田辺 マリ(32) 4月28日 ①

 待ち合わせの時間まであと5分、私はJR池袋駅南口改札を小走りに駆け抜けた。その直後、「しまった、こっちは東口側だった」と軽く後悔し、足早に北口出口を目指す。


 ここ数日は、戸井田さんの事件についての取材から、仕事続きでまともにダンナと会話もしていない。

 しかし今日は金曜日だし、気付けば明日から世間はゴールデンウィークだ。街行く人々も18時からは、賑やかでゆったりしている。


 あの日、エリと会った後、私は表向きは記者として啓心堂出版の関係者、即ち昔の職場の人達を何人も捕まえては、話を聞かせてもらうようお願いして回った。

 最初に連絡した川谷さんからは「その件はごめん、あまり話したくない」とお断りされてしまったけど、代わりに何人か協力的な現役社員やパートさんを紹介してくれた。

 後から知ったのだけど、戸井田さんは川谷さんを含めた何人かにも暴力を振るい、怪我人まで出してしまっていたようで、よりによってその被害者の1人に真っ先に取材申し込みなどしてしまった、自分の間の悪さにほとほと辟易してしまう。

 ともあれ、その後は比較的スムーズにヒアリングを続けることができた。私が元社員であることもその助けにはなったが、会った人達は既に他のメディアや警察の任意聴取も受けていたりしていたようで、一様に慣れている雰囲気だった。むしろ、誰かに本当は話したいのに、内容が内容なだけに胸にしまっていたことを、ここぞとばかりにさらけ出してその開放感に酔いしれているかのような印象すら感じられた。


 北口地上出口から、西一番通りまで線路沿いの道から入り、目的地のイタリアンバルまで着く。私の時計では……、2分遅刻、うん、このくらいなら許容範囲だ。

「あの、7時から予約していた田辺です。はい、2名で…、あっ、もう入ってます? 分かりました、あっちのテーブル席ですね」と店員さんから案内されたところには、既に待ち合わせの「彼」こと私のダンナが着いていた。

彼はやや困り顔で笑いながら、手を挙げて自分の居場所を知らせてくれている。

「お待たせー、今日はピッタリだから私の方が先だと思ってたよ。仕事は大丈夫だったの?」

「うん、もう連休前だから、クライアントからの新規依頼も一区切りついているしね。おかげで今日はゆっくり社内で仕事の整理が出来たよ」彼がにこやかに話す。

 彼、田辺 秀明ひであきは、新卒で外資系の某大手コンサル会社に就職した。学生の頃はそんなインテリ?な雰囲気はあまり感じなかったのだけど、よく海外旅行に一人で行ったり、ボランティアに参加したりと活動的な一面があった。就職先も、インターン生からそのまま内定になったという。

 仕事内容は正直よく分からない、というか私にはあまり興味がないのだけど、戦略系コンサルタント、という肩書で大企業のプロジェクトに関わることが多いそうだ。けれど、スケールが大き過ぎて私にはついていけないし、守秘義務みたいなものがあるのか、彼自身も抱えている仕事内容まで詳しくは話さない。元々、彼はどちらかというと聞き役のタイプだというのもその理由かもしれないけど。

 だから、こうしてたまに外食をする時は、会話のペースから内容までほとんど私が舵を取ることになる。

 友達の話、仕事の話、旅行の話(私達の共通の趣味は旅行、それももっぱら海外旅行だ)と、その時話したいことならなんでも話すし、彼は全て聞いてくれる。その時の彼の素晴らしいところは、それがどんな内容でも適度に相槌を打ちつつ、たまに自分の意見を加えたりアドバイスしてくれたりすることだ。

そういう、相手に合わせつつもその場を一緒に楽しみ、実りある時間にしようと常に趣向を凝らしている姿は、人間的にも尊敬できる。私にはマネできない一面だ。


「乾杯はどれにする?」彼がドリンクメニューを示す。

「ビールも飲みたいけど、せっかくだからスパークリングにしたいな。甘口と辛口、両方とも美味しそうだね」

「わかった、じゃあ両方頼んで、二人でシェアして飲もうよ」とダンナが手を挙げスタッフを呼ぶ。その間、私はお料理のメニューとにらめっこしている。今日は猛烈に牡蠣をたっぷり食べたい気分だ。

 物腰は柔らかい彼だけど、見た目は大柄で猫背、まるで熊のようだとよく思う。

仕事柄、普段はスーツを着こなしてかろうじて清潔さを保ってはいるものの、休みが続くとヒゲがすごいスピードで伸びるし、服装もトレパンスウェットみたいなルーズな格好が好きだから、余計に熊に見えてしまう。

傍から見れば、はっきり言ってしまうとブ男なのだろうけど、長年連れ添っているとそんな姿がなんだか可愛らしく見えてくるのは、人にはうまく説明できない不思議な感覚だ。

 むしろ、イケメンにはほど遠いそんな彼だからこそ自然体でいられるのかもしれない。面と向かって言うにはちょっと失礼な言い方だけど。


 お待ちかねの、乾杯ドリンクが届いた。

「マリちゃん、お疲れ様。カンパイ」

「うん、おつかれー! カンパイ!」

シュワシュワの泡と、ほろ甘い口当たりのスパークリングワインが喉にしみる。ビールとはまた違った爽快感が心地よいし、特別な感じがするからこっちの方が私は好きだ。

「ここに来るの、久しぶりだよね。よく予約取れたね?」

「うん、前行った時、『予約しないと入れな時もあるんだって』ってマリちゃんが言ってたからね。実は1ヶ月前に電話しておいたんだ。その時でも7時スタート以外はもうダメだって言われたから、遅いくらいだったよ」

