第16話 帰るんだから

 潮風を肌に感じながら、眩しいくらい鮮やかな空と海の青さに目を細める。水平線まで続く海原は、今日は穏やかな表情を見せている。あたしは海原を進む帆船の欄干に肘をついて、泡立つ海面に目を落とした。リオニアを発って丸一日、船酔いにもようやく慣れてきたところだった。

「どんな髪型がよろしいですか?」

「切ってくれればいいよ……適当で」

 背後からトキタカとアウスンの会話が聞こえてくる。比較的波が穏やかな日を見計らって、そろそろ結ぶ必要があるくらい髪が伸びていたトキタカがアウスンに散髪を依頼したのだった。トキタカは首から下に布を巻かれて、甲板の上に出した椅子に座っている。アウスンはかなり手慣れた様子で、トキタカのクセのある黒髪の先端を鋏で落としていく。

「アウスン、うまいんだね」

「王子の髪もぼくがきっているんですよ」

「そうなんだ」

 イクタ王子の長い銀髪を思い出して頷く。一緒に旅をしている間も、アウスンはイクタ王子の髪をブラシしたり結ったりと、やたら甲斐甲斐しくしていたので、意外ではない。

 トキタカは内心不安そうにアウスンの手つきを伺っているようだったが、ものの十分ほどでアウスンは作業を終えた。

 鏡を覗き込んで出来栄えをチェックするトキタカの視線が、ときおりこちらを伺っている。

「いいんじゃない……かな?」

 あたしは訊かれる前になるべく軽い感じで感想を述べた。アウスンの腕は確かなようで、不格好なところはないのだが、現代的な目線からするとかなり違って見える。かといって、似合っていないわけでもなく、少し長めにそろえているのがおしゃれですらあるのだけれど、学校にいたら少し浮いて見えそうなのが正直な感想だ。でもそんなことを言ったらトキタカは怒りそうだし、もう少し無難にして、なんて言うのも変だ。というのをいろいろ飲み込んだ「いいんじゃないかな」だった。

「ありがとう、アウスン」

 あたしの感想の成果かどうかはさておき、トキタカは納得したらしい。鏡をアウスンに返して、片付けを始める。

 帆船の甲板では船員たちが忙しく働いていた。やることがないので、あたしたちにとっては概ね退屈な船旅だった。異世界に来てから旅のし通しで忙しくしていたので、ちょうどいい休息ではある。

 アウスンは王子からあたしたちの世話役をいいつかったらしく、何かと世話を焼いてくれているのだが、イクタ王子の方は船に乗ってからというもの姿が見えなかった。船の中でも、王族ともなると普通の船員とは生活圏が隔てられているらしい。様子が気になるけれど、あんなことがあったあとで、どう顔を合わせればいいかわからないし、少し距離をとる意味では、ちょうどいいのかもしれない。

 その後、あたしたちは夕食をとるために、食堂へ向かった。まだ時間が早いためか、船員の姿は少ない。

「新鮮な食事ができるのは航海の最初のうちだけですから、どんどん食べてください」

 アウスンがそう言って、レーテス海産のエビや貝をテーブルに並べてくれる。

「じゃ、遠慮無く」

 トキタカが早速大きなエビに手を伸ばした。いつの間にか、隣に果実酒の瓶を用意している。あたしは飲む気はしないけれど、どうやらリオニア産のそのお酒を気に入ったらしい。船にあるものは品質が安定しないせいか、アルコール度は高くないようで、さほど酔いはしないらしい。あたしに危険だとか警告してきたわりに、本人の警戒心も緩んでいるように思えるのだけれど、どうせやることもない船の上のことなので、咎めるほどのことではない思って黙っている。

「ねえ、アウスン。イクタ王子の婚約者のことだけど……」

「ネシュフィ女王のことですか?」

「そう、その人」

 あたしは貝の身をフォークでつつきながら、頷いた。

「その人が、イクタ王子に魔法をかけたって――感情を奪ったっていうのは……ほんとうなの?」

 これをアウスンに訊いてもいいものか、随分悩んだ。でも、どうしても現実のこととは信じがたくて、誰かの意見を聞いてみたかったのだ。あたしが、担がれていないのかどうかを。

