登竜門

 明日は卒業式。私の先輩もいよいよ卒業してしまう。一緒にする飼育係の仕事も、今日で最後だ。重い足取りでウサギ小屋に向かう。先輩は先に来ていた。しゃがみ込んだ後ろ姿に夕日が射している。近づく私の足音に、先輩が振り向いて立ち上がった。私より、頭一つ分大きい。彼は、大きな口でにっこり笑った。うん、今日も先輩の目は離れている。だからと言って、不細工というわけでもない。

 二人でウサギ小屋の掃除をして、ウサギに餌をやる。作業はこれで終わりだ。二人で並んで立って、ウサギが餌を食べる姿を眺めていた。

「最後だから聞きますけど、先輩って、あんまりウサギ好きじゃないですよね」

「そんなことないよ」

 彼はゆったりした口調で答える。

「本当ですか?」

「本当だよ」

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「ベタベタ触っているところ見たことないです。ウサギ好きなら、そうするはずなのに」

「君もなかなかしつこいね」

「よく言われます。それで、本当のところは?」

「ふふ。ごまかしきれないか。正直言うと、ウサギはちょっと苦手なんだ」

「飼育係なのに?」

「だって、たまに噛みついたり蹴ったりするし、何より毛がたくさんフワフワ生えてるからさ」

「奇遇ですね。私も毛がフワフワのモノって苦手なんです。同じことを言う人は、あなたが初めてですけど」

「君もそうなんだ。なんだか嬉しいね」

「……ずっと気になっていたんです。ウサギが苦手なのに、どうして飼育係を?」

「これから一緒に暮らすことになるからね。慣れておこうと思って」

「飼うんですか?好きじゃないのに」

「うーん、ちょっと違う。ところで、君も苦手ならどうして飼育係なんか?」

「それは……、あ、あなたがいたから……」

「あはは、ありがとう。そんな君に頼みがあるんだけど」

「何ですか?(はぐらかされた!)」

「今夜、二人きりで会ってくれないかな?」

「え!私に何かするつもりですか?」

「最後に話したいことがあるんだ」

「本当に話すだけですか?」

「話すだけだよ。僕が、ウサギのこと以外で嘘ついたことないでしょ」

「まあ、確かに」

「じゃあ、ここに夜八時に来てくれるかな?」

「い、いいですよ」

「はぁ。ベタなフリには乗ってくれないのか」

「嫌ですよ。恥ずかしい」


 ぼんやりしている間に強引に決められてしまった。でも、私だって話したいことはある。覚悟を決めよう。今夜が勝負だ。

 

 夜八時。ウサギ小屋の前に行ってみると、先輩はまた先に来ていた。月夜だ。彼は、いつもと同じ少し間の抜けた顔で、眠ったウサギを眺めている。

「こいつらとは短い付き合いだったけど、少しは仲良くなれたかな。別れがたいよ」

「また、いつでも会いに来ればいいんですよ」

 先輩は、それには答えないで、学校の裏手に向かって歩き始めた。「こっちだよ」と手招きする。「待ってください!」私は急いで、彼を追いかけた。いつだって、彼のペースなのだ。


