一つ目子象
俺は一人、山道を歩いていた。登山をしていたわけではない。ここは海と街と低い山が混在する観光地で、一人旅の俺はのんびり散歩していただけだ。
空は曇り、空気はじめっとして肌寒い。駅でもらった観光用のハイキングマップを見ながら歩く。鬱蒼として暗い山道が、登っては下り、右に左に、うねうねと続いていく。すれ違う人も、追い抜いていく人もいない。心細さを感じないではないが、一人になりたくて旅に出たのでちょうど良いとも言えた。
ぼんやりと休み明けの仕事のことなどを考えながら歩いていると、有刺鉄線の柵が現れた。歩いて来た細い道は、その柵に沿って続いている。なんとなく嫌な感じだ。有刺鉄線は、柵の内と外を分けて、何かが出たり入ったりすることを拒む。
仕方なく右手に柵を見ながら歩いていくと、顔の高さに看板がかかっているのを発見した。
『この中は、海軍の管理地です。許可なく立ち入ることを禁じます。』
ますます嫌な感じである。こんなところにも、軍の施設があるのか。基地があるという話は聞いたことがない。格納庫か、演習場か。看板は、数百メートルごとに設置されていた。3つ目の看板を通り過ぎたころだった。
バキバキ!メキメキメキ!ピシッ!
ビクンと心臓が跳ねて、俺は立ちすくんだ。
何か巨大なものが、柵の向こうで茂みをかき分けて移動しているような音だ。音はこちらに近づいて来る。熊か?ここは熊が出そうな場所ではない。じゃあ、なんだ?鹿か?有刺鉄線は熊にも有効なのか?いや、熊はいないはずだった。
さっきまで嫌悪を感じていた柵に、今は頼りなさを感じる。俺の頭は高速で空回りし、身を守る術は思い浮かばず、体は硬直したままだった。
そいつは、柵を突き破って唐突に姿を現した。
そいつは、象に似ていた。子象だ。象と同じ体色で、太い四つ足で立ち、先っぽに毛が生えた長い尻尾を持っていた。しかし、目の前の子象には猛烈な違和感があった。2秒後に気が付いた。こいつには顔がない。目も耳も口もない。本来顔があるべき場所には、ただ鼻だけが上に向かって生えていた。俺の視線は、長い鼻を上へと辿って行った。
そこに顔はあった。巨大な眼が一つと、ピンク色で歯がない人間と同じ形の口が一つ。どちらもぬらぬらと濡れて光っている。茶色い虹彩に、真黒な瞳。数秒間見つめ合うと、相手から口火を切った。
「ここで出会ったことは、なかったことにしてくれぬか?バレると色々と面倒なのでな」
低く湿った声でそいつは話す。ぴちゃぴちゃと水音のようなものも聞こえる。俺は、一も二もなくうなずいた。
「わかった。このことは忘れよう。俺も厄介事はごめんだ。俺は一人で歩いていただけ、誰にも出会っていない」
そいつは瞬きを一つして、大きな目で探るようにこちらを見つめてくる。まつげが長い。俺はできるだけ誠実な顔をして待った。
「かたじけない」
長い沈黙の後、そいつは古風な言葉で礼を言った。そして、山道を横切り、柵と反対側の藪を踏み分けながら、現れた時と同じようにバキバキと大きな音を立てて行ってしまった。何も見ていないし、誰とも話していない。俺は、一人で山道を歩いていただけだ。そろそろ山を下りよう。天気も悪くなりそうだし、その前に宿に戻ってゆっくりしたい。
俺も先を急ごう……と、一歩前に歩いたところで首筋に視線を感じた。じっとりと、舐められているような視線。絶対に、ここで振り返ってはいけない。俺は止まりかけた足を無理矢理動かして、前だけを向いて歩き続けた。さっき見たものの影が脳裏をちらつく度に、後ろにいるものが近づいてくる気がする。頭の中の影を別の思考で塗り潰すと、後ろの気配も遠ざかる。生きた心地がまるでしない。
1時間ほど耐えた。大きな道路が近づいてきたらしく、自動車の走る音が聞こえ始めた。その頃になって、後ろに付いてきた気配がようやく消えた。ほっとして、不思議に思う。一体、あの巨体でどうやって音もたてずに後ろをついてきたのか。また、思考まで読まれていたと感じたのは、考え過ぎだろうか……と、湿って生暖かく生臭い吐息が、俺のうなじから背筋へと流れ込んだ。
「約束、忘れるでないぞ」
完全に油断していた。しかし、忘れるという約束を忘れないのは難しいのでは?
俺の無意識は再起動を選択した。バタリ。
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