という宇宙人から人間に呼びかけられた言葉でもないのだという。全部、ある人からの受け売りだ。


 ちょうど、新しい世紀を迎えたころ。

 僕は夏休みに入ったばかりだというのに、肩に無線機をかけて汗だくになりながら自転車で畦道を走り抜けていた。山道に入る潅木の隙間をぬってペダルをこぐと、身体が傾いて思わず転びそうになる。踏ん張って待ち合わせ場所を示す目印を睨みつける。とうに日没を迎えているのに、外灯も家の明かりも見えないから、あの待ち人が照らすたった一つの懐中電灯だけが頼りだった。

 待ち合わせ場所は、天弓神社の石段前。

 ちかちかと懐中電灯は明滅して、無線機から「ビップ……ビップ……」と声が聞こえる。

 宇宙から最初に届けられた声「ビップ」、それは世界初の人工衛星スプートニクが地球に送った信号音だ。ボクはその声を目指して思い切りペダルを踏む。

 畦道が登り坂になって、潅木の繁る山裾のあの辺り。

 懐中電灯を振り回す釈迦堂センパイの声が何度も「ビップ」とボクを呼んでいる。わざわざ無線機を使っているけれど、距離は100メートルもないから大きな声で呼べば届く距離だ。それでもセンパイは無機質な音でボクを呼ぶ。宇宙からの声で。

 時刻は22時28分。集合時間を22時30分なんて時間にしたのは、スプートニクから最初の信号音が送られてきた時刻を狙ったからだろう。

集合時間ぴったりに、石段に到着したボクは肩を激しく動かして釈迦堂センパイを睨む。

「信号音の物まねやるくらいだったら、ちゃんと道案内してくださいよ」

 予定よりもずいぶん早く出たはずだった。しかし道案内するはずの無線機から聞こえてきたのは、R‐7ロケットの発射音や第二段階点火の音(しかも全部口まね)。おかげでおそろしく時間を消費してしまった。

 口元から無線機を離して、釈迦堂センパイはふんと鼻を鳴らす。そして自転車の前カゴにぼろぼろにほつれたリュックを載せた。

 どうやらここ数日、本当に神社の境内で寝泊りしていたみたいだった。チェック柄のシャツに、タイトなジーンズを腰まで上げて裾は長靴の中にしまい込んでいる。

 袖口を輪ゴムで縛って、首元はなにやらネクタイらしい細い紐で閉じていて、本人が言うにはこのスタイルが一切の無駄がなく、着衣として最も優れた形らしい。

 釈迦堂センパイは空気抵抗を極限までなくして走るジェット機かF‐1カーみたいな人だった。

「猫はちゃんと隣家に預けたのだろうな」

「ええ、センパイが帰るの遅くなるからそうしろって言ったじゃないですか」

「よし、いいだろう」

 センパイは目的の場所を見つめていた。

 天弓神社の裏道を通って神社の石畳がなくなった辺りからうっすらと見える鉄条網、そしてその先を。 

  鳴神島は1970年前後にラムダシリーズと呼ばれるロケットの試作機が作られたまま、施設そのものが廃墟となった場所が存在するという噂があった。

 石段を登りきって、薄暗い境内のどこにも明かりはなかった。雲が濃くて月も隠れてしまっている。天弓神社は社翁山の頂上にある。社翁というのは、土地の神様という意味なのだと芽衣香さんが昔教えてくれた。天弓神社も元々、天が泣く、と書いて鳴神島に降る天気雨のことを言うらしい。

 ―――だからこの島は、神様の島なんだ。

 島にはそういう土地名がそこらに転がっているみたいだった。

 そして季節は夏―――鳴神とは、夏の積乱雲が落とすカミナリのことで、この島は夏の化身のような島なのだ。

 釈迦堂センパイの後ろをついて、石段を登りきると昼間とは違ったふうに見える神社が木々に囲まれて聳え立っていた。鳥居には、この天弓神社にしかない軒がついている。

 雨避けのためにつけられた軒は鳥を守るようにできている。鳥の神様が鳥居で羽根を休めるために昔から軒をつけているのだという。それはきっと鳴神島に天気雨が多いせいだろう。

