四月二十日(月)

          1


「この教科書八十七ページにも書かれている通り、シロクマの肝臓には致死量のビタミンAが含まれている。北極でサバイバル状態に入ったとしても決して食べてはならんぞ」

 赤いベレー帽を被った初老の体育教師『大佐』は強い筆圧で黒板に書き込んでいた手を止めて振り向く。

「憶えておけよ、ここはテストに出すからな」

 左目に黒い眼帯をした大佐は見えている右目で教室中に睨みを効かす。

 き~んこ~んか~んこ~ん。

「む、もうこんな時間か」

 大佐は残念そうに腕時計を確認する。ザワザワしだした教室内に、

「静かに、まだ授業は終わってないぞ。さて、次回はおたのしみの野外授業だ。百八十二ページからの魚の捕り方を予習しておけよ。それでは以上だ。解散!」

 大佐はコッツコッツと軍靴ぐんかを響かせながら教室を出て行った。

「相変わらず『大佐』の授業は凄いね」

「冷戦時代たった一人で二千人の反政府ゲリラの守る軍事要塞を陥落させて、核戦争の危機を防いだという伝説の持ち主だからな」

 あれで上下学校ジャージじゃなければ完璧なのだが。

「いや~、しかし楽しみだな、次回の授業。川で魚釣りだぞ、お魚食べられるぞ! アユかな? イワナかな?」

「裏の人工河川だよ、痩せたニジマスに決まってるよ、美味しくないよ」

「なんだよ、ノリ悪いな」

「そんなに喜んでるの禅だけだもん、そもそも、あの大佐の授業だよ、禅が釣り糸たれてる横で手榴弾放り込んで『ドカン! ハッハッハ、どうだ、この方が楽だろう』って言われるのがオチさ」

「ハッハッハ、俺もそんな気がして来た」

「でしょ、そんなことより、早くご飯買いに行こ、購買のパン無くなっちゃうよ」

 そう言う一馬に俺はワザと『何言ってるのかしら? この人』という顔を見せながら、後ろのロッカーからパンの詰まった茶色い紙袋を取り出す。

「実は、駅の近くに新しいパン屋さんが出来てな、今日は開店セールだったんだ」

「えっ! 珍しく朝一人で早く寮を出たと思ったら、ズルイ! じゃ、ご飯無いの僕だけなの?! えっと、それ二つ三つ売ってくれたりとか――」

「それだけは出来ない!(キッパリ)」

「ケチ!」

「例えお前の頼みでも、出来る事と出来ないことがあるのだ……」

 俺は、心底かなしそうな顔をしてやる。

「も~! すぐ買って戻って来るから、一人でどっか行っちゃ駄目だよ!」

「お~、そんなら先に屋上行ってるから、買ったらお前も来いよ」

「了解!」

 一馬はそう言い残して、すっ飛んで行った。


          2


 昼飯パンのギッシリ詰まった紙袋を片手に屋上に上がった俺だったが、一馬と話していて初動が遅れた事もあり、屋上のベンチはすでに先客達で埋まってしまっていた。気温も暖かくなって来た上に、今日は天気もいいので、混みそうな事を予想すべきだったな。だが今から教室に戻るのも芸が無いし……せめて相席させてくれそうな知り合いはいないだろうか? 見回す俺の目に、学園の屋上にはひどく場違いな風景が飛び込んで来る。

