光の言葉
糸藤いち
光の言葉
平日の昼下がり。私は本日三件目となる目的地に来ていた。とあるアパートの玄関前で、再度手元の書類を確認する。名前、住所、時間。ミスの許されない訪問だ。こうした項目は何度確認してもしすぎるという事はない。相手の情報や訪問の目的が自分の記憶と齟齬がない事を確認してから自分にゴーサインを出すと、私はその部屋のチャイムを押した
「晶奈さーん。ご在宅ですよね。居留守を使っても無駄ですよ。大変重要なお知らせがございますので、開けていただけますか」
中に潜んで居るであろう人物に対して、大声で呼びかける。だが、一度目のチャイムで住人が出てきたためしがない。このように些細な事柄が私を苛つかせる。これだから人間は、なかでも引きこもりという人種は好かない。もう一度チャイム。チャイム。呼び鈴を鳴らし続けるだけ無駄な事は、これまでの経験上重々承知していた。が、私のストレスを少しでも減らすにはいい手段のため、何度も鳴らしてやる。だがそれも面倒になってきた。そろそろ最終手段を使ってもいい頃合いだろう。
「開けていただけないのなら、勝手に入りますよ。構いませんね? それではお邪魔します」
私はそう宣言してから、扉をすり抜けた。上層部の連中はこの最終手段をなるべく使うなと言うが、あいつらは現場を理解していない。この人種が素直に玄関を開けてくれるなら、彼等は健全な生活を送っている事だろう。
部屋に入るなり異臭が鼻をついた。これは中々のレベルだ。玄関からすぐの台所は、いつから汚れたままなのか判別不能な食器が無秩序に投げ込まれており、そこら中に埃が厚く覆い被さっている。床に物は散らばり放題で、辛うじて人が一人行き来できる分だけゴミがよけられている。さらにその先に続くワンルームはさらなる魔境のようだ。カーテンは閉め切られ、部屋は暗い。そのお陰で部屋の惨状がはっきりと見えないのは都合が良かった。そしてそんなワンルームの中央に置かれた布団の周りだけが、綺麗に片付いている。おそらく彼女はあの布団の周りだけで生活をしており、今はその中で息を潜めているのだろう。私は意を決してゴミの獣道を進むと、掛け布団をはぎ取った。
「きゃっ」
やはり居留守を使っていたか。布団にくるまっていた彼女は突然の事に驚いたのだろう。飛び起きると、私から距離をとった。そしてしばし私の顔を驚いた顔のまま凝視していたが、悔しそうに顔を歪めてから膝を抱えると、生気のない顔になった。見知らぬ人物が部屋に入ってきたのに反応を返してこない。こういう所も、引きこもりを拗らせた人種が好かない理由だ。私は舌打ちしたいのをこらえ、代わりにはぎ取った布団を彼女に投げ返した。これはあくまでも仕事なのだ。相手への無礼な態度は、この後に続く彼女への説得がうまくいかない可能性があるため、慎まなければならない。
「・・・・・・あなた、どうやって入ってきたの?」
彼女は体育座りのまま体を布団に潜り込ませると、くぐもった声で聞いてきた。そう聞く瞳に生気はなく、顔は陰っている。
「すり抜けました。鍵は壊していないのでご安心下さい」
「本当に? あなたは一体なんなの?」
「私は天使です。だから扉をすり抜ける事など造作もないのです」
天使、と彼女は小さく呟くと唇の端で笑い、自分自身に語りかけるように言った。
「私ったら、いつの間に計画を実行していたの? よかったね。お迎えが来たんだよ」
「いいえ違います。晶奈さんは死んでいませんし、私はお迎えに来たのではありません。なにより自殺した人間は天国へ行けない規則になっております」
「何でそれを知っているの?」
どこか遠くを見たままの瞳に束の間、怒りがよぎった。一点を睨み付けまま、先程より強い口調で問うてくる。
「それは私が天使だからで、なおかつ晶奈さんを生かすためにここへ来たからです」
「どういうこと?」
「天界は目下、財政難に見舞われているのです。そこで財務状況を確認したところ、自殺した魂の輪廻転生に莫大な経費が掛かっている事が判明いたしました。自殺した魂というのは、真新しくなって生まれ変わるという事を拒否する傾向にあるのです。そのため、私共の都合ではありますが、未来が明るい魂にはその事を告げ、生を全うしていただこうと、こういう事になったのです。ご理解頂けましたか?」
