おじいちゃんの拳骨(折り紙・二)

 真人まことは、誠子まさこの家で待っていた。畳にちょこんと正座して、ちゃぶ台の上のお茶をたまに飲む。柱時計の振り子がカチカチと規則正しく音を響かせていた。真人の向かいには、一人の老人が座っている。しかし、お互いに何も話そうとはしない。静かで、そして気詰まりする。

 この家は、彼らが愛する誠子が最期に住んでいた家だった。それほど大きくない平屋の一軒家で、台所と居間と夫婦の寝室に、客間が一つある。

 現在のこの家の主は、真人の目の前に座っている源吉げんきちだ。源吉は定年退職後、各地を転々とする妻の誠子に何も言わずについて周った。家は埃一つ無くきれいに掃除されている。しかし、真人は先ほどから、かび臭さを感じていた。換気されていないのか。目につかない部分の掃除が行き届いていないのか。清潔に見えるのに、部屋の空気は淀んでいて、息苦しい。そして、部屋の空気と同じく源吉の瞳も淀んでいた。全く元気がない。恐らく誠子がいなくなってから、ずっとこの調子なのだろう。この家丸ごと源吉の心の闇に、どっぷりと浸かっているようだった。

 あの日、誠子が死んだとき、真人はすぐ側にいた。側にいただけではない。あれは、どんなに考えても、自分のせいだったと思う。というよりも、自分だった。そのことを思うたびに、真人は絶望する。さらに困ったことには、細かい記憶が曖昧なのだ。そのせいで、余計に真人は苦悩していた。お前のせいじゃないと源吉は言ったが、それはきっと嘘だ。しかし、いくら真実を教えろと問い詰めても、源吉は頑として譲らなかった。

 それにしても、いつまで待たされるのだろう。嫌なことばかり思い出す。こんな所、さっさと退散してしまいたい。かと言って、自分の家に帰るのも気が進まないのだが……。

 先ほどから源吉は真人の正面に座ったまま、黙って本を読んでいる。真人が「まだ?」と尋ねても、「まだだ」と短く答えるだけだ。何がまだなのか教えもしない。まあ、大方の予想はついている。恐らく、誠士まさしも今日ここに来るのだろう。源吉はそれを待っているのだ。あの能天気な誠士が来れば、少しはこの家の雰囲気も変わるだろうか。また、一口苦いお茶を啜る。


 お茶の飲みすぎを後悔し始めたとき、玄関のチャイムが鳴った。予想通り、来たのはやはり誠士だった。会うのは誠子の葬儀以来一か月ぶりだ。

「こんにちはー」

 部屋の窓から誠士の姿を確認すると、真人は玄関に駆けつけた。

「こんにちは。誠士お兄ちゃん」

 やりすぎかなと思うくらいの明るい声を出す。まさか、真人がいるとは思わなかったのだろう。誠士はとても驚いた顔をしていた。

「あれ、真人もいたんだ。元気だった?」

 少し真人を警戒しているようだが、かまわず会話を続ける。

「元気だよ!誠士お兄ちゃんも元気そうだね!ずっと、会いたかったんだよ」

「僕も会いたかったよ。そういえば、鶴折れるようになった?」

「う~ん、まだ少し難しいかも」

「そっか。また教えてあげるよ」

 誠士のお人好しっぷりに、真人はあきれた。


 二人が喋りながら部屋に戻ると、源吉はさっきと同じ姿勢で待っていた。相変わらず、この老人からは全く生気が感じられない。誠士が来たことを確認すると、挨拶もろくにせずに、のそのそと立ち上がり、付いて来いと廊下に少年二人を連れだした。腰の曲がった源吉を先頭に、薄暗い廊下を何度も曲がりながら、奥へ奥へと進んでいく。大きな家ではない。それなのに、廊下の端には中々辿り着かなかった。この家で暮らしたこともあるが、こんな所があるとは知らなった。進めば進むほどに外の光は届かなくなっていき、廊下は暗く、暗くなっていった。それに比例して、かび臭さも強まっていく。足元が見えづらくなってきても、源吉は電気をつけようとしなかった。


