第12話 思い出せない

「もう一人の……勇者……?」

 彼の言葉に解釈の余地などなかった。彼が魔法の剣を持っていることよりも、ルビリムを一撃のもとに葬ったことよりも、もっとずっと明らかなものが、すべてを物語っていた。

 彼が砂色のケープの下に着ていたもの――黒色の特徴的な制服。見間違いようがない。

 それはまぎれもなく、学ラン、だった。

「ウェルノス!」

 彼が叫ぶと同時に、唸り声がして、黒い剣が漆黒の狼へと姿を変えた。濡れたような艶やかな毛並みの狼が、舞台上に現れ、牙をむき出しにする。学ランの男子高生は馬ほどもある狼にひらりと飛び乗り、舞台からクマクト族の人たちの中へ飛び込んだ。

 猛獣の出現に、人々が悲鳴を上げて道を開ける。気づいたときには、狼はあたしの目の前にいた。リオノスには慣れていても、他の猛獣が平気になるわけじゃない。思わず腰を抜かしかけたあたしに向かって、男子高生の腕が伸びる。あっという間のできごと。あたしは腕で引っ掛けられるように、狼の上に引きずり上げられた。

「きゃあっ」

 あたしを乗せたまま、狼が大きく飛び上がる。人々の頭上を飛び越え、儀式場の外へ。着地の衝撃で身体がずり落ちそうになるのを、男子高生の学ランを掴んで堪える。

「あっ」

 瞬間、黄金の魔法の鎌が手から離れた。平野に残された鎌が、高速で走りだした狼の背から遠ざかっていく。

「キヌカ!」

 イクタ王子の声が聞こえたような気もしたけれど、飛ぶような速さで平野を駆け抜けていく狼の背の上では、姿を見つけることもできない。トマクト族の儀式場は見る間に小さくなっていく。

「リオ!」

 リオノスの心の声も聞こえない。

 ――引き離されたんだ。この世界に来てから、片時も離れずにいたのに。

 ショックで呆然としている間に、狼は小高い丘へと駆け上っていた。狼がやっと足を止める。

 そこにきて初めて、あたしは振り落とされないために必至で男子高生にしがみついていたことに気づいた。

「あ……」

 はっとして突き飛ばした拍子に、自分の方がぶざまに狼の背から転げ落ちてしまう。

「ああ……」

 尻もちをついたあたしを見て、男子高生が頭をかく。

「なんで……」

「何が、なんで?」

 狼の背から飛び降りて、男子高生はあたしの前に屈みこんだ。

 半ば反射的に、涙が滲んでくる。

 理由はいろいろある。みんなから引き離されて一人で連れてこられたこと。もう一人の勇者を名乗る人物が現れてルビリムを倒したこと。これだけでも、十分頭を混乱させる事態だ。でも、一番大きな感情は、懐かしさだった。

 はるかむかしに思えるあっちの世界の生活――向こうの世界ではまるで見飽きてしまった光景――コンビニの前なんかでよく見たポーズ。異世界で遭遇するにはあまりにも場違いで、胸が張り裂けるほど懐かしい。