「ふーん」
彼女は私の話を聞き終わると、さらに体を小さく抱え込み言った。
「駄目よ。だって私、今日死ぬんだから」
「はい存じております。しかし晶奈さんはそれを実行しません。なぜなら、毎日そう思っているからです」
そう私が言うと、彼女は唇を噛んだ。何も映していなかった瞳が潤み始める。
「そうよ。毎日そう思っているわよ。だから何よ。私の何を知っているって言うの? みんな、みんな私の事をなんにも知らないくせに!」
後半は私に向けられた言葉ではなかった。彼女は叫んだ後、無表情のまま涙を流し始めた。泣いているというよりは、ただ瞳から涙が溢れ落ちている。そんな風だった。
「私は天使ですから、晶奈さんの未来が見えます」
「私の未来はない。あなたが帰ったら首を吊る」
「いいえ実行できません」
「出来る。やる」
「無理です。晶奈さんにはできません」
涙を流すだけだった彼女の眉が歪んだ。続いて嗚咽を上げながら訴える。
「そうよ。だって怖いもの。私は死ぬ勇気すらないの。だからいつもいつも楽な死に方を考え続けている。でも怖くて出来ないから、こうして布団に入っているのよ。明日も明後日も布団の中で暮らす事が決まっている私に、未来が明るいだの生を全うだの、どうしてそんな事が言えるの!?」
吠えるようにして言い切ると、彼女は滂沱の涙を流して自分の世界に閉じこもろうとした。きつく布団を握りしめ、私など存在しかのような振る舞いを見せる。しかしそのような行動をとられたところで、引く私ではない。
「私は天使ですから嘘は申しません。ですから信じて下さい。晶奈さんの未来は本当に明るいのです。明日、晶奈さんが出掛ければ未来は変わるんです。救われるんですよ」
「救われる・・・・・・?」
「はい。でもそれは、晶奈さんの明日の行動に掛かっています」
「お願い。具体的にどこへ行ったらいいのか教えて」
すがるように言った彼女の涙は、もう止まっていた。死人のようだった顔はすでにそこになく、人間らしい表情が戻りつつあった。
「それはお教えできません。ですが、晶奈さんの思うままに行動したらいいのです」
「そんなっ」
私が拒否すると、彼女は再び泣き出しそうな顔をした。しかしもう大丈夫だろう。彼女は確実に明日自分を変えるために行動する。
「では、私は次の案件がありますのでそろそろ失礼します」
待って、と制止する声を無視し、私は例の獣道を抜けると、入ってきた時と同じように扉をすり抜けて部屋を後にした。
天使だと名乗る男が言った。私が救われる、と。この、どうしようもなく暗く辛い毎日から抜け出せるんだ。嘘かもしれない。いや、男は幻覚だったのかもしれない。迷いはあったが私の心は決まっていた。だから久し振りにお風呂に入った。入念に体を洗い、髪を整えた。お湯に浸かって天井を眺めていると、男と話したのが夢のように思えてきた。でもそれでも構わない。もし明日出掛けないとしても、死ぬ最後の日に体を清めておくのは悪い事じゃない。心は決まっているくせに、まだ私は逃げ道を自分に用意していた。それでもなんとなく晴れ晴れとした気持ちでいる事には気付いていた。
「明日、何を着て行こうかな」
お湯と石けんの香りに心地よさを感じながら、私は自分の手持ちの服に思いを巡らせ始めた。
その日の夜は、出掛ける際の服装や持ち物を一つ一つ脳裏に浮かべないと、不安で寝付けなかった。こうやって「明日」について考えるのは何年ぶりになるだろう。あの頃は毎日出掛けるのが当たり前で、なにも問題なかったはずなのに、いつの間にか私は外が、そして人が怖くて仕方がなくなっていた。
