第11話 二度と傷つけない

 ドラゴンの胴体は雨雲と一体となって天空の霞に隠されている。関節が盛り上がった骨のように細い六本足が雨雲の中からまっすぐに垂れ下がっている。その鋭い足先は接地していない。風と同じ速さで近づいてくるドラゴンの足音は、雨音だけ。

 彷徨い竜ルビリム。

 四大ドラゴンの一匹。リュトリザに住む唯一のドラゴン。

 舞台の目前で、雨雲は動きを止めた。

 ドラゴンの足先が開いて、羽根のように枝分かれした。それが指なのかどうかわからないが、地面に接地する直前それは見えない層に浮かぶように水平に展開した。地面から一メートルほど浮かんだまま、六本の足が外側に開いて、関節が外側に折れ曲がる。それにしたがって、ドラゴンの胴体が雲の中から姿を現した。頭部は痩せた馬に似ている。長い首から胴体にかけては鋭い棘のような透明な毛に覆われいた。

 端的にいって、異形だ。けれど、ドラゴンの周囲に振り続ける雨が、透明な毛を濡らし、表皮を覆う薄紫の鱗を濡らし、幻惑的な煌めきを帯びさせるのだ。

 ドラゴンの頭が地上近くまで下ろされ、大きな黄色い目が、トマクト族の巫女を捉える。

 巫女はすでに踊りをやめ、跪いている。いや、そこにいる全員が同じように頭を下げている。

(わたしを呼んだか、わたしの民よ)

 やまびこのような声が周囲に響いた。音そのものの意味を取ることはできない。リオノスの念話と同じように、頭のなかに直接意味が送り込まれている。

「呼びかけにお応えいただき、ありがとうございます」

 巫女が跪いたまま言った。

(構わぬ。わたしの放浪は長らく風の向くままであった。こうして引き寄せられるのも悪くはない)

「キヌカ、上から接近するんだ。不意を打つ」

 イクタ王子が背後で囁く。あたしは答えずに、リオノスをむしろ後退させた。

「……!」

 イクタ王子が背後で身動ぎするのを感じる。

「ちょっと待って……あとちょっとだけ」

 ドラゴンの低い唸り声のようなものが響く。それが笑い声なのだと気づくのに少し時間がかかった。

(……もう一度わたしに舞を捧げるがよい)

「わかりました」

 砂色ケープを翻して、トマクト族の巫女が再び舞台を舞い始めた。

 静かだった。

 トマクト族の男たちはルビリムの姿にすっかり気圧されて、物音ひとつ立てない。聞こえるのは巫女の足音と雨音だけ。

「本当にルビリムは、狂っているの……?」

 彼は狂ってない。少なくとも、今は、まだ。

「キヌカ!」

 抑えた声のまま、イクタ王子があたしの名を呼んだ。直後、背後の重みが消える。イクタ王子がリオノスの背から飛び降たのだ。普通の人間なら死ぬような距離を落下し、外套を翻してトマクト族の男たちと舞台の間に軽々と着地する。

「イクタ王子!」

 あたしも慌ててリオノスを降下させた。

「やはり来たか!」

 オーフと部下たちが一斉に立ち上がってイクタ王子に向かって弓を構える。幾つかの矢がイクタ王子に向かうが、彼に到達する前に空中で燃え落ちた。

「待って、イクタ王子!」

 彼がドラゴンに変身しようとしているのを察して、あたしはルビリムとの間に割って入る形で地上に降り立った。

「やはりわたしひとりで来るべきだった。そこをどけ、キヌカ」

「どかない! ルビリムは正気を失ってない! だったら殺す必要はないじゃない」

「今は狂っていなくとも、いずれは狂う」

「どうしてそう言い切れるの。ルビリムにも聞いてみればわかる。ねえ、教えて、ルビリム!」

「勝手に話しかけるな、小娘!」

 巫女を差し置いてドラゴンに呼びかけたあたしに、オーフが怒りをあらわにしたものの、ルビリムの視線が巫女からあたしへと向けられるのを見て、邪魔はしなかった。

(聖獣を従えし者か……)

 ルビリムの視線に肌が泡立つ。ドラゴンの視線は死の宣告だ。魔力を動かせば、いつでもあたしを魔法で殺すことができる。もちろん、リノオスはその攻撃を防ぐことはできるはずだ。

 恐怖を振り払い、叫ぶ。

「ルビリム。あなたはこの人たちを――人間を傷つけたりしないでしょう?」

(……わたしはいつでも我が子孫の繁栄を願っている。彼らはわたしの撒いた種。わたしがこの地に雨をもたらし、育てた種だ。どうして自ら滅ぼすことがあろうか)