 屋上に設置された木のベンチや安っぽいプラスチックのテーブルセットに紛れて一区画だけオシャレ・オープンカフェのような浮いたスポットが出来ていた。

 緑青ろくしょうの浮いた青銅製の猫足にガラス製の天板が付いた品の良いテーブル。

 中心には白と金のツートーンが美しい、日よけのパラソルが付いている。

 テーブルと同じデザインの青銅の椅子には背の高い二人の男子学生が腰かけ、談笑する彼らの手元にはワイングラスが光っていた。


「さて、今日のワインは何かな、マルコシアス」

 手前の席の男子生徒がたずねる。

 ボディビルダーの様にきたえ上げられた上半身。

 発達しすぎた大胸筋のせいで窮屈そうなYシャツは、第二ボタンまで開けられ、その胸元には金のネックレスが光っている。

 だがその派手なネックレスもそのすぐ上に乗っかる物体のせいで大した存在感では無くなっていた。なにしろ彼の頭は『豹』なのだ。

「ふふふ、当ててみたまえ、オセよ」

 マルコシアス、と呼ばれた奥の席の男子生徒がそう返す。彼がオセ、と呼んだ男子生徒と比べると、少し背が高く、体の厚みは薄い。全体としてスラリとした印象の体形だ。

 服装もワイルドなオセとは対照的で、身体にフィットした制服は、正規のデザインはそのままに、より質の高い生地を用いてオーダーメイドで造り直され、ネクタイピンや手首から覗く高級そうな機械式時計などの小物類も含めて、彼の身だしなみに対する几帳面なこだわりが、そこかしこににじみ出ていた。だが問題が一つ、彼の首から上は『狼』なのだ。

 オセ、と呼ばれた豹頭の男子生徒が答える。

「そうだな、昨日きのうがラ・ターシュ、一昨日おとといがブルネッロ・ディ・モンタルチーノ。赤が続いたからそろそろ白が来る頃だな」

「正解だ。だが只の白では無いぞ、見たまえ」

 マルコシアスと呼ばれた狼頭の男子生徒はそう言って、美しい水色のラベルエチケットが張られたワインボトルをクーラーボックスから取り出す。

「ドイツのトロッケン・ベーレン・アウスレーゼだ」

「三大貴腐ワインの一つか、おお、しかもキートリッヒャー・グレーフェンベルグの九十年ではないか」

「ドイツワインの中でも至高の逸品と言って良い物だ」

 マルコシアスは席を立つとソムリエナイフを使って手際良くワインのネックを破き、コルクを抜いて行く。

 二つ並んだ大きめのワイングラスが琥珀こはく色に近い黄金の液体で満たされると、二人は互いにそれを手で持ち目線の高さまで掲げた。

「それでは、サタン様の栄光に」

「うむ、サタン様の栄光に」

 チン。

「う~む、甘露かんろなり。あれこれ形容するのが馬鹿らしくなる旨さだ」

 一口含んで唸るオセ。マルコシアスもグラスを眺めながら満足げに言う。

「甘いは旨いとは良く言ったものだ。享楽きょうらく的な遊びなどとは縁遠い、気難し屋のドイツ人の職人親父がこれほど官能的なワインを産み出す。人間と云うものは実に興味深い」

「四十近いキモオタのオッサンシナリオライター(素人童貞)が魅力的な萌えキャラを産み出すのと似ているな」

「面白い事を言うな、オセよ。かの剣豪宮本武蔵が己のおもいを邪念、怨念に至るまで、全て剣先に宿らせるべく、生涯童貞を貫いたと云う逸話を思い出したぞ」

「なるほど、我らには一見不条理に見える行いも、彼らにしてみれば自己を高めるべく己に課した修行、苦行タパスたぐいと云う訳だ。生に限り有るゆえか――いやはや、人間と云うものは」

「実に興味深い――」

 視線を交しながら、感嘆の溜息をつきつつ、微笑を浮かべる二人。


 俺が無駄にセレブな雰囲気を漂わすそのテーブルに近づいて行くと、奥の席に座ったマルコシアス先輩がまず俺に気づいてワイングラスを掲げて挨拶してきた。

「おお功刀禅か……良く来たな、まあ座りたまえ」

 狼頭のマルコシアス先輩が椅子を勧めて来る。さっきまで二つしかなかった椅子はいつの間にか三つになっている。オセ先輩も首をひねって声をかけて来た。

「ワシもとっくに足音で気づいていたぞ、少年よ、どうだお前も一杯やらんか」

「お誘いは光栄ですがまたの機会に。俺なんかにゃ、このパックのカフェオレがお似合いですよ。それよかまた昼間っから飲んでて大丈夫ですか? みゆきちゃんあたりに見付かって没収されても知りませんよ」