「もしかして、キヌカさん、王子本人から聞いたんですか?」

「そ、それは……」

 トキタカの反応を伺って、あたしは口ごもった。イクタ王子にこっそり会いに行ったことが気づかれるのはまずい。

「そんなお伽話みたいな話が……あるか」

 トキタカは時系列のことよりも内容の方に気を取られたようで、半笑いで言ったあと急に眉根を寄せた。テルミア世界の常識の通じなさとイクタ王子の鉄面皮を思い出したのだろう。

 答えを求める視線がアウスンに集まる。彼は魚介のスープをすすりながらこともなげに言った。

「それ、王子の定番の口説き文句ですよ」

「え、何が……?」

 意味が理解できずに問い返すと、アウスンは得意気に言った。

「ウェルルシアの魔女に心を奪われたから、自分には感情がないって。誰も愛することがないって。そう言ってくちづけすると、不思議と相手の女性は自分こそが魔女の魔法を乗り越えて王子に愛情を芽生えさせられることができると思うらしくて……って、キヌカさん、大丈夫ですか?」

 思わずテーブルに頭をぶつけたあたしを見て、アウスンが目を丸くする。

「もしかして、ほんとうにキスされたんですか?」

「そ、そんな話はしてないから!」

 慌てて首を振って否定する。

 瞬間、向かいの席のトキタカが突然席を立った。なぜかアウスンまで釣られるように立ち上がる。

「トキタカさん! はやまらないでください! 暴力はいけません、暴力は」

「何が暴力だよ! トイレだよ、トイレ」

「え、王子と決闘するのでは?」

「なんでだよ! 俺は、あの王子のことは……いや、そもそもこの世界の人間のことは、誰であれ深入りするつもりはねーよ。悪いけど……どうせ、俺たちは元の世界に帰るんだからな」

 ――ああ、そうだ。あたしたちは、帰るんだ。元の世界に。

 トキタカの言葉に頭を殴られたような心地がして、あたしはハッとした。

 イクタ王子が誰と婚約していようと、誰を好きだろうと、そもそも、あたしには何の関わりもない。文字通り、住んでる世界が違う。

「イクタ王子だけでなく、キヌカさんたちともお別れなんですね。……寂しいです」

 アウスンが急に肩を落とした。

「……まだ先の話じゃない。まだ、あたしたちの使命は終わってないし」

「そうですね。すみません。また暗くなってしまって」

 一ヶ月後に別れを控えたイクタ王子への悲痛な想いを知ってしまったあとでは、アウスンが落ち込むのを見るのは辛かった。トキタカの言うとおりなのかもしれない。別れることがわかっているのに、あまり後ろ髪を引かれるものを増やすべきではないのかもしれない。

 居心地が悪くなったのか、この世界の人間に深入りしないということを言葉通りに実行したのか、トキタカは先に食事を済ませ、先に自室に戻ってしまった。

「でも、キヌカさん。王子の呪いのことは、ほんとうですよ」

 ふたりになったあと、アウスンがぽつりと言った。

「呪いって――」

「呪いですよ。だって、ウェルルシア女王は王子の心を人質にとってしまったんですから。王子を悪く思わないでください。誰だって、人を愛することができないと言われて、はいそうですかと納得はできないです」

 だからといって、あたしも、キスされたことを納得はできるわけじゃない。彼はあたしを試したのだ。それも、感情がないことを証明するためだけに。

 それは口説き文句などではなく、ただの当てこすりであり、アウスンが言ったように、呪いを乗り越えられると思い込んだ相手への牽制に過ぎない。

 彼はそうやって、近づいてくる人々をずっと牽制して生きてきたのかもしれない。相手に返すべき想いが何もないから――。


 暗い気持ちのまま食事を終え、あたしはアウスンと別れた。

 自室に戻る途中、先に休んでいるはずのトキタカが通路の壁に寄りかかって腕を組んでいるのに気づいた。あたしを待っていたのだろうけれど、彼の表情からして、あまり楽しい話があるようには見えない。

