第18話 見逃してしまった
高校ではバレー部に入部した。とくに理由があったわけじゃなかった。高校で新しくできた友達と、雰囲気の良さそうな部活を探して、入っただけ。
バレー経験があったわけでもなく、運動神経が良いわけでもなく、背が高いわけでもなくて、レギュラーとは無縁の補欠部員だった。特に練習に熱心なわけでもない。でも、普通に、楽しく過ごしていた。
あんなふうに選ばれることがなければ、いまでも普通に過ごせていた。部活をやめることもなかった。
――駄目だ、それ以上は考えたくない。
覚醒と同時に、久しぶりに同級生たちの顔が脳裏に浮かんだ。向こうの世界のことはなるべく考えないようにしていたのに、急に記憶が溢れたことに戸惑いを覚える。
思い出すことで、無為な寂しさにとらわれたくはなかった。目の前の現実との落差に削られるのも嫌だった。
なぜ急に思いだしたのだろう。ホームシックではない。テルミアにやってきてからあまりにいろいろなことがありすぎて、そちらに気を取られていただけで、未だにあのことに苛まれている……。
あたしは意識して、記憶を脳裏から追い払った。
今はそれよりも大事なことがある。
あたしはハッとして、部屋の窓に近づいた。カーテンを引き開けると、眩しい光が目に飛び込んでくる。すでに日は高い。完全なる寝坊だ。とはいえ、昨夜あれだけ深酒していたのに、昨日の今日ですぐに出港するようなことはないだろうが。
――そうだ、昨日……イクタ王子の前で……。
意識を失う前のことが思い出されて、あたしは改めて自分の姿を省みた。
制服のまま寝てしまったらしい。自分でベッドに入った記憶はないから、誰かが運んでくれたのだろう。窓の下は海。おそらくは、王宮の中の一室。
何か、心に引っ掛かりを覚える。
何かを忘れているような気がする。
部屋を見回して、違和感の所在を探す。
なにか大事なものが欠けている気がする……。
答えをみいだせないまま、漠然とした焦りだけを感じる。
イクタ王子。トキタカ。
とりあえず、彼らと合流して、状況を確認しよう。
そう思いながら扉を開け、廊下に足を踏み出したところで、ハッとする。
扉の両脇に控えていたのは、侍女ではなかった。衛兵だ。衛兵はあたしが現れるなり、目の前に槍をつきだしてクロスさせた。
「と、通してください」
こんな扱いを受けるのは初めてで、戸惑いを覚える。
衛兵は無表情に首を振ると、何事かを言った。
その言葉を聞いた瞬間、あたしは血の気が引くのがわかった。先ほどから感じていた違和感の正体が、わかった。
部屋の中に駆け戻り、叫ぶ。
「リオノス!」
翼獅子の姿だったら、どうしたって見逃しようはない。たぶん、もふもふの状態でどこかに隠れているのだ。制服の中にはいない。ベッドの上にも、下にも。
「リオノス、ふざけないで。隠れているんでしょう?」
たしなめるような調子で言おうとして、失敗する。声が震えている。ほんとうは、隠れようがないことはわかっていた。リオノスとあたしは、心の底で繋がっているのだから。
呼びかければ、通じるはずだし、近くにいれば、翻訳の魔法が機能しているはずだ。
それがない、ということは――。
懇願するような気持ちで、手を差し出す。どんなに念じても、呼びかけても、魔法の鎌は現れない。
リオノスが、いない。
――いや、奪われたんだ。
そのとき、扉が開かれる音がして、あたしは背後を振り返った。
金髪のウェトシーの王子がそこに立っていた。あたしの焦りを見通すようなにこやかな微笑み。何を言っているかはわからなくても、彼が現れたということ自体が、言葉よりも雄弁にこの状況を物語っている。
あたしを眠らせ、リオノスを奪ったのは、彼。そして、ウェトシー。
「リオノスを返して! イクタ王子は……? トキタカはどうしたの?」