「むう、あの小娘は六桁クラスのワインの時にばかり現れるからな」

 オセ先輩が腹立たしげに唸ると、マルコシアス先輩もやれやれと首を振り、

「ワインは酒では無い、と何度言ってもあの野蛮人には一向に理解して貰えん」

 俺はすっかり学園に馴染んでいるこの二人の『魔王』の顔を順番に見比べ、複雑な笑みを浮かべた。最初に会った時はびっくりしたものだが今では俺もすっかり慣れてしまった。

 彼らは悪魔だ、比喩では無く本物の。

 狼頭のマルコシアス先輩。なんでも彼は、何世紀も前に、一度地上に召喚されたのだそうだが、その際ある聖人との闘いに敗れ、それ以来永らくバチカンの地下に手首だけが『邪遺物じゃいぶつ』として封印されていたのだそうだ。

 そしてそれにとある悪魔崇拝者の教団セクトが目を付けた。彼等は配下の国際窃盗団を使って『手首』盗み出し、あろう事か悪魔の体細胞クローンの作成を企てたのだ。

 幾度もの失敗の果てに遂に完全復活を果たした魔王マルコシアス。

 彼が最初にしたのは驚喜する教団信者達を礼拝堂に集め、その全員を岩塩の柱に変える事だった。

 以前なんでそんな事をしたのか理由を尋ねた俺に彼が言った答えは、『眼が何かもう全員アレな感じでな、不愉快だったのだよ』だって。

 まぁ何となく解らんでもないけどね。さて石にされてしまった可哀想な彼等のその後の行く末はというと、悪魔が起こした邪悪なる奇跡の証し『邪遺物』として今度は自分達がバチカンの地下に安置される事になりましたとさ。

 彼は言う『自分達自身が大好きな邪遺物になれたんだ、さぞ喜んで居る事だろう。クックック、私が魔界に帰る際には元に戻してやるさ、百年後か千年後か。何、タダで冷凍睡眠させて貰ってると思えばいい、意識がある分少々退屈かも知れんがね』

 世界の滅亡なんて願った連中、自業自得なんだろうけど、ほんの少しだけ同情するわ。

 さて、世界の危機を(自ら)救った彼は、その後暫くは、初めて見る二十一世紀の世界を見聞して回ったそうだが、再会した旧友のオセ先輩からこの学園の話を聞かされ、面白そうだとやって来たのだそうだ。

 さて、そのもう一人の魔王、オセ先輩。

 プロレスをこよなく愛する豹頭の悪魔将軍。

 マルコシアス先輩共々、本来は魔界に七十二人いる魔王の一人と自称しているが、ホントかどうかは知らない。なぜなら兄貴肌で面倒見の良い性格から『困った時のオセ先輩』という合言葉が出来るほどの好人物だからだ。

 オセ先輩は、永らく行方不明になっていたかつての盟友、マルコシアス先輩の気配が地上に現れたのを感じ取り、魔界から無理をしてやって来たのだそうだ。

 彼は地上に出て来るにあたって、まずその寄りしろ足る人間の死体を捜した。『なるべく死にたての屈強な肉体』という彼のお目がねに適ったのは、人生に飽きた金持ち客相手の地下プロレス会場で、首をねじ切られて死んだ、ある若いレスラーの肉体だった。

 死んだレスラーの魂の無念の叫びを触媒として、首尾よく地上に顕現けんげんした彼だったが、召喚師なしに地上に出現するなどという掟破りな行為を行った結果、彼はそのほとんどの魔力を地上に存在する為に使用してしまい。幾ばくかの回復能力を含めたほんの僅かな魔力しか使用できなくなってしまった。

 だが彼はそこからが凄かった。謎の覆面レスラーとして地下プロレスデビューを果たした彼は、それから数年間の間に、自身がローマ時代より数千年に渡って研鑽けんさんを重ねてきたレスリング技術を下敷に、現代プロレスのフィニッシュホールドの数々、更に地下闘技場で覚えた反則芸術の三つをミックスした『王者のプロレス』をもって地下プロレス界に君臨し、最後は地上のプロレス界征服を目論み、謀略や暗殺を繰り返していたその団体をまるごとぶっ潰して出てきたのだそうだ。そして、この時の功績が認められ彼もマルコシアス先輩と共にこの学園に入学を許される事となった。