そんな事を考えているうちに、夜が明けていた。心は外に出ると決めているが、なかなか実行に移せず、布団に潜ったまま午前はテレビを見て過ごした。テレビを見ているうちに、世間はすっかり春を通り越し、夏が近い事を知った。慌てて昨晩用意した服を、もう少し薄手のものに取り替えた。それからゆっくりと昼食を摂り、丁寧に服を着る。そう。まだ私は迷っていた。出掛けられなくなる絶対的な理由を探していた。それでも私は行動を続ける。髪をこれ以上ないくらい丹念に髪をとかし、化粧をした。それが終わると、もう出掛ける準備はできていた。玄関で靴を履いても私は迷っていた。いや違う。勇気が出なかった。天使の言う事が信じられず、しかしこの状況から抜け出す事を心から望んでいるのも事実で、その両方がせめぎ合っていた。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
ずっと玄関に座り込んだまま、そう唱える。何度かその呪文を繰り返したところで、私はそうやく重い扉を開けた。外はとてもまぶしくて、目がくらんだ。久方ぶりに浴びる太陽は暖かく、迷っていた私の心を照らしてくれるようだった。
エレベーターで階下に降りている間、私は重大な事に気付いた。さっきまでは外に出るだけで頭がいっぱいで気付かなかったが、どこへ行くかを何も決めていなかった。どうしよう。外はどれくらい変化してるだろう。そう考えて、焦る。やはり戻ろうか。ほんの少しでも外に出たのだから、これで目的は達成されたかもしれない。逡巡していると、まるで天恵のように閃いた。これだ、と思った。エレベーターが階下に着いた事を知らせる軽やかな音が鳴った。それはまるで私の閃きを後押ししているかのようだ。私は自分の迷いを振り切ると、大きく一歩を踏み出した。
家から歩いて十分。角を曲がったところに目的の喫茶店はある。あの頃と変わらずにある建物に、私は心から安堵した。それと共に、引きこもっている間に一度もこの店の事を思い出さなかった事を気付かされた。ここはかつて私が、店長が淹れてくれる紅茶に魅了されて毎日のように通っていた場所だ。あんなにも気に入っていたのに、どうして忘れていたんだろう。
店の重いドアを押すと、からんからんと鐘が鳴り、それにひどく懐かしさを感じた。
「いらっしゃいませ。あれ、晶奈さんじゃないですか。久し振りだね」
すぐさま店長がカウンターから声を掛けてくれた。何年も会っていないのに、あの頃と変わらず掛けられた声に、涙腺が緩みそうになる。
「こ、こんにちは」
「ずっと顔を見ていないから心配していたんですよ。元気でしたか?」
「あ、えっと。・・・・・・はい」
どうぞ、と言いながら彼は私がいつも座っていたカウンターの端を示してくれた。何年も来なかったどころか、思い出しすらしなかったのに、私の事を忘れずにいてくれた事を感じ、それが無性に嬉しい。
「そうそう。松野くん、今休憩中なんですよ。ちょっと待ってて下さいね」
店長は私の前にお冷やを出してから、スタッフルームに向かった。店長が奥に消えると、すぐにそちらから盛大に何かかが倒れた音がした。びっくりしてそちらを見る。そして現れたのは、ものすごい勢いで私に突進してくる松野さんだった。彼はカウンターをくぐり客席に来たかと思うと、その勢いのまま私の事を抱きしめた。その事に面食らってしまい、されるままになってしまう。私を抱く力は強く、息が出来なくなりそうなくらいだ。
「晶奈ちゃんだ。正真正銘の晶奈ちゃんだ!」
「少し落ち着きなさい。晶奈さんが驚いていますよ」
「ああ、ごめん。俺ったらびっくりしちゃって、つい」
店長に指摘されて、松野さんはようやく私を離してくれた。でも両手は私の肩に置かれたままで、じっと私を見つめている。そうしているうちに松野さんの目から涙がこぼれて落ちた。その様子に私はまたまた驚いてしまう。松野さんは、私が引きこもる少し前から店でアルバイトをしている人だ。私より少し年上の男性で、いつも笑顔で話しかけてくれる人が大粒の涙をこぼしているというのが衝撃的で、戸惑ってしまう。
「あの、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ。あー、女の子に泣かされちゃったなー。ちょっと待ってて。顔洗ってくる。店長、俺が紅茶淹れてもいいですか?」
「もちろん」
そう言って奥の部屋に小走りで引っ込んだ。店長は松野さんのそんな様子を理解しているらしく、何かを心得た風で洗い物をし始めた。私が通っていた頃、洗い物は松野さんの仕事で、紅茶のポットにすら触らせてもらえないと嘆いていたように思う。
