年寄りと七つ星
ある春の日。ぽかぽかと暖かく、時折柔らかな風が吹く。風にそよぐ草木が、さらさらと静かな音をたてていた。
そんな原っぱに寝っ転がり、天狗は自慢していた。
「儂の団扇で扇ぐと、なんでも吹き飛ばせるほどの風が起きるぞ。天空の風じゃ」
僕は、それに相槌を打っていた。
「天空の風かぁ。僕なんて簡単に吹き飛ばされちゃうね」
天狗は、大きくうなずいた。
「当り前じゃないか。それどころか、人間の家だって一扇ぎで跡形も無く飛ばせるぞ」
僕は、天狗を褒めた。
「すごいねぇ。想像もつかないくらいの風なんだねぇ」
天狗は、調子に乗ってこう言った。
「わはは、おぬしには想像もつかぬか。なんなら今ここで、やって見せてやろうか」
僕は慌てて、天狗を押しとどめた。吹き飛ばされては、たまらない。
「今日はいい風が吹いているから、もったいないよ。本当に風がない日に頼むよ」
天狗は少し不機嫌そうだ。
「何も遠慮することはないのだぞ」
僕は別の話題を探す。
「そう言えば、天狗さんは不思議なものを履いているね」
天狗はすぐに機嫌を直した。
「これは、一本下駄という。しかも鉄でできていて、とても重いんだ。普通は、歩くだけで大変なんだぞ」
僕は感心して声を漏らした。
「へぇ~、天狗さん以外に履いている人を見たことがないよ」
天狗は、鼻を高々と上げた。
「そうだろう。だが、儂は慣れておるから、これで木にも登れるし、日本で一番高い山に登ったこともあるぞ」
僕は、初めて天狗に共感した。
「天狗さんも色々なところに登るの?僕も、登るのが大好きなんだ」
天狗は、ふんと鼻で笑う。
「だが、儂ほどたくさんの山を登ったことはなかろう」
僕は、それに答えた。
「もちろんだよ。とても天狗さんには敵わないよ」
気をよくした天狗は、知識をひけらかす。
「ちなみに山を登って気持ちよくなることを、クライマーズハイと最近の人間たちは言うらしいぞ。そんなの儂はとっくの昔に知っていたがな、わはは」
僕は、何か違う気がした。クライマーズハイはただ気持ちいいだけではなくて、度を越えて興奮していて危険な状態だと聞いたことがある。でも、自分の知識も怪しいし、僕は突っ込まない。
「やっぱり、天狗さん物知りだね」
それよりも、さっきからむずむずと、何かに登りたい衝動が僕を襲っていた。こうなるともうだめだ。何かにぐいぐい登っていかないと気が済まないのだ。何か登れるものがないか辺りを見回した。そして僕は、僕がよじ登るべきモノを見つけた。あるではないか、目の前に。天狗は相変わらず何やら自慢話をしている。その度に鼻が高く高くなっていた。
天狗が、こちらを振り返る。
「おい、聞いているのか。ここからがこの話の山場だぞ」
僕は、慌てて返事をした。
「もちろんだよ。早く続きを聞かせてよ」
でもその前に、と言葉を続ける。
「一言も聞き逃したくないんだ。だから、天狗さんの鼻に登らせてもらえないかな。そこなら、口に一番近いから、天狗さんの面白い話がもっとよく聞こえると思うんだ」
天狗は、僕の言葉を少しも疑わず、にこにこしながら快諾した。
「よかろう。特等席じゃ」
僕は、いそいそと天狗の鼻に登っていく。
「さあ、話の続きをしてよ」
天狗は、一層得意げにさっきの話の続きを始めた。
「でな、次は彦六とかいう色の白い男が出てきて、この村一番の知恵者だという。この儂と知恵比べをしようと言うんじゃ……」
彦六っていつの時代だよ。僕は、どんどん高くなっていく天狗の鼻を登っていった。
「そこで、儂はピンと来た。そんな子ども騙しが通用する訳がなかろう。片腹痛かったわ……」
登れば登るほど、天狗の声は小さくなっていき、だんだん聞こえなくなってきた。だが、登っても登っても鼻の先っぽには至らない。きっと、天狗はまだまだ話し続けているのだろう。じきに、僕の意識は、登ることだけに集中していった。
気が付くと、僕は雲の上に出ていた。ごうごうと風が強く吹いている。天空の風だ。飛ばされないよう、今いる場所に、しがみつくだけで精いっぱいだ。その頃には、何を登ってきたのか、どうしてこんなに高いところまで来てしまったのか、僕の僅かしかない神経系はすっかり忘れてしまっていた。随分と赤いものを登ってきたようなのだが、これは一体なんだろう。なんだか柔らかいから、木ではなさそうだ。
まあ、そんなことはどうでもいいのだ。気持ちが良ければそれでいいのだ。これをクライマーズハイと言うのだろうか。なにか違う気がする。しかし、先端に来たからには早く飛び立ちたいという生理的欲求が、今感じたばかりの違和感をどこかに吹き飛ばした。さっさと行けと、背中の七つ星が僕を急かしている。
今までに経験したことの無い程の高さまで登ってきたという興奮が、僕の中から湧き出していた。本来、これだけ風が強いと飛ぶのは危険なのだが、今なら何でもできそうだ。僕は羽をもぞもぞと動かし、飛び立つ準備をした。そして、おもむろにパカッと羽を開いた瞬間、急に恐怖が押し寄せた。
嫌だ、怖い。
しかし、後戻りは許されず、僕は太陽へ向かって飛び立った。否、強風に吹き飛ばされた。
天狗はいつの間にか昼寝をしていた。鼻の長さはすっかり元に戻っている。もう、日が傾き始めていた。
「はて、誰かと喋っていたような気がするが、夢かな」
首を傾げながら、立ち上がり、一つ伸びをする。と、突然腰に激痛が走った。
「痛たた。儂も、もう歳じゃのう」
天狗は顔をしかめながら、痛めた場所をかばうように、そろそろと家路についた。
天狗もまた、先ほどまでの小さな話し相手のことをすっかり忘れてしまっていた。
もう歳なのだ。
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