 石畳の溝にうっすらと生えた苔を避けながら、ボクとセンパイは神社の裏道を目指す。

 リュックの中に入っているのはなにやら怪しげな工具箱で、どうやらそれらは鉄条鋼を破るためのものらしい。

「ボクら、勝手に入っていいんですか」

「いい。オレが言うのだから間違いない」と、整った顔立ちの上に鎮座した眼鏡を所定の位置にもどす。所作を観れば格好がいいのだけれど、ズレた眼鏡よりもどことなくこの人自身にズレを感じる。

「でも……」

「15年前だったらどうなったかわからんが、今はもう監視カメラも作動を停止している。何より、この柵には電流が通っていない」

「そうじゃなくって! 怒られたりしないんですか? ボクら、東京から来たんだし」

「怒るくらいのことならば、柵に電流を通せばいい。そういうことだ」

 そんなムチャクチャな……とか考えているうちに、センパイは工具箱を自慢げにガチャリと開けて、フェリーの碇を繋ぐ鎖でも簡単に断ち切れそうな巨大なペンチのようなものを取り出して、「これはYKN社製のボルトクリッパだ。鉄筋も切断できる優れもので、宇宙開発にも使用されている」と解説を加えながら、鉄の網を四本まとめて断ち切った。

 人がくぐれるくらいに鉄線を切ったあとも、鉄網に絡まっていたアマカズラの葉を取り除いて、ボクらはようやく鉄柵の中に入ることができた。

 釈迦堂センパイはどこか満足そうに、ボルトクリッパを工具箱に仕舞った。それからビニール紐で懐中電灯を柵につるした。

 鉄条鋼の中は、ツル植物と石と苔がびっしりと生えていて、大木は枯れているものが多かった。地面に露出した木の根をくぐりながらセンパイの背中を追う。

 石段を昇ってきて天弓神社が頂上だから、道はずっと下り坂。つまり社翁山の裏側にくだっていることになる。苔の岩肌に何度もすべりそうになりながら、ようやくボクはセンパイがどうしてズボンの裾の長靴にインしているのか理解した。

 苔むした山道を歩くのにはそれなりの装備が必要だ。

 センパイは、この島に滞在してたったの3日だというのにもう歩き慣れたのか、山道に倒れこむ枝葉を払いのけて黙々と前進する。もう、深夜0時を廻ったかもしれないのにこの人の元気の良さは一体なんなのだ。

 ようやく下り坂がなだらかになったころ、暖かな雨が降り始めた。どこか大雨を予感させる、大粒の雨。こんな場所で大雨でも降られたら、と考えると背筋が凍りついて、ボクは釈迦堂センパイを大声で呼んだ。

 はるか先にいるセンパイは、ボクの呼び声など聞こえていないようで、その視線はずっと高いところを見つめていた。その背中に追いついた頃に、ボクもやはり同じように息を呑んで空の真ん中を見上げた。

 L‐4Sロケット。

「1970年に打ち上げが成功したラムダシリーズの5号機の、きっと、これはそれ以前のものだろう」とセンパイが小さく言った。日本で初めて人工衛星を運んだL‐ロケットの試作機。

 ランチャに備え付けられたロケット本体は、ところどころ錆びていてツルに絡め取られている。点火しても蔦や枝葉に掴まえられて落ちてしまうんじゃないかと思えるほど、静かに朽ちていた。

 雨がひたひたと地面を打って、雨粒の跳ねた飛沫で空気が煙っていた。

 ラムダロケットは雨の中で静かに頭を東に向けて、ランチャに身体を寄せている。

 しかしランチャにあったのは、ロケットだけではなかった。暗い雨の中に、人影がうっすらと夜の空を流れる雲を見つめていた。

「こんな夜更けに人を見たのは、どのくらいぶりだろうな」

 そう言いながら、影は両手で雨水を掬った。

「この間、半夏生の雨が来たばかりなのに、困ったもんだよ」

 そしてその影はランチャから地面に飛び降りて、ボクらを見つめていた。少し肩を竦めて、微笑んでいるようにもみえる。

 薄曇りの中で、月が淡く輝いているけれど、雨が止む気配はなくて、ボクにはその影がどういう顔をしているのかもわからなかった。

「どうぞ、傘を差さないと濡れてしまうよ」

 夏休みなのに、夏のセーラー服に合羽を身につけた少女が、黒のこうもり傘をボクらに差し出した。つやつやと青みがかった髪の毛が、長く腰まで届いている。センパイがライトを照らすと、彼女はまぶしそうにした。