 少々長くなったが、以上がこの二人の簡単なプロフィール。彼ら自身が『今そこにある危機』じゃないかという意見もあるが、それは言いっこ無し。我が学園は結果重視なのだ。

 俺の視線に気づいたオセ先輩が顔を近づけて来る。

「なんだ少年、ワシの顔をジロジロ見おって。なんだ、ひょっとして遂に我が『プロレス研究会』に入る決心がついたのか?」

 そう、彼は雄々しく誇り高い素晴らしいおとこだ。――ただ一つの欠点を除いて。

「いや、プロレス研は先輩のハーレムじゃないですか。迂濶うかつに入会したら何をされるやら」

「おい、人聞きの悪いことを言うな。ワシは公私はキチンと分けている」

「いいや、信じられない。初対面で『ウホッ、いい男!』って言われたのは忘れません」

「どうやらお前は誤解をしているな、ワシは男が好きなんじゃ無い……人間が好きなんだ」

「そんなちょっと良さげな台詞で誤魔化されるか!!」

 これだ、この性に対して開放的過ぎる思想が珠に傷なのだ。

「まあそう言うな、今日は珍しく邪魔者(一馬)も居ない様だし、一日体験入部から始めてみてはどうだ?」

「無理強いは、ダ・メ!」

 ノーセンキューのポーズを取る俺を、マルコシアス先輩がフォローしてくれる。

「そうだぞオセ、功刀禅には私も大分まえから我が『剣術部』に入る様、誘っているのだからな。前に一度だけ彼が変身した姿を見たが、『光の剣を携えた白銀の騎士』を思わせる勇姿。英雄ロランもかくやと云う出で立ちに一目で漢惚れしたものだ」

「うむ、あれは美しかった」

 オセ先輩もウンウンと頷く。

「わが騎士団の長として迎えたいと言うのに、この男は一向に首を縦に振らん」

「まったく、勿体つけおって」

 獣顔を並べて文句を言って来る二人。俺は何だか気恥ずかしくなって、明後日の方を向いてカレーパンをパクつきながら、何とか話を逸らそうと試みる。

「あー、そういや、二人ともこの間の校舎修繕に来てなかった――ていうか、あの手の作業で見た事ないですよね。ひょっとしてサボってるんですか?」

 俺の軽い非難にマルコシアス先輩は答える。

「人聞きが悪いな、功刀禅よ。我々はカテゴリー6『人型擬態系』だからな。残念ながら体育会系には分類されていないのだよ」

 横にいるオセ先輩もワインを手酌で継ぎ足しながら言う。

「そうだ、『体育会系男子』と言うよりは『擬態系男子』と言うのが正しい」

 そんな『~系男子』は嫌だ。

 まだ納得の行かない俺はオセ先輩の胸板や上腕筋を見て文句を言う。

「ズルいな~、見ため誰よりも体育会系なくせに~」

「制度の欠陥の文句を我々に言われても困るな。我々にやましい事は一つもないぞ」

 そう言ってオセ先輩は悠々とグラスを傾ける。

 不意にマルコシアス先輩がぼそりと呟いた。

「バフォメットに似てるな――」

 オセ先輩も同じ方向を見て呟く、

「確かに似てるな、あいつ元気にやってるかな」

 俺も二人の視線の先を追ってみる。すると、向こう岸の生活棟の屋上、ベンチの一つに座ってボーッとしている青黒い羊顔の巨人が見えた。忘れる訳がない、あれはアリスじゃないか。俺の頭に奥宮先輩との会話が蘇る。確か友達になる様に頼まれたんだったな。