 先輩は、月明りを頼りに、学校の裏山の獣道をどんどん登っていく。私はただ、ついていくだけ。

「月がきれいですね。私、満月って好きです。丸いから」

「僕もだよ」

「どこに行くんですか?」

「裏山に湖があるだろ。あそこに行くんだよ」

 湖のことは知っている。クラスの男子が釣りに行く、と話していたのを聞いた。何でもヌシがいるらしい。でも、

「どうして、そんな所に行くんですか?夜に行く場所じゃありません」

「君に見せたいものがあるんだ。毎日通っていたから、絶対に迷わない。心配しないで」

 彼も、釣りが好きだったのかな?聞いたことないけど。いやいや、そういう問題じゃない。

「暗いです」

「月が明るいから大丈夫だよ」

 確かに月は明るかった。相手の細かい表情もわかるくらいだ。彼は大きな口で欠伸をしてから、のんびり喋り続けた。

「今日で卒業なんだ」

「卒業式は、明日ですよ」

「満月のほうがいいんだ。明日は十六夜だからね。行くのをためらってしまう」

「月の話ですか?」

 嫌な胸騒ぎがする。

「もう、行かなければいけないんだ。人間生活は楽しかった。それはたぶん、君のお陰だよ」

 照れた様子もなく彼が言う。さっきから先輩が何を言っているのかさっぱりわからないのに、なぜか私は今の言葉の一部に罪悪を感じて胸がチクッと痛んだ。

「楽しかったのは、私の方です」

 意味がわかった部分にだけ、小さい声で返事をした。何となく気まずくなってしまった私は、黙り込んだ。


 三十分ほど歩くと、裏山の中腹の小さな湖に辿り着いた。周囲はぐるっと林に囲まれている。

「さあ着いた。ここが僕の棲み処。良い所でしょ。そして今日、ここが門になる」

 先輩が話すことは、ますますおかしくなっていた。彼は狂ってしまったのだろうか。あるいは、私が信じようとしていないだけで、ずっと本当のことを言っているのだろうか。それにしては、説明が少な過ぎる気がするが。

 私は考え込みながら、黙って湖を眺めていた。確かに良い景色だった。先輩も黙って湖を眺めていた。とても静かで明るい夜だった。


 数分後、先輩が唐突に宣言した。

「時間だ。泳ぐ」

 そして、するすると服を脱ぎ始めた。目のやり場に困りながら、チラッと先輩の背中に目線をやると、一瞬、彼の素肌に赤や、金色の光が反射したように見えた。私はびっくりして、目線をすぐに逸らしてしまった。彼は服を全て脱いでしまうと、水の中に服を放り投げた。そして、自分も後を追ってザブザブと湖の中に歩いていってしまう。私は慌てて言った。

「私も泳ぎます!泳ぐの好きだから!あ、水はだめなんだった。だめっていうのはなんていうか……でもっ!」

「君はそこで見ていて。見送ってほしいんだ。そのために来てもらったのだから」

 いつもと少し違う、強い声で彼に止められた。丸い目で真っすぐ見つめられると、隠している秘密までみんな見透かされているようで、不安になる。


 胸まで水に浸かった彼は、もう一度振り向いて言った。

「しばらく潜るけど、心配しないでね」

 私は、何か言いたかったが、言葉は喉で詰まってしまった。終いには息もできなくなってしまった。まだ彼が何か言っているのに、頭の中がグルグル回ってしまって、話が入ってこない。私がいっぱいいっぱいになっているうちに、彼は一方的に話し終えると、湖に向き直り音もなく水に潜ってしまった。


 空はいつしか分厚い雲に閉ざされて、辺りは真っ暗になっていた。

 先輩は、なかなか上がってこない。彼がおかしくなってしまっていたのなら、もしかして自殺を図っているのかもしれない。彼の言葉が全て本当の事なのだとしたら……。

 どちらにせよ、引き留めて自分の気持ちを伝えるべきだった。私がグズグズしているから、彼は行ってしまった。急に寂しさと不安が私の胸いっぱいに広がった。目には涙がいっぱいになって視界がぼやけた。

「まだ、あきらめるな!」

 私は、そう自分に言い聞かせると、水に入れない理由も忘れて、服のまま湖に飛び込もうとした。しかし、見えない壁のようなものが行く手を阻んだ。

「なにこれ?」

 何度挑戦しても同じだった。何故だか、どうしても湖に近づけない。これでは先輩に会いに行けない!


 もう、訳が分からなかった。私はボロボロで、何も考えられなくなってきた。ただ泣きじゃくることしかできない。暗い水面には波紋もなくなり、彼がここにいた証拠は一切無くなってしまった。


 一人、暗い湖畔で泣いているうちに、一つの仮説が私の中に生まれた。

 そう。先輩の存在自体が、全て私の妄想だったのだ。友達といても、どこか馴染めない孤独な私が作り出した、私と似ていて、私を理解してくれる都合のいい存在。きっとこの湖も妄想の産物なのだ。だから、近づけない。おかしくなっていたのは私の方だった。そう気がついても、真っ黒な湖は消えてくれず、まるで絶望の淵に立たされているようだった。涙も出なくなっていた。ただ、嗚咽だけが喉の奥から吐き出され続けていた。

 





















(心配しないで)








 え?