 スラリと伸びた足に、黄色の長靴。群青色のスカートが湿気で重たく太腿を隠している。セーラー服の上から漁師が沖合で着るような厚手の合羽を羽織っている。凜として美人な顔立ちをしているのに合羽に長靴というのがどこか子どもっぽい。しかも合羽は見事な緑色をしていてそれが河童っぽいというのか、蛙っぽいというのか、まあつまり両生類的な雰囲気を醸しだしていた。

 小学生のときに、こんな格好で登校してしまった日には、翌日からあだ名がカッパだろう。

「私は、霧島雨音。キミの名前は?」

 手には傘が握られたままで、まっすぐボクのほうへ向けられていた。

ボクは手を伸ばしかけたけれど、ぽたぽたと雨が彼女の肩を打つのを観て躊躇した。合羽は羽織られているだけで、ところどころ破れている箇所があるのがわかって、防水の役目を果たしていないようにみえる。

「大丈夫、傘はあまるほどあるんだ。それに―――雨は慣れっこだからさ」

 そしてその少女は背中に負いきれないくらいの傘を背負っていた。傘を束ねて、まるで背中に巨大なアイスクリームのシュガーコーンを背負っているかのような風体で、そのシュガーコーンに手を伸ばすと一本、傘をワンタッチでパンと開いて自分で傘を差してみせる。

「これで納得してくれたかい。それはいつ返してくれてもいいよ。明日も、ここに来るからね」

「う、うん」とボクは彼女から傘を受け取った。そして、左手に持ったもう一本をセンパイに渡すとわずかに微笑んだ。

「ボ、ボクは……涼太。宮井涼太っていうんだ」

 背中に背負ったシュガーコーン型の傘束を揺れる。霧島さんは白い歯を見せて笑っていた。

「あっちの人は? 友だち?」と霧島さんはなにやらラムダロケットのエンジンノズルを睨んでいる釈迦堂センパイを指差した。

「あー……」、どう説明したものか。

「ああ、いや、ここに来たのはわざとじゃないっていうか……あの人は釈迦堂雄一っていう、東京の学校の先輩で、あ、それでボクの伯母さんが花崎芽衣香って人なんだけど、その人が家を空けるからそれで……」、支離滅裂だ。こんな説明で、わかるはずがない。

「そういえば、芽衣香さんがそんなこと言ってたような気がするよ。そうか、キミたちのことか」、わかったのか。というか、芽衣香さんが言っててくれたのか、それなら大丈夫……かなあ、芽衣香さんもちょっと変わった人だし。

「それで霧島さんは、こんなとこで何してんの」

 こんな、夜更けに傘を背負ってロケットランチャの上で曇って何も見えない真っ暗な空を見上げているなんて。ここに来るのは、ボクらのような廃墟のロケットを観たいヤツくらいのものだと思っていた。

 ボクが投げ掛けた答えは、波打つようにこちらに届いた。


          ―――だからさ。


 少し顎を引いて、俯いたように見える霧島さんはそのときだけ、聞き取りにくい声で呟いた。

 何と言ったのか。それは雨がラムダロケットの合成金属板を叩く音に紛れて、どうやらボクだけに聞こえていたらしい。

 すぐにボクは今日の気象予報士が何と言ったのかを思い出していた。

彼女が呟いた言葉は天気と関わりがあった。そうだ、たしかボクらは晴れの予報を見てここに来る計画を立てたのではなかっただろうか。雨具も持たず、手ぶらのボクは、家を出る前にたしかに晴れの予報を確認していた。

 太平洋から伸びた高気圧の図は、鳥の頭のように日本列島を覆って、本格的な夏と猛暑をもたらすだろうと、気象予報士は自信を漲らせて告げていた。

 今日、雨が降るなんて誰が予想しただろう。ああ、いやきっと、たった一人だけ、いる。ここにいる。霧島雨音だ。シュガーコーンのように何本も束ねた傘を背中に背負って、エメラルドグリーンの合羽を身につけてボクの目の前にいる彼女だけが、雨が降ることを知っていた。

 そして霧島さんが最後に言った言葉は、なぜか自嘲するかのような重さを持っていて、それが決して冗談めいたものではないと伝えていた。

「―――雨女だからさ」

 彼女はそう呟いたのだ。

 そしてボクらは知ることになる。彼女が言った、雨女だという告白が、嘘ではないことを。決して偶然や俗信によるものでも、心理的な要因によるものでもなくて、一歩外界に踏み出せば天候を雨へと変えてしまう力の持ち主であることを。



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