おじいちゃんの拳骨(折り紙・二)
この家は、彼らが愛する誠子が最期に住んでいた家だった。それほど大きくない平屋の一軒家で、台所と居間と夫婦の寝室に、客間が一つある。
現在のこの家の主は、真人の目の前に座っている
あの日、誠子が死んだとき、真人はすぐ側にいた。側にいただけではない。あれは、どんなに考えても、自分のせいだったと思う。というよりも、自分だった。そのことを思うたびに、真人は絶望する。さらに困ったことには、細かい記憶が曖昧なのだ。そのせいで、余計に真人は苦悩していた。お前のせいじゃないと源吉は言ったが、それはきっと嘘だ。しかし、いくら真実を教えろと問い詰めても、源吉は頑として譲らなかった。
それにしても、いつまで待たされるのだろう。嫌なことばかり思い出す。こんな所、さっさと退散してしまいたい。かと言って、自分の家に帰るのも気が進まないのだが……。
先ほどから源吉は真人の正面に座ったまま、黙って本を読んでいる。真人が「まだ?」と尋ねても、「まだだ」と短く答えるだけだ。何がまだなのか教えもしない。まあ、大方の予想はついている。恐らく、
お茶の飲みすぎを後悔し始めたとき、玄関のチャイムが鳴った。予想通り、来たのはやはり誠士だった。会うのは誠子の葬儀以来一か月ぶりだ。
「こんにちはー」
部屋の窓から誠士の姿を確認すると、真人は玄関に駆けつけた。
「こんにちは。誠士お兄ちゃん」
やりすぎかなと思うくらいの明るい声を出す。まさか、真人がいるとは思わなかったのだろう。誠士はとても驚いた顔をしていた。
「あれ、真人もいたんだ。元気だった?」
少し真人を警戒しているようだが、かまわず会話を続ける。
「元気だよ!誠士お兄ちゃんも元気そうだね!ずっと、会いたかったんだよ」
「僕も会いたかったよ。そういえば、鶴折れるようになった?」
「う~ん、まだ少し難しいかも」
「そっか。また教えてあげるよ」
誠士のお人好しっぷりに、真人はあきれた。
二人が喋りながら部屋に戻ると、源吉はさっきと同じ姿勢で待っていた。相変わらず、この老人からは全く生気が感じられない。誠士が来たことを確認すると、挨拶もろくにせずに、のそのそと立ち上がり、付いて来いと廊下に少年二人を連れだした。腰の曲がった源吉を先頭に、薄暗い廊下を何度も曲がりながら、奥へ奥へと進んでいく。大きな家ではない。それなのに、廊下の端には中々辿り着かなかった。この家で暮らしたこともあるが、こんな所があるとは知らなった。進めば進むほどに外の光は届かなくなっていき、廊下は暗く、暗くなっていった。それに比例して、かび臭さも強まっていく。足元が見えづらくなってきても、源吉は電気をつけようとしなかった。
真人が不安になり始めたとき、源吉が唐突に立ち止まった。いつの間にか廊下の片側が本棚になっている。パチッという音とともにオレンジ色の弱々しい明かりが点いた。それでもまだ暗い。痩せこけた頬に不気味な影を作りながら、源吉がぼそぼそと説明を始めた。
「誠子の遺言だ。自分で選んで、一冊ずつ受け取れ」
全く説明が足りていないが、この本棚からどれか一冊選んで持っていけということだろうか。
暗さに目が慣れてくると、色々な本が目に飛び込んできた。折り紙に関する本が大半を占めてはいるが、その他にも、怪談集や、古典、古文書のようなもの、大衆小説、純文学、SF小説、よくわからない紙の束、果ては少女漫画からラノベまで、様々なジャンルの本が乱雑に詰め込まれている。源吉の言葉から推測するに、これらは全部誠子の持ち物だったのだろうか。
あの誠子のことだ、きっととんでもないお宝も隠されているに違いない。真人の胸は躍った。しかし、この中から探し出すには骨が折れる。真人はそのお宝を見落とさないように、目を皿のようにして本棚の本を一冊ずつ確認していった。蔵書が増えるたびに、本棚も増やしていったようで、棚の種類は統一されていない。大きさの違う本棚が、いくつも並べられていた。
いくつか興味を惹かれる本はあるが、決定的なものがない。5つ目の本棚の1番上の段を探し始めたとき、ついに真人はその本を見つけた。背表紙には、何も書いていないが、何かオーラのようなものを感じる。古ぼけてはいるが、大事に扱われてきたらしく、壊れていたり、汚れている様子はなかった。手を伸ばそうとするが、自分の身長では届かないことに気が付く。誠士には、頼みたくない。源吉に頼むか。真人がちょっと逡巡した隙に、誠士がすっと手を伸ばした。どうやら同じ本を見つけたようだ。先を越された。誠士が本を開いたので真人も体を寄せてのぞき込む。扉には、『究極秘奥義・誠』と書いてあった。