 もとの世界の人間が、目の前にいる。

 あたしの涙を見て、男子高生が少し怯んだ顔をする。

「怪我はしてないだろうな?」

 おずおずとした問いかけに、あたしは頷いた。ばつの悪い表情で、少しだらしなく伸びたくせっ毛に手を入れて、彼が再び頭を掻く。

「あんたの聞きたいこと、当ててやろうか?」

 あたしがなかなか言葉を出せないでいるのに業を煮やしてか、彼は言った。

「なんで俺がここにいるのか? なんでルビリムを殺したのか? なんであんたを連れてきたのか?」

「に、日本語しゃべってる……」

 内容以前に、当たり前のことが当たり前であることに感動を覚える。学ランで、日本人の顔で、日本語を喋っているということが、これほど嬉しく思ったのは生まれて初めてだ。

「ホームシックなのかよ?」

「だ、だって……」

 男子高生が困惑した様子で唇を突き出す。あたしが驚きすぎて言葉が出ないのと同じように、慰めの言葉が思いつかないらしい。

 彼はしばし思案したあと、諦めたような顔つきで立ち上がった。狼のお尻のぽんぽんと叩いて、おすわりの姿勢にさせる。

「大変だったろ。女子なのに。勇者とか言われて。でもさ、もういいよ。俺がやるから。あんたはもう帰れよ」

「あ、あなたは? あなたはどうするの?」

「帰るよ。やることやってさ。この調子でドラゴンを倒しゃいいんだろ」

 彼の軽い態度に反感を覚える。ルビリムとの戦いにしても、あたしがルビリムの魔法を無効化しなかったら、彼も無傷では済まなかったはずだ。決して、楽な戦いではなかった。

「どうしてルビリムを殺したの?」

「どうして?」

 彼の言葉にからかいのニュアンスを感じる。そもそも、この質問はちょっと前にすでに先回りされていたものだったことを思い出す。それにまんまと乗っかったと言いたいのだろう。彼の態度には意地悪さとそつのなさがあった。

「どうして殺さない理由がある? おれにはむしろ疑問だけどな。あんたがさっき、どうしてルビリムを庇おうとしていたのか」

 ――あたしが庇いたかったのは、ルビリムじゃない。

 でもそれは彼に言うべきことではない。

「テルミアの異変を解決すればいいんでしょう? ドラゴンを狂わせているのは、何? それをどうにかしなかったら、根本的解決にはならないはずじゃない」

「異変ね……」

 彼は狼の背中に手を置いて、思案げにその背を撫でた。

「あんた、聖獣から話を聞いてないのかよ? どうして異変なんてものが起こってると思う?」

「そんなの、知るわけないじゃない……」

 考えてみると、リオノスはろくな情報をくれていない。他人の芝は青いというか、彼の黒狼――ウェルノスはリノオスに比べると、どことなく知的にみえる。情報量の差はその所為なのだろうか。

「いや、これは俺のただの推測だったかな?」

「何、それ?」

 彼はあたしの疑問など意に介さない様子で、頭をすり寄せてきた黒狼の首元を撫でてやっている。

「そうだな、もっとあんたにもわかりやすい話をしよう。ドラゴンの性質のことだ。ドラゴンはその長命を利用して魔力を蓄え、より強大な存在になろうとする。基本的には魔力が多く集まる龍脈みたいな場所に身を置くことで魔力を高めている。だが、彷徨い竜ルビリムは、特定の住処を持たない。そもそも、この実りのない平野に、魔力のたまり場なんて存在しない。じゃあ、ルビリムはどうやって魔力を高めた?」

「なにそれ、なぞなぞ?」

 男子高生はもったいぶらなかった。

「答えは、人間を食っていた、だ。ドラゴンの食い物は魔力だ。生物は大抵自然に摂取できるよりも多くの魔力を体内に蓄えている。寿命が短いから、死ぬまでに特別な能力を得るほどの魔力量を得ることは稀だが、エサくらいにはなる。トマクト族は一族の中から選んだ巫女に数年魔法使いの修行をさせて、魔力を高めた上でルビリムの生け贄にしていたんだよ。ルビリムは引き換えに恵みを与えた。雨乞いか、他の部族への攻撃か、何を願うのかは知らないが、ルビリムにとっては大したことじゃない。十分にお釣りのくる取引だってわけ」

 冷水を浴びせかけられた格好で、咄嗟に言葉が出ない。でも、意外ではなかった。納得したといってもいい。

 あたしは巫女と呼ばれていた少女のことを思い出した。マートアで人を食らっていたワイバーンのことも。

「知らなかったのは、あたしだけなの?」

 ――イクタ王子は知っていて、それでも、あたしのために剣をひいたの……?

