第17話 どうして優しくするの

「この中で、ロウロルアを見た者は?」

 宴の席を見渡し、朗々とした声で問いかけたのは、ウェトシーのグラトー王だった。恰幅のいい中年の男で、眩しいくらいに金や宝石を身体中に身に着けている。艶やかな褐色の肌に映える豊かな白ひげを顎全体に蓄えている。その隣にはイクタ王子が座る。彼の外見はやはりウェトシーでも浮いていた。ウェトシーの住人で支配的な層は、褐色の肌に金髪碧眼のようだ。グラトー王はすでに白髪化しているが、彼の近くの席にいる貴族たちは概ねその特徴を満たしている。さらに下座にいくと、雑多な集団が目に入ってくる。

 人種はさまざまだが一目でわかる特徴を持った男たち。王宮においては場違いな印象を受ける荒くれ者たちだった。筋骨隆々とした肉体を惜しげも無くさらし、肌に刻まれた痛々しい古傷を勲章のように見せびらかし、中には眼帯をつけているものもいる。例外なく油断ならない目つきをし、剣呑な空気を漂わせている。上座の貴族の中には、彼らにあからさまに嫌悪の視線を送るものもいる。

 彼らは、下町の酒場から間違って連れてこられたわけではない。

 宴の目的は、イクタ王子とあたしたち勇者の歓迎と称されてはいたが、真の主賓が彼らであることはあたしにもわかった。

 彼らは、船乗りなのだ。ロウロルア討伐に参加する船の持ち主。

 つまりこれは、壮行会。命をかけて危険な戦場に赴く男たちのための宴。

「俺だ!」

 グラトー王の問いかけに、ひとりの男が立ち上がった。

 すでにしたたかに酔っているのか、顔が赤らんでいる。宴の席を見回した男の口調は、意外にもしっかりしていた。

「あれは二十年前のことだ――俺がまだガキの頃、乗っていた船がロウロルアに襲われて沈没した」

「昔のことなんか訊いてねえよ!」

「今の話をしろ!」

 途端にヤジが飛ぶ。男は余裕のある態度で無視し、さらに大きな声で話を続けた。

「やつは普段は海の深い場所で眠っている。長い時は十年も二十年もな。たまに起きだしたとき、運悪く通りかかった船はやつのエサになることになる。不運だったと諦めるしかない。ウェトシーの船乗りならば、誰でも覚悟の上だ。だが、今でもあのときの恐怖を思い出す。船底を噛みちぎられ、沈んでいく船のことを。やつは海に飛び込んで逃げ出した船乗りたちを海の中で待ち構え、次々と飲み込んでいった。俺は船から脱出したあと、なんとかオールに捕まり、水面に浮かんでいた。まだ俺はなぜ船が沈んでいかねばならなかったのかを理解していなった。そのとき、やつが真下から現れた。海の下から俺を一飲みにしようと、大口を開けた。俺があの鋭い牙で噛み砕かれなかったのは、ただの偶然だった。やつが口を閉じようとしたとき、折れたオールがちょうどやつの歯に挟まった。俺はどうにかその隙間から身体を抜き出し、死にものぐるいで泳いだ。必死に泳いで、振り返ったとき、やつの全体像がほんの一瞬見えた。一言でいえば、長細い蛇だ。背中には鋼鉄のような背びれ。その両側に青色に輝く鱗の筋が入っている。その長い胴体は海の中で螺旋を描いていた。どこまで続いているのか、その先は見えなかった。船で生き残ったのは俺だけだった。運良く近くを通りかかった船に助けられた。恐ろしい記憶だが、海へ出るのを恐れたことはない。今もだ」

 いつの間にか、船乗りたちは口を閉じて男の話に耳を傾けていた。

「ロウロルアは、もう海底でとぐろを巻くことはないだろう。今は岩礁に住み着き、近くを通りかかった船を無差別に襲っている。おかげで航路がひとつ潰された。やつを殺さなくちゃならねえ。食われていった仲間のためにも」

 そういって男が杯を振り上げると、船乗りたちは口々に賛同の声を上げた。

 古くから海に住み着いているドラゴンを倒すことについて、彼らなりの想いがあるのだろう。生活もかかっている。この状況は、ストレックを倒したとき――マートアのことを彷彿とさせた。おそらく、犠牲を出さずにはいられないだろう。