あたしの問いかけに、ダルディンが悲しそうな顔で首を振る。
その意味をどうとるべきか。あたしと同じように、王宮のどこかで監禁されているのか。それとも――。
ほとんど衝動的に、あたしはダルディンの横をすり抜け、廊下に飛び出した。衛兵たちもあたしがそこまで思い切った行動に出ると思っていなかったらしい。不意をついて衛兵の槍の下をかいくぐり、廊下を走る。
「トキタカ、いるなら返事して!」
彼があたしと同じ状況なら、そう遠くにはいないはずだ。騒ぎを起こせば、こちらに気づいてくれるかもしれない。
「リオノス! イクタ王子!」
あたしは闇雲に廊下を駆けた。出口がどちらかもわからない。ダルディンの指示で前方に衛兵が回りこんでくる。後方にも追手。
とっさに横手にある扉を開き、中に駆け込む。そこが屋外であることに気づいて、あたしは自分の失敗を悟った。そこはテラスだった。欄干に手をついて身体を止める。勢い余ってその向こうに身体が飛び出しそうになる。
行き止まりだ。
背後から声が聞こえて、息を切らして振り返る。
衛兵とダルディンがテラスの入り口を塞ぐように立ち並んでいる。
ウェトシーの王太子はあくまで害意がないことを表明する微笑みを浮かべている。怯える猫を宥めでもしているような声色。昨夜言葉を交わした彼は、悪い人間とは思えなかったし、その微笑みを信じたい気持ちもある。リオノスが本当に眠っているだけで、何も悪いことは起こっていない。あたしの勘違いなのだと。
けれどそんなふうに思えるほど、さすがにおめでたくはない。
テラスの下の庭園を覗き込み、そこにも衛兵が配置されているのを見て、飛び降りる考えを断念する。袋の鼠だ。
あたしの考えを読んだように、ダルディンが首を振った。何かを言っているが、当然理解はできない。彼にもそれがわかったのだろう。急に言い募るのをやめて、背後の衛兵に何かを指示する。取り押さえられることを覚悟する。だが、ダルディンはそうするかわりに、あたしに向かって何かを放り投げた。黒いボロ布のようなものが、あたしと彼の間に落ちる。
一瞬、それが何かわからなかった。
ダルディンの意図がわからず、彼の顔を見る。そこに笑顔はない。無表情だが、あたしの反応を見つめる視線に嗜虐的期待を感じる。言葉がわからないから、彼が急に変わり身をした理由もわからない。ただ、その表情を踏まえて、もう一度地面に目を落としたとき、投げられたものが何かはっきりと理解した。
よろめくように、ボロ布に手を伸ばす。あたしは恐る恐るそれを手で広げた。ただの布じゃない。仕立てのいい、丈夫な生地でつくられた服。
――学ランだ。
最後に見たときも、トキタカはこれを着ていた。そのときから若干薄汚れてはいたが、さらに泥だらけになっている。それだけじゃない。左胸のあたりには、破れたあとがある。破れ目の周囲を指で触れ、ゴワついた布の感触に息が止まる。
触れた指先に乾いた赤色がつく。
――血だ。
気が遠くなる。信じられない。何も考えられない。
「キヌカ」
名を呼ばれて、ダルディンがすぐ近くにいることに気づく。言葉がわからなくても、固有名詞は通じるらしい。激しい怒りを感じて、男を睨みつける。
その瞬間、ダルディンの表情にどこか悲しげな影が過ぎった気がした。だがすぐに褐色の顔にはなんの表情も見いだせなくなる。彼はゆっくりと腕を持ち上げた。その指が何かを示して伸ばされる。
「――イクタ――」
彼の言葉の中で、その名前だけははっきりと聞き取れた。指が示すのは、港。その先の大海原。彼が言わんとしていることは、なぜかすぐにわかった。
心のどこかで予期していたんだと思う。
昨夜、お酒に口をつけなかったあたしに、ダルディンはお茶を用意させた。おそらくあれに、あたしを眠らせる成分が混ぜられていた。でも、実際にあたしが意識を失ったとき、一緒にいたのは、イクタ王子だ。
