ヒーロー




 バーン!




 シャワー室からプールサイドへの扉を蹴り開けた。夏の陽光が目に痛い。


「彼女を離せ!」


 僕は叫んだ。

 プールには、膝丈に水が張ってある。プールの中心に白いワンピースを着た少女が黒いロープで椅子に縛り付けられていた。目隠しまでされている。ワンピースの裾は水に浸かり、風が起こすさざ波にふわふわと揺れていた。

 少女の両脇には、黒いスーツを着た男が一人立っていた。こいつをどうにかしなければ、彼女を解放できない。僕はもう一度叫んだ。

「彼女を離せ!」

 声が裏返り、掠れる。やはり大きな声は、自分には似合わない。だが、彼女のために必死にやるしかないのだ。

 スーツの男が、こちらに歩いてきた。プールの中をザブザブ音を立てながら歩いてくる。僕は飛び込み台の前で仁王立ちになり、待ち構える。男がプールの端まで来て止まった。男は、ゆっくりと右手をスーツの懐に入れる。まずいなこりゃ。

 次の瞬間、僕は撃たれていた。

 うつぶせに倒れた僕の血が、プールサイドに広がっていく。血は排水溝に流れ込んでいく。これ以上はダメだ。血が足りない。最後の気力をふり絞り、顔をプールのほうに捩じると、少女の顔が滲んで見えた。最後の一瞬、目隠しされた少女の頬に一筋の涙を見た。僕の意識は、音を立てて崩れていった。




 ガラガラ!




 教室の引き戸を乱暴に開ける。強烈な西日が僕の目を射た。


「彼女はどこだ?」


 僕は小さくうめいた。

 教室には、もう誰も残っていない。机はきれいに並べられている。教卓の上に置きっぱなしのプリントがある。タイトルは、『学年通信』。プリントには保護者会の日程が書いてある。今は、そんなことどうだっていいのに。頭から余計な情報を振り払いながら、大事なことだけ考える。

 僕はもう一度うめいた。

「彼女はどこだ?」

 もう何時間も探し回っているのに一向に見つからない。焦燥が寄せては返す。そのとき、教室の隅にある掃除用具のロッカーを不審に感じた。明らかにおかしい。ガムテープでぐるぐる巻きにしてある。もしかして、そこか?机を蹴り飛ばしながら、教室の後ろまでよろめくようにして向かった。ロッカーの前に着くと、ガムテープに手をかける。何重にも巻き付けられたテープをめちゃくちゃに引っ張った。表面の何枚かは剝がれたが、ロッカーの扉が開く気配は全くない。

 そして、ロッカーは、僕に向かって一気に倒れてきた。避けることも叶わず、僕は押し倒された。刹那の思考がよぎる。このロッカー、想像以上に重たい。間違いなく彼女はこの中にいる。彼女は無事だろうか。

 僕はロッカーとともに倒れていき、机の角に頭をぶつけた。




 ガチャン!




 僕は力を込めてドアノブを回し、屋上に出た。コンクリートからの照り返しに目を細める。


「彼女を返せ!」


 僕は、怒鳴った。

 屋上には人の姿はない。おかしい、ここにいるはずなのに。ふと、うなじに視線を感じ、とっさに振り返った。今出てきたドアの上に給水塔がある。そこに彼女はいた。高いところに鎖で縛りつけられ、もがいている。その横には、奇怪な姿の人物がぶらぶらとぶら下がって揺れていた。そいつは上も下も黄色い服を着ていて、手足が猿のように長く、右側の手足だけで、給水塔の骨組みにぶら下がっている。もう片方の手足は、空中にぶらぶらと投げ出していた。

「彼女を返せ!」

 僕はもう一度怒鳴った。

 そいつは僕と目を合わせると、気味の悪い顔でニヤリと笑った。そして、空いていた左手を彼女を縛る鎖に伸ばした。

 どうやったのかすぐに鎖は外れ、彼女は突き落とされた。僕に向かって真っすぐ落ちてくる。受け止めなくちゃ。世界がスローモーションになった。僕は、彼女を見つめる。彼女も僕を見つめる。まだまだ、時間は引き延ばされていく。千分の一秒の世界へ。彼女の唇が、「もう大丈夫よ」と、そっと動いた。




 ガーン!




 私は、岩を叩きつけて南京錠をぶち壊した。ひしゃげた南京錠を外すのももどかしく、倉庫のドアを開けると中に足を踏み入れた。水銀灯の不自然な白光が目に沁みる。


「彼は大丈夫かしら」


 私はつぶやいた。

 岩の角で切れた両手が血だらけだった。でも、そんなことは全く気にならない。彼を助け出さなくては。がらんとした、何もない倉庫のど真ん中で、三人の男が地面にあるものを蹴りつけていた。やれやれ、ぼこぼこに蹴られているのが彼だ。私は何も言わずにスタスタとそちらに近づいて行くと、一番手前の男の肩に手をかけた。そのまま、手を後ろに払うと、男はあっさりと地面に転がされた。その腹を踏みつける。二人目が私に気付いて振り向く。私は拳を握って、男の腹にめり込ませる。うずくまる二人目。三人目は蹴りつけてきた。躱して、その足をつかむ。ちょっと上に持ち上げると、すぐに倒れて床に頭を打った。

 彼は、所々に穴が開いたズタ袋をかぶせられて、もぞもぞうごめいている。私が来てあげたというのに、芋虫のように動くのをやめない。もごもごと何か言っているが、口に何か詰め込まれているらしく、よく聞こえない。私は彼を抱き起すと、かぶせられた袋を外してやった。すると、彼がうわ言のように何かをつぶやき続けているのが聞こえた。どうやら私の名前を呼んでいるようだ。それから、「助けなきゃ」とも。

「彼は大丈夫かしら」

 私は、さっきと少しだけ違う意味でつぶやいた。強烈な暴力にさらされて頭がおかしくなってしまったのだろうか。だとしたら、とても不憫だ。「もう大丈夫よ」と励ましながら彼を小脇に抱えると、私は颯爽と倉庫から抜け出した。すぐさま病院に連れて行こう。




 病院に着くと、

 僕は彼女の顔を見上げて、弱々しく言った。

 「君はかっこいい。何度も君を助けようとしたのに!」

 私は微笑むと、彼の耳元に囁いた。

 「知ってる。あなたは私のヒーローよ」

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