 あたしは隣に伏せさせたリオノスを撫でながら、トキタカに目を向けた。普段なら人の多い場所で聖獣を成体の姿にはしないが、トキタカがナメられないようにというので、ふたりともわざと猛獣の姿を見せびらかしている。ついでに、ウェトシーの王に謁見するということで、ふたりとも制服姿できていた。もっとも、蓋を開けてみると国風なのか堅苦しい雰囲気は皆無だったが。

「……どうするの?」

「何が?」

 トキタカは口端を引き上げ、わざととぼけてみせた。堂々とお酒を飲める機会ができて機嫌がいいらしい。

 あたしはイクタ王子の方を盗み見た。真剣な様子でグラトー王と何事かを話し合っている。ロウロルア討伐について情報交換をしているのかもしれない。

「いざというときのために、船のひとつも買収できればいいんだろうが……」

「できないの?」

「できると思うのかよ?」

 不満気に唇を突き出して、トキタカが言う。あたしは船乗りたちの席に目を向けた。いくつもの死線をくぐり抜けてきたといった顔の強面ばかりだ。正直にいって、実は海賊なのだと言われても違和感がない。

「……できないよね」

 あたしよりも遥かに目端が利くので頼りがちになってしまうが、彼も普通の高校生なのだ。ストレートに弱音を吐かれたのが意外で、つい笑ってしまう。

「笑い事じゃないぜ……。しかし、ここまで何事もないということは、案外、王子様は俺たちと共闘するつもりなのかもな」

「そうだといいけど……」

 イクタ王子と同じ船でロウロルアのもとに行けるならそれに越したことはない。リオニアやウェトシーから離れて単独で行動した場合、あたしたちの一番の懸案は移動手段だ。魔法の力をつかって、脅すなりなんなりすれば、どんな屈強な船乗りだろうと従わせることは可能かもしれないが、あまり気は進まない。

「なんにせよ、やるとしたら、ウェトシーが用意した連中ではなく、もっと別の船を……」

 トキタカは席に近づく人物に気づいて言葉を切った。その顔がぎょっとした表情になる。トキタカの両脇に、胸が半分飛び出たような服装の女性二人が割り込んできた。――あたしを押しのけて。

「なっ」

「あんまり飲んでないんじゃない?」

 そう言って、女性たちはトキタカのグラスにワインを注いだ。ふたりとも、並外れた美人に間違いなく、そのうえ、申し訳程度の布で腰を覆い、あとは金や宝石で飾っただけの露出度の高い服装でトキタカに身体を密着させている。到底男子高校生に耐えられるものではない。

 あたしは心底冷めた気持ちで席を立った。

「キヌカ!?」

 共犯者に警察に突き出されたみたいな哀れな声でトキタカがあたしを呼び止めようとする。あたしはため息を堪えずに言った。

「勝手にすれば?」

 周囲を見れば、他の席にも女たちが配置されていた。イクタ王子の横にもいるが、流石にグラトー王との会話を邪魔をしないように控えている。

 船乗りたちの席はちょっと刺激が強すぎて正視できない。

 接待のためにウェトシーが用意した女たちだろうし、トキタカを責めるのは筋違いだけど、完全に疎外された格好になったあたしは腹立たしい気持ちになっていた。

 お酒も飲めないし、愉快なことはなにもない。あたしは宴の席を離れて、王宮の広場を歩いていった。

 何段かの階段を降りた先が崖になっており、欄干が設置されて、見晴台のようになっている。大陸に入り込んだ内海、レーテス海の出口に位置する半島にあるヴァノゴールは、三方が海に囲まれている。王宮はその高台に位置し、街と港、そして海までが一望できた。

「いい眺め」

 気持ちにいい場所を見つけて、幾分機嫌を治す。

「いいだろう、王宮で二番目に眺めがいい場所なんだよ、ここは」

 突然背後から声をかけられて、あたしはぎょっとして振り返った。階段の端に男が腰掛けている。どうやら、始めらかそこにいたらしい。手に楕円形の楽器を手にしている。

 楽団の人か何か? と思ったが、男は楽器を弾くでもなく脇に立てかけると、立ち上がってこちらに近づいてくる。見知らぬ男とふたりきりになることに警戒心を感じるが、宴の席から視認できる程度の距離しか離れていない。何かあれば、すぐに気づいてもらえるだろう。