 言葉の内容そのものよりも、話が通じる存在であるという驚きがある。なんにしても、正気の証明としては十分だ。

「ほら!」

 喜びのままにイクタ王子の方を振り返った瞬間、背筋が凍った。目の前に白刃がある。イクタ王子が、あたしに向かって剣を突き付けていた。

「そこをどけ、キヌカ」

「どうして……」

「これから狂うものの言葉に意味は無い」

 淡々とした声に、胸に刃を差し込まれたような心地がする。あたしは信じられない思いで、彼の目を見た。

 その冷たい色の目には、なんの揺らぎも見つからない。

 これは壮大な茶番なのではないかという疑念が過ぎって、あたしは笑い出したくなった。

 あたしがした正気の証明の無意味さは、そっくりそのままイクタ王子に返ってくる。

 彼がドラゴンなのだとしたら。

 ルビリムが狂うなら、彼も狂う。

 ルビリムが死ななければならないなら、彼も死ななければならない。

 それをわかっていて受け入れるのだとしたら。

「あたしにはわからない。あなたの考えていることが、わからない……!」

 目を閉じた瞬間、涙がこぼれ落ちたような気がした。あたしは彼と戦えない。彼を止めることなどできない。彼はルビリムと戦うだろう。

 そのまま、あたしは何かが起こるのを待った。

 戦いか、死か、何かが。

「おれは……」

 イクタ王子の声が聞こえて、あたしは目を開いた。まだ、何も起こってはいなかった。突きつけられた剣が、ゆっくりと下ろされていく。

 自分自身でも信じられないといった目つきで、イクタ王子がそれを見つめている。彼はどこか呆然とした様子で言った。

「……おれは、おまえを二度と傷つけないと誓った」

「王子!」

 クマクト族の男が彼の背後に回っていることに気づいて、叫ぶ。イクタ王子が後頭部を殴りつけられて地面に倒れる。またたく間に、数名の男たちが彼を取り囲んだ。武器を奪われ、地面に押さえつけられる。あたしは自分の周囲も武器を持った男たちに囲まれていることに気づいた。リオノスが横にいるから恐れて近づいてこれないだけだ。

「仲間割れは終わったか。儀式を汚しおって」

 オーフが苦々しい顔で言う。彼の背後からバアードが進み出てくると、イクタ王子の姿を見て顔に喜色を浮かべた。

「まさかまさか、本当にリオニアの王子がこのような辺境においでになるとは。本来ならば手厚くもてなしたいところですが、竜の血を引く高貴な血筋はいまや恥知らずな盗賊に成り下がってしまったようだ。ストレックだけでは飽きたらず、わが国のドラゴンまで殺しにくるとは」

 地面に押さえつけられたイクタ王子の白い顔に、血の筋が流れる。バアードはその顔を覗き込んでから、恐れるように肩を竦めて距離を取った。

「しっかり押さえつけておけよ」

 男たちが拘束を強めたのか、イクタ王子がうめき声を上げる。

「やめてよ!」

 あたしの叫びを聞いて、バアードが振り返る。

「異界の勇者とやら。お嬢さんは正しい。狂っているのはドラゴンではなく、この男の方でしょう。なんといっても、実の父親を殺したのですから」

「父親……? なんの話?」

 リオニア王とは、リオニアを出る前にも挨拶をしている。生きているのだから、殺されるはずはない。

 バアードは大げさに驚いた表情をして言った。

「なんと、ご存知ない? 彼の素性を? なに、これは秘密でもなんでもありません。リオニア国民であれば誰でも知っていることです。イクタ王子は現リオニア王の本当の息子ではない。初代リオニア王ストレックが、人里の娘に生ませた子です。皮肉にも、もっとも色濃くリオニア王家の血を引くものとして、現王家に加えられただけの――ドラゴンの子なのです」

「初代リオニア王……?」

 ストレックが……? 何を言っているのかわからない。

 押さえつけられながらも、イクタ王子が顔を上げ、バアードを睨みつけた。

「おれは……一度だってストレックを父親だと思ったことはない。父はオロヴィス、母はアロレイア、兄はアトレン――。おれの家族はその三人だけだ。ストレックは偉大な王であり、強大なドラゴンだったかもしれない。だが、その本質が、力を得て長く生きすぎたただの人間であることには変わりがない。そのルビリムも、もとが何だったか知れたものではないが――決して、神などではない!」

「だから殺すだと?」

 不意に、オーフがイクタ王子の胴体に蹴りを打ち込んだ。身体を丸めて地面に倒れた王子の胸ぐらを掴み、さらに数発の拳が顔に叩き込まれる。

「思い上がるな。お前にわれわれのささやかな恵みを奪う権利はない」

 静かな怒りをみなぎらせて、オーフが言う。

「まあ、待ってください。オーフ。この男はわたしがとどめを刺さなくては。まさか、わたしの人生にこのような好機が巡ってこようとは。フフフ……」

 バアードが部下から剣を奪い、倒れたイクタ王子に近づいていく。

「ついに、湖畔の魔法使いどもが、すべからくわたしにひれ伏すときが来る……!」

(キヌカ、そろそろ助けてあげた方がいいんじゃない……?)