「かわいそうだが、アウスンとの別れはもう少し早くなりそうだ」

「どういうこと……?」

「この航海が終わるまでには、俺か、イクタ王子か、どちらを取るか決めてもらう」

「なっ……」

 思わず赤面しそうになってから、トキタカがまったくの真顔だったので、たぶんそういう意味ではないのだと思い直した。

「な、何をするつもりなの?」

 トキタカはいつになく真剣な眼差しであたしを見返した。周囲を見回して他に誰もいないことを確認してから、声を潜めて言う。

「ロウロルア討伐まで共闘できればいいと思っていたが、難しいと思う。あんたの作戦を王子は受け入れないだろう。あの作戦では、彼はロウロルアにとどめを刺せない。今回は、是が非でもロウロルアの魔力が欲しいはずだ。別の作戦を提示してくるか、抜け駆けをするか、何かしらの行動には必ず出てくる。そのときは、俺の味方をしてほしい」

「イクタ王子と対立するつもりなの?」

「相手の出方によっては、そうなるかもな」

 トキタカは皮肉げな笑みを浮かべた。でも、いつものような、冗談めかした態度はそれで終わりだった。

「でもこれはお願いじゃない。あんたは俺の味方をする。それしかない」

 内容の強引さとは裏腹に、その口調には後ろめたさがあった。正論を言うことへの罪悪感のようなものが。

「あんたもわかってるはずだ。ドラゴンが狂っている原因は、魔力だ。許容量を超えた魔力を持った動物は、魔物化し、さらなる魔力を得るために人を襲う。人間やドラゴンのような知能の高い生物は、動物よりも魔力の許容量は大きい。そう簡単には理性のタガがはずれることはない。だが、『異変』は、それを揺るがす。魔力量が多ければ多いほど、『異変』の及ぼす影響は大きくなる。だからこそ、テルミア最強といわれたストレックが真っ先に狂った。イクタ王子は――彼は、まだ狂ってはいない。狂うほどの魔力量ではないんだ」

 そう言って、トキタカは自分の言葉の影響を確かめるようにあたしを見た。

「もし彼が、ロウロルアの魔力を手に入れたら――それは確実になる」

 危惧していたことを言い当てられて、血の気が引くのを感じる。

 やはり、トキタカはあたしが隠すまでもなく、とっくにイクタ王子がドラゴンの子であることを知っていた。

「それがわかっているなら、どうしてイクタ王子はロウロルアを倒そうとしているの? それがほんとうなら、作戦通り、あたしたちにとどめを譲るべきでしょう?」

「それは、わからない」

 トキタカは自分の推論の矛盾を素直に認めた。それはあたしがリュトリザにいたときからの疑問でもある。イクタ王子は、自分が狂ってしまうかもしれないということに対して、どう思っているのか。狂ってしまったら、どうするつもりなのか。どれほど考えても、答えはない。

「なんにせよ、俺たちのやることは変わらない。イクタ王子よりも先に、ロウロルアを倒す。その鎌で、彼の首を狩りたくはないだろ」



 いまさらになって、勇者の使命とはどういうものなのかを、おぼろげに理解し始めている。

 前に一度、リオノスに問いかけたことがあった。

「あたしやリオノスは……ドラゴンのように、狂ったりしないの?」

 本気でそうなると思ったわけではなかった。少なくとも、あたしはストレックを倒して、その魔力を手に入れたあとでも、何も変化はなかった。ただ、ストレックや魔物の様子を思い出して、不安を覚えたのだ。

(大丈夫だよ。キミが倒したドラゴンの魔力は、キミではなくボクの中に蓄えられている。ボクは他の生き物のように魔力を血肉とするわけじゃない。ただの魔力の入れ物に過ぎない。そしてキミは必要な魔力を必要なときに取り出して使うだけ。魔力の影響は受けない。だから安心して。キミは何も変わらないよ)

 ――ほんとうに何も変わりがないのだろうか? ほんとうに?

 あのときはその言葉になんとも思わなかった。いや、正しく理解してはいなかった。いまさらになって、リオノスの言葉に胸のざわめきを覚える。

 リオノスが入れ物なら、あたしは蓋だ。リオノスはあたしの許可がなければ、中身をとりだすことができない。あたしは、あたし自身の手で中身に触れることができない。その機能ゆえに、魔力の影響から守られる。

 勇者の使命は、狂ったドラゴンを倒すことではなかったのだ。それは手段であり、目的ではなかった。生き物を狂わせている原因である魔力を集めて、安全な入れ物に入れること。

 それがこの異変を終わらせる唯一の手段だ。

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