第2話 ゲームじゃない
筋肉の隆起した黒毛の身体。歪曲した角と、つきだした鼻。そして藪の枝を踏み潰して進む蹄。
ここからでも、それの荒い鼻息が聞こえる。
一言で言えば、牛だ。
最大の違いは二足歩行しているということと、両手はひとに近い形になっており、ものを掴むことができることだ。右手に石の棍棒――というかただの瓦礫みたいなものを持っている。また、胴体は灰色の斑模様になっており、硬質の石のようなもので覆われていた。
「……なんなの、これ」
あたしは唖然として言った。例のふわふわが、あたしの腕によじ登って肩の上に乗った。
(ボクにもとの力があればあのくらいの魔物を追い払うくらいはわけないんだけど、今往復で界渡りの魔法を使ったばかりだから、ちょっと間が悪いんだ)
「魔物……? 界渡り?」
もはや、このもふもふが人語をしゃべってることについては疑いようがなかった。ライオンがしゃべったのだから、こいつもしゃべるのだろう。
「もしかして、ここは地球じゃない……?」
(そうだよ。ここはテルミア。天空の神ミア様の治める世界さ)
「ええ……?」
あたしはもふもふの言葉を聞き流しながら、逃げ場を探して周囲を見回した。森の中を駆ければうまくまけるかもしれない。でも、あいつの動きの速さによっては、あっという間にあの棍棒のシミになりかねない。
「どうしよう……」
(戦うしかないよ)
もふもふが肩を降りて、あたしの手の中で跳ねた。
ふかふかした毛の感触の代わりに、手のひらに別種の重みがかかる。あたしの手に、身の丈ほどもある継ぎ目の見えない金色の金属の棒が現れた。棒の先端には、大きく歪曲した同じ材質の刃がついている。
――鎌だ。
金色の鎌。だけど、この硬質な感触は金ではありえないし、どんな材質であれ、この大きさの金属にしては重量が軽すぎる。
「何、これ……これで戦えっていうの?」
(難しく考えなくてもいいよ。レベル1とはいえ、キミは勇者なんだから。あれしきの魔物、当てれば勝てるよ)
「当てればって……!」
あたしは焦りを覚えながら鎌を構えた。素手よりは幾分マシになったけど、状況は大して改善していない。
「だいたい、レベル1ってなによ。ゲームじゃないんだから」
(キミのわかりやすい概念に翻訳したつもりだけど。ダメかな?)
それに返事をする余裕はなかった。あたしの存在に気づいた牛の魔物が興奮してこちらに向かってきたからだ。
「バ……モォーッ!」
ドスッドスッと重苦しい足音を立てながら、数十メートルの距離を魔物が突進してくる。
あの棍棒をかいくぐってこの鎌を――。
と、考えるのは簡単だけど、牛の巨体の圧力が増すにつれて、足に力が入らなくなる。
――だ、だめ。
あたしはバカみたいにつったったまま、鎌を掲げて、目を閉じた。
ガキンッ。
あたしは鎌で魔物の攻撃を受け止めた――わけではなかった。
あたしの目の前に全身鎧に身を包んだ人物が大きな丸盾を構えて立っている。牛の棍棒を防いだのはその盾だ。
「あなたは下がってください! 王子!」
鎧の中から意外に若い声がする。彼が誰かに呼びかけたと思った瞬間、頭の上を牛の魔物の右腕が棍棒ごと切り飛ばされて通過した。
「ひえっ」
断面から滴る血の飛沫から身を縮める。あたしたちの目の前で、クリーム色のマントが翻る。いつの間にか、あたしたちと魔物の間に、男の人が立っている。彼はマントをまとわせるように身体を回転させた。その下から剣が閃き、魔物の腹を薙ぎ払う。
しかし、その刃は牛の硬質化した皮膚に阻まれ、止まる。
「ン……ゴオオーッ」
怒りの声を上げて、魔物が無事な方の腕で彼を打ち付けようとする。すんでのところで、剣を手放し、魔物の身体を蹴って後ろに飛んだ。そうしながら、左手を前につきだす。
それは不思議な感覚だった。