彼がこの計画と無関係だと考えるのは、あまりに楽観的すぎる。
第一、あたしたちはこうなることを予期していた。
そう、わかっていたのだ。
イクタ王子が、あたしたちを出し抜こうとするであろうことを。
あたしの目には、港にあったリオニアの船がなくなっているかどうか判別できない。それでも、ダルディンの行動が示す意味は明らかだった。
イクタ王子はすでに出港した。あたしたちを置いて。ひとりでロウロルアを倒すために。
――やはり彼は、優しくなどなかった。
あたしが監禁されている部屋は、王宮の奥まった場所にあるらしい。扉の外にはいつでも屈強な衛兵がいて、あたしに許された自由は部屋の中と、窓の景色だけ。それも海と遠い海岸線が見えるだけだ。
あたしは世話係の侍女に頼んで、血に染まった学ランを洗い、針と糸を用意してもらって、左胸の破れ目を繕った。半ば願掛けのような行為かもしれない。トキタカは、きっと生きている。また会ったとき、この制服を綺麗にして返そうと思った。
ダルディンにしてみれば、滑稽な行為だったかもしれない。だが、彼は何も言ってはこなかった。どうせ、何か言われていても、あたしには理解できない。言葉が通じなかったのは幸いだったかもしれない。例え嘘でも、はっきりとトキタカの死を告げられたら、立ち直れなかっただろう。いまはまだ、信じていられる。トキタカはきっと生きてる。根拠がないわけでもない。
ただ、同時に、そう信じていられるのは、あたし自身にまだ余裕があるからだということも感じていた。監禁が続けば続くほど、不安は増大する。いつまで心を保っていられるかわからない。おそらく、ダルディンもそれを望んでいるのだろう。そのためにあたしにこの学ランを見せた。彼の思う通りにはなりたくない。だからこそ、学ランをもとの状態に戻そうとした。あまりにも、ささやかな反抗。
いままでは言葉が通じていたから、ほんとうの意味で孤独に苛まれることはなかった。リオノスがいたし、トキタカにも出会えた。両方が失われて初めて、ほんとうの意味での異世界に放り出されたように感じた。
窓辺に座り、景色を眺めながら、ひとりで何もしないでいると、どうしても向こうの世界のことを思い出してしまう。
それも、懐かしい思い出ではなく、嫌なことばかりを。
部活で、強豪校と練習試合をすることになった。試合中の怪我で、先輩が怪我をした。そしてあたしがたまたま代わりに試合に出ることになった。二番手ですらないあたしが選ばれたのは、本当に偶然だった。レギュラー同士の試合と同時に、補欠チームの試合も同時に行われていたからだ。あたしはそれにすら入れないだけだった。それなのに、急にレギュラーの試合に入れられたのだ。
めったにないチャンスが巡ってきたのだ。張り切らなかったといえば、嘘になる。
でも、あたしを入れたチームがうまく回り、試合に勝ってしまったのは、まぐれだったと思う。先輩の怪我が治るまでの間、あたしは試合に出続け、そして勝った。でもまぐれはそう長くは続かない。
あたしのミスで大会に負けた。あたしにも責任はある。もっと努力できたかもしれないし、もっと頑張るべきだったのかもしれない。でも、あたしが実力不足だと思うのなら、あたしのせいで負けたと言うのなら、始めから分不相応な役目を負わせなければいい。それなのに、部活をやめなければならなくなったことは、今でも納得していない。
今の状況は、あのときと似ているのかもしれない。
勇者なんて、あたしにはやっぱり無理だったんだ。
このまま何もできずに世界がどうにかなったとしても、それは、あたしを選んだ神様が悪い。
神様はきっと気づいただろう。
もう終わりだと。あたしの使命はここで終わりだ。
だから、もっとうまくできる人を、別の勇者を選んで、はやく元の世界に戻してほしい。
あたしは失敗した。