 ――全員酔いつぶれていなければ。

「酔い冷ましかな?」

「いいえ、あたしはお酒は飲まないんです」

「それじゃあ、退屈だったろう。ぼくたち、似た者同士じゃないか?」

 男が人懐っこい感じの微笑みを浮かべる。あたしは首を傾げた。

「あなたも抜けだしてきたんですか?」

「ああいう騒ぎは苦手なんだ。静かに酒を飲む方がいい。いや、お酒は嫌いなんだったね。では茶でも用意させよう」

 男は給仕を呼び寄せ、あれこれと指示し始めた。そのこなれた様子から、男の正体に興味を覚える。

 宴の席にいたらしいが、顔に見覚えはない。歳は若かった。まだ二十歳をいくらか超えた程度だろう。グラトー王と同じ褐色の肌で、明るい金髪をの襟足を少し長めに伸ばした短髪。白いシャツに柄のベストを着ている。身体つきはどちらかといえば華奢な部類に入りそうだったし、間違っても船乗りの同類ではなさそうだった。とすれば、王宮関係者ということになる。

 男は宴の席に目をやると、秘密めかして声を落とした。

「父上の物好きも困ったものだろう。彼はああいう男たちが好きなんだ。命知らずな海の男たち。彼らはたしかに稼ぎをもたらし、王宮を潤したが、扱いには慎重になるべきだ。野蛮で、暴力的で、己の欲望にのみ従う」

「父上……?」

 あたしの怪訝な視線を受けて、彼は面白がるような目をした。

「父上はぼくにもそうなってほしいんだろうよ。勇敢で、逞しくて、強い男に。だが、ぼくが本当にそういう男だったら、ここでこうしてはいまい。いまごろ、後先考えずに海に飛び出し、世界中を飛び回って、あるいは死ぬだろう。だからぼくがここでこうして、剣の代わりに楽器を持ち、宮殿で歌って暮らしているのは、父上のためなのさ。海の藻屑となることなく、王位を継ごうとしてやっているわけだから」

「王位って、まさか」

「そうだ、まだ名乗っていなかったな。僕はウェトシー王グラトーの長子、ダルディンだ。きみの名前は知ってる。勇者キヌカ」

「は、はじめまして」

 相手がウェトシーの王太子だと気づいて、あたしは慌てて頭を下げた。つまり、王子様ということになる。

「ようこそ、ヴァノゴールへ。街はもうみたかい?」

「いえ、港からこちらに馬車で来る間……少しだけ」

「それは惜しいな。絶対に見て欲しい場所がいくつもある。例えば、南大通りでは毎日のように市場が開かれて、港に水揚げした世界中の品々が取引されているし、北には海神メーアディンが祀られた聖堂がある。海に出る前には必ず彼女の加護を受けていくんだ。港とそこに隣接した一帯は……女の子は近づくべきじゃないな」

 ダルディンは見晴台から指をさしながら熱心に説明した。一辺に聞いても、とても理解がおいつかない。あたしの顔を覗き込んで、ダルディンが少し顔を曇らせる。

「……興味ない?」

「い、いえ。そんなことは」

「これが我が国だよ、キヌカ。魅力的な街だとは思わないか? もっとも、ぼくはこの国しかしらないけどね」

 ダルディンは街を背にして、腕を広げて見せた。

「この街はテルミアの玄関口だ。外洋からの船はこの街に世界中のあらゆるものをもたらしてくれる。人も、物も。この街を支配することは、世界を手にするのと同じなんだ。きみもそう思うだろう?」

 あたしが答えを探していると、ダルディンは不意に笑い出した。どこか芝居がかった、乾いた笑い。彼はひとしきり笑うと、手すりに肘をついた。

 あたしはやっと、答えは求められていないことを察した。

 陽の光に赤みがさす。街並みの中に影の領域が広がっていく。太陽が西の海に沈みつつあった。

 赤く照らされたダルディンの横顔は、心なしか沈んで見えた。あたしはさっきの彼の言葉は冗談だったのだろうかと考えていた。彼こそがいずれこの街の支配者になるのであり、世界を手にすることになる。自分が手にする世界を見つめる眼差しは、なぜか嬉しそうには見えなかった。