「じゃあ、あなたがルビリムを倒したのは、あの子を助けるため……?」

「言っただろ。勇者の使命はドラゴンを倒すことだって。俺はやつを倒して、ルビリムの魔力を得たかっただけさ。この力があれば、あと一匹だか二匹いるドラゴンも倒せる。あんたがストレックの魔力を俺にくれたら、もっと確実になる。悪い取引じゃないだろ。あんたは使命から開放されて、すぐにうちに帰れる。俺は楽に勇者の使命を果たして……そして、帰る――」

「帰れるの……? あたし……」

「勇者が二人いるってことは、どのみち一人はスペアだ。万一失敗してもいいようにってな。仮に俺たち二人ともが逃げ帰っても、また別の聖獣が別のやつを連れてくるだけ。俺たちがそう躍起になってやる必要なんてない。どうせ、別の世界のことだ」

 男子高生はそう言って肩を竦めた。

 あたしは彼が強いて軽薄でいい加減な態度をとっていることを察した。彼の言動は裏腹なのだ。

 躍起になる必要はないと言いながら、彼はあの巫女を救うために身体を張った。あたしが彼に協力する保証などなかったというのに。そのうえ、あたしをこの使命から降りさせようとしている。

 そして、彼自身は勇者を降りるとは一言も言っていない。

 彼がどういうつもりなのかはわからない。もしかすると、彼はまっとうな正義感の持ち主で、あたしの負担を考慮して自分から勇者の任を全うしようとしている、あたしよりもよほど勇者の資質を有する人物なのかもしれない。だとすればなおさら、あたしは彼にこの使命を任せられない。どうしようもなく、私的な理由で。

「あたしは……帰らない……」

 にこやかな表情のまま、彼が目を細める。

「へえ」

「ドラゴンを殺さないで済むような……もっと別の方法が、きっとあるよ」

「そんなことはできないさ。あんたはこの世界のルールを何もわかってない」

 やけにはっきりと断言する――。あたしと同じ、異界から来た立場なのに、この世界のことをよく知っているみたいだ。だったら教えてくれればいいのに。カチンとして、ついやっきになって言い返してしまう。

「知らないよ、そんなの。この世界のこととか、勇者の使命とか。わからないよ。でも、あたしにだってわかることはあるの」

「――何が?」

 問い方で、はっきりと見くびられているのがわかる。あたしは男子高生の顔を注意深く見つめながら言った。

「あたし、たぶん、あなたのことを知ってる」

「……はぁっ!?」

 予想していたのと180℃違う発言に、男子高生があからさまに動揺する様子が見える。

「その制服、末高だよね? 同じ高校だよ」

「お、同じ……?」

 学ランの見た目なんてどの学校もだいたい同じようなものだが、腕章に校名が書いてあるので、見間違うことはない。あたしの方はすでに制服から着替えていたので、彼にはわからないことだけど。

「日本ってか同じ市内じゃねーか! どんだけ近場で選んでんだよ。ウェルノス!」

 男子高生は素になって叫ぶと、狼の背に顔を埋めた。あたしとリオノスみたいに、彼も狼と何かを話しているのかもしれない。顔を隠したまま、うめくように訊いてくる。

「何年生……?」

「二年」

「同じ学年じゃねーか。むしろ顔を知らない方が不自然だよな……」

 あたしの顔を見直すためなのか、彼が顔を上げる。またすぐに隠されそうに思ってあたしは慌てて制止した。

「待って、もう少しで思い出せそうなんだよね。あなたの名前」

「お、思い出さなくていい! どうせ校内テスト順位とかだろ」

「頭いいんだ? でも違うと思う。あたしいつも上位者リストなんか無関係だから、見ないし」

「……ごめん、俺は全然覚えてない……むしろクラスの連中の顔すらあやふやだし……」

 正直に自己申告してから、彼がおずおずと訊いてくる。

「その、どっかで、会った……?」

「何か、気になることがあって、あなたの名前を調べたことがあったんだよね。でも、あなたはあたしのことを知らないと思う。あたしが一方的に知ってるだけ」

「気になることって、なんだよ」

 もどかしそうに言って、男子高生が口を尖らせる。

「うーん、なんだっけ? 名前を調べたら満足しちゃって、肝心の何があったかが思い出せない……」

「ハァ……!? なんだよそれ」

 我ながら、むちゃくちゃな話だとは思う。でも事実なんだから仕方がない。あたしはそのときの記憶を追想した。別のクラスの名簿をわざわざ辿って、名前を探り当てた。そこまでしたのに、どうして忘れてしまったのか、あたし自身疑問だ――。