「オセ先輩、マルコシアス先輩、俺、野暮用が出来たんで、もう行きますわ」

「そうか、それは残念」

「おう、又な。ちなみにプロレス研はいつでも君に門戸を開いているからな、待ってるぞ」

 俺は苦笑しつつその場を立ち去った。


          3


 ボクは向こうの棟から宙を舞ってやって来る男の人をぼんやりと眺めていた。

 さっきから向こうの棟にいるのを気づいて眺めていたけど、まさかまた跳んで来るなんて、変な人。

 着地で勢いあまって、ボクの前を何歩か通り過ぎた彼は、戻って来るなり一言。「ようアリス。聞いたぞ~、この職員室の有名人め」

 少し意地悪そうな笑顔を浮かべてそう言った。

 ボクは最初何の意味か分からず、とりあえず小さく会釈を返した。

「隣、いいか?」

 ぶっきらぼうに聞いて来る彼にボクはビックリして辺りのベンチを見回すが、他に空いている席は無い様だ。そ、それじゃあ、仕方ないよね、そういえば、一つ聞きたい事もあったんだった。

 ボクはどっこいしょと左にずれて彼の座るスペースを作る。

 腰を下ろした彼は、おもむろにヤキソバパンの袋を開けて食べ出す。

 ボクは見上げて来る彼の耳元に顔を近づけると小声で質問をする。

「あの後……だいじょぶでした?」

 彼は何のことだ? という顔をしている。

「その……生皮……剥がれませんでした?」

「生皮!? ――ああ、鎮目にか? ハッハッハ、大丈夫、あいつ絵にかいた様なB型だから、スゲェ怒ってても次の日には綺麗さっぱりリセットされてるんだ。あいつの数少ないチャームポイントの一つだな」

 ホッとするボクを見上げながら彼が話しかけて来る。

「お前はもう昼飯食ったのか?」

 ボクは再び彼の耳元に小声で話しかける。

「なに、今、ご飯中だって? どこが――あっ! 中の人が食事中って事か?」

 ボクははうんうんと頷く。

「何? あと一分だって? しかもカップ麺かよ。しかし凄いな、コイツ、精神感応バイオ・フィードバック式だろ? 操りながら同時に他の事したりなんて出来るのか?」

 驚く彼に、ボクは少し照れながらこの子の操作方法を説明する。

「……ダイブレベルというのがありまして、融合フュージョンレベルだと無理ですけど交雑クロスオーバーレベルなら色々変な事も出来るんですよ。もちろん慣れは要りますけど――ピピピピ、あ、出来た」

 ボクはタイマーを止めると、カップラーメンにタレを入れてかき混ぜる。熱いので少しづつ食べながら話の続きをする。

「アリスはボクの名前で、この子の名前はクトゥルーと言います」

「また凄い名前を付けたな」

「兄さんの趣味。ラブクラフト、でしたっけ? ボクは読んだ事ないんだけど、この子は元々ボクの兄が使っていた軍用RAM。『量子テレポート通信』を使った最新の第3世代マスター/スレイブ・ユニット。まだ、どこの国も実用化出来ていない、結構凄い代物なんですよ」

「なるほど、前にお前さんが屋上で不良を倒した技を見て、只者じゃないのは分かっていたが――そういや、あん時のあれ、中国拳法だろ? お前がやってるのか?」

 言われて、ボクは自分を指差す。

「そう、クトゥルーじゃなくてアリスという意味で」

「…………(うんうん)」

「ホントに? 今の間はなんか怪しいぞ」

 ボクは誤魔化そうと慌てて、ボクシングのワンツーを空中に放ったあと、サッと蟷螂カマキリの構えで彼を威嚇する。

「ぷっ、まあいいや、そういう事にしておくか」

 ボクは嘘を付いた。クトゥルーには中国拳法の達人の動きをモーション・キャプチャーして、更にあらゆる状況下で最適な技を選択してり出す『TOROトーロ』論理ゲートを組み込んだ特殊なマーシャルアーツ・アプリケーションがインストールされている。

 兄さんが、その師である亡き老師マスター黒面虎ヘイミェンフーの力を借りて作り上げ、戦乱の中でみがきあげた究極の格闘プログラムだ。クトゥルーと対峙した敵は、最初に一歩足を踏み出した瞬間から全ては決まっていたかの様に、最後は必ず打撃を喰らって宙を舞う。

