死神少女と心ない王子
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リオニア編
第1話 落っこちた
わたしは高井衣火。どこにでもいる普通の高校二年生。十七歳。女。
普通っていうのは、特別じゃないってこと。
人よりものすごく優れたところもなければ、ものすごく劣ったところもない。
コンプレックスは鼻が低いことだけど、でもべつにそんな繊細な神経をしているわけでもない。
ちゃんと両親がいて、お金に困っているわけでもなくて、大学進学用の積立をしてもらってすらいる。
要するに、恵まれている。
少なくとも、不幸じゃないから。
だから、まあ、多少のことは――耐えられる。耐えられると思っていた。
「よっと」
屋上の柵を乗り越え、反対側に着地する。同時に地上からの風が髪を巻き上げる。革靴の先からほんの十センチ向こうは中空だ。背中がぞくりと泡立ち、足元がふわふわした。
西の地平を焦がす赤が、宵の青が混じって消えていく。高校の裏庭には人気がない。すぐ下は砂利道で、もう少し先は芝生になっている。少し助走をつけて飛んだら、そこに落ちるだろう。芝生の上なら、痛くないだろうか?
きっと、死んでしまうにしても。
多少はマシになる?
ばかげた妄想をして、唇に自嘲を浮かべる。
――好きにすると決めただけ。
昔は高いところをみると登ってみないと気の済まない子どもだったのに、いつの間にか、いい子ヅラが本当の顔になって、その気になればいくらでも入り込める屋上にすらいままで来ようともしていなかった。ここからの眺めを堪能することすらせずに、教室の中でいつまで我慢しているつもりだったんだろうか。
手すりに右手を添えて、屋上の縁を歩く。足を徐々に早めていき、屋上の角で飛び出しそうになる身体を右手を軸にして向きを変える。
一回転して、両手で柵をつかむ。身体を前に倒して、後ろ手で身体を支える。
動機が早まり、息が上がる。
恐怖がすり替わって、なくなったはずの左肩の痛みが蘇る。
触らなくたってわかる。
残されているのは、醜い傷跡と恐怖。
あたしがひとつ勘違いしていたのは、あたしがどこまで耐えられるか、その境界線のことだ。
あたしは屋上からどんなに身を乗り出しても平気だ。
耐えられないのは落ちたときだけ。
その境界線はグラデーションになっているのではなく、0か1だった。落とし穴のように突然現れる。
『我慢の限界』を一瞬で踏み越える『耐えられないこと』。
佐田千奈津。
あの女――。
唇を噛む。
彼女があたしに向けた悪意に理由はなかった。たまたまだ。あたしがたまたまあそこにいて、あの女に出会って。体のいい標的だったからだ。
憎しみはある。でも、それはもうどうでもいい。
あたしは全部壊してやることにしたから。
柵の向こう側においてきた、ポリタンクとライター。
やることはとても単純だ。
あたしは仕事にとりかかるために柵の内側に戻ろうとした。身体を持ち上げて、手すりを跨ぐ。強い風が吹いたのは、その瞬間だった。
耳元でゴウと音がして、身体が浮く。
自然現象とは思えない、不自然な強い風は、わたしの身体を巻き込んで空に打ち上げた。一瞬で、空気の渦にもみくちゃにされる。前も後ろも、上も下もわからない。
空は晴れていて、嵐の前兆などなかったのに。何が起こったのかわからないまま、ふと風は止み、わたしは宙に投げ出された。
柵も、屋上も、手に届く範囲で、硬いものは何もない。屋上は身体ひとつ分も遠いところにある。わたしはただ空中をもがいた。もがきながら、ゆっくりと落ちていく。じれったいくらい、ゆっくりと。
ゆっくりと、何かが近づいてくる。
黄金の毛皮。白い翼――。
(助けてあげようか?)
いくら目の前のものが信じられなくても、自分の正気を疑っている余裕はなかった。
少年のような無邪気な響きのある声で、白い翼の持ち主は言った。
(キミが力を貸してくれるなら――)
白い翼で空を飛ぶ――それは、ライオンだった。
はいも、いいえもない。
あたしは当然――即座に――そいつのたてがみに手を伸ばした。
(イテテテ!)
毛を掴まれたライオンがやけに人間的な悲鳴を上げながら空中でバランスを崩す。あたしは必死でその身体にしがみついた。相手が猛獣だとか人語を話すとか翼が生えているとかに構っている場合ではない。何しろ、四階の高さから落ちかかっているので。
(ヒゲは引っ張らないで!)
「降りて! とにかく降りてよ!」
(じゃあ、いいんだね。契約を交わしても)
「契約でも何でもいいよ! 早くあたしを降ろしてったら!」
宙ぶらりんで腕力が尽きたら死ぬしかない状況下、浄水器や高額英語教材の契約書にもサインしかねない勢いであたしは頷いた。
(わかったよ、契約成立だ。異界の勇者よ!)
約束に反して、翼の生えたライオンは翼を大きく羽ばたかせた。
上昇するとともに、風が再び渦を巻き始める。あたしは前方に吸い込まれるような引力を感じた。
同時に、握力が限界に達する。
――落ちる、と思った瞬間、わたしは再びあの強風に巻き上げられた。視界が急に暗くなり、雷鳴のような音が聴覚を奪った。落ちているのでも飛んでいるのでもない、飛行機の中みたいに、物理法則を裏切るほどの力が渦巻く落ち着かない空間を通り抜ける。雨も風もないのに、三半規管が撹乱され続ける嵐みたいだ。
そのときあたしの手が、急に何かに触れた。
あたしはふわふわとしたライオンのたてがみを掴んだ。同時に、身体がぐっと前方に引っ張られる。
車酔いのもっと酷いものを抱えながら、あたしは地面に倒れ込んだ。
幸いにも、瑞々しい緑の草の感触があたしを受け止めた。大きな木々の枝が空を塞ぎ、どこかの梢から鳥の鳴き声がする。どうやら森の中らしい。現実離れして感じるほどの長閑さだった。
学校の側に、こんな場所はなかったはずだけど。一体どれくらい遠くまで飛んできたのだろうか。
胸のあたりがもぞもぞして、身体の下から毛玉のようなものが這い出してくる。
ハムスターよりは大きい。猫みたいだけど、身体の輪郭線がふわふわの毛で判然としない。それはあたしの顔のあたりでもぞもぞしたかと思うと、毛の中から鼻梁がつきだした。顔の他の部分は、まだ毛に潜ったままだ。
(キヌカ)
「……あたしの名前、どうして知ってるの?」
(そんなことより、早く起き上がった方がいいと思うけど)
バタバタという羽音とともに梢が揺れ、周辺の鳥が一斉に飛び立った。低い獣の唸り声が聞こえる。パキパキと枝を折りながら近づく足音。
なにかがまずいことが起こりつつあることは、言われなくてもわかった。
あたしはまだむかつきの残る身体に鞭打って起き上がった。
ちょうどそのとき、藪の向こうから、異形の巨体が姿を現した。
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