「蔵じゃなくて、なや……。納谷時貴……でしょ!」

「……合ってる」

 その瞬間、彼が赤面しているのを見て、あたしまで恥ずかしくなる。

 率直に言ってしまえば、それは片想い未満の、もっとずっとほのかな好奇心だったはずだ。名前を調べたり、こっそり別のクラスを覗き見してみたり、廊下ですれ違ったときに目で追ってみたり。ただ、それ以上発展することもなく、なんとなく忘れてしまったというだけの――。そこまでは、彼に告げる必要はないと思うけれど。

「あたしは、高井衣火。よろしく」

「た、高井さん……? よ、よろしく……」

 こんな異世界で、一体何をよろしくするのか正直よくわからないまま、あたしたちは頭を下げあった。

 それがおかしくて、つい笑ってしまう。

 納谷くんはまだ釈然としない顔をしている。以前どこで会ったのかをまだ追求したそうだ。どうやって話を変えようか思案しているとき、懐かしい脳天気な声が脳内で響く。

(キーヌカ~!)

 客観的には、猛獣の咆哮として聞こえる。翼の生えたライオンがこちらに向かってくるのが見えた。ウェルノスと納谷くんが身構えた横を、翼獅子が素通りしてあたしに跳びかかった。

(もー、心配したよ~!)

 猛獣の巨体に飛びかかられるように抱きつかれて、地面に尻もちをつく。その体勢のまま、顔を執拗に猫パンチされて、あたしは怒気をこめてリオノスを押しのけた。

「リオ!」

 内心は涙が出そうなほどの安堵を感じてリオノスを抱きしめたい気持ちもあったけれど、なぜか人目のあるところでそうするのは自制心が働いた。かわりに、ひげぶくろのあたりをひっぱってやる。猛獣とじゃれあうのは命がけというが、不思議とリオノスとはかすり傷ひとつ追わないし、恐ろしくもない。聖獣との契約者であるということが、影響しているのだろう。いつの間にか、リノオスを自分の分身のように思っていることに気づく。普段あまり意識しないけれど、側にいないと落ち着かないし、なんだか不安になる。

(元気そうだね)

 気の済むまで顔をいじくりまわされたリオノスが、問いかけるまでもなく、そう結論付ける。

「まあね」

 最初はびっくりしたけど、彼はあたしを傷つけるつもりで攫ったわけじゃない。むしろ、逆だった。でも、他の人の目にはどう映ったかは言うまでもない。

「キヌカ」

 あたしはリオノスがきた方角から近づいてくる人物を認めて、リオノスを放り出して立ち上がった。それとなく納谷くんの隣に移動する。

 銀髪の非現実的な美貌の人物がこちらに近づいてくる。イクタ王子だ。リオノスに乗せてもらってきたのかもしれない。その手が剣の柄にかかっているのをみて、納谷くんの顔が強張るのがわかった。

 ふたりがどういう反応を示すのか、まるで想像がつかない。つまり、先手を打つしかない。

「イクタ王子、この人は――」

「そいつも異界の勇者だな」

 紹介の言葉にかぶせるように言ってくる。むしろ話が早い。

「この人は、あたしの同級生の納谷時貴くん。同じ世界からきて……」

「知り合いか?」

 納谷くんに目を向けたイクタ王子の表情が一瞬歪んだ。普段表情筋が完全に死んでいるのではないかと疑われる彼が、そういうふうに感情を表に出すのは稀だった。

「彼は……味方だから」

 少しだけ、嘘の痛みを感じながら、そう補足する。

「あんたがなんとかっていう王子様? 悪かったなあ、あんたの獲物を奪って」

 納谷くんの言葉を引き金にするように、黒狼が鼻梁にシワを寄せて低く唸る。彼は得意げな表情でウェルノスの首筋を撫でた。イクタ王子はいつもどおりの無表情で冷めた視線を返しただけだが、まだ腰の剣から手は引いていない。