「だったら、やってよ、リオ。魔法でなんとかしてよ……! できるんでしょう!?」

 リオノスが吼えて、あたしの手の中に巨大な鎌として変化する。

(鎌を振るんだ、キヌカ。キミが振らないと、ボクは魔法を使えない)

 身体が震えるのを感じながら、鎌の柄を握りしめる。周りを囲むクマクト族たちが武器を構えながら、じりじりと距離を詰める。リオノスが消えて、逆に制しやすくなったと思っているようだ。

 バアードはあたしの様子に気づいて振り返る。

「おや、そんな物騒なものを持ってどうするつもりかね。キミも魔法使いか? あの翼獅子といい、胡乱な魔法を使うようだが、本当に勇者だというならこの窮地を脱してみたらどうだ?」

 バアードはあたしを侮っている。異界の勇者のことなど信じていないのだ。彼は致命的な勘違いをしている。

 あたしは彼らを恐れているのでない。

 あたしは彼らを殺してしまうことを恐れているだけだ。

(魔法の出力はボクが調節するよ。死なない程度に。だから鎌を振ってよ、キヌカ)

「……できない」

 傷ついて倒れているイクタ王子の姿が否応なくあのときのことを思い出させる。イクタ王子を切り裂いた、手応えのない力の感触が。

(イクタ王子が、殺されてもいいの?)

 頭ではこのままではいけないとわかっているのに、身体が硬直している。

「だって、できない……!」

 冷たい鎌の感触に嫌悪感を覚えてあたしは手を放した。

 カラン、と音を立てて、魔法の鎌が地面に転がった。あたしは力なく地面にへたり込んだ。

 イクタ王子があたしを二度と傷つけないといったように、あたしも、二度と人相手にこの鎌を振るいたくない。

 トマクト族の男たちがあたしを拘束し、それを見てバアードが声を上げて笑った。

(……話は終わりか? 聖獣を従えし者よ)

 それまで黙っていたルビリムが声を響かせる。

「おお、ルビリム、われらの恵みの神よ。とんだ茶番をお見せして申し訳ございません。さあ、巫女よ、儀式を続けるのだ!」

(……願いを言うがいい)

 ルビリムの頭が、舞台の上の巫女に近づいていく。そこであたしは巫女がいつの間にか二人になっていることに気づいた。跪く巫女の隣に、もう一人、砂色のケープを被った者が立っている。

 砂色のケープの下で、何かが光を受けて煌めく。

 黒い――漆黒の――滑らかな刃……。

 もう一人の巫女が舞台を蹴る。漆黒の剣を手にしてルビリムに飛びかかる。剣がルビリムの頭に向けて振り下ろされる。

 ルビリムの鼻先から血が吹き出し、舞台上の巫女に降りかかる。ルビリムが耳をつんざく咆哮を上げて、頭を振る。

「浅いかっ……!」

 二人目の巫女は着地すると同時に剣を地面に突き立てた。前方、ルビリムの真下に、大規模な魔法の気配が満ちる。

 先ほどの動きで、砂色のフードが脱げている。少しクセのある黒い頭髪と横顔を見た。髪質だけが本物の巫女と似ている。はっきりとした造作までは確認できない。ただ、あたしの記憶の中に繋がるものがあった。

 巫女ではない。若い男の輪郭。

 ――あいつ、万引き犯だ!

 一瞬の認識のあと、魔法が現実化した。突き立てられた剣から先の地面が、見渡す限り粉々に砕け散った。ルビリムの足の下が陥没し、ルビリムを支えていた浮力が消滅し、胴体が地面に叩きつけられる。

「これが目一杯だぞ、ちくしょう!」

 巫女、もとい万引き犯が黒い剣を地面から引き抜き、地面に打ち付けられたルビリムの頭に再び向かおうとする。

 ――駄目だ、間に合わない。

 あたしはルビリムが落下する直前に魔力を放っていることに気づいた。黒い剣の魔法よりもさらに規模が大きい。あたしは唖然とする男たちの拘束を振り切り、地面に落ちたままの魔法の鎌に飛びついた。振り返り、目の前に突き出す。

「リオノス! あの人のことも守って!」

 鎌の柄が熱くなり、大きな力の放出を感じる。鎌の――リオノスの中に秘められていた、ストレックの魔力!

 空が白く凍る。球形に凍った空にヒビが入り、頭上に凍った空気の粒が降り注ぐ。あたしを中心とした、円形の範囲の外の平原が一面白く染まっている。ルビリム周辺に降る雨が氷結して霰となって降り注ぐ。

 かろうじて、人のいる範囲の魔法は無効化できた。

 ――全員巻き添えでも構わないつもり!?

 ドラゴンとの口約束の信用なさを内心呪う。

「クソが!」

 万引き犯が半分凍ったケープを脱ぎ捨て、飛び出す。黒い、継ぎ目のない金属でてきた剣――あれはあたしの鎌と似ている――が、ルビリムの頭に突き立てられる。

 そう思った瞬間、ルビリムの頭は陥没し、弾けた。瞬間、衝撃波のように、猛烈な風が凍った平原を吹き抜け、そして戻っていく。

 膨大な魔力へと還元されたドラゴンが、黒い剣のもとに吸い込まれていく。

 風が収まったあと、ルビリムの肉体はグズグズの黒い塊になっていた。ルビリムの魔力を吸った剣を、男が引き抜く。彼は悠々と舞台に戻ると、呆然とする人々を見渡して、最後に、あたしに目を止めた。

「驚いたな。まさか、勇者がもう一人いたとは」

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