「うわ、凄いねー、GW前だからかな」

「下手すると2か月先まで予約が埋まるって、口コミサイトで書かれていたよ」


 言葉にしてみると、まるで女子トークみたいな口調だが、うちのダンナは見た目のイメージと見事に真逆の、穏やかで気配りの利く性格をしている。

仕事量だって、私より遥かに多いに決まっているのに、そんなことはおくびにも出さない。そんな彼だから、人前ではなかなか出し辛い本音もついつい漏れ出てしまう。

 今日も、ここ数日溜め込んできた「あの事件」について、考えを整理する意味でも彼に話を聞いてほしいと思っていた。一人で抱え込むには、正直重すぎることが多くて、まともに記事を作る自信など到底持てなかった。

 

 戸井田さんについての評判は、はっきり言って酷いものだった。

こんな事件を起こした張本人だから、ある程度は仕方ない部分もあると予め予想はしていたけど、単なる嫌われ者では言い尽くせない悪評が次から次へと出てくる。

これまでの取材メモから切り取ったキーポイントはだいたいこんな感じた。



 ・戸井田さんの悪評①…セクハラ、社内の後輩女子社員へのストーカー疑惑、被害者複数名。H(平井マナミ)さん、O(岡安ノリコ)さん、なんと元同期の二人も!

内容、執拗なデートの誘い、帰り道で偶然を装った待ち伏せ、休日出勤の書店先で遭遇、仕事を手伝う口実でつきまとわれる、初日に携帯番号を聞かれ、以来ほぼ毎日のように朝、夜メールが届く。などなど。


 ・悪評その②…2年前、元部下の一人が鬱病になって休職、そのまま半年後に退職してしまった。戸井田さんのパワハラじみた暴言、恫喝が原因。毎月同行しては遅くまで連れまわして疲弊させた。それ以来、当時の部下5名全員が「戸井田さんの下では働きたくない」と社長に直談判し、東田本部長の説得も効果がなく戸井田さんも態度を改めなかったため、翌年の春の体制で社員を外し派遣スタッフとパートだけの北関東地区統括課長という、実質的な左遷人事が下された。

 その後の一年間は、戸井田さんは目立った問題も起こさず(結婚して丸くなった? という説が社員内では有力)、しかし成績だけはきっちり上げていた、はずだが…


 ・悪評その③…営業成績を作るために無茶な送り込み(注文の水増し? 頼んでない商品まで伝票付きで送り付ける?)をしている。派遣社員の人が似たようなことをしているけど、元々は戸井田さんが教えた?

 書店先からのクレーム、相談が島谷さんや同期の前島さんに何度となく相談が書店員から入り、彼らが仲裁に立って元さやに納まる、というケースが幾つかあり?


 …と、改めて読み返すだけでもげんなりしてしまう。

一人で悶々としているのは嫌だ。こんな時、私はダンナに半分甘える気持ちで、こうして外食に誘うのだ。

「それ、仕事の?」とダンナが私の手帳を指して尋ねる。

「うん、今週ずっと取材でね。ほら、私の前の会社の事件の。戸井田先輩について聞き込みしてたやつ」

「大変な事件だったよね。僕も驚いたよ。まさかマリちゃんのいた会社があんな形でニュースになるだなんてね」

 彼が食べ物のオーダーを決め、店員を呼ぶ仕草をする。ここは魚介類が新鮮なのがウリで、しかもボリューミーでコスパもいい。あまり頼み過ぎるとテーブルにお皿が乗り切らないこともしばしば。

 私は生牡蠣と生ハムが食べられれば、それだけで十分幸せだけど。

「でね、元同期のエリやヒトミ達を通じて、あの会社の社員さん何人かと話すことが出来たんだけど、聞けば聞くほど、戸井田さんに一体何があったのか、と信じられないくらい悪く言われていてね。特に若い世代の人達からはよく思われてなかったみたい。私が一緒に働いていたころは、何というかクセのある人ですぐ熱くなったり、先輩社員に食ってかかったりしてはいたけど、別に仲が悪いわけではなかったんだけどなあ。よくみんなで飲みに行ったりもしてたし」

「結構、人の入れ替わりが激しかったんだよね? マリちゃんの同期はまだみんないるの?」

「私と、その後に男の子が1人辞めただけだから、多く残っている方かな。戸井田さんの代はもう3人しかいないし、その上の代は10人いたのにみんないなくなったみたい。結構厳しいのかな。私もラクではなかったけど」

 店員さんが、生牡蠣と生ハム、ピクルスを持ってきてくれた。私達はすかさずグラスのおかわりを、今度は白ワインをデキャンタで入れよう、と即決しオーダーする。

 もうテーブルは、サービスのバゲットを入れたら満員だ。

 テンションが上がってきて、だんだん心が解きほぐれていくのが感じられる。まるで、空気のように柔らかな絹で作られたゆりかごの中に大切に包まれ、中にフンワリと浮いて漂っているかのような、素敵な時間が訪れてきた、そんな気持ちになってきた。

とても大切な人と美味しい料理を共に楽しむ喜びから、私はおかわりの白ワインを早々に飲み干し、牡蠣を一口でほうばる。


 安心感に酔いしれ、今なら心にあるが自然に言葉として汲み出せるような気がしてきた。

 私は、順番に一つずつ、戸井田さんが異常な行動に及んだ背景について語り始めた。

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