 真人が不安になり始めたとき、源吉が唐突に立ち止まった。いつの間にか廊下の片側が本棚になっている。パチッという音とともにオレンジ色の弱々しい明かりが点いた。それでもまだ暗い。痩せこけた頬に不気味な影を作りながら、源吉がぼそぼそと説明を始めた。

「誠子の遺言だ。自分で選んで、一冊ずつ受け取れ」

 全く説明が足りていないが、この本棚からどれか一冊選んで持っていけということだろうか。

 暗さに目が慣れてくると、色々な本が目に飛び込んできた。折り紙に関する本が大半を占めてはいるが、その他にも、怪談集や、古典、古文書のようなもの、大衆小説、純文学、SF小説、よくわからない紙の束、果ては少女漫画からラノベまで、様々なジャンルの本が乱雑に詰め込まれている。源吉の言葉から推測するに、これらは全部誠子の持ち物だったのだろうか。

 あの誠子のことだ、きっととんでもないお宝も隠されているに違いない。真人の胸は躍った。しかし、この中から探し出すには骨が折れる。真人はそのお宝を見落とさないように、目を皿のようにして本棚の本を一冊ずつ確認していった。蔵書が増えるたびに、本棚も増やしていったようで、棚の種類は統一されていない。大きさの違う本棚が、いくつも並べられていた。

 いくつか興味を惹かれる本はあるが、決定的なものがない。5つ目の本棚の1番上の段を探し始めたとき、ついに真人はその本を見つけた。背表紙には、何も書いていないが、何かオーラのようなものを感じる。古ぼけてはいるが、大事に扱われてきたらしく、壊れていたり、汚れている様子はなかった。手を伸ばそうとするが、自分の身長では届かないことに気が付く。誠士には、頼みたくない。源吉に頼むか。真人がちょっと逡巡した隙に、誠士がすっと手を伸ばした。どうやら同じ本を見つけたようだ。先を越された。誠士が本を開いたので真人も体を寄せてのぞき込む。扉には、『究極秘奥義・誠』と書いてあった。

 これだ。真人の中の欲望が目を覚ました。どくどくと心臓が脈打ち、体の中が黒く塗りつぶされていく。それでも収まりきらず、黒い煙が口から目から溢れ出してくる。真人の欲望はあっという間に廊下に充満していった。それは普通は目には見えないはずだが、誠士には見えているようだ。おびえた表情を浮かべこちらを見つめている。真人は誠士の手の中にある本を引っ手繰ろうとした。しかし、誠士もしっかりと本を握ったまま離そうとしない。おびえているはずなのに、腰も引けていない。まるで、後ろから何かに支えられているような……。二人は本を無言で引き合い続けた。


「儂の邪魔をするな」


 内から溢れてくるものが、真人の口を衝いて出たその時だった。

「やめんか!!」

 二人の頭のてっぺんに、とんでもない何かが落ちてきた。

 視界が真っ白に光って、何も見えなくなる。同時に、衝撃が頭頂から背骨を通りつま先まで駆け抜けていった。痛み以外の感覚がなくなり、最早どこが痛いのかすらわからない。真人を支配していた欲望は一気に削がれ、辺りを覆っていた黒い煙もみるみる霧散してしまった。

 源吉が強い声で続けた。

「お前たちのおばあちゃんは、お前たちが出会う前から二人の仲を心配していた。次に誠子を悲しませるようなことをしたら、今の百倍の力で殴る」

 源吉の両手は固く握りしめられていた。まるで岩のように。少年二人は頭を押さえ、痛みと、源吉の剣幕に恐れおののき小さく縮こまった。それに対する源吉は、腰は伸び、目は輝き、肌は艶やかになり、大きく威厳に満ちた姿になっていた。さらに、いつの間にか、廊下のかび臭さが消え、晴れ晴れとした爽快な空気が満ちている。この変わりようは、一体なんなんだ。まるで反則じゃないか。真人は胸のうちで毒づきながら、この爺さんの前では大人しくしておこうと決意した。


