第19話 何もできない
ウェトシーの首都ヴァノゴールは、リオニアと比べても街を行き交う人々の多様さがずば抜けている。レーテス海周辺国はもとより、外洋からも多くの人々が訪れているのだという。少し町中を歩いただけでも様々な色の肌の人々が入り乱れ、見ていて飽きない。
あたしは急にダルディンに連れだされ、ヴァノゴールの街に出ていた。彼もいろいろと忙しいのだろうか、二日ほど放置されたあと、時間ができたらしく、不意打ちぎみにあたしのところに現れた。
護衛は二人。全員町中に出ても目立たない服装だったが、こうも文化が多様だと、制服を着てきても奇異には映らなかったかもしれない。
様々な露天が立ち並ぶ市場は、買い物客でごったがえしていた。ダルディンはほとんど人混みをかき分けるようにして、あたしの手を引いて歩いていく。うっかりすると、はぐれてしまいかねない人の量だ。裏を返せば、うまく紛れ込めば、逃げることができるということ――。
全身に緊張を覚える。それをダルディンに悟られないよう、前のときと同じように、さほど興味のない表情を装って、従順についていく。
ダルディンは胡乱な店主が路上に広げたガラクタを喜々として覗き込んでいる。どうやらここで掘り出し物を見つけるのが彼の趣味らしい。慣れた動きで露天を次から次へと渡り歩いていく。傍目にゴミにしか見えないようなものに対して、値切り交渉で激しくやりあっているのをみると、まるで子供みたいだと思う。ダルディンは目当ての品を買えたようで、ほくほく顔をしているが、あたしはめまぐるしくの品物を見せられてめまいがしてきた。
ダルディンが身振りであたしに何かを伝えようとしている。察するに、あたしになにか欲しいものはないかと聞いているらしい。
首を振ろうとして、とっさに思い直し、アクセサリーを置いていた店を指差した。ダルディンがあたしの手を離して、その屋台に向かっていく。護衛の一人も彼についていった。もう一人は、あたしの背後。降って湧いたような幸運に、息を詰める。いま、人混みにまぎれて駆け出せば、逃げられるかもしれない。
あたしは疲れているような様子を装って、人波を見つめた。一際密度の濃い集団が流れてくる。
――今。
ダルディンが満面の笑みを浮かべてこちらに戻ってくる。
よほどいいものでも見つかったのだろうか。彼は身をかがめて、あたしの胸に金色のプローチをつけた。
それは、翼のモチーフが象られたブローチだった。
高価なものなのかどうか判断がつかないけれど、もとの世界でつけても違和感がないかもしれない。可愛らしいとすら思える。
ダルディンに気に入ったかどうかを問いかけられているのがわかった。
伝わらなくても、礼をいうべきだろう。せめて笑顔を見せるべきだった。
でも、できなかった。
反抗心からじゃない。あえて彼を傷つけようとしたわけでもない。ただ、笑えなかった。
ショックだった。逃げ出すチャンスがあったのに、足がすくんで動けなかった自分が。言葉も通じない国で、聖獣の力もお金もなく、たったひとりで逃げ出すより、自由はなくても、ダルディンのもとで庇護を受けていた方がマシだと思ってしまったことが。
結局、あたしはリオノスの力でゲタを履かされていただけ。それで何かができるようなつもりになっていただけだ。
でも本当は、逃げ出す勇気すら持てない、無力で、何もできない。
ダルディンは顔を強張らせたあたしに対して、悲しみもしなければ落胆もしなかった。
微笑んでいる。
そしてあたしの顔に頬を寄せた。吐息がかかる程度のキスを落とす。
突然のことすぎて、何の反応もできない。それに何の意味があるのか、ただの挨拶なのか。それさえもわからない。
ただ、見透かされた気がする。
あたしに逃げる度胸などないと。逃げ出すチャンスを前にしてもどうにもできないのだと、見透かされて、試された。彼はきっと満足だろう。あたしが従順に彼を待っていたことが確認できて。
ダルディンは再びあたしの手を握って来た道を戻り始めた。
暗澹たる気持ちと、初めからそこにいたような顔をした諦念が湧き上がってくる。
――多分、これでよかったんだ。
ここで逃げ出したからといって、あたしひとりでは何もできない。状況は、決して好転しない。
それに、この監禁生活はそう長くは続かないはずだ。少なくとも、イクタ王子がロウロルアを倒して戻れば、状況は変わる。好転するのか、悪化するのかは、わからないけれど。
ただ、あたしは握られた手に、来たときにはなかった息苦しさを感じた。
いままで、ダルディンの行動はただの気まぐれのようなものだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
あたしを閉じ込めておきたいのなら、ずっと部屋から出さなければいい。どうして王宮を案内したり、市場に連れてきたりする必要があるだろう。
これはただの監禁しておけばいい相手への処遇ではない。どこかに連れ回したり、ブローチを贈ったりするのは。
彼のあたしを見る視線が、どこか熱を帯びているような気がするのも……たぶん、気のせいじゃない。
ダルディンには、外洋へ乗り出す船乗りたちへの強い羨望と嫉妬がある。彼ときちんと話をしたのは、宴のときのほんの一瞬だけだったけれど、彼のコレクションをみれば、彼の真の望みは痛いほど理解できた。ウェトシーの王太子という立場上、決して叶わない夢。異国への憧れ。その代償があのコレクションなのだとしたら。
彼は自分のコレクションを見るような視線を、あたしに向けているのかもしれない。
あたしは密かにダルディンの唇が触れた場所に指を滑らせた。
薄ら寒い気持ちと、軽い興奮を同時に覚えながら。
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