 あたしの気遣いを無に帰した納谷くんに恨みを感じながら、緊張感を漲らせるふたりの間で冷や汗をかく。

「勇者が二人、か……」

 最初に目をそらしたのは、イクタ王子だった。

「なんにせよ、ルビリムは倒れた。もうここには用はない」

 外套を翻し、背を向けて歩き出す。

「キヌカ、戻るぞ。リオニアに」

「あ、はい」

 背中越しに言われて、あたしは反射的に返事をした。

「む、無視かよ……」

 横で納谷くんが呻くのが聞こえるが、同情はできない。

 あたしはイクタ王子の背中を追いかけながら言った。

「あの、あの人たちは? トマクト族の人たちはどうなったの?」

 最後に見たとき、彼は囚われの身だったはずだ。それがここにいるということは、ピンチは脱したということだけど、今度は逆にトマクト族の人たちの安否が気にかかる。

「軽くふっ飛ばしてやったがな。殺してはいない。おまえと違って手加減は得意だ」

「うっ……」

 先ほどの醜態を思い出して、あたしは言葉に詰まった。今までの経緯を考えると、イクタ王子に斬られる心配をしなくちゃいけないのはどちらかといえばあたしの方のような気がする。

 彼の足を引っ張って仲間割れした挙句、命まで危険に晒した。そこまでして庇ったルビリムは納谷くんに倒されたうえに、彼の行動には生贄の少女を助けるという立派な理由があった。

 それに比べてあたしは、計画を無視してイクタ王子の足を引っ張っただけ。恥じ入るしかない……。

「――て、手加減て」

 地面にめり込むほど落ち込む寸前で、あたしはイクタ王子の言葉を聞きとがめた。

 そういえば、顔がめちゃくちゃになるほどオーフに殴られていたはずの彼の顔から、いつのまにか傷がすっかりなくなっている。

 あたしにできなくて、彼にできない理由はないだろうから、おそらく魔法でなおしたのだろうが――。

「もしかして、わざとやられるフリをしてた……?」

「ルビリムの前で迂闊なことはできないからな。黙ってやられたのはやつの隙を伺っていたからだ。おれがあんな五流魔法使いに負けるわけがないだろう」

「で、ですよね……」

 一人でドラゴンと対等に渡り合える魔法使いが、普通の人間が何人か束になったところで倒せるはずがない。冷静に考えればわかりそうなものだが、あのときは必死すぎて、そこまで頭が回らなかった。第一、バアードが五流かどうかなんてあたしには知りようがない。もっとも、彼がドラゴンに変身しなかった時点で本気でないと見抜くべきだったのだけれど。

 自分の間抜けさにため息をついて、とぼとぼとイクタ王子の後を追おうとした――瞬間。

 腕を引っ張られて、立ち止まる。振り返ると、納谷くんがあたしの腕を掴んでいた。

「おい」

「な、何?」

 なぜか真剣な顔で見つめられて、ドキリとする。いままで深刻な話を軽い態度でしていたくせに、今の彼には冗談がない。

「……やっぱあっちの世界に戻るのはやめだ。帰るな」

 掴まれた手に、簡単には振りほどけないほどの力が込められるのを感じて、居心地の悪さを感じる。

「帰れって言ったり、帰るなって言ったり。帰らないから、いいけど」

 帰る方法は、うすうす感づいていた。リオノスがこちらにくるときに使った、界渡りの魔法。リオノスはまず間違いなく使うことを嫌がるだろうけれど、彼に命令する方法をあたしはすでに知っている。でも、やらない。今は、まだ。