 ふっと、暗闇が周囲に迫るのを感じて、あたしは海の方を見遣った。

「あっ」

「どうかした?」

「日没の瞬間、見逃しちゃった……」

 急速に広がる薄闇の中で、ダルディンが吹き出すのが見えた。

「面白いなぁ、きみは! もしかして、ぼくに見惚れていたんじゃないか?」

「ち、違います!」

 図星を指された動揺で、思わず強く否定してしまってから、あたしは口を抑えた。

「冗談だよ。イクタ王子のように美形じゃないのは知ってる」

 イクタ王子と比べれば、誰でもそういう事になってしまう。ただ、つくりの端正さよりも、その豊かな表情が視線を吸い寄せる魅力を持っていると思えた。

「明日街を案内しよう。行くだろう?」

「すみません、あまり時間はないと思います。ロウロルア討伐のために、明日にでも港を発つことになっているんです」

 そう言うと、ダルディンは目に見えて肩を落とした。だがすぐに、何かを思いついた様子で顔を上げる。

「それなら、宮殿の中を案内しよう。今からだ。ぼくが世界中から取り寄せた美術品のコレクションがある。珍しい植物だけを集めた温室もある」

 唐突な申し出に、あたしはぎょっとした。

「もう、戻らないと」

「宴は当分終わらないよ、やつらはタダ酒を飲む機会をそうそう逃しはしないんだ」

「でも……」

 躊躇するあたしの腕をダルディンが掴んだ。

「さあ、行こう。夜は短い」

 ダルディンがあたしの腕を引いて歩き出そうとする。はっきりと拒否してもいいものか決めかねて、あたしは宴の席に目を向けた。女性の太腿に頭を乗せて泥酔しているトキタカが目に入る。

 ――あ、あいつ……。

 側を離れるなって言ったくせに。肝心なときに役に立たない。

 いっそ、リオノスをけしかけてやろうかと思った瞬間、ダルディンに掴まれていた腕が開放された。腕を捻り上げられ、ダルディンが顔を歪める。ふたりの間に突然割り込んできた人物を認めて、あたしは目を見開いた。

「イクタ王子……!」

 銀髪の男はあたしの声には答えず、無表情にダルディンを見つめている。

「……何か?」

「ダルディン、外してくれないか」

 イクタ王子の言葉に、ダルディンが怒りで顔を赤くした。

「キヌカと約束した。王宮を案内するってね。邪魔をしないでくれ」

「し、してない……」

 あたしは力なく反論したが、どちらにも聞こえていないらしかった。

 ダルディンがイクタ王子の腕を振り払おうとするが、彼の手はびくりともしない。ダルディンが顔を歪めて問いかける。

「どういうつもりだ」

「それはこちらのセリフだ」

 怒気が明らかなダルディンとは対照的に、イクタ王子の声は静かだった。それにも関わらず、ダルディンが気圧されている。

 ――もしかして、あたしを助けに来てくれた?

 その可能性に思い当たって、気を失いそうなほどの緊張を覚える。あたしがリュトリザで捕まったときですら助けにきてくれなかったイクタ王子が。そんなのは、あり得ない。

 あり得ないのに、目の前の光景をどう解釈すればいいのかわからない。

「――わかったよ」

 無言の睨み合いのあと、譲歩したのは、ダルディンだった。まるで何事もなかったように、にこやかにあたしに微笑みかける。

「いずれ、きっとヴァノゴールを案内するよ、キヌカ。約束だ」

「は、はい」

 安請け合いをしてもいいものか迷いつつ、頷く。ロウロルアを倒したあと、状況がどうなるかわからないからこそ、約束の一つくらいは構わない気がした。ダルディンがこれほど強引に誘おうとしなければ、魅力的な誘いではあったのだから。

 ダルディンが去ると、イクタ王子は後ろに控えていた給仕に茶を一杯淹れさせた。どうやら渡すタイミングがなく、ずっとそこで控えていたらしい。召使が近くの篝火を入れていく。視界は確保されたが、イクタ王子が給仕を下がらせると、正真正銘、ふたりきりになってしまった。