 私の妄想は、まだ私を苦しめるの?








(行くよ)






「よく見てて!」







 三度目の声は、はっきりと聞こえた。絶対に聞き間違えないくらいに、はっきりと。これは、彼の声だ!

 と同時に、雲の切れ間から一条の月光が、湖に差し込んだ。青白い光が湖の中心に滝のように降り注ぎ、月が水面に映る。カラカラに乾いた目に、強烈な光は痛いほどだった。これまでに、見たこともないような強さの月明かりだった。

 それが合図だった。ドンと地面が揺れたかと思うと、ゴォーというとてつもない爆音とともに、色とりどりの光に視界を奪われた。赤、白、金、銀、黒と光の粒が鼻先を下から上に通り過ぎていく。眩しいのに、目が離せない。瞬きすらできない。万華鏡の中に身体ごと飛び込んでしまったようだった。

 目の前の光景と彼の話が組み合わさって、私は一つの結論に至った。これは、彼の鱗だ。彼の言葉は全て真実だったのだ!私は、壮大な光景に、根こそぎ心を攫われた。いつの間にか、乾いていたはずの目には涙がいっぱいになっていた。万華鏡は涙で滲んで、一層輝いた。

 光の奔流に取り込まれてから、何時間も経ったように感じた。それでもまだまだ、永遠に見つめていたかった。しかし光の流れは、だんだん細くなっていった。やがて、向こう側が透けて見え始め、万華鏡は虹色のオーロラに移り変わった。尾びれだった。尾びれは最後のひと振りを、思い切りこちらに振り払った。水の塊が私の全身を襲い、私は水圧で後ろに吹き飛ばされた。そのまま、仰向けに倒されて空を見上げる格好になる。そこには月光の滝をグングン上っていく巨大な魚の姿があった。私は、自分がびしょ濡れになっていることにも、引っくり返っていることにも構わずに、その姿を決して見失わないよう、首を伸ばして見つめ続けた。

 彼は、雲の隙間に頭を潜らせると、一際大きく身をゆすった。すると、雲はたちまち吹き飛ばされて、突風が吹き、林の木々が大げさにざわめいた。

 晴れ渡った夜空を、一つの魚影が悠々と煌めきながら上昇して行く。遠く、小さくなっていく。見つめる先の光は豆粒ほどになり、米粒ほどになり、芥子粒ほどになった。

 その時、私はずっと忘れていた瞬きを、思わずしてしまった。私は、彼の姿を月と満点の星の中に見失った。猛烈に悲しくなって、顔をこすり、もう一度瞬きすると、月に大きな魚の影が映っていることに気が付いた。

 ……彼は、決して手の届かないところに行ってしまったのだ。


 私は彼の最後の言葉を思い出した。

「実はね、滝を登っても竜にはなれないんだ。ただ、今より大きな鯉になれるだけなんだよ。人の話には尾鰭がつくからね。魚だけに」

 大してうまくもないと、自分でも思ったのだろう。先輩は照れくさそうに大きな口で小さく笑った。

「でも、どこからでも見えるほど特大の尾鰭がついた、でっかい鯉になってみせる。君が寂しい時に、いつでも見つけられるように」

 先輩は真剣な目をしてそう言った。両目が離れているから、少し間抜けに見えちゃったけど。

 寂しかったのは、あなたの方だ。しかも、返事も聞かずに行ってしまうなんて!

 でも、水かけてくれて、気持ち良かったですよ。私のこと知ってたんですね。

 全身びしょ濡れになったせいで、私は人の姿から、本来の姿に戻ってしまっていた。

 

 私はゆっくり起き上がると、一人山を下りた。


 月には兎と……、鯉がいる。ときどき私はそれを思い出して、泥の中から満月を見上げる。

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