あたしは確かに、何もない空間に、何らかの力が凝固していくのを感じた。音でも触覚でもない、いままで使ったことのない感覚が訴えてくる。それをしているのは、彼――マントの人物だ。
魔物の胸のあたりに集まった何かは、爆発という形で現出した。あたしは全身鎧の人が構えた盾に守られていたけれど、それでも爆風から顔をそむけずにはいられなかった。
爆発の直撃を受けた牛の魔物が数メートル吹っ飛んで倒れる。マントの男は爆風で魔物の腹から外れた剣を拾うと、魔物の腹の上へと飛んだ。
硬化した皮膚の鎧を貫いて、まっすぐに心臓に剣を突き刺す。魔物は胸のむかつくような断末魔を上げながら事切れた。剣を魔物に刺したまま、マントの男がこちらを振り向く。
「すごい、倒しちゃった……?」
「さすがです、イクタ王子」
鎧の子がヘルムの顔の部分を開いて自分のことのように誇らしげに呟いた。ヘルムから覗いた顔は、ほとんど少年と言っていい若さだ。
(あーあ、キヌカ倒せなかったね)
「あったりまえでしょ!?」
もふもふの声に反論してから、さっきから声はするのに、その姿が見えないことに気づく。
(ここだよ)
きょろきょろしてから、あたしはハッとして自分の手をみた。手にしていた鎌が金色に光り、もふもふに姿を変える。
「あんたが鎌だったの!?」
(ボクはミア様の使いで、勇者の従者リオノス。キミの武器になって戦うよ)
「勇者って……それ、あたし? 本気なの?」
(だって、力を貸してくれるって言ったじゃないか。この世界――テルミアを救うために)
「後半は聞いてない! ――っていうか、やっぱりあのライオンもあんただったんだ」
(あっちが本来の姿だよ。今は力を使い果たしちゃってこんな小さくなってるけど。だからキミにはさっきの魔物を倒してほしかったんだ)
「それって――」
あたしが聞き返そうとしたとき、死んだ牛の魔物の身体が光の泡のようになって消えた。さっき爆発を起こしたなんらかの力と同じ感覚が喚起される。その力は魔物を倒したマントの人物に吸い込まれるように消えた。あとには黒ずんだ肉塊のようなものがひとかたまり残される。あたしが詳細に目を凝らす前に、イクタ王子が一瞥すると、それはボウッという音とともに燃え上がった。
「何……? 魔物を倒したら経験値になった――わけじゃないよね……?」
(まあ、そんな感じだよ。だからキヌカに倒して欲しかったのに)
「なにそれ、本当にゲームじゃないの」
(うーんと……)
リオノスが困ったように口ごもった。
あたしはマントの人物がこちらに近づいてきているのに気づいて口をつぐんだ。
改めて見る彼の容貌に息をのむ。年は二十歳になるかならないかくらい。モデルみたいに整った顔立ちとアイスブルーの鋭いなまざしが人を寄せ付けない印象を与えている。白に近い銀髪を長くのばして頭の後ろでまとめている。現代日本にいたら、白人だと思うだろうけれど、そういう尺度に落としこむには、少しずつ何かがズレているような気もする。
彼は全身鎧を着込んでいる少年に比べると胸当てと腕当てをしているくらいの軽装だった。全身が白と銀で統一されていて、王子と呼ばれていたのも含めて高貴な印象を受ける。ベルトと飾り紐は赤だった。それがなんだか返り血のように感じられて、少しぞっとするけれど、実際には、先ほどの戦いでついた汚れひとつ見当たらなかった。
「アウスン」
彼は鎧の少年に落ち着いた声で呼びかけた。
「はい、王子」
少年が折り目正しく答えると、彼はあたしを指さしてとんでもないことを言った。
「その女、錯乱しているようだが、大丈夫なのか」
「なっ……」
絶句して、反論できないあたしの代わりに、アウスンと呼ばれた少年が答える。
「あっ、イクタ王子、お言葉ですが、それは違うと思います。彼女は独り言を言っているように見えますが、実は、モフオンと会話しているのです。彼女が手にしているあの毛玉みたいなやつ、あれがモフオンです。モフオンは神の使いである聖獣リオノスの別の姿とも言われています。リオノスと意思疎通できるということが、彼女が異界の勇者であることのなによりの証です」