――でも、それはあたしの所為じゃない。
三日目。
不意にあたしは監禁されている部屋から外に出された。衛兵の監視を感じながら、召使に広間に通される。そこで、ダルディンが待っていた。
自分をこんな状況に追いやった相手に対して、改めて怒りを感じる。けれど、自分を監禁している相手にどういう態度をとるべきか判断がつかず、あたしは無表情を貫いた。
ダルディンは何かを陽気に話し始めた。どうせ言っていることはわからないし、相手にも伝わらないと思うと、言葉を発する気力もわかない。
あたしの不機嫌を悟ったのか、ダルディンは急に言葉を切って微笑みを作った。
そして、手を差し出す。
どういうつもりかはわからないが、あまりにも配慮のない態度と言っていい。あたしが、トキタカを殺したかもしれない相手の手を取るとでも思っているのだろうか。
――答えはイエスだ。あたしに選択権はない。いまのあたしには、何の力もないただの女の子でしかないのだから。
震える吐息をついて、手を伸ばす。
あたしの手を引いて、彼は無邪気とすらいえる笑顔を浮かべた。
結局のところ、ダルディンは約束を守った。
彼はあたしに王宮を案内すると言った通り、絢爛豪華なコレクションをひとつひとつ見せてまわり、珍しい植物が植えられ、鳥の声がこだまする温室を散策した。
いまさら、何をされたところで心を開くわけがないのに、にこりともしないあたしを案内してまわる律儀さにはむしろ感心してしまった。
最後にダルディンは再びあの見晴らし台へとあたしを招いた。ちょうど西の空が赤く染まっている。
ひどく気疲れした心地で、あたしは手すりに寄りかかった。数日前に見逃したヴァノゴールの夕日。あたしは赤く染まる海をただ見つめた。
どこからか、弦楽器を爪弾く音が聞こえる。いつの間にか、ダルディンが後ろの階段に腰掛け、丸い弦楽器を抱えていた。静かに爪弾かれていく曲に、やがて歌が乗り始める。
どういうつもりなのだろう、と思う。
歌を聴きたいような気分では到底ない。ダルディンの行動に苛立ちを感じて、強いて無視しようとした。だが、意外にも、どこか物悲しい歌声はあたしの今の気分に似ていた。
言葉が通じないことほど辛く孤独なことはないと思った。でも、本当はその方が良かったのかもしれない。敵のただ中で心を保ち続けるなら。
どんな綺麗な美術品にも、美しい風景にも心動かされないのは、心を強く持っていたからじゃない。
ただ、あまりにも傷ついていたから。
すり傷が空気にふれてヒリつくように、ダルディンの歌声はあまりにもたやすく感情を刺激した。
トキタカが死んだかもしれない。その事実は到底受け入れられるものじゃない。でも、それ以上にショックを受けている。
信じていたのに、裏切られたこと――。
トキタカがあれほど忠告していたにも関わらず、あたしは彼を信じていた。道を違えることがあっても、酷いことはしないと思っていた。
それなのに、何の相談もなく、もっとも最悪な形で、彼はあたしを裏切った。
この一件の首謀者は、明らかにイクタ王子だ。ダルディンはウェトシーの王子として、同盟国であるリオニアに協力しているだけだ。勇者の力を奪って得をするのは、ロウロルアの魔力を得ようとしているイクタ王子であって、ダルディンではない。
それがわかったとしても、彼を憎む気持ちにはなれない。ただ心が引き裂かれるだけだ。
ふいに、ダルディンの歌声が途切れた。
どこか呆れたようなつぶやきが聞こえる。
言葉がわからなくても、その意味は完全に理解できた。
すでに水平線に太陽はない。
あたしが手すりに突っ伏して泣いている間に、藍色の闇が大地を覆っていた。
そう――また、日没の瞬間を見逃してしまった。
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