「お待たせ。丁度春の新茶が届いてるんだけど、どうかな?」
「はい。お願いします」
了解、と頷いてから松野さんはヤカンでお湯を沸かし始めた。そして茶葉やティーポットを用意しつつ、語り始めた。
「晶奈ちゃんはさ、俺がここで働き始めた時の事って覚えてるかな?」
「なんとなく」
「そっか。ぶっちゃけて言うとさ、俺はあの時挫折してたんだよね。調理師学校卒業して有名なレストランに就職できたと思ったら、そこの社長にお前の作る物は不味すぎるって言われてクビになってさ。もう二度と自分の店を持ちたいって夢は叶わないんだー、人生おしまいだーって思ってたわけ。でも飲食業はやりたかったから店長に雇ってもらってさ。だけど店長には皿洗いとウエイターしかやらせてもらえないんで、ホントどん底の気分だったよ。夢は諦めるしかないって思ってたね。晶奈ちゃんはそんな時にやってきたお客さんで、俺に優しい言葉を掛けてくれたんだよ」
話を聞いているうちに、少しずつ記憶がよみがえってきた。確か店長が、初めて人を雇ってみたんだと言って、松野さんを紹介してくれたのだ。調理師学校に通ってたのに手際が究極的に悪く、例しに作らせてみたパウンドケーキは不味かった、と笑いながら話すものだから、実際に食べさせてもらったのだ。そうしたら本当にその通りだったので私は笑ってしまい、それを見た松野さんは拗ねていたように思う。そんな風に店長に紹介されたのがきっかけで、松野さんとは他のお客さんがいない時によく話すようになったのだ。
「私、松野さんに何が言いましたっけ?」
「覚えてないの?」
「そんな話をした覚えはあるんですけど、自分が何を言ったのかは全く覚えてないです」
「じゃあ内緒」
「え?」
「恥ずかしいから内緒にしておくことにする」
意地悪い笑顔を浮かべると、松野さんはティーポットとカップを私の前に置いた。カップに紅茶を注ぎながら、続きを話し始める。匂い立つ優しい香りは、なんだか懐かしかった。
「でも俺は、その一言があったからもう一回頑張ろうって前を向けたんだよ。これっぽっちの事で夢を諦めるのは根性がなさ過ぎる。店長に食らい付いて、技を全部盗んでやろうってさ。そう決心したのに、その頃から晶奈ちゃんが来なくなっちゃったんだよね。俺気になってさ、店に晶奈ちゃんと同じ学部の子が来たから聞いてみたんだ。そしたら大学辞めたって言うじゃん。だから晶奈ちゃんの身に何かあったんだって心配で心配で仕方なかった」
松野さんの目には再び涙が浮かんでいた。そして一語一語区切るようにして言った。
「俺さ、本当に心配に思ったんだよ。晶奈ちゃんは一人で苦しんで泣いてるかもって思ってた。・・・・・・俺がそうだったみたいにね。でも俺は、晶奈ちゃんの家も連絡先も知らないからって行動しなかった。何も出来なかったんじゃなくて、しなかった。手段を尽くせば晶奈ちゃんの所に行って顔を見ることくらいできたのに、晶奈ちゃんが苦しんでる状況を想像したら怖くて、動けなかった」
ごめん、と目を潤ませながら言う松野さんに、私は大事な事を気付かされていた。あの部屋に引きこもっている間、ずっと自分が一人きりだと思い込んでいた。でも、こんなに近くに私を気に掛けてくれている人が居たんだ。
「私、生きてて良かった」
そう呟いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。私は長い間、あの部屋で何をしていたんだろう。一人布団にくるまり、何もかもを拒絶して、私が消えても誰も悲しまないだろうと暗い気分に陶酔していた。でも、本当はこんなすぐ近くに暖かい場所が用意されていたんだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
私の涙に、今度は松野さんが戸惑う番だった。オロオロしながら彼が差し出したティッシュ箱を引ったくるように受け取ると、声を上げて泣き始めた。