「この本は俺が預かる」

 二人が必死に奪い合っていた本は、源吉にあっさりと取り上げられてしまった。

「これは、誠子からの試験である。二人とも、自分に本当に合った本を選ぶように。には、それぞれ必殺技を書いた紙を入れておいたそうだ」

 爺さんが爺さんなら、婆さんも婆さんだ。何を考えているのか、わかったものではない。必殺技と聞いて誠士の目は期待に輝いているが、真人はそれを見てげんなりした。

 その後、真人は自分の本をさっさと決めてしまった。誠子からの試験と聞いて、ピンときたのだ。本の小口に小さく『アタリ』と書いてある。わかりやすくてありがたい。

 一方の誠士は、随分長いこと悩んでいた。散々迷った挙句に、『折り紙大全』という何の変哲もない本を本を選んだようだ。あんなどこにでも売っているつまらない本を選ぶなんて。真人の中で、もともと低い誠士の評価値がガクッと下がった。それでも、本人にとっては何か感じる入るものがあるらしく、誠士は目に涙を浮かべていた。

 二人ともが本を選び終えると、源吉は二人を玄関まで送った。源吉は始めとは打って変わって溌剌と二人に声をかけた。

「これからも、誠子に代わってお前たちの成長を見守ってやるからな。安心して活躍しろよ」

 婆さんの相手以外に、新しく生き甲斐を見つけたようだ。結構なことである。しかし、できれば見守られるのは御免こうむりたい。

「仲良く一緒に帰るんだぞ」

 源吉に見送られながら、真人は小さくため息をついた。


 二人きりになった帰り道、駅のホームでお互いに正反対の方向を向いて黙って立っていると、ふいに誠士が話しかけてきた。

「今日、ずっと疑問に思っていたんだけど、聞いていい?」

 真人は無視した。

「真人はおばあちゃんのことはほとんど知らないんでしょう?でも、おばあちゃんの遺言に真人の名前が出てきて、今日あの家に呼ばれた。それに、おじいちゃんはのおばあちゃんと言ってた。あの時は、拳骨が痛すぎて聞き流してしまったけど、やっぱり気になるよ。しかも、真人はあの家のことをよく知っているみたいだった。こっちはただの勘だけどね。とにかく何か変だ。真人は僕に何を隠しているの?君は一体誰?」

 ぼんやりしているようで、なかなか鋭い。真人は、不健康な白い肌に、異様に映える赤い唇をニヤリと歪めた。その顔のまま首を向けると、誠士に囁いた。


「貴様に全てを知る覚悟があるのか」


「なっ、なんだよその言い方。その言葉遣い。やっぱり、何か変だよ?カッコつけてるの?それなら、失敗してるからやめたほうがいいよ」

 ちょっと脅かしただけなのに、誠士はおびえた目でこちらを振り向いた。しかし、すぐに立て直し、毅然と睨み返してくる。

「嫌なら別に教えてくれなくてもいい。自分で見つける」

 お前なんか怖くないぞ、と言外に聞こえる。強がっているのは明白だが、最後の一歩だけは絶対に引かない意志を感じさせた。それが真人を苛つかせる。

「まあ、そのうちわかる」

 真人はそうはぐらかすと、計ったように来た電車にひらりと飛び乗った。

「またね、誠士お兄ちゃん!」

 バタンと閉まったドアの向こうで誠士は憮然としていた。真人は離れていく彼に向かって、最大級の純真無垢な笑みを浮かべながら大げさに手を振った。いつまでも、いつまでも。

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