第2章
戸井田 ゲンゾウ(34) 4月1日
4月1日、人事発表の前、社長に呼び出された。
一体何故なんだ?
内示ならこんなギリギリなはずはない。
「社長、失礼します」ノックし社長室に入る。
ここに来るのは去年以来2度目だ。そう、去年の人事の後、東田さんに退職の申出をしたあの日…、直後に社長に呼び出されたことを思い出し嫌な気分になる。
一度は踏みとどまったが、これ以上惨めな扱いを受け続ける位なら、本当に何もかも手放してしまいたい。
「おう、戸井田、ここにかけなさい」社長が席から立ち上がり俺を迎え入れる。
社長室中央にある応接テーブルを挟んでソファが置いてある。社長に招かれるままそこに座り、社長と対面する。
人事についての話であることに間違いはないだろう。ただ、去年のような左遷が2度も続くものか。
あれ以来、俺はひたすら自制し、拗ねることもなく目の前の仕事に徹してきた。
派遣スタッフやパートさんとも仲良くやってきたし、よその地区ではボロボロとスタッフ、社員が辞めていく中、ウチのチームはほとんど誰も欠けずに1年間やってきた。
後ろめたいところなど…、あるはずもない。
重い空気がその場に満ちている。息が苦しい。
社長は口を開かない、長い沈黙だ。あの時以上に悪い報告でもあるというのか?
「今日発表する人事についてだが」
社長が口を開いた。
「君にとっては喜ばしいことではないが、担当地区を絞ることに決まった。派遣社員もなしで、一人で北関東、信越地区の一部を持つコース組みをしてもらう」
???
話が見えない。俺は降格なのか?
「いや、降格ではない。君の成績は文句無しの出来栄えだ。全科目目標達成、素晴らしい。営業部として良いお手本だ。東田もその点は強く推挙していた。だがしかし、どうにも君の評判は悪すぎる! 私は、間に受けているわけではないが、社員達から『戸井田さんの下では働きたくない』という申告があまりに多い! また、取引先との折衝も君の実力にしてはスムーズではない場合が散見されるな。やはり、そういうイメージは一度払拭しなければならないだろう。だから、君は今一度初心に返って、一人夫として自分の市場に専念しなさい」
確か、そんな主旨のことを社長は話していた。
理屈は分かる、確かに俺は2年前のあの一件以来、周りから人が離れていったことを十分理解している。
だから、前にも言ったように去年は一度たりとて社内で感情を乱すことなく、部下ではない後輩の面倒まで見てきたし、書店だって協力者を多く抱えている。
でなければあんなセールスが出せるはずがない。
とにかく、これは冤罪だ!
まるで濡れ着を着せられたような気分だった。
社長はその後も「今が辛抱の時だ」「会社を背負って立つには、僻まれることはある程度仕方ない」だとか俺を励ましてくれていた、ような気もするが正直、どうでもいい。
悔しかった。俺は何のために、働いてきたのだろう。
書店営業を通じて、啓心堂の書籍を供給、展開しエンドユーザーに手に取ってもらう、買ってもらう。その事にやりがいと喜びを感じ、書店員さんの役に立ちたい一心でこれまでやってきた。
それを、俺一人ではなく会社のみんなと一緒にやりたかった。
だから、俺が育ててもらったように後輩にも情熱を注いで、そいつを一人前にしてやりたいから本気で向き合った。時には感情的になることがあったとしても、それは俺が本気でやろうと固く誓ったからこそだ。
俺が最も憎むのは、馴れ合いと手抜きの仕事なんだ。これだけは譲れない。
しかし、その結果がこれ、か?
「ウチの会社で、厳しく部下を指導できる幹部は戸井田しかいないよ。これからも頼む」って、東田さんはいつも言っていたよな?
…信じた俺が馬鹿だったのか?
気が付けば、社長にお辞儀をして部屋を出ていた。
ほとんど自動運転のように、俺はそのままトイレに入り、個室の中でうずくまっていた。目が熱く、頭がボンヤリする。
思考回路は、同じ自問自答を高速で繰り返し続けてショートしかけている。何なんだ、この状況は??
視界が黒く染まっていく。
涙が流れているような気がするが、よく分からない。まるで夢をみているような、無限の奈落に落ちていくかのような、心地悪い無重力感に全神経が支配されてしまった。
そう、俺はこの日、何かが壊れてしまったんだ。
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