「異界の勇者……?」
怪訝そうに首を傾げて、イクタ王子があたしを見つめる。
品定めされるような視線にさらされたのと、狂人だと思われたこと、自分の状況について相手の方がよほど詳しいらしいこと、などの事柄が重なり、猛烈な恥ずかしさに襲われる。
この毛玉――リオノスの声は他の人間には聞こえていないんだ。どうやらあたしだけに――テレパシーみたいにして話しかけているらしい。リノオスに非難の視線を注ぐが、毛玉は涼しい顔をしている(というか、顔は毛皮に覆われてみえない)。
イクタ王子はあたしの風体をみて納得がいかなかったようで、あっさりと断じた。
「子供向けの伝説だろう」
「ですが……彼女、さっき魔法武器らしきものも持っていましたし……伝説の通りです」
上司が信じてくれなかったのが意外なのか、アウスンは子どもっぽく口を尖らせて反論した。彼はその伝説とやらを信じているのか、やけに詳しいようだ。あたしを見つめる視線にもどこか羨望の色を感じる。まるでサンタクロースにでもなったみたいで、それはそれで居心地が悪い。
「本当に聖獣リオノスが現れたのならともかく、わたしにはただの毛玉にしかみえない。第一、われわれに守られるようでは勇者とは言い難い」
グウの音もでない正論を言って、イクタ王子は自分の手の甲を叩いた。手袋には金糸の紋章が施されている。翼のある獅子の紋章だ。
「異界の勇者かはともかく、この辺りの人間でないことは確かだ。エスラディアの間者の可能性もある。拘束し、本陣に連れ帰る」
「はい」
内心はどうあれ、イクタ王子の命令にアウスンは素直に頷いた。
「われわれと一緒に来てください。悪いようにはしませんから」
「ちょっ、ちょっと待って。今拘束しろって言った? あたし捕まるの?」
「言葉を話せるんですか?」
アウスンが驚いた様子で目を見開く。
「もしかして、いままで通じてなかったの?」
(必要なときはボクが魔法で翻訳してるから安心していいよ)
リノオスがテレパスで伝えてくる。
(キミに他の人の言葉を伝えるのはテレパシーを使えばいいけど、キミの言葉を他の人に翻訳するのは、風の魔法で音を作らなきゃいけないから面倒なんだ)
「魔法でそんなことまで……」
自分の言葉をよくよく聞いてみると、あたしにそっくりな声で別の言葉が日本語に重なって聞こえる。一方、アウスンたちの声は音として日本語が聞こえるわけではないが、リオノスが意味を直接頭の中に送り込んでくるので、異世界の言葉でも違和感なく理解できていたというわけだ。つまり、先ほどのまでのリオノスとの会話は、彼らには日本語として聞こえており、意味まではわからなかったことになる。それでひとりごとの恥ずかしさが減じるのか、もっと恥ずかしいのかわからないけど。
「こんな高度な魔法を使えるなんて、やっぱりこの人は勇者なんだ」
アウスンがキラキラした目であたしを見ている。いや、やったのはリオノスなんだけど。イクタ王子はもっと慎重だった。
「結論を急ぐ必要はない」
「でも、彼女が本物なら、ストレック討伐の助けになります」
「誰であろうと、助けを借りるつもりはない」
アウスンはまだ何か言いたげな顔をしていたが、イクタ王子は取り合うつもりはないようだった。
「ここからは馬で移動する。その格好では難しいだろう。これを履け」
イクタ王子が荷物の中からズボンを投げてよこした。木々の向こうに移動し、制服のスカートの下から履く。
「これって、イクタ王子が履いてたものだと思う?」
(何考えてるのキヌカ)
「べ、べつに……」
ヒザ下まで長さのあるブーツももらったので、ローファーを履き変える。ちょっと変だけど、これで異世界でも様になったような気がする。