 それはさっき決意したことだ。他でもない、彼の所為で。

「俺より先に帰らないと約束してくれ」

 何故か彼は食い下がった。

「どうして?」

「そ、それは……一緒に行動した方がいいだろ? 何があるかわからないし。異世界だし。ひとりより、ふたりの方が安全だ。……そうだよ。うん、そうだ」

 勝手に言って勝手に納得している。あたしとしても、否定する理由はない。

「じゃあ、あなたも一緒に来るのね? リオニアに」

 問いかけると、まるでそこまで考えていなかったというように納谷くんは少し変な顔をして、イクタ王子の方に視線を投げた。

「まあ、そういうことに、なるな……」

 あたしはともかく、イクタ王子が合意するか不安なのだろう。彼はリオニアでも勇者の歓迎ぶりを知らないから。

「よかった」

 なんとなく視線を下に走らせる。まだ腕を掴んだままだったことに気づいて、納谷くんが慌てた様子で手を放した。

 イクタ王子の姿を目で探す。彼は先に行ってしまったかと思ったけれど、まだ丘の端のあたりに立ち止まっていた。

「あの……あのさ」

 イクタ王子の方へ半ば歩き出しながら、納谷くんの呼びかけに振り返る。

「俺も……キヌカ、でいいよな。学校じゃないんだし、その方が自然な感じするだろ?」

「じゃあ、あたしもトキタカって呼ぶね」

「えっ……」

 自分で言い出したくせに、どうしてそこで驚くのか。彼の動揺を疑問に思いつつ、あたしは先に行ったイクタ王子の方へ駆け寄った。

 イクタ王子は丘の端のあたりで立ち止まっている。見晴らしのいいその場所からは、トマクト族の騎馬が儀式場を発って走りだすのが見えた。ヒームインに帰るのだろう。ルビリムが死んだことで、彼らにどんな影響があるのかに思いを馳せる。あたしが心配しても意味のないことではあるけれど。

 あたしはイクタ王子の視線が儀式場ではなく、もっと手前の地点に注がれていることに気づいた。平野に目を凝らして、馬二頭を連れたアウスンがこちらに向かっているのに気づく。

「アウスーン!」

 手を振ると、彼も大きく声を上げた。

「王子ーっ! キヌカさーん! あーっ、誰ですか、その男は!」

 慌てたためか、馬の手綱操作を誤って、もたついている。あたしは思わず微笑みを浮かべた。

 イクタ王子はどうやら迎えに行くつもりはさらさらないらしい。平野に風が流れていくのをぼんやりと眺めている。

 あたしはいつの間にか隣に来ていた納谷くん――トキタカに問いかけた。

「ねえ、いいの?」

 遠ざかっていくトマクト族の一団に視線を移す。

「あの子を行かせちゃって」

「いや、べつに……」

「すごい美人だったよね」

「か、関係あるか、それ?」

「……ふうん」

 トキタカを儀式の場に手引したのはおそらく生贄の巫女なのだろう。あたしたちを前の晩に匿ってくれた人がいたように、トマクト族の人全員がルビリムとの取引を受け入れていたわけではない。

 裏切りをしたあの少女は、オーフたちから責められたりはしていないだろうか。あたしの不安を打ち消すように、トキタカが言った。

「あいつは……なんとかやるだろ。俺なんかよりよっぽどしっかりしてるよ」

「そう……」

 生温い風を感じる。ルビリムが倒れたあと、晴れ渡っていた空が再び陰りつつあった。

 ぽつぽつと頬を打ち始めた雨粒に手のひらを広げて、誰にともなく呟く。

「これは……? ルビリムの恵み?」

「雨季がきたんだろう」

 イクタ王子が相変わらずの素っ気なさで言った。

 誰も外套のフードを被ろうとしないまま、あたしたちはしばらくのあいだ、降りだした雨に打たれ続けた。

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