「詳しいんですね」

「ん?」

「中国拳法。あれだけの動きで分かるなんて」

「ああ、まあ俺も色々あってな、餓鬼の頃から格闘技だの銃や兵器の扱いだのは反吐が出るほど叩き込まれたからさ、嫌でも詳しくなっちまったよ」

 彼はそういって少し遠い目をして笑う。


 俺は嘘を付いた。俺の灰色の電子頭脳にはインターネッツを利用した便利な超高速検索機能が付いてるので、見た物や聞いた事に知らない物があると、まばたきする間に調べてきて記憶のデータベースを更新してくれる。そのせいで、相当マニアックな物でも、さも前から知っていたかの様に振舞えるのだが、それを言ってしまうと咄嗟にグ●ッたみたいでなんかちょっとバカっぽいかなって。許してくれよ、物知りな先輩面したかったんだよ。

 俺は平静を装いつつ、袋から取り出したソーセージ・カレードーナツにかぶりつくと、さりげなく話のネタを切り替えた。

「ああ、そうそう、所で、全然話替わるんだけどさ、アリス。お前、この学校に来てから一度も部屋から出た事が無いってのは本当か?」

 アリスはビクっと引きつると先程までのが嘘の様に小さくなってしまう。

「あはは、別に責めてる訳じゃないって、俺は引きこもりカウンセラーじゃないんだ」

 アリスは少しほっとしたのか様に膝に手を乗せた姿勢のまま再びこちらを向く。

「いやなに食堂にすら出て来ないって聞いて、んじゃ普段どんなもん食ってんのかなという単純な興味さ」

「えと、サンドイッチとか、コンビにのお弁当とか、一番好きなのは…カップラーメンですけど」

 う~む、予想通りのジャンクな食生活だ。

「ラーメンか、確かに美味いよな、俺もよく食う」

 カロリー高いし。

「日本のカップラーメンは最高ですよ。世界に誇る文化だと思います。特にコンビニはいつ行っても新商品が出てるから楽しいし飽きないし」

 アリスが珍しく力説しているのがマイク越しに伝わって来る。

「ふうん、そうだ、そんなに好きなら一緒にラーメン食いに行くか? 隣駅にうまいラーメン屋があるんだ、店で食うと更に三倍は旨さがUPするぞ」

 アリスはビクッとしたあと、少し考える様な仕草をして、やっぱり駄目だとばかりに首を振ると、また俺の耳元に顔を持って来て、もそもそ呟いてきた。

「え~、なになに? 着ていく服が無いから、いいです。だと?」

 むう、やはり一筋縄では行かんな。まぁいいさ、さすがにそこまで簡単に行くとも思っていないからな。俺が気を取り直したその時、向こうの通用口から顔を出した一馬が、こちらに駆け寄って来るのが見えた。やれやれ、あいつやっと来たか。

「やっと見つけたよ~、何で生活塔の方に来てるのさ~」

「随分かかったな? もうすぐ昼休み終わりだぞ」

「購買はもう勝負にならない状態だったからさ、駅の売店まで走って行って来たんだ~。あっ! 羊顔! この子が例の?」

 俺は知らない人の出現に横でビクビクしている羊顔の巨人に手を向け、

「そう、アリスちんだ。気ぃ小さいんだからイジめんなよ」

「イジめないよ~、鎮目さんじゃあるまいし」

 アリスは鎮目という単語を聞いてまたビクビクしている。

 俺はアリスの中で鎮目のイメージがどれほどのモンスターに育っているのか若干不安になって来た。おもに俺のせいだけど、バレたらきっとマウントで殴られるんだろうな~、『何でアンタの頭そんなに固いのよ!』とか理不尽な事言われながら、おおこわい。

 震える俺の横に座った一馬がサンドイッチの包装を開けようとすると、ちょうどその時、昼休み終了を告げる予鈴のチャイムが鳴り響いた。

 哀しそうな顔をする一馬に苦笑を投げかけ、俺たちは屋上を出て教室に向った。

 残念ながら、結局一馬は買ってきたパンを次の休み時間に食う羽目になったのだった。

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