これだ。真人の中の欲望が目を覚ました。どくどくと心臓が脈打ち、体の中が黒く塗りつぶされていく。それでも収まりきらず、黒い煙が口から目から溢れ出してくる。真人の欲望はあっという間に廊下に充満していった。それは普通は目には見えないはずだが、誠士には見えているようだ。おびえた表情を浮かべこちらを見つめている。真人は誠士の手の中にある本を引っ手繰ろうとした。しかし、誠士もしっかりと本を握ったまま離そうとしない。おびえているはずなのに、腰も引けていない。まるで、後ろから何かに支えられているような……。二人は本を無言で引き合い続けた。
「儂の邪魔をするな」
内から溢れてくるものが、真人の口を衝いて出たその時だった。
「やめんか!!」
二人の頭のてっぺんに、とんでもない何かが落ちてきた。
視界が真っ白に光って、何も見えなくなる。同時に、衝撃が頭頂から背骨を通りつま先まで駆け抜けていった。痛み以外の感覚がなくなり、最早どこが痛いのかすらわからない。真人を支配していた欲望は一気に削がれ、辺りを覆っていた黒い煙もみるみる霧散してしまった。
源吉が強い声で続けた。
「お前たちのおばあちゃんは、お前たちが出会う前から二人の仲を心配していた。次に誠子を悲しませるようなことをしたら、今の百倍の力で殴る」
源吉の両手は固く握りしめられていた。まるで岩のように。少年二人は頭を押さえ、痛みと、源吉の剣幕に恐れおののき小さく縮こまった。それに対する源吉は、腰は伸び、目は輝き、肌は艶やかになり、大きく威厳に満ちた姿になっていた。さらに、いつの間にか、廊下のかび臭さが消え、晴れ晴れとした爽快な空気が満ちている。この変わりようは、一体なんなんだ。まるで反則じゃないか。真人は胸のうちで毒づきながら、この爺さんの前では大人しくしておこうと決意した。
「この本は俺が預かる」
二人が必死に奪い合っていた本は、源吉にあっさりと取り上げられてしまった。
「これは、誠子からの試験である。二人とも、自分に本当に合った本を選ぶように。アタリには、それぞれ必殺技を書いた紙を入れておいたそうだ」
爺さんが爺さんなら、婆さんも婆さんだ。何を考えているのか、わかったものではない。必殺技と聞いて誠士の目は期待に輝いているが、真人はそれを見てげんなりした。
その後、真人は自分の本をさっさと決めてしまった。誠子からの試験と聞いて、ピンときたのだ。本の小口に小さく『アタリ』と書いてある。わかりやすくてありがたい。
一方の誠士は、随分長いこと悩んでいた。散々迷った挙句に、『折り紙大全』という何の変哲もない本を本を選んだようだ。あんなどこにでも売っているつまらない本を選ぶなんて。真人の中で、もともと低い誠士の評価値がガクッと下がった。それでも、本人にとっては何か感じる入るものがあるらしく、誠士は目に涙を浮かべていた。
二人ともが本を選び終えると、源吉は二人を玄関まで送った。源吉は始めとは打って変わって溌剌と二人に声をかけた。
「これからも、誠子に代わってお前たちの成長を見守ってやるからな。安心して活躍しろよ」
婆さんの相手以外に、新しく生き甲斐を見つけたようだ。結構なことである。しかし、できれば見守られるのは御免こうむりたい。
「仲良く一緒に帰るんだぞ」
源吉に見送られながら、真人は小さくため息をついた。
二人きりになった帰り道、駅のホームでお互いに正反対の方向を向いて黙って立っていると、ふいに誠士が話しかけてきた。
「今日、ずっと疑問に思っていたんだけど、聞いていい?」
真人は無視した。
「真人はおばあちゃんのことはほとんど知らないんでしょう?でも、おばあちゃんの遺言に真人の名前が出てきて、今日あの家に呼ばれた。それに、おじいちゃんはお前たちのおばあちゃんと言ってた。あの時は、拳骨が痛すぎて聞き流してしまったけど、やっぱり気になるよ。しかも、真人はあの家のことをよく知っているみたいだった。こっちはただの勘だけどね。とにかく何か変だ。真人は僕に何を隠しているの?君は一体誰?」
ぼんやりしているようで、なかなか鋭い。真人は、不健康な白い肌に、異様に映える赤い唇をニヤリと歪めた。その顔のまま首を向けると、誠士に囁いた。
「貴様に全てを知る覚悟があるのか」
「なっ、なんだよその言い方。その言葉遣い。やっぱり、何か変だよ?カッコつけてるの?それなら、失敗してるからやめたほうがいいよ」
ちょっと脅かしただけなのに、誠士はおびえた目でこちらを振り向いた。しかし、すぐに立て直し、毅然と睨み返してくる。
「嫌なら別に教えてくれなくてもいい。自分で見つける」
お前なんか怖くないぞ、と言外に聞こえる。強がっているのは明白だが、最後の一歩だけは絶対に引かない意志を感じさせた。それが真人を苛つかせる。
「まあ、そのうちわかる」
真人はそうはぐらかすと、計ったように来た電車にひらりと飛び乗った。
「またね、誠士お兄ちゃん!」
バタンと閉まったドアの向こうで誠士は憮然としていた。真人は離れていく彼に向かって、最大級の純真無垢な笑みを浮かべながら大げさに手を振った。いつまでも、いつまでも。
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