どれくらい泣いていただろうか。私が泣き止むまでの長い間、松野さんは隣に座って背中を撫でてくれていた。途中、冷えてしまった紅茶を店長が替えてくれた。松野さんが淹れてくれた紅茶を飲みそびれてしまったことに気付いて、下げないでと言いたかったが嗚咽しか出なかった。
「ずっと辛かったんだね」
声が出せなくて、その問いに頭を縦に振った。
「私がどん底に居た時に助けてもらったのに、何も出来なくてごめん」
今度は横に振る。
「まっ、まつの、さんは・・・・・・」
悪くない。私が勝手に引きこもっていたんだ。私は松野さんみたいに挫折どころか挑戦もしていない。そう伝えたいのに体が言う事をきかず泣き止めない。
「店長-、どうしよう。俺じゃ役不足みたいだ」
情けない松野さんの声に、店長は笑うと新しく淹れた紅茶を私の前に並べながら言った。
「松野くんが作ったパウンドケーキを出したらいいよ。あれを食べたらびっくりして泣き止むさ」
それを聞いた松野さんは慌ただしくカウンターの中に戻っていく。私は未だしゃくり上げる体をなだめつつ、紅茶をすすった。暖かさが全身を駆け巡り、緊張していた心がほぐれていく。
「さぁさぁこちらもどうぞ。俺渾身のリンゴのパウンドケーキだよ」
「・・・・・・本当に松野さんが?」
「身構えられると悲しいな-。とりあえず食べ見てよ」
促されて恐る恐るケーキを口にした。あの時食べたのもリンゴのパウンドだった。見た目はとても美味しそうなのに、なんとなく味がしない食べ物だった。
「どうして? これ、おいしい」
「どうして、ときたか。厳しいなぁ」
「それだけ松野くんが作ったケーキが不味くて印象深かったんでしょ」
「店長も厳しいですよ」
「でもお陰で涙が止まったみたいですよ」
言われた通りだった。心地よい紅茶の香りと美味しいケーキのお陰か、私の嗚咽は止まっていた。
「それ、俺の事褒めてませんよね。いや褒めてるのか?」
そう言って首をかしげる松野さんがおかしくて、私は吹き出してしまった。
「あっ! 今、笑ったよね。笑っちゃう程美味しいか。そうかそうかー。ほらほら、もっとお食べ」
「前のが不味すぎて、そう思えるだけかもよ」
「それはないです。それに今が美味しいなら、細かい事は気にしません」
よっぽど嬉しかったのか、松野さんはもう一切れ分けて、お皿に追加してくれた。
「これでようやくお店にこのケーキが出せますね」
意味ありげに店長が言った。
「どういうことですか?」
「待った。その話は内緒だって男と男の約束じゃないですか」
私の質問に答えようとした店長を、松野さんが遮った。しかし店長はそれに構わずに続ける。
「そのケーキ、三ヶ月前に完成していたんです。僕はお店のメニューに加えてもいいって許可したんですけど、松野くんが晶奈さんに美味しいって言ってもらってからじゃないと嫌だって言い張ったんですよ。ね?」
最後は悪戯っぽく念を押されて観念したのか、松野さんは恥ずかしそうに言った。
「晶奈ちゃんに俺の頑張りを認めてもらってからじゃないと、駄目な気がしたんだよ。それくらい晶奈ちゃんの言葉によって、俺はどん底から這い上がれたんだ」
心から、今日ここに来て良かったと思った。私は自分の過ちに気付かないだけでなく、松野さんを傷付けてこの世を去っていたかもしれないのだ。私はお皿のケーキを平らげると、空になったそれを松野さんに差し出した。
「このケーキ、凄く美味しいからもう一切れ食べたいな」
「別に俺の事情を聞いたからって、無理に食べなくてもいいんだよ」
松野さんは照れ隠しなのか、そう言いながらも嬉しそうにお皿を受けとった。その様子が子どものようで、私と店長は顔を見合わせると同時に笑い出してしまった。
そうやって何年かぶりにお腹の底から笑っていたら、また涙が出てきたけれど、これはうれし涙だ。昨日天使に言われなければ今日のこの時間はなかった。これはきっとあの男がくれたチャンスだ。この数年間に取りこぼした物は、多分他にもあるだろう。私はそれを拾い上げて、これからを幸せに生きていこう。
光の言葉 糸藤いち @tokunaga_riku
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