 彼は茶をいれたコップをあたしに差し出した。

「あ、ありがとう」

 用意させたのはダルディンだが、ありがたく受け取っておく。

 宴の席で何も飲めなかったのと、緊張で喉が乾いていたので、紅茶に似た味のお茶はひどくおいしく感じられた。あたしはイクタ王子と向き合っている勇気が持てずに、再び見晴らし台から街の方へと目を向けた。

 期待に反して、電気のない街は大部分が闇に沈み、星空のような夜景を楽しむというわけにはいかなかった。それにがっかりしたというよりも、間をもたせられないことに焦りを感じる。

 リオニアで話をした夜から、こうして面と向かって話すのは初めてだった。いきなりキスされたことへの怒りはまだあるし、ロウロルア討伐を巡る探りあいが、あたしの口を重くしていた。

 一体、どういう態度をとればいいのか、わからない。

 イクタ王子が隣にくる気配がする。あたしは振り返らずに、何も見えない街を見つめ続けた。

「おまえと話したあと、考えていた」

 イクタ王子が口を開く。

「……おれがどう思うかと訊いたな。やはり、その問いは無意味だ。おれに心があろうとなかろうと、おれのするべきとは変わらない。リオニアに害をなすものは、たとえ父親でも殺す。それが、リオニア王家に生まれた者の使命だ」

「そう……」

 意外ではなかった。

 今になって、イクタ王子の行動の意味がわかるような気がする。彼はたとえ自分が狂ったとしても、ドラゴン討伐をやめない。それがリオニアのためになるのなら。実の父親と戦ったように、自分の身を捧げることにも躊躇しない。

「あたしは……あなたがどうしようと、それが良いとか悪いとかは、言えないけれど……でも……イヤ……。あなたが傷ついたり犠牲になったりするのは……イヤだ……」

 ――何を言ってるんだろう。これじゃあ、まるで、あたしが……。

 あたしはどこか他人事のように自分の声を聞いた。自分でも意識していないほど素直な気持ちを吐露してしまったことに動揺する。

 何かがおかしかった。口だけじゃなくて、身体の感覚もおかしい。ふらついて、手すりに身体を預けた瞬間、手からカップが滑り落ちた。

「あっ……」

 闇の中に手を伸ばしたが、間に合わずに、カップは崖下に消えていった。まだ中身が半分ほど残っていたのに。身体に力が入らない。カップを落としてしまったのも、そのせいだ。手すりから身を乗り出した身体を戻す力もなかった。ずれ落ちそうになる身体を、引き戻す腕があった。

 誰かが、足元が覚束ないあたしを抱きとめている。そうしないと立っていられない。

 あの飲み物はお酒だったのだろうか?

 でも、そんな味はしなかった。あたしだって、アルコールの味くらいは知っている。

 言い知れない不安をかかえながら、あたしは目の前の身体にすがりついた。

「なぜおれを気にかける?」

 イクタ王子の声が耳元で聞こえた。それでやっと、あたしは彼の腕に抱きとめられていることを認識した。普段なら羞恥でどうにかなりそうな体勢でいるというのに、今のあたしには囁きの意味をぼんやりと反芻することしかできない。

 ――あたしが彼を気にかけている……? そうなのだろうか。そうかもしれない。わからない。

「……あなたこそ、どうして?」

 あたしは釈然としない気持ちで、問い返していた。

「今日に限って……どうしてあたしに優しくするの?」

 やはり彼は、ダルディンからあたしを助けにきてくれたのではないだろうか。そして今も、抱きしめてくれている。

 以前には、甘い考えから、彼に優しさを期待したこともあった。でも、そんなものは不要だと知った。必要であれば協力しあう、それで十分だと。自然なことだと。

 ――それなのに、急に優しくされたら、気持ちが揺らいでしまう。

 気持ちって、なんなのだろう。一体なんの気持ちなのだろう。自分で自分がわからない。

「それは……」

 先の答えを聞く前に、あたしの意識はその場を離れて、夢の中にさまよい出ていた。

 何か悪い夢を見ていたような気がする。

 内容は、忘れてしまった。

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