出発の準備が整った頃、急に森が騒がしくなった。頭の上を鳥の群れが通過していく。さらには足元をウサギや鼠などの野生動物が飛び出していく。まるで何かから逃げようとしているみたいだ。イクタ王子とアウスンは怯えて走り出しそうになる馬をなだめながら顔を見合わせた。
「ま、まずいですよ……」
そのとき、びりびりと身体が震えるほどのすさまじい咆哮が周囲に響き渡った。
一瞬、空が暗くなる。
いや、巨大なものが、真上を横切ったのだ。
風圧で髪が乱れる。ジャンボジェットが真上を通過したみたいなものだ。あたしはその質量の巨大さにとにかく唖然としながら、そいつが飛び去った方角を目で追った。あまりにも巨大なためか、離れていくはずの姿がまだ近くに感じる。
それは、あたしの馴染みのある言葉を使えば、ドラゴンそのものだった。コウモリに似た翼とトカゲに似た身体。長い尻尾。灰色の小さな竜二匹を従えて飛ぶ、黒い巨大なドラゴン。
「ストレック……! マートアの方角に向かっています」
「わかっている」
狼狽するアウスンに、イクタ王子は冷静そのものの口調で答えた。そして、あたしを手招きする。
「こっちへ」
彼は自分のクリーム色のマントを脱ぐと、有無を言わさずあたしの首に巻きつけ、荷物の袋をアウスンに投げ渡しながら言った。
「アウスン、おれは先に行く」
立派な白馬に飛び乗り、あたしの方をあごでしゃくる。
「おまえはそいつを連れてこい」
そして、イクタ王子は唐突に思い出したという様子であたしを見た。
「そういえばおまえ、名前は?」
「――キヌカ、高井衣火」
答えながら、あたしは落ち着きなくなめらかな手触りのマントに触れた。何の毛で織られているのかわからないけど、とてつもなく高級なのはわかる。
「あの、ありがとうございます」
魔物から命を救われたことか、服のことか自分でもわからないまま頭を下げる。顔を上げると、イクタ王子は、表情を変えないまま、少しだけ目を細めた。
「わたしはリオニア国第二王子イクタ。彼は従者のアウスン」
ヒヒン、と白馬がいななき声を上げる。
イクタ王子が馬に鞭を入れ、白馬を走らせた。森の小道を抜けて、その背中があっという間に見えなくなる。
「ぼくたちも行きましょう」
アウスンがあたしの横に馬を近づける。あたしはアウスンの手を借りながら、苦労して彼の後ろによじ登った。
「しっかり掴まってください」
走りだしてすぐに、前方で異変を感じた。
イクタ王子がさっき魔物相手に使った、見えない力の気配。それも、もっと大きくて、濃密な。
あの巨大な黒いドラゴン――ストレックに似た生物の鳴き声が響き渡り、突如銀色の竜が空を駆け上った。
一体どこから現れたのかわからない第二の竜は、やはりストレックの向かった方角へと飛び去った。
「――!」
あれがなんなのかアウスンに聞きたかったが、舌を噛みそうで黙っている。
広い道に出てすぐ、あたしたちは空の鞍を乗せた白馬とすれ違った。ちらりと見ただけなので確証は持てない。でも、あれほど立派な白馬がそう何頭もうろついてるわけがないのはこの世界に不案内なあたしにも想像はつく。
「ねえ、あれ――!」
「ええ」
やっとのことで声を出したあたしに、アウスンはそっけなく頷いた。舗装路に入って馬がスピードを上げたため、アウスンの腰にしがみついているのが精一杯で、それ以上追求できない。そもそも、初めての乗馬でいきなり走られて、あたしはほとんど泣き出しそうになっていた。
しばらく無心に馬を走らせていたアウスンが不意に口を開いた。
「あの銀色の竜――あれはイクタ王子のもう一つの姿です」
「ええっ!?」
「すみませんが、もっと飛ばします」
「ええーっ!?」
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